London Evening Advertiser
- 衝突事故で列車乗務員らを処分
- ゴドリッチの製粉所で男性が窒息死
- 健康と勤勉が基準と大臣、ただし門戸は開いている
1926年10月13日付のロンドン・イブニング・アドバタイザー紙は、9月18日にケント・ブリッジ付近で起きたカナダ太平洋鉄道の貨物列車死亡事故の続報を載せた。同紙は、会社の調査がまだ終わっておらず、運転指令係ダンカン・マッキンタイアと旅客列車の機関士ジョージ・R・ブランチャードが勤務に戻っていないと報じた。同紙は、列車指令を扱ったチャタムとボスウェルの通信士2人が持ち場に就いていることも伝えた。ゴドリッチ発の特報は、ウェスタン・カナダ製粉所の作業員ジョージ・ランドールがふすま貯蔵槽で窒息死し、検死陪審が10月18日まで休廷したと伝えた。カナディアン・プレスの記事は、新任の移民・植民大臣ロバート・フォークがマニトバ自由党協会の晩餐会で、健康で働く意欲があれば出身地を問わず移民を歓迎すると述べたと報じた。フォークは鉄道近くに無償の土地がもう残っていないとして、大土地所有者に入植者を公正に扱うよう求めた。
この版は1926年10月13日付の紙面から3本の記事を扱う。主見出し、フォークの記事の副見出し、中国系住民への敵意を伝える記事など、画像の区切りをまたぐ見出しは途中で切れている。見えなかった部分は補っていない。紙面右下の一部の文字は傷んでおり、外側の段は端が切れている。3本の抜粋はいずれも文の途中で終わり、フォークの記事は語の途中から始まる。参照できた資料は、CPRの調査の結論や、マッキンタイアとブランチャードが復職したかどうかを示していない。資料はオンタリオの製粉所の安全状況や規制にも、西部で出た「ラテン系」移民制限の要求にも触れていない。そのため解説はこれらの問いに答えていない。
翻訳
衝突事故で列車乗務員らを処分
[?]9月18日土曜日午前6時45分にC.P.R.のケント・ブリッジ付近で起きた、死者を出した貨物列車事故について、会社による調査はまだ完了していないとみられる。その間、事故前夜に勤務していた従業員2人の停職処分は引き続き効力を持っている。地区監督F・M・ラター氏の事務所で調査が行われていた際、鉄道員たちから得た証言がすべて徹底的に精査されるまで、公式声明は出されないと発表された。事故当夜に勤務していた運転指令係ダンカン・マッキンタイアは、調査が終わるまで一時停職とされ、それ以来職場に戻されていない。不運な東行き貨物列車への指令を運んだ旅客列車の機関士ジョージ・R・ブランチャードも、勤務に復帰していない。
持ち場に就く通信士たち。
列車の運行に関する列車指令を扱った、チャタムの夜間通信士ジョージ・マッケイとボスウェルの電信通信士アルバート・ダーラムは、どちらも明らかにまったく落ち度がないと判断されたようで、それぞれの持ち場に就いている。ブランチャードの機関助士チェスター・「チャム」・ラトリッジは、伝えられるところでは
ゴドリッチの製粉所で男性が窒息死
3年前にオンタリオ州マーリンからゴドリッチへ移った。
本紙特報。
ゴドリッチ、10月13日――ゴドリッチのニューゲート通りに住むジョージ・ランドールが、今朝7時15分、ウェスタン・カナダ製粉所で死亡した。製粉所のふすま貯蔵槽の中で窒息死したのである。事故当時ランドールは一人で作業しており、転落の実際の原因を目にした者はいない。事故が見つかるとすぐにマーティン医師が呼ばれて手当てに当たったが、負傷者はすでに手の施しようがなかった。検視官A・C・ハンター医師も呼ばれ、のちに検死解剖を行った。陪審は予備審理を開き、10月18日月曜日まで休廷した。
ジョージ・ランドールはゴドリッチに約3年住んでいた。彼はオレンジ結社の有力な会員で、ゴドリッチのヴィクトリア支部に所属していた。彼は以前マーリンに住んでおり、
健康と勤勉が基準と大臣、ただし門戸は開いている
……自由党政府の移民・植民大臣は、昨夜当地で開かれた晩餐会で演説し、移民を求めており、心身ともに健全で働く意欲があるなら、どこから来たかは問わないと言明した。晩餐会はマニトバ自由党協会の主催で開かれた。
フォーク氏によれば、西部の状況は、入植者に提供できる無償の土地区画があった時代とは大きく異なっている。そうした状況は今日ではもはやなく、少なくとも鉄道から無理のない距離の範囲には、移民に提供できる無償の土地はない。したがって、取り組まなければならない問題の一つは、新しい条件の下で移民をいかに魅力あるものにするかである。
公正な価格を求める。
「今夜私が伝えたいメッセージが一つある」とフォーク氏は述べた。「大量の土地を保有している人々に言いたい。私は、彼らがやって来る移民に対して、……の面でできる限り妥当な扱いをしてくれることを願っている
解説
運転指令係・通信士・列車を結んだ列車指令の仕組み
ケント・ブリッジの記事に名前が出る人々の役割は、当時の列車運行の仕組みを知ると理解しやすい。当時の北米の鉄道は、単線の本線に待避線を設けた路線で、時刻表と列車指令による運行方式を広く用いていた。この方式では、列車は時刻表に従って走り、運転指令係が現地の中継者を通じて伝える列車指令が時刻表に優先した。指令を受けた通信士は複写式の用紙に指令を書き写し、運転指令係に復唱して内容が正確かどうかを確かめた。アドバタイザー紙の記事は、この連鎖のほぼすべての段階で人の名前を挙げている。記事によれば、運転指令係ダンカン・マッキンタイアが事故当夜に勤務し、チャタムとボスウェルの通信士が指令を扱い、機関士ジョージ・R・ブランチャードの旅客列車が東行き貨物列車への指令を運んだ。責任が複数の人に分かれていたため、会社は誰に落ち度があったかを決める前に、一人ひとりの証言を精査する必要があった。10月13日の時点で同紙が伝えたのは、通信士2人が持ち場に就いており、マッキンタイアとブランチャードが復職していないという処遇だけである。同紙は調査の結論をまだ報じていない。
