時報
- 劉玉春、拘束される
- 革命軍の武昌入城前の情勢
- 各方面の軍事情報
時報は、北伐軍に包囲されていた長江沿いの城郭都市武昌の陥落を早い段階で伝えた。漢口発ロイター電は、10日午後に守備軍の一部が寝返って城門を開き、城の防衛を指揮した劉玉春が外国人経営の大学に拘束され、陳嘉謨も捕らえられたと報じた。東方社電は河南第三師が中和門を開いたと伝え、陳嘉謨が先に逃亡していたという説も併せて載せた。10月8日漢口発の破損の大きい記事は、仲介者が長く続けた武漢和議の交渉と婦女子の救済を伝え、包囲側の署名者として唐生智、劉佐龍、鄧演達の名を挙げた。短い軍事情報欄は、南京の聯軍司令部が敵を撃退したと発表し、江蘇の新兵を前線へ急送させたと報じた。
この版は、紙面の部分的な読み取りから戦況記事3本を訳出している。二本目の10月8日漢口発の記事は文字の並びが乱れた欄から読み取ったもので、冒頭部分は断片的であり、文の途中で途切れている。判読できない文字は訳文中で[?]と表記している。この記事に出る人名の一部は推定による読みである。三本目の記事も印字が薄く、途中で途切れている。紙面の寄付者名簿、くじの当選表、相場表は対象外である。
翻訳
劉玉春、拘束される
▲ 陳嘉謨には拘束説と逃亡説の二説
◎ 武昌は本日午後、南軍の手に落ちた。守備軍の一部が寝返ったためとみられる。守備軍は城門を開いて攻撃軍を迎え入れた。劉玉春は拘束され、現在は武昌の外国人経営の大学内に留め置かれており、今晩漢口へ護送される予定である。陳嘉謨も拘束されたと伝えられる。(漢口十日発ロイター電)
◎ 当地のある筋が入手した漢口十日発の報告によれば、十日に武昌は南軍の手に落ちた。当初は九日に開城する予定だったが、果たせなかった。翌日(十日)、北軍のうち河南第三師が中和門を開き、南軍を城内へ導き入れた。劉玉春は中華書院で捕らえられた。北軍は一人残らず武装を解除され、無条件で降伏した。陳嘉謨はとうに逃亡していたとの説もある。(東方社十一日上海発)
◎ 陳嘉謨は二、三日前から身の危険を感じて民間に潜伏していたが、十日午後、ついに南軍に捕らえられた。
革命軍の武昌入城前の情勢
時刻が来ないうちに城門はたちまち閉ざされ、皆は北軍自身のものだと考えた。城内から出て、救済 [?] 前の情勢(漢口十月八日発)まだ固まらず [?] 進行は緩和し、劉玉春も以前ほどではなく、方面は婦女子に門を開いた。援軍の望みもすでに絶えたためである。先日は武昌城の東三十里の青山(地名はなお武昌に属する)であった。その他はすべて承認したという。
対岸からの書簡によれば、武漢の和議は九日以前に必ずまとまる見込みであり、これは前便で見たとおりである。このたび、和議の条件に双方がすでに署名したことが分かった。漢口側で署名したのは唐生智、劉佐龍、鄧演達の三人、武昌側は陳嘉謨、劉玉春、朱大霈ら五人である。武漢の和議を振り返ると、呂超伯、徐栄廷、趙典之、王縄高、呉幹丞、童資秋、徐是法らが手分けして進めて以来、たびたび挫折を重ね、表向きは停滞しているように見えても、実際の進行は少しも緩んだことがなかった。しかも皆が一歩ずつ譲ることが望まれ、やむを得ない場合でも婦女子救済の問題と同時に解決すべきだとされていた。趙典之、王縄高の両代表が最後の折衝を行う前には、李開侁、汪 [?] [?] の諸氏が表に立つという協議もあった。結局は情勢により取りやめとなったが、各団体の苦心のほどがうかがえる。最近、趙、王の両氏が六日に漢口へ戻り、武昌の草
各方面の軍事情報
◎ 各方面の軍事情報 ◎ 南京の聯軍司令部参謀処は九長青からの電報を受け取った。陽(七日)夜、敵の第一軍約二をすでに撃退したという。▲ 聯軍は前線部隊の補充が急務であるため、江蘇に電令し、訓練した新兵を直ちに前線へ送り、配分 ▲ 陳陶遺が派遣した江蘇軍代表、金陵道尹
