時報
- 南昌付近の戦闘
- 張学良、奉天へ戻る
- 蔣介石、奉天へ代表を派遣
一部だけ判読できる時報1926年10月14日付の紙面は、北伐の江西戦線と北方政局を扱う電報を載せた。北京、九江、上海発の電報は、孫伝芳の連合軍第二・第三軍の先鋒が11日に南昌西南へ動き、正午に蔣介石軍と接触して二時間交戦したと伝えた。電報は、主力同士の決戦にはまだ至っていないとも報じた。損傷の大きい短い記事は、張学良が13日朝に北京から奉天へ向かったことを伝えた。別の記事は、葉恭綽らが奉天に和平と国民会議の開催を建議したことと、張作霖のもとへ「重大な使命」を帯びた代表が向かったことを報じた。紙面には海軍の動きや外国商船の航行に関する通告の断片も並んだ。
この版は、電報欄のニュース三本を部分的に読み取ったものである。南昌の記事は文の途中で切れている。張学良の記事と代表派遣の記事は断片的であり、判読できない文字を[?]で示す。代表の名前、張学良の旅行の目的、葉恭綽らの建議の詳細は、全文を読み取れず、ここで使った資料とも照合できない。ほかの欄の小さな活字、広告、料金表の多くはかすれたり切れたりしており、この版には含めていない。
翻訳
南昌付近の戦闘
◉ 南昌付近の戦闘(北京十三日午後七時発電)◎ 連合軍第二・第三軍の先鋒部隊は、十一日朝から南昌西南一帯へ向けて行動を開始し、正午に蔣介石軍と接触した。二時間交戦したのち、南軍はただちに退却した。両軍の主力の決……にはまだ至っていない。(九江十三日電通電)◎ 当地のある方面が受け取った九江十二日発の報告によると、孫軍第二・第三軍の前衛部隊は昨日から南昌西南で行動を開始し、正午前に蔣介石軍と接触して、二時間交戦したのち退いた。主力同士の決戦の時機はまだ来ていない。(東方社十三日上海発)◎ 昨日の南昌付近の激戦は、約二時……
張学良、奉天へ戻る
……軍の改編の要…… ◉ 張学良、奉天へ戻る ◎ 張学良は今朝九時二十[?]奉天へ向かった。聞くところでは、張のこの旅行は[?]と関係があるという。(北京十三[?]午後[?])
蔣介石、奉天へ代表を派遣
……この件の策であるが、一方で葉恭綽らはみな、すでに戦いに乗じた和平と国民会議の開催を奉天に建議している。(北京十三日東方電)……代表を奉天へ派遣して奉天に赴かせ、張作霖と接[?]……上海から北京に着き、京[?]に乗り換え……この旅行には重大な使命がある。(北京十三日午後七時電)◎ 海軍総司……応瑞艦は上海から……紹寛、なお駐留……◉ 大[?]◎ 十二日、連合側は「警戒……内の外国商船は……地点で航行を停止し、除外……」と述べた。
解説
南昌付近で戦った「聯軍」は孫伝芳の軍だった
南昌発の電報は、攻撃側を「聯軍第二第三軍」とも「孫軍」とも呼んでいる。どちらの呼び名も、長江下流域に勢力を築いた直隷派の軍人孫伝芳を指す。孫伝芳は自分の軍を「五省聯軍」と名づけていた。1926年の時点で、孫伝芳の連合は福建、浙江、江蘇、安徽、江西の五省を支配していた。江西の省都である南昌は孫伝芳の勢力圏にあり、北京電が「南軍」と呼ぶ国民党の国民革命軍は攻め込む側だった。記事は北京経由の電報と、日本の通信社である電通と東方社の電報に基づいている。これらの電報は、孫軍の先鋒が前進し、南軍が二時間で退いたという孫軍側の見方で戦闘を描いている。紙面は国民党側から見た独自の報道を載せていない。
1926年10月半ばの江西戦線の状況
