Politika
- 政府総辞職か?
- N・パシッチ氏の帰還
- 事の次第
1926年10月13日付のポリティカ紙は、一面でベオグラードの内閣危機を大きく伝えた。同紙は、急進党とラディッチ派農民党の連立が危機にあり、ウズノヴィッチ首相の政府がいつ総辞職してもおかしくないと報じた。同紙によれば、ラディッチ氏がザグレブ駅で取った振る舞いとアンジェリノヴィッチ博士の質問が争いの発端だった。同紙は、閣議が途切れ途切れに続き、ウズノヴィッチ首相が自分の執務室で協議を重ねた様子を伝えた。同紙はさらに、首相がトポラへ向かい必ず辞表を出すという知らせと、急進党党首パシッチ氏が緊急にベオグラードへ呼び戻されたことを報じた。
この版は、内閣危機を扱った一面の三つの記事を訳している。画像の左列と中央列の右端で文字が切れているので、いくつかの記事は語の途中で始まるか終わる。訳文中の[?]は判読できない箇所を示す。風刺画の説明文「СЕЗ…ОНСКЕ ВЛАДЕ」は一部しか読めず、一つの画像区画には確実に読める文字がない。この版は一面のそれ以外の記事を扱わない。
翻訳
政府総辞職か?
一昨日に起きたことすべてを踏まえ、政界筋は、急進党・ラディッチ派の連立が危機にあり、ウズノヴィッチ氏の政府が総辞職に至るまであとわずかだという結論を導いた。昨日一日で、連立が実際に危機にあること、そしてウズノヴィッチ氏の政府の立場がひどく揺らいでおり、いつ総辞職が起きてもおかしくないことが確かめられた。問題の口火を切ったのは、周知のザグレブ駅でのラディッチ氏の振る舞いと、アンジェリノヴィッチ博士の質問である。周知のとおり、政府は一昨日まる一日この問題を協議したが、結論を出すことはできなかった。政府は協議を続けることを決め、閣議は昨日の午前八時に予定された。午前十時には国民議会の会[?]が始まることになっていたからである。
N・パシッチ氏の帰還
……トポラ、パシッチ氏のベオグラードへの呼び出し、ウズノヴィッチ氏のトポラ行きは、我々が決着を目前にしており、最終決定までごく短い時間しか残っていないことをはっきり示していた。
N・パシッチ氏の帰還
急進党党首ニコラ・P・パシッチ氏がベオグラードへ戻る。消息筋では、パシッチ氏はただちにベオグラードへ来るよう緊急に呼ばれたと言われている。
昨日早朝
事の次第
……ウズノヴィッチ氏がトポラへ向かい、必ず政府の辞表を提出するという知らせをもたらした。
事の次第
いったい状況はどうなっているのか、どこで行き詰まったのかという疑問が、あらゆる方面から投げかけられた。昨日午前からの経過について、消息筋では次のような情報が得られた。九時少し前に始まった閣議は、切れ目なく続いたわけではなかった。閣僚たちは会議室にいたが、ウズノヴィッチ氏は大半の時間を自分の執務室で過ごした。彼のもとで協議が行われ、[?]は……
解説
ウズノヴィッチが不安定な政府を率いた経緯
ポリティカ紙が総辞職を予想したウズノヴィッチ首相は、1926年春に首相に就いたばかりだった。彼の伝記記事によれば、ニコラ・パシッチは汚職スキャンダルを受けて1926年4月に辞任に追い込まれ、同じ急進党のウズノヴィッチが1926年4月8日に首相となった。同じ記事は、ウズノヴィッチが党内の対立に直面し、彼の下で短命の内閣が次々に入れ替わったと記している。ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日まで続いた。ウズノヴィッチが1927年4月まで首相の座にとどまったので、1926年10月に総辞職があったとしても、彼の首相としての時代はそこで終わらなかったことになる。抜粋された記事は、今回の危機がどう決着したかを伝える前に途切れている。
急進党・ラディッチ派連立が緊張した理由
最初の記事にある急進党・ラディッチ派の連立は、成立して日の浅い、意外な組み合わせだった。ベオグラードの体制に長く反対してきたラディッチのクロアチア農民党は、人民急進党と権力分担の協定を結んだ。農民党は1925年3月27日に議会本会議で中央政府、君主制、ヴィドヴダン憲法を承認し、ラディッチ自身が教育相に就いた。歴史家ラティンカ・ペロヴィッチによれば、ラディッチは入閣後、王宮を中心とする汚職との闘いに乗り出し、国王の側近は宮廷よりも牢獄にいるべきだと述べた。現職の閣僚によるこうした公然の攻撃は連立に緊張をもたらした。ザグレブ駅でのラディッチの周知の振る舞いが政府を揺るがしえたのも、こうした事情を踏まえると理解しやすい。抜粋は、ラディッチが駅で具体的に何を言い、何をしたかを説明していない。
アンジェリノヴィッチ博士とは誰か
ポリティカ紙が危機の発端の一つに挙げた質問の主は、ブディスラヴ・グルガ・アンジェリノヴィッチである可能性が高い。アンジェリノヴィッチはフヴァル島のスチュライで生まれた法律家だった。アンジェリノヴィッチはクロアチア人でありながらラディッチの党には属さず、1919年に新設の民主党に入り、その後まもなくユーゴスラヴィア民族主義者組織にも加わった。同紙は彼の質問をラディッチの振る舞いと並べて争いの出発点として挙げている。抜粋は、その質問の文面を載せていない。アンジェリノヴィッチはのちに1928年から1929年にかけてアントン・コロシェツ内閣の大臣を務め、1929年にユーゴスラヴィア国民党の創設に加わり、1月6日独裁の時期には大使に任じられた。
パシッチの帰還が持った意味
