Prager Tagblatt
- 急がば回れ。
- リンテレンへの議事妨害。
- ラディッチ、謝罪を拒否。
1926年10月14日付の一面は、プラハ発の社説を掲げた。社説は、チェコスロヴァキア内閣に入ったばかりのドイツ人閣僚に、ズデーテン・ドイツ人が性急に多くを求めないよう説いた。社説はまた、新しいブルジョワ・ブロックの支持層が社会改革の撤廃を急いでいると警告した。同紙は、そのままでは最初のチェコ=ドイツ連立が信用を失うと論じた。グラーツ発の記事は、シュタイアーマルク州議会の混乱を報じた。社会民主党は汚職疑惑を理由にリンテレン文相を攻撃し、ある議員は傍聴人に平手打ちを食らわせた。群衆も庁舎に押し入ろうとした。記事は、対立候補が出ればリンテレンが34票対35票で一票及ばなくなるという票読みを示した。ベオグラード発の記事は、ウズノヴィッチ内閣が総辞職したことを伝えた。急進党とラディッチ党は、ザグレブでチェコスロヴァキア議会代表団を前にしたラディッチの言動をどう処理するかで合意できなかった。
翻訳
急がば回れ。
急がば回れ。[?] プラハ、10月13日。花が初めて咲いた時期に、早くも熟した実を摘もうとしてはならない。チェコスロヴァキアにおける民族間の協調は、いわば開花の段階にある。ズデーテン・ドイツ人が閣僚評議会に送り込んだ代表たちに、正当な要求のすべてをあまりに早く実現するよう期待するなら、それは性急で危険であり、発展の自然な歩みを脅かすことになろう。八年間にわたる歯止めのない民族支配が積み上げた不正の山はあまりに高く、短期間で取り崩すことはできない。作業はゆっくりとしか進まず、いくつかの事柄はまったく片づかないままに終わることも覚悟しておかなければならない。ドイツ人閣僚が力強い男たちであるかどうかは、まもなく明らかになるだろう。彼らが奇跡を起こす者になることはできない。彼らが成し遂げられる以上のことを求める者は、彼らの地位ばかりでなく、いまチェコスロヴァキアのドイツ人のためにほのかに見えはじめた希望をも脅かすことになろう。もっとも、甘やかされることもなく欲の少ないこのドイツ人たちに、期待を過度に高く張りつめないよう警告する必要はない。彼らはやむをえず民族としての慎ましさを身につけてきたのであり、その慎ましさはいまやチェコ人からさえ認められている。しかし体制の転換には社会的な側面もあり、そこでは時に早くも憂慮すべきと思えるほどの性急さが見られる。いま政権の座に就いた政党そのものよりも、むしろ主としてこれらの政党に代表されていると感じている層が、鋭い言葉の声明の中で、「ブルジョワ・ブロック」がもたらすあらゆる好機をできるだけ早く利用し尽くしたいと考えていることをうかがわせている。ブルジョワ政党の議員たちは、多少なりとも[?] [?]政治家として、現在野党にある階層に配慮しなければならない。この層はそうした配慮に縛られておらず、社会主義者をも包含していた政権の時代に生まれた諸改革を急ピッチで撤廃したいと望んでいる。だが偏見のない市民でさえ認めざるをえないように、これらの改革は決して転覆的な性格のものではなく、ブルジョワ=社会主義体制の中道路線を守っていた。社会主義者を政権の参加者から追い払ったという意識が、勤労者の獲得してきた成果を取り除きたいという激しい欲求を呼び起こしているようである。しかもその成果の一部は、社会主義者がまだ内閣にいた時期にすでに取り崩されていたのである。いまや労働時間の延長と「社会的負担」の廃止を求める声がますます大きく聞こえてくる。われわれは生産振興の必要性を十分に理解しているが、それでも勤労者にとって苦難の道とならざるをえない道筋でこの目標を目指すことには警告しておきたい。とりわけ危険なのは、ブルジョワ政府が一方的に有産者に有利に、庶民に不利に統治しうるという性急な期待を政府にかけることである。チェコスロヴァキアの社会主義政府がプロレタリアの願望を余すところなく実現できないのと同様に、ブルジョワ政府にもそれはできないし、許されもしない。いわゆるブルジョワ・ブロックの内閣は、道義上の理由からだけでなく政治上の理由からも、働く階層に配慮しなければならない。忘れてならないのは、現在の政府連立のかなりの部分、すなわち両民族のキリスト教社会派が、大資本家ではなく小さな勤め人に支えられていることである。この人々を刺激すれば、これらの政党が揺らぎ、ひいては統治体制全体が揺らぎかねない。ドイツ人について言えば、内閣にいる彼らの代表は、自らと同じ階層の人々だけでなくズデーテン・ドイツ民族全体の受託者であるという独特の立場にある。両民族陣営の野党は、いずれにせよ政権に対する最も印象的な論拠を、「この内閣は民族協調の政府ではなく社会的反動の政府である」という主張から引き出している。最初のチェコ=ドイツ連立が信用を失うのを防ごうとするなら、政府は後者ではなく前者の名にふさわしいことを示さなければならない。そしてこの危険を最も効果的に防ぐには、この政府を支える層が反社会主義の熱意を少しばかり抑えることである。その熱意は、容易に反社会的なものと誤解されかねないのである。
リンテレンへの議事妨害。
