L’Écho annamite
- コーチシナのアンナン人有権者諸君へ
- インドシナ大学の入学はスポイトで一滴ずつ
- トンキンの洪水被災者を救うために
『レコー・アンナミット』のこの日の1面は、ブイ・クアン・チエウとグエン・ファン・ロンを筆頭とする立憲派の候補者たちが、コーチシナのアンナン人有権者にあてた礼状を冒頭に掲げた。署名者たちは、有権者がほぼ全会一致の票で自分たちの名簿を丸ごと植民地評議会へ送ったと述べ、批判者はもう自分たちを少数派とは呼べないと宣言した。署名者たちはまた、これからの闘いに向けて有権者との密接な接触を保つよう求めた。アンナン人学生の一団が署名した投書は、ハノイのインドシナ大学で8月19日に新設された入学試験を攻撃した。学生たちは、公教育局が受験者の志望校を無視したため、師範学校を志望した教員が別の学校に回されたと訴えた。通信員はトンキンの洪水について、何千人もの人々が飢えていると伝え、災害で利益を得る者たちを告発し始めた。
翻訳
コーチシナのアンナン人有権者諸君へ
親愛なる同胞諸君
諸君は、投じられた票のほぼ全会一致に相当する堂々たる得票によって、われわれの一団をそっくりそのまま植民地評議会へ送り出し、そこで諸君の利益を守らせることにした。この一団がまとまっていること自体が、何よりもまず規律と活力の保証である。諸君に感謝する。
諸君のおかげで、われわれを中傷する者たち、つまり結局は諸君を中傷する者たちは、つい昨日まで言っていたように、われわれがごく少数派しか代表しておらず、われわれが諸君の名において掲げる要求は諸君の感情や願いを表すものではまったくない、などとはもう言えなくなった。
諸君がこれほど高らかに示してくれた信任のしるしを、われわれは誇ってもよいだろう。しかしわれわれは、その功を諸君の明敏さに帰する。われわれ自身は、そこから何よりも有益な教訓をくみ取る。そして義務を果たしているというわれわれの思いは、それによって強まり、いっそう重くわれわれの良心に迫ってくる。
これからの闘いの気のめいる時間にわれわれの勇気を支えるためにも、またどんな場合にもわれわれが諸君の忠実な代弁者でいられるようにするためにも、実りある行動に必要な考えの共有を保つ接触を、諸君とわれわれとの間で保ち続けてほしい。
あらためて感謝する。さあ、仕事に取りかかろう!
BUI-QUANG-CHIEU、NGUYEN-PHAN-LONG、TRUONG-VAN-BEN、NGUYEN-TAN-DUOC、LE QUANG-LIEM(通称BAY)、NGUYEN-VAN-BUOT、NGO-VAN-HUAN、HUYNH-NGOC-BINH、TRAN-VAN-DON、NG.-VAN-THINH
社会党員ヴァレンヌとタラマの治下で
スポイトで一滴ずつの入学
インドシナ大学の入学はスポイトで一滴ずつ
……「免状」よりも、である。つまり、最後に大学への入学を容赦なく拒まれるためなら、雑多きわまる学校の課程で二年間もむだに頭を鈍らせる必要などない、ということだ。
実際、今年は8月19日に「インドシナ大学入学試験」と称する選抜試験が設けられ、ハノイの各高等専門学校の新入生が募集された。受験者は出願書類の中で、どの学校で勉強を続けたいかをあらかじめ書くことになっていた。この手続きは、たしかに初めのうちは有益で良識にかなっていたが、試験が終わったあとではむなしいものになった。公教育局のお歴々が、学生志望者たちが出願書類に書いた志望校をまったく考慮しないからである。
こうして、ほかにも数ある例の中から挙げる二つの象徴的な例だが、師範学校への入学を希望していた二人の小学校教員は、試験に合格したあとで自分たちに押しつけられたのが……であることに気づき、たいへん驚いた。
トンキンの洪水被災者を救うために
誰もが知っているとおり、トンキンの何千人もの同胞が先ごろの洪水の被害を受け、日々ありとあらゆる悲惨な窮乏にさらされ、文字どおり飢え死にしつつある。どれほど慈悲心の乏しい者でも、こうした苦境を思えば胸が締めつけられ、不幸な同胞を迷わず救おうとする。
ところが嘆かわしいことに、何からでも、他人の破滅や死からさえも利益を引き出せる人間がいる。彼らの行いはあまりに卑劣で、しかもあまりに厚顔に行われるので、私はこの記事を書かずにはいられない。私が書くのは彼らを世間の罵倒にさらすためではない。そんなことは何があっても望まない。そうではなく……
解説
有権者への礼状に署名した人々
礼状の署名はブイ・クアン・チエウとグエン・ファン・ロンから始まる。この二人はコーチシナの立憲党の党首と副党首であり、礼状はその一人と結びついた新聞に載った。グエン・ファン・ロンは1920年に自由主義の新聞『レコー・アンナミット』を創刊した。ロンは1920年代から1930年代にかけて、1923年に創設されブイ・クアン・チエウが率いた民族主義政党、インドシナ立憲党の副党首を務め、自身も植民地評議会議員に選ばれた。したがってこの礼状は、立憲党が副党首の新聞に載せた勝利宣言である。礼状は、名簿の全員が投票のほぼすべてを得て植民地評議会に入ったと主張している。礼状はさらに、この結果を、立憲派をごく少数派と呼んだ批判者への反論として扱っている。得票の規模やほぼ全会一致という表現は署名者たち自身の言い分であり、礼状は具体的な数字を示していない。
1926年の立憲派にとって民意の裏づけが重要だった理由
礼状は、中傷する者たちはもう立憲派を少数派とは言えないと強調した。この強調は、1926年春のサイゴンの騒然とした情勢を踏まえると理解しやすい。ブイ・クアン・チエウがフランスから戻った日は、急進派の言論人グエン・アン・ニンが逮捕された1926年3月21日と重なった。ニンに判決が下ると、サイゴンと周辺地域の学生や児童が一斉に授業を放棄し、そのうち1000人を超える者が退学処分を受けた。帰国したチエウに付き従ってサイゴンの街を進んだ群衆でさえ、「グエン・アン・ニンを釈放せよ」と叫んでいた。礼状が感謝する選挙で明確な勝利を収めたことで、ブイ・クアン・チエウの一団は、自分たちにも民衆の支持があると主張できるようになった。学生と植民地の教育制度との緊張は、同じ紙面のインドシナ大学をめぐる投書にも表れている。
インドシナ大学とはどんな機関で、なぜサイゴンの新聞が取り上げたのか
ハノイのインドシナ大学は、フランスが1906年と1917年の二度にわたって設立した機関であり、主に両大戦間期に発展した。再建された大学は、医学、土木、行政、教育、農林の五つの学校で構成された。このうち教育の学校が、学生の投書に登場する二人の小学校教員が入学を望んだ師範学校にあたる。南部の学生は少数派であり、学ぶためにはハノイまで出向く必要があった。この記事の3年後にあたる1929年には511人の学生が大学に在籍し、その約半数がトンキン出身、約4分の1がコーチシナ出身だった。そのため、ハノイの公教育局が実施する入学試験は、サイゴンの読者にとっても不満の種になった。投書の小見出しは、この仕組みの責任を「社会党員ヴァレンヌとタラマ」に負わせている。この責任の帰属も、志望校が無視されたという非難も、投書を書いた学生たち自身の告発である。
原文
Aux électeurs annamites de Cochinchine
