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· ウィーン(オーストリア) · ドイツ語

Neue Freie Presse

1926年10月14日のノイエ・フライエ・プレッセは、ハンガリー科学アカデミーが刊行したティサ伯の戦時書簡集をブダペスト発で大きく紹介した。記事は、ティサが1915年1月にローマのビューロー侯をトレンティーノを守らなかったとして非難した書簡を引き、イタリア大使アヴァルナとヴァチカンの友好的な態度を伝えた。記事は、カドルナが戦争を望んでいると警告したエルツベルガーの1915年5月2日の電報も引用した。パリ発の電報は、ギヨマ将軍がライン占領軍を4個師団に減らす案を出したものの、所管部局の強い懸念に突き当たったと伝えた。別の電報は、スペイン自由党がプリモ・デ・リベラの国民議会構想を憲法違反だとして国王アルフォンソに抗議し、王位が危うくなっていると報じた。

翻訳

ティサ伯と対イタリア戦争

ウィーン、1926年10月14日木曜日。ティサ伯と対イタリア戦争。ローマからのビューローとエルツベルガーの重要な報告。本紙特派員発。ブダペスト、10月12日。ハンガリー科学アカデミーが刊行したシュテファン・ティサ伯の書簡集と戦争回想録の文献との関係は、写真の修整前の焼き付けと修整済みの写真との関係に等しい。このハンガリーの政治家は、自分の考えを紙に書きつけるとき、世間のことを考えていない。その日、その時刻の状況が、出来事の白熱のただなかでそのまま捉えられている。だからこそ、生きた世界史の一片を示すこれらの書簡は深い印象を与えるのである。複雑な政治的・外交的・軍事的機構が、その歯車のすべてをむき出しにされ、秘密をはぎ取られた姿で現れる。ティサ伯は三つの言語で書簡をやりとりしている。ブリアーンへの内密の通信はハンガリー語で書く。ドイツの同盟国に立場をはっきり示す必要があるときにはドイツ語を選ぶが、これは明らかにブリアーンに翻訳の手間をかけさせないためである。そうした場合、彼の書簡は外交文書の体裁をとる。ソンニーノ宛ての書簡はフランス語である。

イタリアへの領土割譲に反対するティサ

ティサの最も厳しい批判を受けているのは、何よりもローマにおけるビューローの活動である。1915年1月6日、ティサはベルヒトルト伯にこう書いている。「1月4日にチルシュキー氏が伝えた情報は、ビューロー侯の策動のベールをはぎ取るものです。一つだけ挙げれば、ビューロー侯はトリエステの割譲に全力で反対したと自慢しています。これは裏を返せば、彼がトレンティーノについては同じことをしなかったことを証明しています。イタリア人は最悪の時機に彼の態度によって[?]、そして[?]行動指針。彼は『いまやイタリアの条約上の義務(好意的中立)について有益な意見交換を行う広い余地が生まれた』と書いています。」

アヴァルナとヴァチカンの態度

注目すべきは、ウィーン駐在のイタリア大使アヴァルナの態度である。アヴァルナはあの困難な日々に君主国の友人であることを示している。アヴァルナはブリアーンに、軍隊の集結についてローマに申し入れるよう勧める。ティサは、アヴァルナ自身が自国政府から安心できる声明を得るよう努めてはどうかと助言する。ヴァチカンもまた君主国に好意的である。首座大司教チェルノクはヴァチカンと盛んに書簡を交わしている。しかしチェルノクの書簡はイタリア当局の検閲を受けている。ティサはこれに不満を述べ、チェルノクに外交伝書使の利用を申し出る。カロチャ大司教アールパード・ヴァーラディは、ハンガリー首相にヴァチカンでのエルツベルガーの仲介活動について知らせる。大司教がティサ伯に転送した、エルツベルガーとビューローの署名入りの電報は、1915年のあの最も緊迫した時期の最も興味深い文書に属する。

エルツベルガーの督促

エルツベルガーは5月2日にこう報告している。「事態は瀬戸際にあり。当地で内閣危機が迫っているとのウィーンの政府当局の想定は誤り。だが、たとえ正しくとも、目下の危険は変わらず。参謀総長カドルナは戦争を望んでいる。カドルナはオーストリアの崩壊を止められないとみている。それゆえイタリアを適時にアドリア海で[?][?]」

