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時報

時報は1926年10月13日の紙面で、北伐軍による武昌陥落と江西での孫伝芳との戦いを伝えた。江西の記事は、南軍が双十節に南昌方面で動き、孫伝芳が自ら決戦を指揮するつもりだと報じた。同じ記事は捕虜の話として、蒋介石の主力が何度も損害を受けたとも伝えた。漢口通信は、武昌守備隊の講和申し入れを革命軍側が退け、城内で糧食が尽きて略奪が広がり、劉玉春が略奪者を斬首した経過を記した。三つ目の記事は、押収した銃砲が漢口へ運ばれ、陳銘樞が武漢の職に就き、慈善団体の委員会が埋葬を始めたと報じた。

この版は、一部しか判読できない1926年10月13日付時報の紙面から三つの抜粋を訳している。紙面は端が切れて黒ずみ、広告と部隊表の細かい活字はにじんでいる。機械で読み取った文字は順序が乱れて誤字も多いので、抜粋は紙面の画像から書き起こしている。判読できない箇所は [?] で示している。第二の抜粋の冒頭は隣の段の断片がつながっているとみられ、文の切れ端としてしか読めない。決と决などの一部の字形は確定していない。

翻訳

江西方面、和戦両説

◎ 江西方面、和戦両説 ◎ 南軍は昨日の双十節に転 [?] したもようで、南昌の戦線はにわかに緊迫している。孫伝芳は自ら前線に赴いて戦闘を指揮するつもりで、両軍主力の決戦は [?] ここ数日のうちにある。(九江十一日東 [?] ◎ 当地のある方面が受け取った九江十一日発の [?] によれば、南昌へ送られた南軍の捕虜は、蒋介石が新たに督戦し、その主力軍は数回損害を受けて [?] されたが、聯軍が徹底して追撃しなかったため、残った部隊を整理することができ、最も [?] と話している。

武昌和約交渉の経過

[?] 江西省へ運ばれ、派遣されてきた第二師の綿軍服局局長は、前線の軍事が急を要するため、[?] まず一部を江西経由で九江へ運ばせた。緊、孫伝芳はすでにそれぞれ江西へ来て、後方の設置を計画している。同校はやむなく、ただ……するほかなく、敗残兵が入り込んだが、その多くは市に駐屯する沈連であった。同密院は軍米を買い付け、重砲を艀に積み込み、長江下流へ向かおうとしたが、漢陽兵工廠に見つかり、兵工廠はただちに砲撃し、武昌城内も応射した。[?] 城の計画は、これによって、のちに調停者がふたたび交渉に奔走していたところ、今朝四時、城内の北軍が、城……して南軍を迎えた。
◉ 武昌和約交渉の経過 漢口通信。武昌の北軍の講和申し入れはすでに何度も二転三転しており、党軍はそれを見抜いていた。そのため、陳嘉謨と劉玉春の代表が二度目に長江を渡ってきたのち、党軍は彼らにまったく誠意がなく、渡江を口実に各方面の情勢を探り、攻撃を引き延ばそうとしていると知った。だから、改編問題に言及する者が時折いても、革命軍総司令部行営主任の鄧 [?]、総指揮の唐生智、第十五軍長の劉佐龍はいずれもこれを厳しく拒んだ。[?] 七、八、九日に、陳と劉は李開侁と羅之藻の二人に頼んで党軍と交渉させたが、鄧と唐に拒絶された。劉らは当時まだ、下流の孫の諸軍が救援に来ると考え、少しも焦っていなかった。一日たつと、援軍がもはや当てにならないと知り、城中の糧食も尽き、孫建業、宋大霈の各部隊がまた彼らに食糧を要求した。応じる手立てがなく、そこで略奪が行われた。略奪がもっとも盛んだったとき、劉は禁止の命令を出したが、当時 [?] 抑えきれなかった。城内から逃げ出したある人物によれば、劉は自ら大刀隊を率いて出向き、略奪者数人を斬首した。劉が営舎に戻ると、各軍の将校がみな劉に食糧を求めた