ロバート・フォークの経歴と自由党の場で演説した理由
ロバート・フォークは政治家になる前は農民だった。フォークは1882年にマニトバへ移り、パイプストーン近くで農業を営んだ。1922年にトマス・クレラーが退くと、フォークは進歩党の党首に選ばれた。1926年の選挙で、マニトバの進歩党は自由党と選挙協力を結び、「リベラル・プログレッシブ」の公認で7人を当選させた。この協力関係は1926年9月25日に固まり、フォークはリベラル・プログレッシブ議員団の同意を得て移民・植民大臣に任命された。この記事が伝える晩餐会は、任命から3週間足らずで開かれたことになる。元進歩党党首がマニトバ自由党協会の主催する場で演説し、記事が彼を自由党政府の大臣と呼んだのは、こうした経緯があったからである。見出しは、移民の条件として健康と勤勉を挙げ、出身地は問わないという二つの点を示した。この二つの点は、農民出身の大臣が任期の初めに打ち出した立場を表している。
フォークの開放方針の背景にある1925年の鉄道協定
フォークが移民の出身地を問わないと述べたとき、その方針は彼の政府がすでに採っていた政策と一致していた。マッケンジー・キング政府は1925年9月、カナダ太平洋鉄道およびカナダ国有鉄道と協定を正式に結んだ。この協定により、鉄道会社は、カナダがそれまで非優先国としていた国々から農業入植者を募集できるようになった。1925年から1929年までに、18万5000人を超える中欧出身者がこの協定のもとでカナダに入国した。この政策は反発を招いた。反対者は、中欧からの移民が増えれば賃金が下がり、国のイギリス的な性格が薄れると懸念した。フォークの演説は、こうした新来者をどう定住させるかという実際の問題にも触れている。同紙によれば、鉄道から無理のない距離の範囲には、無償で入植できる土地がもう残っていなかった。そのため入植者は土地を買わなければならず、その価格が新生活を始められるかどうかを左右した。フォークが大土地所有者に移民を妥当に扱うよう求めたのはこのためである。
オンタリオ州ゴドリッチに「ウェスタン・カナダ」の製粉所があった理由
ジョージ・ランドールが亡くなったウェスタン・カナダ製粉所は、オンタリオと平原州の両方に事業を持つ大きな製粉会社だった。この会社は1905年5月1日、ブランドンを拠点とする製粉事業がレイク・ヒューロン・アンド・マニトバ製粉会社と合併して生まれ、ウェスタン・カナダ製粉会社と名乗った。ヒューロン湖に面したゴドリッチにあるこの会社の穀物加工工場は、1日に2,000バレルの小麦粉を生産できた。この会社はマニトバ州ブランドンにも製粉所を持ち、平原州各地に農村の穀物エレベーターを所有していた。1940年に売却した時点でも、マニトバに41基、サスカチュワンに20基、アルバータに15基が残っていた。西部の名を持つ会社がオンタリオの湖港で大きな製粉所を動かしていたのは、こうしたつながりがあったからである。アドバタイザー紙の記事は、ランドールが一人で作業しており、ふすま貯蔵槽への転落を誰も見ておらず、検死陪審が10月18日まで休廷したという、事故直後の事実だけを伝えた。
原文
Discipline Trainmen For Crash
[?] concerning the fatal freight wreck which occurred near Kent Bridge on the C. P. R. at 6: 45 a. m. Saturday, Sept. 18, it is understood that the investigation by the company has not yet been completed. In the meantime suspension of two employees who were on duty during the night before the accident is still in force. When the investigation was being carried out in the offices of F. M. Rutter, divisional superintendent, it was announced that no official statement would be forthcoming until all the evidence taken from the railroadmen had been thoroughly sifted. Despatcher Duncan McIntyre, who was on duty the night of the accident, was temporarily suspended pending the investigation and has not been taken back on the staff since. George R. Blanchard, engineer of the