Le Figaro
- ポアンカレ氏の施政方針
- イギリスの炭鉱危機が持つ重大な意味
- 海軍整備計画の実施
『ル・フィガロ』の三つの論説は、国家の再建を、それを支える権威と資源の問題に結びつけて論じた。アンリ・ヴォノヴァンは、ポアンカレの行政節減と本国・植民地の開発構想を歓迎する一方、具体的な通貨政策の提示を待つ姿勢を示した。アルフレッド・マレは、賃金、労働時間、交渉方式からイギリスの炭鉱争議を検討し、労働組合主義と保守主義のヨーロッパ規模の対決として描いた。A・トマジは艦隊更新の進捗を点検し、建造費の上昇に対応する年間予算の増額を求めた。
翻訳
ポアンカレ氏の施政方針
ポアンカレ氏の施政方針
確固たる落ち着きをたたえ、未来への勇敢な信念に貫かれてはいるものの、バル=ル=デュックでの演説には、過去の大きな犠牲の後にもなおわれわれを待ち受ける不当な試練を思って、憂いが、ほとんど悲しみと呼ぶべきものがにじんでいる。だが、それがどうしたというのか。われわれが取り返しのつかない深淵へと転落しかけたとき、挙国一致が再び救いに来たのだ。いばらをかき分けて登り返さねばならない険しく滑りやすい坂の、いまどのあたりにいるのか。われわれの案内人は、どの道を進ませようとしているのか。その言葉に耳を傾けよう。
われわれはいま、〈信認〉に守られた踊り場にいる。しかし、この晴れ間をあまり当てにしてはならない。通貨問題が解決していない以上、嵐はまだ終わっていない。フランを守るための結束がこの猶予を生んだが、フランはまだ立ち直っていない。どうすれば健全な通貨に戻れるのか。ポアンカレ氏は、再建の各段階について、いまから明確な計画を示すことを避けた。この夏あれほど流行した「安定化」という言葉すら口にしなかった。
専門家の手法よりも、国民の地道で着実な努力に望みを託しているようだ。激しい療法よりも、節制と生産という厳格な養生法を好んでいる。
確かに、この考え方に沿った政府の最初の施策には、称賛より批判の方が多かった。政令を作成した閣僚たちも、削減改革の第一歩が不人気という報いを受けることに驚きはしないだろう。この種の問題では、誰もが隣人のリンゴを公益への供物として差し出し、その隣人と手を組んで自分のリンゴを守るものだからだ……。初めから容赦なく切り込む必要があった。
議会は、行政の再編と簡素化のこの第一歩を受け入れるかどうか、判断を求められることになる。しかも、それは共和派の、さらには急進派の綱領にもかなっている。政府は政令と運命を共にする。その首班は、この大論戦の行方を案じているようには見えない。郡庁を救うために、下院は、わずか2か月前に脱した危機よりもひどい危機へ国を再び投げ込む危険を冒すだろうか。ポアンカレ氏は、政府が「片づけられ、固められた地盤の上に、未来の建物を築く」よう呼びかければ、下院も政府について行く方を選ぶと考えているようだ。氏は本国と植民地の富を開発する総合的な計画を示すだろう。おそらくそれは、サロー氏が長年熟考し、本紙でもたびたび紹介し擁護してきた構想に着想を得たものだろう。この計画によってフランスは、旧習のために豊かな資源を活用しないままにしている宝庫をもとに、完全な経済的独立を保って暮らせるようになるだろう。それによって、わが国は債務を返済できるだろう。「容赦ない削減」を代償としても自国の主人であり続けるために、われわれは「わが国の能力に応じ、かつ送金能力の限度内で」、誠実に義務を果たす。
この明確な留保のもとで、協定の承認が求められることになる。早ければ早いほどよい。以上が、ポアンカレ氏の示した施政方針の大筋である。労働と平和のうちに結束すること、この未来の計画はそう要約できる。平和!……自国の安全と約束された賠償金の支払いだけを求めるフランスは、平和のためにすでに幾多の犠牲を払ってきた。「ドイツとの接近の試み」にも応じる用意がある。話し合おう。ただし、会談はわれわれの条約と同盟の枠内にとどまり、首相の言う「戦争における帝政政府の責任」を疑問に付さないことを条件とする。ドイツもこの表現を評価するだろう。この言い回しを選んだポアンカレ氏は、見事にヨーロッパの言葉を語った。それも、はっきりしたフランスの訛りで語った。そのことを非難する者はいまい。
この演説は称賛されるだろう。そこに示された事業が成功するための条件について、人々は熟考するだろう。差し当たりの通貨政策が語られず、もっともな関心を十分に満たされなかった人々も、首相が、必要な公表と求められる慎重さを両立させ、国に必要な情報をすべて与えるのに適切な時機だと判断するまで待つことになろう。描き出された壮大な計画を実現するには、行政権が、長期にわたる事業の遂行に不可欠な権威と安定をいま取り戻さなければならない。政治の手法と慣行を刷新するなかで、政府があの「明日への安心」を得られるよう願う。それはポアンカレ氏が昨日バル=ル=デュックで求めたものであり、それなしには再建はあり得ない。
アンリ・ヴォノヴァン。
イギリスの炭鉱危機が持つ重大な意味
外交問題
イギリスの炭鉱危機が持つ重大な意味
昨日下院で始まった討議と、水曜日に開会する予定のイギリス全炭鉱労働者の代表者会議によって、イギリスの炭鉱危機に再び注目が集まっている。炭鉱労働者と炭鉱所有者の相いれない対立、事態の展開の遅さ、その影響の大きさから、この危機はイギリスの経済、社会、政治生活を左右する重大な出来事となっている。それどころか、その結末はヨーロッパの安定を決定する要因となるだろう。