リンテレンへの議事妨害。シュタイアーマルク州議会で騒乱。大ドイツ党が対立候補か。グラーツ、10月13日。本日のシュタイアーマルク州議会の会議でも騒乱の場面が続き、州知事の改選はまたもや延期せざるをえなかった。社会民主党の弁士たちは、州知事職の候補者として昨日汚職の非難に対して弁明した文部大臣リンテレン博士を、中傷者と呼んだ。社会民主党のある議員は、女性州議会議員に対して侮辱的な発言をした傍聴人に平手打ちを食らわせた。左派の動議は、傍聴席から「ブタ共和国!」と叫んだ憲兵隊員について、共和国侮辱のかどで刑事訴追を求めた。州政府庁舎は本日厳重に封鎖された。共産主義者や社会民主党系の労働者が数百人規模で州議会に押し入ろうとしたためである。大ドイツ党と農村同盟は独自の候補者を立てる意向であり、そうなればリンテレン博士はキリスト教社会党の34票しか集められず、他のブルジョワ政党と社会民主党の35票を相手にすることになる。討論は明日も続けられる予定である。
ラディッチ、謝罪を拒否。
……「ブタ共和国!」と叫んだのである。州政府庁舎は本日厳重に封鎖された。共産主義者や社会民主党系の労働者が数百人規模で州議会に押し入ろうとしたためである。大ドイツ党と農村同盟は独自の候補者を立てる意向であり、そうなればリンテレン博士はキリスト教社会党の34票しか集められず、他のブルジョワ政党と社会民主党の35票を相手にすることになる。討論は明日も続けられる予定である。* * * グラーツ、10月13日。会議の冒頭、最初の弁士として社会民主党のライヒン議員が発言した。わが党は、大ドイツ党がリンテレン博士に投票しないだけの清廉さの感覚を持っていると期待する、とライヒンは述べた。マホルト議員の告発に対し、リンテレン博士は一言も反駁できず、それどころか弁明の言葉すら見つけられなかった。社会民主党にとって問題なのはキリスト教社会党の政策ではなく、オーストリアの政治において類を見ない数々の不祥事である、という。キリスト教社会党の議員たちは弁士に向かって「おとなしくしていなさい。あなたの党だってすねに傷を持つ身だ」と野次を飛ばす。ライヒンは続いて、ヴェラースドルフ兵器廠と市営製材所の件でリンテレンが社会民主党に向けた攻撃に反論し、これにシュタイアーバンクが融資したムーアタール木材工業株式会社の破綻を対置した。弁士は、市営製材所に関する主張は事実に反すると言明する。弁士はリンテレン博士に向かって「恥ずかしくて顔が赤くならないのか」と叫ぶ。リンテレン博士は「いや、いや、私が言ったことは本当だ」と応じる。ライヒン「リンテレン博士、あなたの論拠は明らかに偽りだ」。会議終了後、ライヒンは社会民主党のタウス議員について侮蔑的な発言をした傍聴人に平手打ちを食らわせる。ラディッチ、謝罪を拒否。ウズノヴィッチ内閣総辞職。ベオグラード、10月13日。急進党とラディッチ党の支持者たちがザグレブ事件の処理方法について閣議で合意できなかったため、ウズノヴィッチ首相は国王に内閣総辞職を申し出た。アレクサンダル国王は辞表を受理した。危機について公式に次のように発表された。「より広範な協力によって、大規模な……を処理する可能性をつくり出すため……前史については、次のことを想起しておきたい。金曜日にプラハ議会の代表団がザグレブに到着した際、チェコスロヴァキア代議院議長マリペトルの演説中にラディッチはたびたび野次を飛ばした。さらにザグレブ長官クラマルシッチが代表団を歓迎すると、ラディッチは叫んだ。「これはスキャンダルだ!君主制の時代にはこういう話し方をしたものだ。ここにはクロアチア人の住民しかいない。」群衆が……
解説
チェコスロヴァキア内閣に入った最初のドイツ人閣僚
社説が閣僚評議会に送られた代表と呼んだのは、シュヴェフラ内閣に加わったばかりのドイツ系政党の閣僚である。フランツ・シュピーナの党は、チェコスロヴァキア政府に積極的に協力した最初のドイツ系政党だった。同党はチェコスロヴァキア側の農業党、聖職者系政党、企業家の政党、国民民主党とともにシュヴェフラ内閣に入った。シュピーナ自身はチェコスロヴァキアで最初のドイツ系閣僚になった。プラーガー・タークブラットは、両民族のキリスト教社会派も連立に加わっていると書いている。同紙は建国以来の八年間を歯止めのない民族支配と呼んだが、この呼び方はドイツ人側から見た評価である。社説が忍耐を説いた背景には、ドイツ人がそれまで一度も閣僚の座に就いたことがなかったという事情がある。同紙は、過大な期待が閣僚の立場を危うくすることを恐れていた。シュピーナはその後もチェコスロヴァキア人とドイツ人の協力を信じ続け、1938年、ミュンヘン協定の二週間前に死去した。
シュヴェフラの連立づくりとブルジョワ・ブロック
同紙がブルジョワ・ブロックと呼んだ政府は、チェコスロヴァキアの首相を三期務めたアントニーン・シュヴェフラが率いていた。シュヴェフラは農業党の党首であり、農業党はペトカと呼ばれる仕組みの中で主導的な地位を占めていた。ペトカはおおむねシュヴェフラ自身が考案したものであり、シュヴェフラはその標語「われわれは合意することで合意した」の発案者とされている。社説の後半は、民族の問題から社会の問題に話を移している。社説によれば、以前の政権には社会主義者が加わっており、その改革は中道の線を守っていた。社説はさらに、新しいブロックの支持層が労働時間の延長と社会的負担の廃止を求めていると述べた。同紙は道義だけでなく政治的な計算からも警告を発した。同紙は、連立のキリスト教社会派が小さな勤め人に支えられていると指摘した。内閣が民族協調の政府ではなく社会的反動の政府とみなされれば、両民族陣営の野党の主張が裏づけられ、最初のチェコ=ドイツ連立が信用を失うと同紙は論じた。連立の構成と支持層の空気についての記述は、1926年10月のプラハで同紙が下した判断である。