革命軍占領後の武昌

中五師九旅は、出動して戦った結果、死傷四、負傷五千、その他の潰走は千前後、負傷一千以上、潰走四千。南昌を守り、鄧は南軍と通じた。[?] 岳思寅代理師長は南軍と通じた。隊は完全に潰敗した。なお陽湖がおり、南軍と通じた。その後、総指揮部は省議会に置かれ、各 [?](十一)日、また(十二)日に武昌へ移った。[?] 師長陳冲、旅長于信臣はいずれも [?] 会。陳嘉謨は変装して潜伏したと聞く。[?] 中、北兵から押収した銃砲は多くが漢口へ運ばれた(漢口十一日午後)内外。◎ 蒋介石は陳銘樞を武漢 [?] に任じ、陳は眞(十一)日に省署で就任し、兵を派して城の内外を巡回させている。(漢口十一日午後 [?])◎ 唐生智と鄧演達はともに武昌で戦後処理に当たり、布告を出して住民を安心させている。各慈善公共団体が組織した武昌善後委員会は、眞(十二)日に埋葬と救済の業務を実施した。

解説

1か月余りの武昌包囲は10月10日に終わった

時報の漢口通信が描く戦闘は、国民党側が1926年8月に下した決定から始まった。国民党側はこのとき、孫伝芳の南昌を後回しにして、呉佩孚の拠点である武昌を直接攻撃すると決めた。呉佩孚と軍の大半は北の河南省へ逃れたが、城壁に囲まれた武昌に残った部隊は1か月以上持ちこたえた。守備隊は10月10日に降伏し、国民革命軍はこれで湖北省の制圧を終えた。同じ日に、蒋介石の補給を妨げていた省港ストライキも打ち切られ、この日は江西の記事が触れる双十節でもあった。時報の通信は、城内で糧食が尽き、孫建業と宋大霈の部隊が食糧を求め、略奪が起きた経過を伝えている。劉玉春が大刀隊を率いて略奪者を斬ったという話は、城から逃れた名前の分からない一人の証言に基づく。降伏そのものは確かな記録に残っているが、斬首の場面を裏づけるのはこの一人の話だけである。

守備隊の改編条件は拒まれたのか、合意されたのか

時報の漢口通信は革命軍側の強硬な姿勢を強調している。通信によれば、鄧、唐生智、第十五軍長の劉佐龍は北軍守備隊の改編の話を厳しく拒み、7日から9日に送られた使者も退けた。同じ時期のアメリカの外交報告は、合意が成立したと記録している。在漢口アメリカ総領事は10月9日の電報で、武昌降伏の条件について北軍と南軍の指揮官が合意し、小火砲の撤去と処分だけがまだ争われていると伝えた。総領事によれば、条件は武装した北軍兵を劉佐龍将軍の下の南軍に編入し、給与を保証する内容だった。時報は以前の交渉で拒否した場面を描き、総領事は9日午後の交渉状況を報告しているので、二つの記述は矛盾しない可能性がある。判読できる記事は最終的な取り決めの前で途切れているが、冒頭の断片は、調停者がふたたび交渉に奔走するなかで城内の北軍が南軍を迎えたと記している。

孫伝芳の江西戦線と和平の噂

江西の記事にある聯軍は孫伝芳の連合軍を指す。孫伝芳は1925年から江蘇、浙江、福建、安徽、江西の五省に支配を広げ、最盛期には20万人を超える軍を率いた。広州政府は孫伝芳に不可侵協定を持ちかけたが、孫伝芳は自分の政権を国民党の支配下に置くことを拒んだので、蒋介石は9月に江西へ攻め込んだ。国民党軍は孫伝芳の部将である頼世璜の寝返りにも助けられ、9月19日までに九江と南昌を手に入れた。孫伝芳は9月21日に南京から援軍を率いて到着し、国民党軍を押し戻した。記事が捕虜の話として伝える蒋介石の主力の度重なる損害は、この後退が背景にあるとみられる。アメリカ総領事は10月9日の電報で、九江の情勢は変わらず、撤兵もなく、孫伝芳はまだ港の船上にいると報告した。この報告は、孫伝芳がこれから前線へ赴くつもりだという時報の記事と合っている。第三の抜粋にある部隊の一覧は南昌に触れ、指揮官が南軍と通じたと何度も記しており、同じ寝返りの流れを示している。和平の見通しは実現せず、孫伝芳の軍は10月末までに江西と福建でふたたび退却していた。