労働者の綱領はきわめて明確である。平等主義への盲目的な崇拝に完全に支配されており、四つの点にまとめられる。1.労働時間は1時間たりとも増やさない。2.賃金は1ペニーたりとも減らさない。3.全員に同一の条件を適用する。豊かな炭田の労働者と貧しい炭田の労働者を区別してはならない。4.国家は、炭鉱の操業と管理を引き受ける前に、炭鉱労働者の賃金を保証しなければならない。
こうした要求に、経営者側は全面的な拒否をもって答えている。産業は独立採算でなければならず、赤字で操業することはできない、と彼らは主張する。民間企業の不振を国家が補うべきではない。そこから二つの帰結が生じる。1.労働者の賃金を下げるか、同じ賃金を得るために労働時間を延ばすかである。2.鉱山の収益だけで労働者の生活を支えなければならない以上、ヨークシャーやノッティンガムのような枯渇した炭田の労働者は、ダラムやランカシャーのような豊かな炭田と同じ賃金を要求することはできない。最低賃金は設けるが、上乗せ率は地域ごとに定める。言い換えれば、経営者と炭鉱労働者の間で成立し得るのは、全体的な協定ではなく、暫定的な地域別協定なのである。
この危機を通じて、スタンリー・ボールドウィン氏の政府は、報われることのない仲介役に徹してきた。補助金制度は実際あまりに費用がかかり、身代金を払い続けて社会の平穏を買うわけにはいかなかった。新たな炭鉱問題の解決策を整えるため、首相は少なくとも300万ポンドの一時的援助を申し出た。労働者には全国的な仲裁裁判所の設置を約束した。経営者には見返りとして、週5時間の追加労働を認める法案を成立させた。しかし同時に、この法律はあくまで任意に利用できるもので、期間は5年、適用対象は炭鉱業だけであると、念を入れて明言させた。
⁂
政府が繰り返してきた和解の努力はすべて実を結ばず、英国国教会の主教たちが提案した妥協案も成功しなかった。表面だけで判断すれば、炭鉱危機は5か月にわたって悪循環を続けているように見える。しかし、もっとよく見れば、危機がいつまで続くかは予測し難いにせよ、その方向がきわめて明瞭な変化を読み取ることができる。労働組合主義は徐々に衰え、保守主義が勝利を収めつつある。それを証明するには、いくつかの事実で足りる。ゼネストが10日で挫折し、鉄道輸送さえ含めて経済活動が直ちに再開したこと。就労者数が着実に増加し、約16万人に達したこと。争議に関するあらゆる問題で投票者の割合がかなり低く、有権者150万人に対して投票は70万票だったこと。労働組合指導者間の不和、さらに活動家の欲望、過激派の激情、情勢を正確に見据える見方の間の対立。最後に、大陸の炭鉱労働者が、海峡の向こうの「兄弟」を支援するためのストライキを拒んだことである。
これほど長く深刻な危機がもたらし得る影響を、いまからすべて見積もるのは難しい。このような衝撃に耐えるには、イギリスの年季の入った骨組みが必要なのだ。周知のとおり、その対外貿易全体を動かしていたのは石炭輸出だった。損失は少なくとも1億4,000万ポンドに上る。危機が終われば、イギリスは二重の難題を解かねばならない。失った市場を取り戻すこと、そして大陸のより新しい産業に大きく後れを取った施設と設備を立て直すことである。
政治の面では、自由党と社会主義勢力の連合によって保守党が深刻に揺さぶられるとは思われない。ボールドウィン氏は党内の規律を維持するだけの威信を保つだろうし、いまでは十分に教訓を得ているので、1923年のように選挙に訴えることもあるまい。
しかし隣国の経験は、さらに高次の、より普遍的な意味を持っている。それはヨーロッパにおける社会主義の運命を決めるだろう。モスクワに励まされ支援された労働組合主義は、合法的な政府に挑戦状を突きつけた。屈服するか、勝利するか、そのどちらかしかない。それは力の問題であり、いまやおそらく数日の問題なのである。
アルフレッド・マレ。
第2面をご覧ください。アカデミー・フランセーズ会員H・ド・レニエによる「文学生活」、「社交界と街」。
海軍整備計画の実施
海軍整備計画の実施
戦争で荒廃したわが艦隊の再建が始まった1922年春以来、五つの特別法が、軽水上艦艇、潜水艦、特殊用途艦艇の着工を年ごとに定めてきた。こうして海軍は議会の協力を得ながら、1920年から準備され、1923年に下院へ提出され、1924年に修正された計画の実施を進めている。この計画は公開の審議には付されていないが、暗黙の合意によって、将来のフランス艦隊の基本規範と見なされている。
この海軍基本法案が採用した総量は、水上艦艇58万トン、外洋潜水艦9万6,000トンである。この点について、政府がこの二大艦種区分で求めていたのは、それぞれ36万トンと6万5,000トンにすぎなかったことを指摘しておこう。増量を決めたのは議会の委員会であり、国民の代表がわが国の海上防衛にますます関心を寄せている証しとして、喜ばしく受け止められる。
軽水上艦艇の平均使用年数は16年、潜水艦は12年なので、上記のような全体構成を持つ艦隊の艦艇を毎年更新するには、年平均で軽水上艦艇2万4,400トン、潜水艦6,000トンを発注する必要がある。
ところで、1922年から1926年までの法律が定めた戦闘艦艇の建造は、5年間に着工した軽水上艦艇計12万5,000トン、潜水艦計3万5,000トンに相当する。つまり年平均では、前者が2万5,000トン、後者が7,000トンである。
