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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

1926年10月14日付の『ポリティカ』紙は、急進党とステパン・ラディッチのクロアチア農民党によるニコラ・ウズノヴィッチ内閣の総辞職を一面で大きく報じた。第一の記事は、政府危機が二日前に閣内の長い協議とともに事実上始まっていたと伝えた。同記事によれば、急進党の閣僚は一人を除き、ラディッチの最新の逸脱行為を今回は見過ごさず、お決まりの釈明にも納得しない構えだった。この記事の見出しは、新たな連立の形成をすでに予告していた。第二の記事は、最後の閣議でウズノヴィッチ首相が長い演説を行い、閣僚全員がその演説を力強いと評したと伝えた。首相は政府の課題と努力を振り返り、ラディッチの言動が政府の仕事を妨げたとして、とくにザグレブの鉄道駅での一件を強調したと記事は報じた。

この版は、1926年10月14日付『ポリティカ』紙一面のうち、二つの記事の一部を訳している。二つの抜粋は、段が画像の区切りを越えて続くため、どちらも文の途中で始まり、文の途中で終わる。OCRの結果はほぼ判読できないため、本文は紙面画像から書き起こしている。「ВЛАДА ЈЕ У ОСТАВЦИ」「ИЗЈАВА Г. УЗУНОВИЋА」「МИНИСТРИ ПОСЛЕ ОСТАВКЕ ВЛАДЕ」など政府危機を扱うほかの記事は画像の端で切れているため、この版はそれらを訳していない。風刺画の副題と説明文は一部が欠けているか不鮮明であり、一つの画像区画の下端の行もかすれている。解説は、ザグレブの鉄道駅での一件の詳細、アンジェリノヴィッチの質問、危機の収拾における国王アレクサンダルの役割を扱っていない。

翻訳

新たな連立を前に

……展開したため、政府の総辞職が避けられないことは明らかであり、われわれもその当時すぐにそれを指摘していた。すでに二日前、政府内で長時間にわたる協議が始まった時点で、政府危機は事実上始まっていた。そのため政府は、ほかのきわめて重要で急を要する問題をすべて脇に置かざるをえなかった。ラディッチ派は、ラディッチ氏の不適切な振る舞いによって生じた悪い印象を和らげようと努めた。しかし政府の急進党側は、一人の閣僚を除いて、今回はラディッチ氏の逸脱行為をそれほどたやすく見過ごす気はなく、急進党内で言われたように、彼のお決まりの声明で満足する気もなかった。そうした声明のあとでは、すべてがまた元どおりになり、ラディッチ氏は自分の態度を少しも変えず、自らの……を和らげることもないであろう……

政府最後の閣議の模様

……閣僚会議の最後の会合で長い演説を行った。閣僚全員が、その演説はきわめて力強く、非常に見事だったと述べた。この演説は、実のところ総辞職の理由を説明するものである。演説の中でウズノヴィッチ氏は、自らの政府を待ち受けていた課題の数々と、政府がそれを果たすためにどれほどの努力を傾けたかを述べた。しかし困難もあった。その困難はまず何よりもSt.ラディッチ氏によるものであり、同氏は自らの行動によって、政府の落ち着いた、より実りある仕事を不可能にした。ここでウズノヴィッチ氏は、ラディッチ氏のこれまでの逸脱行為をすべて列挙し、とりわけザグレブの鉄道……での最新の逸脱行為を強調した……

解説

ウズノヴィッチが1926年に首相となった経緯

ニコラ・ウズノヴィッチは、第二の記事が伝える演説の時点で、首相に就いてからまだ半年しかたっていなかった。急進党を長く率いたニコラ・パシッチは汚職スキャンダルに直面して1926年4月に辞任に追い込まれ、ウズノヴィッチが1926年4月8日に首相に就任した。ウズノヴィッチの政府は、急進党とステパン・ラディッチのクロアチア農民党との権力分担の協力に支えられており、ラディッチは教育相を務めていた。『ポリティカ』紙は、10月の総辞職をこの協力関係の内部の緊張の結果として描いている。同紙の記事によれば、政府危機は二日前から事実上始まっており、ウズノヴィッチは最後の閣議で、政府の落ち着いた仕事を妨げた責任をラディッチに帰した。ウズノヴィッチはこの総辞職のあとも首相の座にとどまった。ウズノヴィッチは党内の対立と短命な政府の交代を抱えながら1927年4月17日まで在任したため、見出しが予告した新たな連立も、ウズノヴィッチのもとで組まれたことになる。