リンテレンとシュタイアーバンクの不祥事
社会民主党に中傷者と呼ばれたアントン・リンテレンは、キリスト教社会党の政治家である。リンテレンは1919年からシュタイアーマルク州知事を務めていた。同紙によれば、リンテレンは当時文部大臣であり、州知事の座に戻ろうとしていた。リンテレンはシュタイアーバンクの創設者で頭取でもあった。同行が1926年に破綻すると不祥事が起こり、リンテレンはそのために一時期州知事の職を失った。社会民主党のライヒンの演説の背景には、この事情がある。ライヒンは、ヴェラースドルフ兵器廠と市営製材所をめぐるリンテレンの非難に対し、シュタイアーバンクが融資したムーアタール木材工業の破綻を持ち出して反論した。同紙の票読みは、リンテレンの立場の苦しさを示している。大ドイツ党と農村同盟が独自候補を立てれば、キリスト教社会党の34票は他の全勢力の35票を相手にすることになる。リンテレンの経歴を見ると、州知事の在任は1919年から1926年までと1928年から1933年までに分かれている。リンテレンはその後さらに右へ進み、1934年にナチスのクーデター計画である七月一揆に関与した。
ラディッチ、ザグレブ事件とウズノヴィッチ内閣の崩壊
同紙によれば、1926年10月の時点でステパン・ラディッチの党は、ベオグラードの閣議に急進党とともに加わっていた。この協力は1925年にさかのぼる。この年、ラディッチの党はセルビアの有力な保守政党である人民急進党と合意を結び、ラディッチ自身は文部大臣になった。ラディッチは生涯を通じて国家統一に反対し、のちにはユーゴスラヴィアにおけるセルビア人の覇権に反対した。同紙が伝えたザグレブでの発言は、この姿勢と一致している。ラディッチは、長官の話し方は君主制時代のものだと抗議し、ここにはクロアチア人の住民しかいないと叫んだ。同紙の引用によれば、ラディッチが非難した対象は長官の言葉だった。ラディッチはかつてプラハで進歩青年派を短期間率いたことがあり、プラハとの個人的なつながりを持っていた。同紙は、急進党とラディッチ派が事件の処理方法で合意できず、そのためウズノヴィッチ首相が内閣総辞職を申し出たと伝えた。ラディッチの経歴によれば、ラディッチは1926年に閣僚の職を辞して野党に戻り、1927年にスヴェトザル・プリビチェヴィッチと連携した。ラディッチはのちに議会で、急進党の政治家プニシャ・ラチッチに撃たれた。
原文
Eile mit Weile.
Eile mit Weile. [?] Prag, 13. Oktober. In der Zeit einer ersten Blüte darf man nicht schon die reife Frucht pflücken wollen. Die nationale Verständigung in der Tschechoslowakei befindet sich gleichsam im Blütestadium; es wäre voreilig und gefährlich, es würde den natürlichen Verlauf der Entwicklung bedrohen, wenn das Sudetendeutschtum von den Delegierten, die es in den Ministerrat entsendet hat, allzu schnell die Erfüllung aller seiner berechtigten Forderungen erwartete. Der Berg von Unrecht, den acht Jahre schrankenloser nationaler Herrschaft aufgetürmt haben, ist zu hoch, als daß er in kurzer Zeit abgetragen werden könnte. Man muß sich darauf gefaßt machen, daß die Arbeit langsam vonstatten gehen und manches überhaupt unerledigt bleiben wird. Ob die deutschen Minister kräftige Männer sind, wird sich bald zeigen. Wundertäter können sie nicht sein, und wer von ihnen mehr beanspruchte als sie leisten können, würde nicht nur ihre Stellung, sondern auch die Hoffnungen bedrohen, die jetzt für das tschechoslowakische Deutschtum aufschimmern. Dieses Deutschtum, unverwöhnt und genügsam, braucht im übrigen nicht davor gewarnt zu werden, seine Erwartungen übermäßig hoch zu