したがって、水上艦艇ではわずかに先行し、潜水艦ではそれよりやや目立つ遅れが生じていることになる。しかし全般的には、海軍整備計画の実施は、満足できると見なしてよい状況のもとで始まっている。
艦艇建造が長く中断されたために生じた技術上の困難は克服された。その影響は、計画の最初の艦艇群の完成が平均1年半遅れることだけにとどまっている。この遅れは、後続の艦艇ではおそらく縮まるだろう。
だが、物価上昇は建造作業に大きく響いており、その影響はいまも続いている。実際、1922年に[?].505フランと見積もられた巡洋艦の1トン当たり建造費は、1926年には1万4,000フラン近くかかる。47%の上昇である。艦種によっては上昇率がさらに大きく、水雷艇では69%に達する。
各部局は認められた予算の範囲内に収めなければならないため、この値上がりは必然的に遺憾な遅延を招く。
建造を一定のペースで続けるには、その年間予算を、今年到達した5億フランではなく、現在の価値で約7億紙幣フランに定める必要がある。そして、この額が過大だと思われるなら、イギリスでは新造艦に毎年900万ポンド、アメリカでは6,000万ドルが費やされていることを思い起こさねばならない。現在のわが国の通貨にすれば、それぞれ十五億フランと二十億フランである。そうすれば、わが国の計画がいかに控えめかは、たちどころに明らかになるだろう。
A・トマジ。
バル=ル=デュックの演説
政府の施政方針
解説
歳出削減、生産力、通貨への信認
ヴォノヴァンは、行政の削減、資源の活用、財政・通貨の再建を結びつけていた。その説明では、本国と植民地の富を開発することで経済的独立と債務返済を支え、債務協定にはフランスの支払い能力と送金能力という条件を付す。開発計画をサローの構想と結びつけた部分は、演説から詳しい投資計画を転載したものではなく、筆者が明示した予想だった。1926~1929年を扱うフランス銀行の2024年の研究は、財政とフランのもう一つのつながりを説明している。ポアンカレ政権は、公的債務の再編と、償還基金を通じた短期国債の市場からの回収によって、通貨の安定を目指した。この回顧的な研究は通貨安定の財政的な側面を理解する助けとなり、一方で9月の論説は、当面の通貨政策についてまだ不確実さが残っていたことを伝えている。筆者が行政権の持続的な安定を求めたのも、再建には息の長い努力が必要だと考えたためだった。[フランス銀行の研究](https://www.banque-france.fr/fr/publications-et-statistiques/publications/la-dette-publique-comme-liquidite-privee-lexperience-poincare-1926-1929)
炭鉱争議の解決費用を誰が負担するのか
賃金、労働時間、交渉の地域的な単位は、いずれも産業の損失を誰に負担させるかという問題につながっていた。5月3日の声明でボールドウィンは、経営者が地域別の最低賃金を求め、さらに賃金案と労働日の延長を組み合わせた経緯を述べた。労働者は即時の賃下げや時間延長に反対し、政府は無期限の補助金を拒んだ。また、全国交渉は必ずしも全地域で同一の賃金を意味しなかった。後日の10月25日の討議でロイド・ジョージは、王立委員会が地域差を認めつつ全国協定を維持するよう勧告していたことを振り返った。この区別を踏まえると、労働者が平等主義を盲信して画一性を求めているというマレの描写だけでは捉え切れないことが分かる。争議がヨーロッパの社会主義の運命を決めるという主張は、論説独自の政治的議論だった。10月の討議でも続いている操業停止の終結が求められていたことは、9月の段階で決着は数日の問題だとした見通しが早計だったことも示している。[ボールドウィンの声明](https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1926/may/03/prime-ministers-statement)、[10月25日の討議](https://api.parliament.uk/historic-hansard/commons/1926/oct/25/coal-trade-dispute-1)
艦隊の目標を支える継続的な購買力
トマジは、目標とする艦隊規模と、それを維持するために必要な毎年の発注・予算を区別していた。議会の委員会が政府の要求を上回る総量を設定したことを評価しながらも、物価上昇によって配分された資金の購買力が低下したと論じ、年間予算を5億紙幣フランから7億紙幣フランへ増やすよう求めた。したがって、承認された建造計画から艦艇の完成に至るまでには、技術上の遅延と予算の制約が立ちはだかっていた。後年の1931年8月21日付フランス外交文書も、毎年の建造承認を、ワシントン条約後に採用した総合計画の実施として説明している。これは長期計画を年度ごとの建造枠で進めるという記事の構図を裏付け、その方式を後年の建造制限交渉の中に位置づけている。フランスの建造が競争心によるものではなかったという説明は、フランス側の外交上の立場を表している。[1931年の外交文書](https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1931v01/d311)