降伏後の武昌を誰が治めたか

時報の第三の抜粋によれば、蒋介石は陳銘樞を武漢の職に任じたが、その職名は紙面で判読できない。陳銘樞は11日に省署で就任し、兵を出して城の内外を巡回させた。同じ記事は、唐生智と鄧演達が戦後処理に当たり、慈善団体が組織した善後委員会が埋葬と救済を始めたと伝えている。陳銘樞は広西省合浦出身の客家で、保定軍官学校を卒業し、北伐に参加した軍人である。陳銘樞はのちに、1931年12月に蒋介石が退いた後、短期間首相を務めた。この記事は、北伐の現地指揮官が武昌の統治を始め、軍の巡回が治安を保ち、民間の慈善団体が死者を埋葬した様子を伝えている。陳銘樞の任命と委員会の活動は、時報の報道だけが伝えている。

原文

贛方和戰兩說

◎ 贛方和戰兩說 ◎ 南軍於昨日雙十節似已轉 [?] 南昌戰線、 遽形緊張、 孫傳芳擬親赴前線督戰、 兩軍主力之決戰 [?] 在此數日內、 (九江十一日東 [?] ◎ 據本地某處所接九江十一日發 [?] 送往南昌之南軍被俘者言、 蔣介石新督戰、 其主力軍數次受損失、 被 [?] 然聯軍未事窮追、 遂得整理餘部、 最 [?]

武昌和約商洽之經過

[?] 運赴贛省、 分發來之第二師棉軍服局局長、 以前方軍事緊急、 [?] 先派一部份過贛運往九江、 緊、 孫傳芳已分別源來贛、 籌設後方、 該校無奈、 祗得的、 潰兵竄入、 惟多係市駐屯沈連、 該密院、 採辦軍米以及重砲運上駁船、 擬開往長江下游、 但爲漢陽兵工廠所見、 立即開砲、 武昌城中亦還擊、 [?] 城計劃、 因以、 後調人方再忙於接洽時、 今晨四時、 城中北軍、 城以迎南軍、 ◉ 武昌和約商洽之經過漢口通信、 武昌北軍請和、 業經迭次反覆、 爲黨軍所悉、 故自陳嘉謨劉玉春代表二次渡江之後、 黨軍知其絕非誠意、 並欲藉此渡江視各方情形、 延緩攻擊、 故偶有人言及改編問題、 革軍總司令部行營主任鄧 [?] 總指揮唐生智、 十五軍長劉佐龍均嚴拒之、 當上 [?] 七八九日陳劉曾請李開侁羅之藻二人向黨軍接洽、 經鄧唐拒絕、 劉等當時、 尚以爲下游孫諸軍、 來援、 並不着急、 迨至一日以後、 知援軍已不可恃、 中糧又盡、 孫建業宋大霈各部復向之索食、 無以應乃行搶刼、 當搶刼盛時、 劉曾下令禁止、 但當時 [?] 不住、 據城中逃出之某君云、 劉曾親率大刀隊出面、 斬決搶刼者數人、 回營後、 各軍軍官皆向劉索食

革軍佔領後之武昌

中五師九旅、 出動戰之結果、 死傷四傷五千、 其他潰走千左右、 狀傷一千以上、 潰走四千、 守南昌、 鄧與南軍通、 [?] 岳思寅代理師長與南軍通、 隊、 完全潰敗、 尙有陽湖、 與南軍通、 後、 總指揮部設省議會、 各 [?] (十一) 日又 (十二) 日移武昌、 [?] 師長陳冲、 旅長于信臣、 均被 [?] 會、 聞陳嘉謨改裝潛匿、 [?] 中、 北兵所繳槍砲、 多運漢口 (漢口十一日下午) 內外、 ◎ 蔣介石任陳銘樞爲武漢 [?]、 陳眞 (十一) 日在省署就職、 派兵巡城內外、 (漢口十一日下午 [?]) ◎ 唐生智鄧演達均在武昌辦理善後、 出示安民、 各善公團所組之武昌善後委員會、 眞 (十二) 日實行掩埋接濟事宜、

紙面の出典:Source: Internet Archive / eastasia-periodicals

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