占領軍の削減

編集部分(短信欄、地方記事、演劇ニュース、経済欄)に含まれる有料告知は、前に付したEの字で区別してある。

占領軍の削減。ギヨマ将軍の計画に対する懸念。本紙特派員電。パリ、10月13日。今晩ケ・ドルセーで開かれたフランス報道陣向けの会見で、報告のため目下パリに滞在しているライン軍総司令官ギヨマ将軍が、フランス占領軍の一部を撤収する計画を実際にフランス政府に提出したことが確認された。この計画が実行されれば、占領軍の総兵力は4個師団に削減される。フランス政府は近く開かれる閣議のいずれかでこの計画を詳しく検討する。しかし事情に通じた筋は、ギヨマの計画が当地の所管部局で強い懸念に突き当たっており、そのため当面その実施はほとんど見込めないと、すでに今日の時点で断言している。

スペインの深刻な情勢。計画中の国民議会に対する抗議。

スペインの深刻な情勢

……当地の所管部局で強い懸念に突き当たっており、そのため当面その実施はほとんど見込めない。

スペインの深刻な情勢。計画中の国民議会に対する抗議。本紙特派員電。パリ、10月13日。スペインでは、自由党が国王に宛てた抗議書の写しが出回っている。この抗議書はロマノネスとビリャヌエバが署名したもので、プリモ・デ・リベラの国民議会構想に反対し、国民議会を招集すれば憲法違反が生じることを国王に指摘している。プリモ・デ・リベラの最近の演説からみて、プリモ・デ・リベラは譲歩せず、国民議会招集の計画を放棄しないだろう。決定はもっぱら国王にかかっている。国王はすでにプリモ・デ・リベラとある程度対立しているが、それでも彼を罷免する力はもっていない。そのため王位は目下きわめて危うい状態にある。一つの危険は、共和派の蜂起が起こりうることであり、その蜂起は軍から始まりうる。軍の中では扇動がますます広がっている。もう一つの危険は、左派の反動が成功した場合に、のちの議会が、国民議会の招集によってなされた重大な憲法違反を国王の責任として立証しうることである。情勢はきわめて深刻であり、決定は10月中に下されねばならない。現在の印象では、アルフォンソ13世はあらゆる危険にもかかわらず国民議会の招集令に署名するだろう。国王は、プリモ・デ・リベラが自分自身と国王を守るに足るほど強いとみているからである。

年代記付録……

解説

1915年にオーストリア=ハンガリーがイタリアに譲ろうとした領土

新聞が引用したティサの書簡は、ウィーンが領土の取引によってイタリアを中立にとどめようとした数か月のものである。イタリア外相シドニー・ソンニーノは1915年4月8日に、11条からなる条約案をオーストリアに送った。オーストリアは4月16日にイタリアの要求を拒否し、トレンティーノの一部しか譲る用意がないと繰り返した。特派員が引用した1915年1月6日の書簡で、ティサはすでにトレンティーノを弱い点として扱っている。ティサは、トリエステの割譲に反対したというビューローの自慢を、このドイツ大使がトレンティーノを同じようには守らなかった証拠だと読んだ。「策動」という非難はティサの判断であり、特派員はその判断をそのまま採っている。記録で確かめられる結果はもっと限られており、トレンティーノをめぐるウィーンの限られた譲歩はローマを満足させず、交渉は決裂した。

エルツベルガーの1915年5月2日電報とイタリアの参戦

エルツベルガーは、記事が引用した5月2日の電報で、事態は瀬戸際にあると書き、参謀総長カドルナが戦争を望んでいると伝えた。イタリアはその前の4月26日に、三国協商とロンドン秘密条約をすでに結んでいた。この条約によって、イタリアは1か月以内にドイツとオーストリア=ハンガリーに宣戦することになっていた。イタリアは電報の翌日の5月3日に三国同盟を正式に破棄した。イタリアは5月23日にオーストリア=ハンガリーに宣戦し、カドルナは6月に始まった第1次イゾンツォの戦いでイタリア軍を指揮した。カロチャ大司教がティサに伝えたエルツベルガーのヴァチカン経由の仲介は、ローマの政府が協商側に参戦をすでに約束した後に行われていたことになる。