原文
Le programme de M. Poincaré
Le programme de M. Poincaré Malgré le ton de sérénité résolue qui le caractérise, malgré, la foi vaillante en l'avenir dont il est animé, le discours de Bar-le-Duc n'est pas exempt de mélancolie, presque de tristesse, à la pensée des injustes épreuves qui nous attendent encore après les grands sacrifices passés. Mais quoi? Nous roulions à l'abîme, définitivement, quand l'Union nationale, une fois de plus, est venue nous sauver. Sur la pente rude et glissante qu'il faut remonter parmi les ronces, où en sommes-nous? Quel chemin va nous faire suivre notre guide? Ecoutons-le: Nous sommes en ce moment à un palier, à l'abri de la Confiance. Toutefois, ne nous fions pas trop à l'embellie. La tempête n'est point finie, puisque le problème monétaire n'est pas résolu. L'union pour le franc a créé ces loisirs, mais le franc n'est point relevé. Comment reviendrons-nous à la monnaie saine? M. Poincaré a évité de tracer dès maintenant le plan précis des étapes de notre redressement. Il n'a pas même prononcé ce mot de stabilisation, si fort à la mode cet été. Il semble mettre son espoir moins dans les procédés des techniciens que dans un effort national lent et méthodique. A des remèdes violents, il préfère un régime sévère de restrictions et de production. Sans doute, dans cet ordre d'idées, les premières initiatives gouvernementales ont rencontré plus de critiques que d'éloges. Les ministres qui ont élaboré les décrets ne s'étonneront pas de voir payer d'impopularité le début des réformes compressives: en ces matières, chacun propose comme offrandes à l'intérêt général les pommes du voisin à qui il s'allie pour défendre les siennes... Il a fallu, dès l'abord, tailler impitoyablement. Le Parlement sera appelé à dire s'il accepte ce commencement de réorganisation et de simplification administrative - conforme d'ailleurs au programme républicain et même radical. Le gouvernement suivra le sort de ses décrets. Son chef ne paraît pas inquiet de l'issue de ce grand débat. Pour sauver la sous-préfecture, la Chambre risquerat-elle de rejeter le pays dans une crise pire que celle dont nous sommes sortis il y a deux mois? M. Poincaré semble penser qu'elle aimera mieux suivre le gouvernement quand il la conviera «sur