spannen. Es hat sich zwangsweise zu einer nationalen Bescheidenheit erzogen, die jetzt sogar von den Tschechen anerkannt wird. Der Systemwechsel hat aber auch eine soziale Seite, und hier kann man eine Ungeduld beobachten, die manchmal schon bedenklich wirkt. Nicht so sehr die politischen Parteien selbst, die jetzt ans Ruder gelangt sind, wie die Kreise, die sich vorzugsweise durch diese Parteien vertreten fühlen, lassen in scharf formulierten Kundgebungen erkennen, daß sie je eher je lieber alle Chancen fruktifizieren wollen, die ein " Bürgerblock " bietet. Unbelastet von den Rücksichten, welche die bürgerlichen Parlamentarier als mehr oder [?] [?] Staatsmänner auf die derzeit oppositionellen Schichten nehmen müssen, möchten sie in raschem Tempo die Reformen abbauen, welche die Aera eines die Sozialisten mit umfassenden Regimes geschaffen hat, wiewohl selbst der unvoreingenommene Bürger anerkennen muß, daß diese Neuerungen keineswegs umstürzlerischen Charakter trugen, sondern die mittlere Linie eines bürgerlich-sozialistischen Systems einhielten. Das Bewußtsein, sich der Sozialisten als Regierungsteilhaber entledigt zu haben, scheint das stürmische Verlangen zu erwecken, die Errungenschaften der Arbeitnehmer zu beseitigen, obwohl ein Teil davon bereits in der Zeit, in der noch Sozialisten im Kabinett saßen, abgetragen worden ist. Man hört jetzt immer lauter den Ruf nach Verlängerung der Arbeitszeit, nach Abschaffung der " sozialen Lasten ". Wir haben volles Verständnis für die Notwendigkeiten der Produktionsförderung, möchten aber doch davor warnen, diesem Ziel auf einem Weg zuzustreben, der ein Leidensweg für die Arbeitnehmer sein muß. Insbesondere wäre es gefährlich, auf die Bürgerregierung die ungestüme Hoffnung zu setzen, daß sie einseitig zugunsten der Besitzenden und gegen den kleinen Mann regieren kann. Sie kann und darf dies ebensowenig wie eine sozialistische Regierung in der Tschechoslowakei die restlose Erfüllung proletarischer Wünsche verwirklichen könnte. Nicht nur aus sittlichen, auch aus politischen Gründen muß das Kabinett des sogenannten Bürgerblocks auf die arbeitenden Schichten Rücksicht nehmen. Man vergesse nicht, daß ein beträchtlicher Teil der gegenwärtigen Regierungskoalition - die Christlichsozialen beider Nationen - sich keineswegs auf