La Tribune de Madagascar
- 紙は足りなくなるのか
- ポアンカレ氏の声明
- ログイの裁き
1926年10月14日付のラ・トリビューヌ・ド・マダガスカルは、一面の社説で、フランスとその植民地が紙不足に陥るおそれがあると警告した。社説はフランの下落でスウェーデン産のパルプや新聞用紙が破滅的に高くなったと論じ、スウェーデンからの輸入が1922年の18,581トンから1925年の28,579トンに増えたという表を載せた。短い記事は、全国元戦闘員連合がドイツから受け取る額以上を同盟国に払うことに反対する決議をポアンカレに手渡し、ポアンカレがフランスは能力に応じてだけ支払うと答えたと伝えた。タナナリヴ発の欄は、アブド・エル・クリムがリーフで下した裁きをからかう逸話を紹介し、流刑を知った彼の怒りと、モロッコに残る元使者たちの消息を報じた。
翻訳
紙は足りなくなるのか
週三回発行
紙は足りなくなるのか
いま私たちを打ちのめすことを面白がっているかのような、ありとあらゆる種類の危機のなかでも、紙の危機は決して軽い脅威でも、軽い問題でもない。
紙……。紙がわが国の日々の暮らしで果たしている役割を、あなたは正確にわかっているだろうか……。紙とは、新聞であり、評論誌であり、雑誌であり、小学生の教科書であり、その小学生のノートであり、台所の帳面であり、読み物の本であり、小冊子であり、会計係の帳簿であり、食料品店や薬局の小僧が使う包装紙であり、鉄道の切符であり、小包郵便の送り状であり、手紙の封筒である。紙とは、絵葉書であり、カレンダーであり、日めくりであり、ご褒美の点数札であり、広告ビラである。紙とは、途方もない量の身近な品々である。あまりに身近なので私たちはほとんど気にも留めないが、私たちは誰もが、億万長者のような気前よさで、まるでまったく費用がかからないかのように、それを使い、使い過ぎている。
ところが、紙はお金がかかる。それも大変に高くつく。フランスで新聞の値段が上がっていることで、あなたもそれに気づくだろう。本の値段が上がっていることでも気づく。店が買い物を包む紙をけちけちと出すことでも気づく。
そもそも、紙はパンと同じくらい国民に欠かせない。これはまったく逆説ではない。パンは物質的な生活である。紙は知的な生活である。前者が体の命を支えるなら、後者は、印刷されたとき、国の精神的な生活を支え、さらに外国に対する国の立場をも支える。というのも、印刷術と印刷された紙こそが、国家の宣伝の本質的な武器だからだ。外国人、つまりイギリス人、ドイツ人、イタリア人、アメリカ人はそれをよく知っており、国外で読まれるための出版物を格別の趣味と熱意で整えている。
ところが前回の郵便船が運んだ知らせによれば、フランスで、したがって植民地でも、紙が不足しそうだという。
実のところ、わがフランスは、紙を作る原料である木材やぼろ布を十分な量で持ったことが一度もない。いつも外国に頼り、外国からパルプや紙を買ってきた。ただ、かつてはわが国の通貨は、紙を産する国々の通貨と対等の水準にあった。今日では開きがあまりに大きく、パルプの購入はまさに破滅的で、事態はひどく憂慮すべきものになりつつある。紙が高ければ、新聞が高くなり、本が高くなり、ノートが高くなり、包装が高くなる。
わが国の紙は、ますます多くスウェーデンから来ている。ある経済誌から集めたいくつかの数字は、言葉よりも多くを語るだろう。以下はスウェーデンからフランスへの紙の輸入表である。
年 | 新聞用紙 | 商業用紙 | 合計
1922 | 13,435トン | 5,146トン | 18,581トン
1923 | 8,738 – | 5,353 – | 14,091 –
1924 | 12,337 – | 7,803 – | 20,140 –
1925 | 20,686 – | 7,893 – | 28,579 –
この伸びにお気づきだろうか。ほとんど信じがたいほどである。
この出費が、高価な本や選り抜きの版を作るための高級紙の購入から来ていると思ってはならない。比率で言えば、これは事実だが、高級紙は今日、粗末な紙より安い。逆説のように見えるが、そうなのである。そのうえ、フランスで毎日使われる膨大な量の紙のなかで、高価な本はごくわずかな部分にすぎない。重要なのは新聞用紙と包装紙である。
二万六百八十六トンの新聞用紙と七百八十九万三千トンの包装紙をスウェーデンで買い入れ、いまわが国の通貨の十一倍以上の相場にある通貨で支払う……。これはとてつもないことであり、恐ろしく危険である。