1926年10月にライン占領軍の縮小が議題になった事情

連合国のラインラント占領は、フランスとベルギーに将来のドイツの攻撃に対する安全を与えることを目的としていた。1925年末にロカルノ条約がドイツの西部国境を確定すると、ケルン周辺の北部占領地域は1926年1月に撤収された。ロカルノ条約の最も目立つ成果は、1926年のドイツの国際連盟加盟だった。ドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンは、賠償の支払いとラインラント占領をともに終わらせることを目指していた。記事がパリ発で伝えたギヨマ将軍の4個師団への削減案は、この独仏接近の時期に出てきたものである。一方でフランスは、ドイツの新たな侵略に対する安全を何よりも重視していた。記事はパリで誰がどんな理由で反対したかを書いておらず、フランスのこの安全重視の姿勢がためらいの背景だったと考えられる。占領はその後も数年続き、コブレンツ地域は1929年11月に撤収され、占領全体は1930年6月30日に終わった。この終了はヴェルサイユ条約の定めより5年早かった。

自由党の抗議が問題にしたプリモ・デ・リベラの国民議会

ロマノネスとビリャヌエバが署名した自由党の抗議書は、国民議会を招集すれば憲法違反になるとアルフォンソ13世に警告した。国王は1923年9月14日にプリモ・デ・リベラのクーデタへの支持を表明し、1876年憲法はこのとき停止された。プリモ・デ・リベラの独裁は1925年12月に軍事執政府から文民執政府に移り、プリモ・デ・リベラはこの移行に際して、1923年に約束した議会制への復帰を退けた。プリモ・デ・リベラが創設した国民議会では、有権者個人ではなく、愛国同盟、教会、軍、地方自治体、各種の経済団体が代表された。軍から共和派の蜂起が起こるという特派員の見通しは、1926年時点での特派員自身の判断である。その後の数年で軍のプリモ・デ・リベラへの不満が高まり、国王は独裁への支持をやめた。プリモ・デ・リベラは1930年に辞任し、スペインでは1931年に第二共和政が成立した。

原文

Graf Tisza und der Krieg mit Italien.

Wien, Donnerstag, den 14. Oktober 1926. Graf Tisza und der Krieg mit Italien. Wichtige Berichte Bülows und Erzbergers aus Rom. Von unserem Korrespondenten. Budapest, 12. Oktober. Die von der ungarischen Akademie der Wissenschaften veröffentlichte Sammlung der Briefe des Grafen Stephan Tisza verhält sich zu der Kriegsmemoirenliteratur wie der Rohabzug einer Photographie zum retuschierten Bilde. Der ungarische Staatsmann denkt nicht an die Oeffentlichkeit, wenn er seine Gedanken zu Papier bringt; die Situation des Tages, der Stunde ist in der Weißglut des Geschehens festgehalten. Daher die tiefe Wirkung dieser brieflichen Kundgebungen, die ein Stück lebendiger Weltgeschichte darstellen. Die komplizierte politische, diplomatische und militärische Maschinerie erscheint mit allem Räderwerk bloßgelegt und ihrer Geheimnisse entkleidet. Graf Tisza korrespondiert in drei Sprachen. Die vertraulichen Mitteilungen an Burian schreibt er ungarisch; wenn es gilt, dem deutschen Bundesgenossen den Standpunkt klarzumachen, wählt er das Deutsche, augenscheinlich um Burian die Mühe einer Uebersetzung zu ersparen. In solchen Fällen haben seine Briefe die Fassung diplomatischer Noten. Der Brief an Sonnino ist französisch. Tisza gegen Gebietsabtretungen an Italien. Es ist vor allem die Tätigkeit Bülows in Rom, welche die schärfste Kritik Tiszas findet. Am 6. Januar 1915 schreibt er dem Grafen Berchtold: " Die am 4. Januar gemachten Mitteilungen Herrn v. Tschirschkys reißen den Schleier von den Machenschaften des Fürsten Bülow. Um nur eines zu erwähnen: Fürst Bülow brüstet sich, gegen das Abtreten von Triest mit vollem Nachdruck eingetreten zu sein; was a contrario beweist, daß er bezüglich des Trentino nicht dasselbe tat. Es werden die Italiener im schlechtesten Moment durch seine Haltung [?] und [?] haltungsmaßregeln; er schreibt, daß sich " nunmehr für einen nützlichen Gedankenaustausch über die Vertragspflichten Italiens (wohlwollende Neutralität) ein weiter Spielraum biete ". Die Haltung Avarnas und des Vatikans. Bemerkenswert ist die Haltung des italienischen Botschafters in Wien, Avarna, der sich in jenen schweren Tagen als ein Freund der Monarchie erweist. Avarna legt Burian nahe, er möge in Rom wegen der Truppenzusammenziehungen vorstellig werden. Tisza erteilt den Rat, daß Avarna selbst von seiner Regierung eine beruhigende Erklärung zu erlangen trachten möge. Auch der Vatikan ist der Monarchie freundschaftlich gesinnt. Fürstprimas Csernoch steht mit dem Vatikan in regem Briefwechsel. Seine Briefschaften werden aber von der italienischen Behörde zensuriert. Tisza beklagt sich darüber und bietet Csernoch die Dienste des diplomatischen Kuriers an. Der Erzbischof von Kalocsa, Arpad Varady, informiert den ungarischen Premier über die Vermittlungstätigkeit Erzbergers im Vatikan. Die von Erzberger und Bülow unterfertigten Depeschen, die der Erzbischof dem Grafen Tisza übermittelt, gehören zu den interessantesten Dokumenten jener aufregendsten Phase des Jahres 1915. Das Drängen Erzbergers. Erzberger berichtet am 2. Mai: " Die Sache steht auf des Messers Schneide. Annahme des Wiener Ministeriums daß hier Ministerkrise bevorstehe, irrig. Aber auch, wenn zutreffend, ändert sich Gefahr der Stunde nicht. Generalstabschef Cadorna will den Krieg. Er hält Auseinanderfall Oesterreichs für unaufhaltbar. Er will daher Italien rechtzeitig in der Adria [?] [?]