Großkapitalisten, sondern auf kleine Angestellte stützt, die nicht gereizt werden dürfen, ohne daß die genannten Parteien und damit das ganze Regierungssystem ins Wanken geraten. Was die Deutschen betrifft, so haben ihre Vertreter im Kabinett überdies noch die eigenartige Position, daß sie Treuhänder nicht nur ihrer Standesgenossen, sondern des gesamten sudetendeutschen Volkes sind. Die Opposition in beiden nationalen Lagern schöpft ihre eindrucksvollsten Argumente gegen das Regime ohnedies aus der Behauptung, " daß dieses Kabinett keine Regierung der nationalen Verständigung, sondern eine Regierung der sozialen Reaktion sei. Sie darf nicht diesen, sondern muß jenen Namen rechtfertigen, wenn sie verhüten will, daß die erste tschechisch-deutsche Koalition kompromittiert wird, und dieser Gefahr kann dadurch am wirksamsten vorgebeugt werden, daß die Kreise, welche diese Regierung stützen, ihren antisozialistischen Eifer ein wenig zügeln, der leicht als ein antisozialer mißverstanden werden kann.
Obstruktion gegen Rintelen.
Obstruktion gegen Rintelen. Skandalszenen im steirischen Landtag. Gegenkandidat der Großdeutschen? Graz, 13. Oktober. In der heutigen Sitzung des steirischen Landtages setzten sich die Skandalszenen fort und abermals mußte die Neuwahl des Landeshauptmanns verschoben werden. Die sozialdemokratischen Redner nannten den Unterrichtsminister Dr. Rintelen, der als Kandidat für den Posten des Landeshauptmanns sich gestern gegen die Vorwürfe der Korruption verteidigte, einen Verleumder. Ein sozialdemokratischer Abgeordneter ohrfeigte einen Galeriebesucher, der beleidigende Bemerkungen gegen eine Landtagsabgeordnete gemacht hatte. In einem Antrag der Linken wurde Strafverfolgung gegen einen Gendarmeriebeamten wegen Beleidigung der Republik gefordert, da er von der Galerie " Sau-Republik! " gerufen hatte. Das Gebäude der Landesregierung war heute streng abgesperrt, da Kommunisten und auch sozialdemokratische Arbeiter zu Hunderten versuchten, in den Landtag einzudringen. Die Großdeutschen und Landbündler beabsichtigen, einen eigenen Kandidaten aufzustellen, so daß Dr. Rintelen nur 34 Stimmen der Christlichsozialen auf sich vereinigen könnte gegen 35 Stimmen der anderen bürgerlichen Parteien und der Sozialdemokraten. Die Debatte soll morgen fortgesetzt werden.