それでも、私たちには紙が必要であり、新聞が必要であり、私たちには……
ポアンカレ氏の声明
彼がその気になりさえすれば、この件でもほかの多くの件と同じように、報道情報局は、この点では反抗的というよりむしろ怠慢な各部局からようやくたっぷりと材料を与えられ、新聞にやんわりとせっつかれるコアンソン氏をがっかりさせるような、骨と皮ばかりの情報局ではなくなるだろう。
言うべきだったこと
ポアンカレ氏の声明
フランス。全国元戦闘員連合の会長は昨日、ポアンカレ氏に決議を手渡した。決議は、勝利したフランスが、同じ危険を冒さずに共通の勝利の利益にあずかった同盟国に対して、ドイツから受け取る額を上回る金額を支払わねばならないことを、元戦闘員は認められないと宣言した。決議はまた、単なる正義の観点から見ても容認できない債権の移転にもとづく債券の動員には、どんな形であれ抗議するとした。
ポアンカレ氏は、サン=ジェルマンとバル=ル=デュックでの演説を引きながら、米国政府がわれわれに請求書を送ってきたとはいえ、フランスという債務者はまず債権者と話し合っておきたいと望んでいると、代表団に明言した。フランスは支払うことができるが、それはその能力に応じてだけである。政府はこの点で一致している[?]
ログイの裁き
タナナリヴ
ログイの裁き
元首長アブド・エル・クリムは、同じ人種のすべての者に特有の宿命論をもって、フェズでレユニオンへの出発が近づくのを待っていた。『エクセルシオール』紙によれば、彼はゼラニウムやバラを育てて、都での退屈を紛らわせていたという。
これに関連して、ログイがまだヤシの木の下で裁きを行い、山中でジェマア、すなわち名士の集会を主宰していた頃の、面白い逸話を一つ紹介しよう。
そのとき、彼の裁きを受ける者の一人がやって来て、こう言った。「首長さま、食料を積んだロバをなくしてしまいました。見つけていただければありがたく存じます。」
「いまはもっと重大な問題に追われているのだ、神に讃えあれ!」とアブド・エル・クリムは答えた。「だが、おまえの望みをかなえてやれるよう、やってみよう。」
そして彼は集会に向かってこう尋ねた。「おまえたちのなかに、いつか女のために馬鹿なことをした者はいるか。」
褐色のジェラバをまとい、重々しく、調和のとれた威厳を保った名士たちは、黙ったままだった。ところが、小麦とライ麦を売りに来て、たまたまそこに居合わせた一人の商人が、叫ばずにはいられなかった。「わたしです! そう、わたしです! わたしは女たちのために馬鹿なことをして、身代をつぶしました。」
するとアブド・エル・クリムはリーフの男のほうを向き、商人を指さしてこう言った。「ほら、友よ、これがおまえのなくしたロバだ。」
フェミニストたちは、もし例外的にイスラムの世界にもいるとしても、ログイがいなくなったことをそれほど嘆いてはいないだろう、と賭けてもよい。
レユニオンへの流刑者について、いくつかの情報を付け加えよう。マダガスカルへの移送が近いと知ったとき、彼は怒りがおさまらず、もしわかっていたら決して降伏などしなかったと言い放った。彼は、ムーレイ・ハフィドのように多額の補助金つきでフランスへ送られることを期待していた。イメリナの奥へ送られるのは自分を死なせるためだと、彼は言い張った。彼は長い手紙を書き、せめて、姿を消したある女王がそうされたように、アルジェリアに抑留してほしいと求めた。
アゼルカンとヒトミ、すなわちウジダでアブド・エル・クリムの使者を務めた二人は、ブー・ジェルーブのカスバの小さな家で、家族とともに別に暮らしている。二人は自分たちの運命を受け入れている。この二人はおそらく、敗れたスルタンに同行してレユニオンへ行くことはないだろう。二人を豪奢なパシャ、エル・グラウイの監視のもとでマラケシュへ送る話が出ており、そこで二人はシディ・ラボと顔を合わせることになる。シディ・ラボはおそらく、セフルーのオアシスを離れ、南モロッコの都のヤシ林へ移るだろう。
解説
紙の値上がりを為替のせいとした社説の論理