Die Herabsetzung der Besatzungstruppen.

Im redaktionellen Teil (Kleine Chronik, Lokalbericht, Theaternachrichten, Economist) enthaltene entgeltliche Mitteilungen sind durch ein vorgesetztes E kenntlich gemacht. Die Herabsetzung der Besatzungstruppen. Bedenken gegen den Plan des Generals Guillaumat. Telegramme unserer Korrespondenten. Paris, 13. Oktober. Bei einem Empfange der französischen Presse am Quai d'Orsay wurde heute abend bestätigt, daß der augenblicklich zur Berichterstattung in Paris weilende Oberbefehlshaber der Rheinarmee General Guillaumat der französischen Regierung tatsächlich einen Plan zur Zurückziehung eines Teiles der französischen Besatzungstruppen unterbreitet hat, der die Gesamtstärke der Okkupationsarmee auf vier Divisionen reduzieren würde. Die französische Regierung wird diesen Plan in einer der nächsten Sitzungen des Kabinetts eingehend prüfen. In gut unterrichteten Kreisen wird jedoch schon heute versichert, daß Guillaumats Projekt an hiesiger zuständiger Stelle auf starke Bedenken gestoßen ist und daß infolgedessen mit seiner Durchführung vorerst kaum gerechnet werden kann. Ernste Lage in Spanien. Proteste gegen die projektierte Nationalversammlung.

Ernste Lage in Spanien.

Stelle auf starke Bedenken gestoßen ist und daß infolgedessen mit seiner Durchführung vorerst kaum gerechnet werden kann. Ernste Lage in Spanien. Proteste gegen die projektierte Nationalversammlung. Telegramm unseres Korrespondenten. Paris, 13. Oktober. In Spanien zirkulieren Abschriften des von der liberalen Partei an den König gerichteten Protestschreibens, das von Romanones und Villanueva unterzeichnet und gegen Primo de Riveras Projekt einer Nationalversammlung gerichtet ist und den König auf den Verfassungsbruch hinweist, der aus der Einberufung der Nationalversammlung entstehen würde. Nach den letzten Reden Primo de Riveras wird dieser nicht nachgeben und von dem Plane der Einberufung der Nationalversammlung nicht abgehen. Die Entscheidung liegt allein beim König, der bereits in einem gewissen Gegensatz zu Primo de Rivera steht, aber doch nicht die Macht hat, ihn abzusetzen. Infolgedessen ist der Thron gegenwärtig sehr gefährdet, und zwar von einem möglichen republikanischen Aufstand, der vom Heere ausgehen kann, dessen Verhetzung immer weiter fortschreitet, dann aber dadurch, daß ein späteres Parlament für den Fall, daß die Linksreaktion von Erfolg begleitet wäre, dem König den schweren Verfassungsbruch, der durch die Einberufung der Nationalversammlung erfolgt wäre, nachweisen könnte. Die Lage ist sehr ernst, eine Entscheidung muß im Oktober erfolgen. Der jetzige Eindruck ist, daß Alfons XIII. trotz aller Gefahr das Einberufungsdekret für die Nationalversammlung unterzeichnen wird, da er Primo de Rivera für stark genug hält, sich und ihn zu schützen. Chronikbeilage der

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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