Radic verweigert Entschuldigung.
" Sau-Republik! " gerufen hatte. Das Gebäude der Landesregierung war heute streng abgesperrt, da Kommunisten und auch sozialdemokratische Arbeiter zu Hunderten versuchten, in den Landtag einzudringen. Die Großdeutschen und Landbündler beabsichtigen, einen eigenen Kandidaten aufzustellen, so daß Dr. Rintelen nur 34 Stimmen der Christlichsozialen auf sich vereinigen könnte gegen 35 Stimmen der anderen bürgerlichen Parteien und der Sozialdemokraten. Die Debatte soll morgen fortgesetzt werden. * * * Graz, 13. Oktober. Zu Beginn der Sitzung ergriff als erster Redner der sozialdemokratische Abgeordnete Leichin das Wort. Seine Partei erwarte von den Großdeutschen soviel Reinlichkeitsgefühl, daß sie nicht für Dr. Rintelen stimmen werden. Die Anklage des Abgeordneten Machold habe Dr. Rintelen nicht mit einem Worte entkräften können, ja er habe nicht einmal ein Wort der Verteidigung gefunden. Den Sozialdemokraten handle es sich nicht um die Politik der Christlichsozialen, sondern um die Affären, die in der österreichischen Politik einzig dastehen. Die Christlichsozialen rufen dem Redner zu: " Seien Sie nur ruhig. Ihre Partei hat selbst Butter auf dem Kopf. " Leichin wandte sich dann gegen die in der Angelegenheit Wöllersdorfer Arsenal und städtisches Sägewerk gegen die Sozialdemokraten von Rintelen erhobenen Angriffe und stellte dem den Zusammenbruch der von der Steirerbank finanzierten Murtaler Holzindustrie A. - G. gegenüber. Die Behauptungen gegen das städtische Sägewerk erklärt der Redner für unwahr. Redner ruft Dr. Rintelen zu: " Steigt Ihnen nicht die Schamröte ins Gesicht? " Dr. Rintelen erwidert: " Nein, nein, was ich gesagt habe, ist wahr. " Leichin: " Ihre Argumente, Herr Doktor Rintelen, sind offensichtlich unwahr. " Nach Schluß der Sitzung versetzt Leichin einem Galeriebesucher, der über den sozialdemokratischen Abgeordneten Tauß abfällige Aeußerungen machte, eine Ohrfeige. Radic verweigert Entschuldigung. Rücktritt des Kabinetts Uzunovic. Belgrad, 13. Oktober. Da sich die Radikalen und die Anhänger der Radic-Partei bezüglich der Modalitäten der Erledigung des Agramer Zwischenfalles im Ministerrat nicht einigen konnten, hat Ministerpräsident Uzunovic dem Könige die Demission des Gesamtkabinetts überreicht. König Alexander nahm die Demission an. Amtlich wird über die Krise verlautbart: " Zwecks Schaffung der Möglichkeit einer breiteren Zusammenarbeit zur Erledigung des umfangreichen Ueber die Vorgeschichte sei folgendes in Erinnerung gebracht: Als am Freitag eine Abordnung des Prager Parlaments in Agram eintraf, machte Radic während der Rede des Präsidenten des tschechoslowakischen Abgeordnetenhauses Malypetr wiederholt Zwischenrufe und als der Präfekt von Agram - Kramarsic die Abordnung begrüßte, rief Radic: " Das ist ein Skandal! So hat man zur Zeit der Monarchie gesprochen; hier gibt es nur eine kroatische Bevölkerung. " Als die Menge die