passenger train which carried orders to the ill-fated eastbound freight, has not been returned to duty. Operators at Posts. Both George McKay, night operator at Chatham, and Albert Durham, telegraph operator at Bothwell, who handled train orders in respect to the movement of the trains, were evidently found entirely blameless, for they are at their respective posts. Chester " Chum " Routledge, fireman for Blanchard, is understood to have
MAN SMOTHERED IN GODERICH MILL
Went to Goderich From Merlin, Ont., Three Years Ago. Special to The Advertiser. Goderich, Oct. 13. - George Randall, of Newgate street, Goderich, was killed this morning at 7: 15 at the Western Canada Flour Mills, meeting death by suffocation in a bran bin in the mill. Randall was working alone at the time of the accident, no one seeing the actual cause of his fall. Dr. Martin was called to render medical aid as soon as the accident was discovered, but the injured man was beyond aid. Coroner Dr. A. C. Hunter was also called and later performed a post mortem. A jury held a preliminary sitting and adjourned till Monday, Oct. 18. George Randall had lived in Goderich about three years. He was a prominent member of the Orange Order and associated with Victoria Lodge, Goderich. He was a former resident of Merlin,
HEALTH, INDUSTRY TO GUIDE, HE SAYS; BUT MIND IS OPEN
ister of immigration and colonization in the Liberal Government, declared that he wanted immigrants and did not care where they came from if they were sound of body and mind and were willing to work, when speaking at a banquet here last night. The banquet was held under the auspices of the Manitoba Liberal Association. The situation in the West was very different from what it was in the time when there were free blocks of land to offer to settlers, said Mr. Forke. That condition did not exist today, and there was no free land to offer immigrants, at least within reasonable distance from railways. One of the problems that had to be dealt with, consequently, was how to make immigration attractive under the new conditions. Urges Fair Prices. " There is one message that I have to express tonight, " said Mr. Forke, " and I want to say to those who hold large quantities of land, that I hope they will deal as reasonably as possible with the immigrants who come in the matter of
紙面の出典:所蔵機関のデジタル資料