社説は、フランスが製紙原料の木材やぼろ布を自国で十分に持たず、昔からパルプや紙を外国から買ってきたと述べた。社説は1926年の新しい問題を通貨に求め、新聞用紙の代金を払うスウェーデンの通貨がフランの11倍以上で取引されていると書いた。この11倍以上という比率は新聞自身の主張である。フランの弱さには、同じ紙面のポアンカレ記事にも出てくる戦債問題が関わっていた。フランスの債務返済が決着しないあいだ、米国はフランスへの民間と公的な融資をひそかに止め、この措置がフランに圧力をかけた。社説が名前を挙げない経済誌から取った表によれば、スウェーデンからの輸入は1922年の18,581トンから1925年の28,579トンへ増え、増加の大半を新聞用紙が占めた。社説の数字には誤りが一つある。表は1925年の商業用紙を7,893トンとしているが、本文はこれを包装紙789万3000トンと書き、千倍の量にしている。社説は、フランスで紙が足りなくなれば植民地も同じ目にあうと書いた。タナナリヴの植民地新聞にとって、この警告は自分たちの紙の確保にかかわる問題だった。
元兵士たちが抗議した対米戦債協定
ポアンカレに手渡された決議は、1926年4月29日に調印されたメロン=ベランジェ協定に向けられていた。この協定は、第一次世界大戦中にフランスが米国から負った債務について、返済の額と率を定めた。交渉の際、フランス側は米国への支払いをドイツからの賠償金と結びつける条項を求め、米国はその結びつけを拒んだ。フランス国内の反応は否定的で、2万人の元兵士がパリで協定に反対するデモを行った。記事が伝える決議は、勝利したフランスがドイツから受け取る額以上を同盟国に払うべきではないと主張している。この主張は、交渉でフランス側が求め、米国が拒んだ賠償金との連動を、元兵士の立場から改めて求めたものである。決議が同盟国を同じ危険を冒さずに勝利の利益にあずかった国々と呼んだ言い方には、戦争で受けた損害に見合う扱いをフランスは受けるべきだという元兵士の考えが表れている。
ポアンカレの支払能力発言と1929年の批准
ポアンカレは代表団に、フランスは支払えるが能力に応じてだけ支払うと述べ、フランスという債務者は米国の請求に応じる前にまず債権者と話し合いたいと語った。米国の債務委員会は、この協定がおおむねフランスの支払能力を表していると、すでに説明していた。両国は同じ支払能力という物差しを使い、その中身をめぐって対立していたのである。協定は1926年10月の時点でまだ批准されておらず、ポアンカレの発言は、請求書を受け取りながら受け入れていない政府の立場を示している。批准は数年後に実現した。1929年、ポアンカレは協定を議会で通すことに全力を注ぎ、下院は1929年7月21日、徹夜の審議の末に300対292の僅差で協定を批准した。
ログイと呼ばれたアブド・エル・クリムとリーフ戦争の終わり
新聞がログイ、元首長と呼んだ人物はアブド・エル・クリムである。アブド・エル・クリムは弟ムハンマドとともに、リーフ地方の諸部族の連合を率いて、スペインとフランスの保護領に対する大規模な反乱を起こした。1925年4月、彼はフランス占領下のモロッコに攻め込み、フェズまで迫った。これを受けてスペインはフランスと同盟を結び、1925年の決定的な作戦によって、両国は1926年までに彼を敗北させた。アブド・エル・クリムは1926年5月26日、当時の本拠地タルギストでフランス軍に降伏した。このため記事の時点で、彼はフランスの管理下にあるフェズで出発を待っていたのである。ロバの逸話は、エクセルシオール紙を引いた一文のあとに出典を示さずに紹介され、イスラムとフェミニズムをからかう一文で締めくくられた。この逸話は植民地新聞の読み物であり、記録で確かめられた出来事として扱うべきものではない。記事末尾のアゼルカンは、リーフ共和国の外相を務めたムハンマド・アザルカンにあたるとみられる。
レユニオン島での流刑生活の実態
記事はタナナリヴの見出しの下に載り、アブド・エル・クリムがマダガスカルへの移送に激怒し、イメリナの奥へ送られて死なされると恐れたと伝えた。同じ記事は彼をレユニオンへの流刑者とも呼んでおり、記事の中でマダガスカルとレユニオンの話が混ざっている。記録によれば、彼は降伏後、インド洋のフランス領レユニオン島に1926年から1947年まで流された。彼はレユニオンで快適な屋敷と手厚い年金を与えられた。この待遇は、新聞が伝えた死への恐れとは大きく違い、補助金つきの扱いを望んだという彼の要求に近いものだった。流刑は1947年に終わった。この年、彼は移送の途中でフランス側の監視から逃れ、モロッコの民族主義者に付き添われてカイロに渡った。
原文
Allons-nous manquer de papier ?