パシッチが呼び戻されたという報道は、急進党内の権威がなお大きくパシッチにあったことをうかがわせる。パシッチは汚職スキャンダルの圧力で1926年4月に首相を退いた。それでもポリティカ紙は彼を急進党党首と呼び、消息筋の話として、危機が深まる中で彼が緊急にベオグラードへ呼ばれたと伝えた。同紙が報じた連立は、パシッチの死後まもなく終わった。急進党とラディッチ派の権力分担は、この号から約2か月後の1926年12月10日にパシッチが死去したのち、打ち切られた。ラディッチはその後政府を離れて野党に戻り、1927年にはスヴェトザル・プリビチェヴィッチと連合を組んだ。抜粋は、誰が何のためにパシッチを呼んだかを伝えていない。
ポリティカ紙のセルビア人・クロアチア人をめぐる論調への評価
クロアチア人指導者の周知の振る舞いを伝えたポリティカ紙は、セルビア人とクロアチア人をめぐる自らの論調について批判を受けてきた新聞である。歴史家ラティンカ・ペロヴィッチは、1928年6月に議会でラディッチらが銃撃されるまでの時期を論じる中で、ポリティカ紙を取り上げている。ペロヴィッチによれば、同紙の編集長ミラン・ガヴリロヴィッチは、彼女が反ユーゴスラヴィア的と呼ぶ編集方針によって、セルビア人とクロアチア人の間の反感をあおった。ラディッチは議会で急進党の政治家プニシャ・ラチッチに撃たれた。ペロヴィッチの評価は1920年代後半の同紙の路線全体に向けたものである。この一面は政界筋や消息筋の見方を伝える形をとり、危機の発端をラディッチの振る舞いとアンジェリノヴィッチの質問に求めている。
原文
Оставка владе?
На основу свега онога што се догодило прекјуче политички кругови навели су закључак да се коалиција радикално радићевска налази у кризи и да треба врло мало па да се дође до оставке владе г. Узуновића. Јучерашњи дан потврдио је да се коалиција заиста налази у кризи и да је положај владе г. Узуновића толико уздрман да до оставке може доћи сваког часа. Питање је отворено познатим држањем г. Радића на загребачкој железничкој станици и интерпелацијом г. др. Анђелиновића. Тиме се, као што је познато влада бавила целог прекјучерашњег дана, али се одлука није могла донети. Влада је била одлучила да своја саветовања настави и седница министарског савета била је заказана за јуче пре подне у осам сати, пошто је у десет сати имала да отпочне седни [?] Народне Скупштине.
ПОВРАТАК Г. Н. ПАШИЋА
Тополом, позивање г. Пашића у Београд, пут г. Узуновића у Тополу показивали су јасно да смо пред решењем и да нас само врло кратко време раставља од коначне одлуке. ПОВРАТАК Г. Н. ПАШИЋА Г. Никола П. Пашић, шеф радикалне странке, враћа се у Београд. У обавештеним круговима тврди се, да је г. Пашић позван хитно да дође одмах у Београд. ЈУЧЕ ИЗЈУТРА
У ЧЕМУ ЈЕ БИЛА СТВАР
нела вест да је г. Узуновић отпутовао у Тополу и да ће сигурно поднети оставку владе. У ЧЕМУ ЈЕ БИЛА СТВАР На свима странама постављано је питање у чему је управо ситуација и где је запело. О току догађаја од јуче пре подне у обавештеним круговима могла су се добити ова обавештења: Седница министарског савета која је отпочела нешто пре девет сати није трајала непрекидно. Чланови владе били су у дворани за седнице али је г. Узуновић највећи део времена провео у своме кабинету. Код њега су држана саветовања; [?] су се за -