un terrain déblayé et raffermi, à élever un édifice d'avenir». Il lui présentera tout un programme d'exploitation de nos richesses métropolitaines et coloniales - inspiré sans doute de celui qu'a si longuement médité M. Sarraut et qui a été si souvent exposé et défendu dans nos colonnes. Ce projet permettrait à la France de vivre en toute indépendance économique, sur les trésors dont notre routine laisse inemployées les ressources magnifiques. Notre pays, par là, pourrait payer ses dettes. Pour demeurer maîtres chez nous au prix de «compressions brutales» nous nous acquitterons loyalement «dans la mesure de nos facultés et dans la limite des facultés de transfert». Sous ces réserves expresses, le vote des accords sera demandé, et le plus tôt sera le mieux. Tel est en ses grandes lignes le programme tracé par M. Poincaré. L'union dans le travail et dans la paix, ainsi se peut résumer ce plan d'avenir. La paix!... La France, qui ne demande que sa sécurité et le paiement des réparations promises, lui a déjà fait maint sacrifice. Elle est prête à «des essais de rapprochement avec l'Allemagne». Causons, pourvu que nos conversations se maintiennent dans le cadre de nos traités et de nos alliances et sans que soient remises en cause, dit le président du Conseil, «les responsabilités du gouvernement impérial dans la guerre». L'Allemagne appréciera cette formule. En la choisissant, M. Poincaré a bien parlé l'européen. Il l'a fait avec un accent français prononcé. On ne le lui reprochera pas. On admirera ce discours. On méditera sur les conditions de succès de l'œuvre définie. Les curiosités légitimes un peu déçues par le silence sur les projets monétaires immédiats attendront que le chef du gouvernement juge le moment opportun de concilier les révélations nécessaires avec la discrétion qui s'impose et de donner au pays toutes les lumières dont il a besoin. Pour réaliser le vaste plan esquissé, il faut maintenant que le pouvoir exécutif retrouve l'autorité, la stabilité indispensables au développement d'une œuvre de longue haleine. Puisse le gouvernement, dans des méthodes et des mœurs politiques rénovées, rencontrer «cette sécurité du lendemain» que réclamait M. Poincaré, hier, à Barle-Duc, et sans laquelle il n'est pas de redressement possible. Henri Vonoven.