TRI-HEBDOMADAIRE Allons-nous manquer de papier? Parmi toutes les crises de toutes natures qui semblent se faire un jeu de nous accabler en ce moment, la crise du papier n'est ni la moins menaçante, ni la moins grave. Le papier... Vous rendez-vous un compte exact du rôle que le papier joue dans l'existence quotidienne de notre pays?... Le papier: c'est le journal, c'est la revue, c'est le magazine, c'est le livre de travail de l'écolier, c'est le cahier du même écolier et celui de la cuisine, c'est le volume de lecture et la brochure, c'est le registre du comptable et le papier d'emballage du garçon épicier, du garçon pharmacien, le billet du chemin de fer, la feuille de colis postaux, l'enveloppe de lettres, c'est la carte postale, et le calendrier, et l'éphéméride, et le bon point, et le prospectus, c'est un tonnage inouï d'objets familiers, si familiers que nous n'y prêtons qu'à peine attention, mais que nous en usons et abusons tous tant que nous sommes, avec une prodigalité de milliardaires et tout comme si cela ne coûtait rien du tout. Or, cela coûte, le papier. Et fort cher. Vous vous en apercevez au prix montant des journaux, en France. Et aussi au prix montant des livres. Et aussi à la parcimonie avec laquelle les magasins vous mesurent l'emballage de vos achats. Or, le papier est aussi indispensable à une nation que le pain. Et ceci n'est point du tout un paradoxe. Le pain, c'est la vie matérielle. Le papier, c'est la vie intellectuelle. Et si le premier assure la vie du corps, le second assure, lorsqu'il est imprimé, la vie morale du pays et aussi sa situation vis-à-vis de l'étranger. Car c'est l'Imprimerie et le papier imprimé qui constituent l'arme de propagande essentielle d'une nation. Les étrangers, - Anglais, Allemands, Italiens, Américains, - le savent bien, qui soignent avec un goût et une activité particulière leurs publications destinées à être lues hors de chez eux. Mais voici, d'après les nouvelles du dernier courrier, que le papier semble vouloir manquer en France et, par voie de conséquence, aux colonies. A vrai dire, chez nous, en France, on n'a jamais possédé des matières à fabriquer le papier en tonnage suffisant: bois ou chiffons. Il fallut toujours avoir recours à l'étranger, auquel on acheta pâtes à papier ou papier. Seulement, jadis, notre monnaie se tenait vis-à-vis des monnaies des pays à papier sur un plan de parité Aujourd'hui, le décalage est tel que nos achats de pâtes à papier sont tout bonnement ruineux, et que la situation se fait terriblement inquiétante. Le papier cher, c'est le journal cher, le livre cher, le cahier cher, l'emballage cher. Notre papier vient en quantités croissantes de Suède. Quelques chiffres recueillis dans une revue économique en diront plus que des phrases. Voici un tableau des importations de papier de Suède en France: Années | Papier journal | Papier commercial | Total 1922 | 13. 435 tonnes | 5. 146 tonnes | 18. 581 tonnes 1923 | 8. 738 - | 5. 353 - | 14. 091 - 1924 | 12. 337 - | 7. 803 - | 20. 140 - 1925 | 20. 686 - | 7. 893 - | 28. 579 - Avez-vous noté la progression? Elle est quasi fantastique. Il ne faut pas croire que la dépense provient des achats de papiers de luxe par le moyen desquels on fabrique les ouvrages de haut prix, les éditions de choix. Proportionnellement, c'est un fait, le papier de luxe coûte aujourd'hui moins cher que le papier grossier: cela semble paradoxal, et cependant cela est. En outre, dans la masse énorme de papier qui est utilisée chaque jour en France, les ouvrages de haut prix constituent une infime minorité. Ce qui compte, c'est le papier-journal et le papier d'emballage. Vingt mille six cent quatre-vingt-six tonnes de papier-journal et sept mille huit cent quatre-vingt-treize mille tonnes de papier d'emballage acquis en Suède et payés en une monnaie qui cote en ce moment plus de onze fois la nôtre... Cela est formidable et affreusement dangereux. Cependant, il nous faut du papier, - il nous faut des journaux, - il nous