1925年選挙後に急進党がラディッチと組んだ理由

1926年10月に総辞職に至った連立は、少し前まで激しく対立していた二つの政党を結びつけたものだった。1925年2月の選挙で人民急進党は315議席中123議席を得て第一党の地位を保ったが、過半数に必要な158議席には届かなかった。ラディッチの党は、執行部全員が獄中にあったにもかかわらず67議席を獲得した。クロアチア農民党はその後急進党と合意を結び、この合意は権力分担の取り決めと党幹部の釈放を定めた。クロアチア農民党は議会の全体会議の場で中央政府、国王の統治、ヴィドヴダン憲法を承認し、ラディッチ自身は教育相に就いた。第一の記事の調子は、この経緯を踏まえると理解しやすい。『ポリティカ』紙の記事によれば、急進党の閣僚は一人を除いてラディッチのたびたびの釈明をお決まりの声明とみなし、そのあともラディッチの振る舞いは何も変わらないと考えていた。

ベオグラードの体制に反対してきたラディッチの経歴

急進党がラディッチの逸脱行為に苛立った背景には、長い経緯があった。ラディッチは生涯を通じて統合に反対し、のちには王国におけるセルビア人の支配に反対した。ラディッチは1924年7月1日に自党がクレスティンテルンに加わると宣言し、中央集権派と君主制支持派はその後、ラディッチを共産主義と反国家活動のかどで非難した。1925年2月の選挙の時点で、ラディッチの党の執行部は全員が獄中にあった。急進党側から見れば、ラディッチは政府に加わったあとも逸脱行為をやめなかった。二つの抜粋は、急進党側が10月の危機をラディッチ個人の振る舞いの問題として描いたことを示しており、ウズノヴィッチはラディッチの逸脱行為をすべて挙げ、ザグレブの鉄道駅での最新の一件を強調した。抜粋そのものは、ラディッチが駅で何を言い、何をしたのかを記していない。この一件の描き方は、『ポリティカ』紙が伝えた政府側の見方である。

急進党とラディッチの協力関係の終わり、1926–1929年

急進党とラディッチの協力関係は、10月の危機から数か月で終わった。ラディッチの伝記記事によれば、権力分担の取り決めは急進党党首ニコラ・パシッチが1926年12月10日に死去したあとに打ち切られ、ラディッチは大臣職を辞して野党に戻った。1925年選挙の記事は、クロアチア農民党が政権離脱を決めたあと、ウズノヴィッチが1927年4月に首相を辞任したと記している。二つの記事は決裂の時期をやや異なって記しているが、どちらも決裂を『ポリティカ』紙が報じた危機の少しあとに置いている。この決裂のあと、両者の対立は内閣の組み替えを超えて深まった。1928年6月20日、急進党の議員プニシャ・ラチッチが国民議会でラディッチを銃撃した。この暗殺はクロアチア人とセルビア人の溝をさらに深め、議会制度の崩壊を招いた。国王アレクサンダル1世は1929年1月6日に議会を解散し、憲法を廃止した。

原文

ПРЕД НОВОМ КОАЛИЦИЈОМ

јали тако да је било јасно, и ми смо то у своје време одмах и констатовали, да мора доћи до оставке владе. Још пре два дана стварно отворена је криза владе када су отпочела дуготрајна саветовања у влади која је због тога морала да остави на страну сва друга толико важна и хитна питања. Радићевци су се трудили да ублаже рђав, утисак који је добивен неупутним понашањем г. Радића, али радикални део владе, с изузетком једног члана владе, није био вољан да овога пута тако лако пређе преко испада г. Радића и да се задовољи, како је то речено у радикалним редовима, његовим шаблонским изјавама после којих би опет било све по старом и после којих г. Радић не би променио ни мало своје држање нити умерио своје

КАКО ЈЕ БИЛО НА ПОСЛЕДЊОЈ СЕДНИЦИ ВЛАДЕ

њој последњој седници министарског савета одржао један дуг говор за који су сви министри казали да је био изванредно јак и врло леп и који у ствари садржи мотивацију оставке. У своме говору г. Узуновић је изнео какви су све задатци очекивали његову владу и колико је она напора унела да би их извршила. Али је било тешкоћа и то у првом реду од стра на г. Ст. Радића који је својим поступцима онемогућио спокојан и плоднији рад владе. Ту је г. Узуновић побројао све досадашње испаде г. Радића подвлачећи нарочито његов последњи испад на загребачкој желез -

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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