「主力の決戦はまだ」という電報の一節は、戦局が一度逆転したあとの小康状態を示している。国民革命軍は1926年9月19日までに九江と南昌の両方を手に入れた。その後、孫伝芳が9月21日に増援を率いて南京から到着し、国民党軍の攻勢を押し戻した。10月11日の小競り合いは、孫伝芳が南昌一帯を押さえ、蔣介石が態勢を立て直していた時期に起きたものである。戦局はほかの場所で動いていた。国民党側の補給を妨げていた省港ストライキは10月10日に終わり、同じ日に武昌に残っていた呉佩孚の守備隊が降伏した。これで国民党軍は湖北での包囲戦から手を離せるようになった。10月末までに、孫伝芳の軍は江西と福建で再び退却していた。紙面が伝えた短い接触は、江西をめぐる戦いが再び始まった初期の動きだったことになる。
張学良の動きが北京で注目された理由
「少帥」と呼ばれた張学良は、満洲を本拠とする奉天派の首領張作霖の息子であり、のちに父の後を継いで奉天派の指導者となった。張学良の軍は、反奉戦争の終わりにあたる1926年4月に北京を占領した。1926年半ばには、奉天派が北京の北洋政府で最も大きな力を握っていた。張学良が北京を離れて奉天へ向かったことは、奉天派が本拠地で協議を行うことをうかがわせた。当時、北伐は北方の軍閥を追い詰めつつあった。紙面のうち旅行の目的を伝える部分は判読できない。紙面からは、奉天でどのような協議が行われたかはわからない。ただ、張作霖は1926年11月に奉天派の将領と孫伝芳、閻錫山を集めた。この会合から、北伐に対抗する北方の連合である安国軍が生まれた。
蔣介石と奉天派の接触
第三の記事は、張作霖に会うために「重大な使命」を帯びた代表が奉天へ向かったと伝えている。残った本文は、葉恭綽らが奉天に和平と国民会議の開催を建議したとも記している。残った本文からは代表の名前や経歴を読み取れない。記事の内容は、北伐の既知の戦略と合っている。ソ連人顧問が主に立てた北伐当初の計画は、呉佩孚を倒し、孫伝芳をなだめ、張作霖には手を出さないというものだった。奉天の意向を探る使者は、奉天派を南方の戦争から遠ざけておくという狙いに沿っている。蔣介石は以前にも使者を送って北方の軍人を味方に引き入れようとした。1925年末、蔣介石は孫伝芳に寝返りを勧めたが、孫伝芳は拒否して蔣介石の使者を処刑した。奉天派と国民党の交渉は後に実際に行われた。張作霖は1927年、この交渉が行き詰まるなかで大元帥への就任を宣言した。
原文
南昌附近之戰
◉ 南昌附近之戰 (北京十三日下午七時電) ◎ 聯軍第二第三軍之先鋒部隊、 十一日晨起、 開始向南昌西南一行動、 正午與蔣介石軍接觸、 交戰二小時、 南軍即退、 尚未至主力決 (九江十三日電通電) ◎ 據本地某處所接九江十二日發告、 孫軍第二第三軍之前隊、 自昨起在南昌西南開始行動、 正午前與蔣介石軍接觸、 交戰二小時後退、 主力之決戰時機尚未到、 (東方社十三日上海消息) ◎ 昨日南昌附近之激戰、 約二小
張學良回奉
軍改要 ◉ 張學良回奉 ◎ 張學良今晨九時二十 [?] 赴奉天、 聞張此行 [?] 有關係、 (北京十三 [?] 下 [?]
蔣介石派代表赴奉
此事之策、 但一方面葉恭綽等皆先以乘戰和平及開國民會向奉天建議、 (北京十三日東方電) 派代表赴奉赴奉、 與張作霖接 [?] 由滬到京、 改乘京 [?] 此行、 有重大使命、 (北京十三日下午七時電) ◎ 海軍總司應瑞艦由滬紹寬、 仍駐 ◉ 大 [?] ◎ 十二日聯云、 「在戒外商輪、 點停止航除外、