L’importance de la crise minière en Angleterre
LES AFFAIRES EXTERIEURES L'importance de la crise minière en Angleterre Les débats qui se sont ouverts hier à la Chambre des Communes, la conférence des délégués de tous les mineurs anglais qui doit commencer mercredi, ramènent l'attention sur la crise minière en GrandeBretagne. Par l'opposition irréductible des mineurs et des propriétaires, par la lenteur de son évolution, par l'importance de ses répercussions, elle apparaît comme un événement essentiel de la vie économique, sociale et politique de l'Angleterre. Mieux encore, son dénouement deviendra un facteur décisif de la stabilité européenne. Le programme des ouvriers est très net. Dominé tout entier par le fétichisme égalitaire, il peut être formulé en quatre points: 1 ° Pas une heure de plus de travail; 2 ° pas un penny de moins de salaire; 3 ° Le même régime pour tous: aucune distinction ne peut être faite entre les mineurs des bassins riches, et ceux des bassins pauvres; 4 ° l'Etat doit garantir les salaires des mineurs, avant d'assumer la mise en exploitation et le contrôle des mines. A ces exigences, les patrons répondent par une fin absolue de non-recevoir. Une industrie doit se suffire à elle-même, assurent-ils: elle ne peut travailler à perte. L'Etat n'a pas à subvenir aux défaillances des exploitations privées. Une double conséquence s'ensuit: 1 ° Ou l'ouvrier sera moins payé, ou, pour toucher le même salaire, il travaillera davantage; 2 ° le rendement seul de la mine devant faire vivre l'ouvrier, le mineur ne peut prétendre aux mêmes salaires dans les bassins épuisés comme ceux du Yorkshire ou de Nottingham, et dans des bassins riches comme ceux de Durham ou de Lancashire. Un salaire minimum sera prévu; mais le pourcentage d'augmentation ne sera que régional. En d'autres termes, il ne peut intervenir, entre patrons et mineurs, non un accord général, mais des accords provisoires locaux. Durant toute cette crise, le gouvernement de M. Stanley Baldwin s'est tenu au rôle ingrat de médiateur. Le système des subsides était vraiment trop onéreux: et il ne pouvait s'agir d'acheter toujours la paix sociale au prix d'une rançon. Pour permettre l'organisation d'un nouveau règlement minier, le premier ministre offrait du moins une aide temporaire de trois millions de livres sterling. Aux ouvriers, il promettait d'instituer un tribunal d'arbitrage national. Pour donner une compensation aux patrons, il faisait voter un bill prévoyant un travail supplémentaire de cinq heures par semaine. Mais en même temps, il prenait soin de faire déclarer que cette loi était seulement facultative, accordée pour une durée de cinq ans et exclusivement à l'industrie minière. ⁂ Tous les efforts de conciliation, multipliés par le gouvernement, sont restés vains; et le compromis proposé par les évêques anglicans n'a pas mieux réussi. A ne juger que les apparences, la crise minière, depuis cinq mois, semble tourner dans un cercle vicieux. Mais à regarder de plus près, si la durée de la crise est difficile à prévoir, il est possible de discerner une évolution, dont le sens est très clair. Peu à peu, le syndicalisme décline et le conservatisme triomphe. Plusieurs faits suffisent à le prouver: l'avortement en dix jours de la grève générale et reprise immédiate de la vie économique, même du trafic sur les chemins de fer; progression constante du chiffre des travailleurs (environ 160. 000); proportion assez faible du nombre des votants dans toutes les questions relatives au conflit (700. 000 bulletins pour 1. 500. 000 inscrits); dissensions entre les dirigeants des Trade-Unions, puis entre l'appétit des militants, le déchaînement des extrémistes et la vision exacte de la situation; enfin, refus des mineurs du continent de faire grève pour soutenir la cause de leurs «frères» d'outre-Manche. Il est difficile de supputer dès maintenant toutes les répercussions que peut entraîner une crise aussi longue et aussi grave. Il faut la vieille armature de la Grande-Bretagne pour résister à un tel ébranlement. On sait en effet que tout son commerce extérieur avait pour volant l'exportation de houille. Les pertes s'élèvent au moins à 140 millions de livres sterling. Au lendemain de la crise, l'Angleterre devra résoudre un double et difficile problème: reconquérir les marchés perdus, rajuster son installation et son outillage, de beaucoup devancés par les industries plus jeunes du continent. Du point de vue politique, il ne semble pas que le parti conservateur puisse être sérieusement ébranlé par la coalition des libéraux et des socialistes. M. Baldwin conservera assez de prestige pour maintenir la discipline dans son parti, et il est trop averti maintenant pour recourir, comme en 1923, aux élections. Mais l'expérience que font nos voisins a une portée plus haute et plus générale: elle décidera du sort du socialisme en Europe. Le syndicalisme, encouragé et soutenu par Moscou, a porté un défi au gouvernement régulier. Il faut qu'il succombe ou qu'il triomphe. C'est une question de force et, maintenant sans doute, une question de jours. Alfred Mallet. Voir en deuxième page: La Vie littéraire, par H. de Régnier, de l'Académie française; Le Monde et la Ville.