Une déclaration de M. Poincaré
Il n'a qu'à vouloir, en cela comme en beaucoup d'autres matières, pour que le bureau d'information de presse suralimenté, par les services plutôt négligents à ce point de vue que récalcitrants, ne soit plus, au désespoir de M. Coançon, harcelé en douceur par les journaux, un bureau d'information sque lettique. Ce qu'il fallait dire Une déclaration de M. Poincaré France. - Le Président de l'Union nationale des ex-combattants remit hier à M. Poincaré une résolution déclarant que les ex-combattants ne sauraient admettre que la France victorieuse doive payer aux alliés qui, sans courir les mêmes risques, participèrent aux avantages de la victoire commune, des sommes supérieures à celles qu'elle recevra de l'Allemagne, et protestant contre toute mobilisation d'obligations reposant sur une mutation de créances que la simple justice ne saurait tolérer. M. Poincaré, rappelant ses discours de Saint-Germain et de Bar-le-Duc, précisa aux délégués que, quoique le gouvernement américain nous ait envoyé sa facture, le débiteur français désirait s'expliquer préalablement avec son créancier. La France peut payer, seulement suivant ses capacités. Le Gouvernement est unanime sur ce [?]
La Justice du Rogui
TANANARIVE LA JUSTICE DU ROGUI Avec le fatalisme particulier à tous ceux de sa race, l'ancien émir Abd-el-Krim attendait à Fez son prochain départ pour la Réunion. Il se délassa des ennuis de la capitale en cultivant, dit Excelsior, des géraniums et des roses. A ce sujet, voici une anecdote amusante qui se rapporte aux temps où le Rogui rendait la justice sous les palmes et présidait encore dans ses montagnes la djémaa ou l'assemblée des notables. Un de ses justiciables qui survint alors, lui dit: «Emir, j'ai perdu mon âne qui portait mes provisions. Je te serais reconnaissant de me le faire retrouver. - Des problèmes plus sérieux nous occupent actuellement, louange à Dieu! répondit Abdel-Krim. Cependant, je veux essayer de te donner satisfaction.» Et, s'adressant à l'assemblée, il demanda: - Est-ce qu'il y a parmi vous quelqu'un qui, un jour, ait fait des folies pour une femme?» Graves, dignes harmonieusement dans leur djellab brune, les notables demeurèrent silencieux.» Mais un marchand qui, par hasard, se trouvait là, étant venu vendre du blé et du seigle, crut devoir s'écrier: - Mais moi! oui, moi! j'ai fait des folies et je me suis ruiné pour des femmes. Abd-el-Krim se tourna alors vers le Riffain et lui dit, en désignant le marchand: - Tiens! mon ami, voici l'âne que tu as perdu» Gageons que les féministes, si par exception il en existe en Islam, ne doivent pas déplorer outre mesure la disparition du Rogui. Ajoutons quelques renseignements sur l'exilé à la Réunion. Lorsqu'il a appris son prochain transfert à Madagascar, il ne décolera pas, et déclara que, s'il avait su, il n'aurait jamais fait sa soumission; il espérait être envoyé, comme Moulay Hafid, avec une forte subvention, en France; il prétendait que si on l'expédiait au fond de l'Imerina, c'était pour le faire mourir. Il rédigea une longue lettre demandant son internement tout au moins en Algérie, comme le fut une reine disparue. Azerkane et Hitmi - deux émissaires d'Abdel-Krim à Oudjda - vivent à part avec leur famille, dans une petite maison de la casbah de Bou Djeloub. Ils acceptent leur sort. Ceuxci n'accompagneront probablement pas le sultan vaincu à la Réunion. On parle de les envoyer sous la surveillance du fastueux pacha El Glaoui, à Marrakech, où ils se rencontreraient avec Sidi Rabo, qui va probablement quitter l'oasis de Sefrou pour la palmeraie de la capitale du sud marocain.