Aux électeurs annamites de Cochinchine Chers compatriotes, Par un nombre imposant de voix - qui représente la quasi-unanimité des suffrages exprimés - vous avez envoyé au Conseil Colonial pour y défendre vos intérêts notre groupe tout entier dont l'homogénéité est de prime abord, une garantie de discipline et de vigueur. Soyez-en remerciés. Grâce à vous, nos détracteurs, qui sont en définitive les vôtres, ne peuvent plus dire, comme ils disaient hier encore, que nous ne représentons qu'une infime minorité et que les revendications que nous formulons en votre nom ne sont point l'expression de vos sentiments et de vos aspirations. Nous aurions le droit de nous enorgueillir de la marque de confiance que vous nous avez si hautement montrée. Mais nous en attribuons le mérite à votre sagacité. Pour notre part, nous y puisons surtout d'utiles enseignements et le sentiment que avions d'accomplir un devoir s'en trouve fortifié et s'impose davantage à notre conscience. Autant pour soutenir notre courage pendant les heures déprimantes de lutte à venir que pour nous permettre d'être en toutes circonstances vos fidèles interprètes, nous vous demandons de maintenir entre vous et nous le contact qui assure la communauté d'idées nécessaire à une action féconde. Encore une fois merci, et maintenant au travail! BUI-QUANG-CHIEU NGUYEN-PHAN-LONG TRUONG-VAN-BEN NGUYEN-TAN-DUOC LE QUANG-LIEM dit BAY NGUYEN-VAN-BUOT NGO-VAN-HUAN HUYNH-NGOC-BINH TRAN-VAN-DON NG. - VAN-THINH Sous le régue des socialistes Varenne et Thalamas L'admission au compte-gouttes
L'admission au compte-gouttes à l'Université Indochinoise
que les «diplômes», c'est vous dire que vous n'auriez pas besoin de vous abêtir inutilement pendant deux années sur un programme scolaire des plus hétéroclites pour qu'on vous refuse impitoyablement à la fin l'entrée à l'Université. En effet, cette année, un concours dit «Concours d'admission à l'Université Indochinoise» est institué le 19 Août pour le recrutement de nouveaux étudiants pour les diverses écoles supérieures de Hanoi. Les candidats devaient mentionner d'avance dans leur demande d'inscription l'école à laquelle ils préfèrent continuer leurs études. Formalité, certes, utile et conforme au bon sens au début, mais vainedans la suite après le concours, car Messieurs de la Direction de l'Instruction Publique ne tiennent absolument aucun compte des écoles de préférence indiquées dans leur demande par les aspirants-étudiants. C'est ainsi que deux instituteurs, deux exemples significatifs pris entre plusieurs autres, qui demandaient à être admis à l'Ecole de Pédagogie, s'aperçurent, à leur grande stupéfaction, qu'on leur imposait, après leur réussite au concours,
Au secours des inondés du Tonkin
Au secours des inondés du Tonkin Tout le monde sait que des milliers de nos compatriotes du Tonkin, victimes des récentes inondations, sont exposés chaque jour à toutes les horreurs de la misère et meurent littéralement de faim. Les cœurs les moins charitables se serrent à la pensée de telles détresses et n'hésitent pas à secourir nos frères malheureux. Il se trouve pourtant, hélas! des êtres humains capables de tirer profit de tout, même de la ruine et de la mort des autres. Leurs actes sont si indignes et ils les commettent d'une manière si cynique que je ne puis m'empêcher d'écrire cet article, non pour les vouer à l'insulte publique, ce que pour rien au monde je ne voudrais, mais pour