L’EXÉCUTION DU PROGRAMME NAVAL
L'EXECUTION DU PROGRAMME NAVAL Depuis le printemps de 1922, où a commencé l'œuvre de reconstitution de notre flotte ruinée par la guerre, cinq lois spéciales ont fixé, année par année, les mises en chantier de navires légers de surface, de sous-marins et de navires spéciaux à effectuer. La marine poursuit ainsi, avec le concours du Parlement, l'exécution du programme qui, préparé depuis 1920, déposé sur le bureau de la Chambre en 1923, modifié en 1924, n'a pas été discuté publiquement, mais est considéré, par un accord tacite, comme la charte de la future flotte française. Les chiffres globaux que ce projet de statut a adoptés sont de 580. 000 tonnes pour les bâtiments de surface et 96. 000 tonnes pour les sous-marins de haute mer. Il faut noter, à ce sujet, que le gouvernement n'avait demandé que 360. 000 et 65. 000 tonnes, respectivement, pour ces deux grandes catégories de bâtiments: ce sont les commissions parlementaires qui ont décidé l'augmentation, et l'on est heureux d'y voir la preuve de l'intérêt croissant que la représentation nationale prend à notre défense maritime. La durée d'un navire léger de surface étant en moyenne de seize ans et celle d'un sous-marin de douze, il est nécessaire, pour remplacer annuellement les unités d'une flotte ayant la composition générale indiquée ci-dessus, de commander chaque année, en moyenne, 24. 400 tonnes de bâtiments légers de surface et 6. 000 tonnes de sous-marins. Or, l'ensemble des constructions de navires de combat prescrites par les lois de 1922 à 1926 représente un tonnage total de 125. 000 tonnes de bâtiments légers de surface et de 35. 000 tonnes de sous-marins, entrepris en cinq années; soit, par an, 25. 000 tonnes de la première catégorie et 7. 000 tonnes de la seconde, en moyenne. Il en résulte que nous avons pris une légère avance en ce qui concerne les bâtiments de surface, et un retard un peu plus sensible du côté des sous-marins. D'une manière générale, cependant, l'exécution du programme naval est amorcée dans des conditions qui peuvent être regardées comme satisfaisantes. Les difficultés techniques dues à l'interruption prolongée de nos constructions navales ont été surmontées et leur seul effet est un retard d'un an et demi, en moyenne, dans l'achèvement des premières unités du programme. Ce retard sera sans doute atténué pour les bâtiments suivants. Mais la hausse des prix a eu et a encore une importante répercussion sur les travaux. En effet, on constate que la tonne de croiseur, évaluée à [?]. 505 fr. en 1922, en coûte près de 14. 000 en 1926: c'est une augmentation de 47 0 / 0. Encore, pour certains genres de navires, l'augmentation est-elle relativement plus forte: elle atteint 69 0 / 0 pour les torpilleurs. Les services étant obligés de se tenir dans la limite des crédits accordés, cette hausse entraîne forcément des retards regrettables. Pour maintenir régulièrement le rythme de ces constructions, l'annuité qui leur est affectée devra être fixée à 700 millions de francs-papier environ (valeur d'aujourd'hui) au lieu des 500 millions auxquels nous sommes arrivés cette année. Et, si l'on trouve ce chiffre exagéré, il faudra se souvenir que les constructions neuves absorbent annuellement, en Angleterre, 9 millions de livres, et, aux Etats-Unis, 60 millions de dollars, soit respectivement un milliard et demi et deux milliards de notre monnaie actuelle. La modestie de notre programme en deviendra aussitôt évidente. A. Thomazi. Le discours de Bar-le-Duc Programme du gouvernement