解説
武昌の降伏で国民革命軍は武漢三鎮を手中にした
本紙の電報は、武漢三鎮のうち最後まで抵抗した武昌の陥落を伝えている。北伐軍が武漢に到達すると、漢口と漢陽は数日で落ち、城壁に囲まれた武昌は孤立した。呉佩孚と配下の主力は北の河南省へ退き、城内に残った部隊は1か月以上持ちこたえた。ロイター電と東方社電がともに伝える10月10日に守備軍は降伏し、国民革命軍は湖北省の制圧を完了した。これにより漢口、漢陽、武昌の三都市はすべて国民革命軍の支配下に入った。本紙の二つの報道は、城門が内側から開かれた点で一致している。東方社電は河南第三師と中和門の名を挙げており、この細部は本紙の情報源に依拠している。劉玉春が捕らえられた場所についても記録は食い違う。本紙は、劉が中華書院で捕らえられ、外国人経営の大学に留め置かれたと伝えた。後年の歴史記述によれば、劉は残兵千人余りを率いて蛇山に退き、10月10日に教会の中で捕らえられた。
劉玉春と陳嘉謨の経歴とその後
捕らえられた二人は、呉佩孚の湖北における拠点を預かる最高位の指揮官だった。陳嘉謨は1926年に蕭耀南が病死した後を継いで湖北督軍となった。劉玉春は呉佩孚のもとに移って腹心とされ、湖北に駐屯する第8師の師長に任じられた。本紙が陳嘉謨について拘束説と逃亡説を併記した点は、後の経過で決着がついている。二人はともに拘束され、武漢国民政府は反革命罪の条例を採択した翌日の1927年2月10日、武昌の最高法院で二人を裁判にかけた。この事件は第1回の公判の後に立ち消えとなり、二人はまもなく釈放された。後年の記述はこの紙面に関わる個人的なつながりも伝えている。10月8日発の記事が漢口側の署名者に挙げる唐生智は、かつて陳嘉謨と義兄弟の契りを結んでいた。
武昌の籠城と市民救済をめぐる調停
10月8日発の破損した記事は、和議の条件に双方が署名したと伝え、交渉を婦女子の救済と結びつけている。籠城中の武昌では食料と水が不足し、多くの住民が餓死した。武昌商会などの団体は仲介を行い、劉玉春が部隊を率いて帰順すれば守備軍を革命軍の一個師に改編するという案を示した。武昌県の県長も劉の身の安全を保証して改めて説得したが、劉はなお拒み、難民の一部を城外に出しただけだった。外国政府もこの事態を注視していた。米国のケロッグ国務長官は10月9日、武昌の市民がひどい苦しみにあるとの報道に触れ、漢口の領事団が休戦を取り決めて救援の手立てを講じるよう提案し、必要なら赤十字が支援する用意があると述べた。本紙が伝えた署名済みの和議が守られたかどうかは、後に争点となった。検察側は陳と劉が欺いて和議を反故にしたと訴え、陳は改編の条件で合意しており約束を破ってはいないと供述した。
武昌陥落時の孫伝芳軍の配置
短い軍事情報の欄は、もう一つの戦線の動きを伝えている。南京の聯軍司令部を率いていたのは孫伝芳である。孫伝芳は1925年11月に江蘇督軍として南京に本拠を置き、江蘇、浙江、福建、安徽、江西の5省に支配を広げていた。江西では国民革命軍が9月19日までに九江と南昌を押さえたが、9月21日に孫伝芳が南京から援軍を率いて到着すると、国民革命軍は後退を強いられた。7日夜に敵の第一軍を撃退したという主張や、訓練した江蘇の新兵を前線へ急送せよという命令は、孫伝芳がなお江西で争っていた時期のものであり、一方の司令部の発表である。情勢はその後まもなく変わり、10月末までに孫伝芳の軍は江西と福建で再び退却していた。
原文
劉玉春被拘
▲ 陳嘉謨被拘與逃亡兩說 ◎ 武昌今日午後已入南軍手、 似係守軍一部份叛變所致、 守軍開門容納攻軍、 劉玉春被拘、 現羈留于武昌外人所辦之大學內、 今晚將解至漢口、 聞陳嘉謨亦被拘、 (漢口十日路透電) ◎ 據本地某處所得漢口十日發報告、 十日武昌入南軍之手、 其初本定九日開城、 未果、 至翌日 (十日) 北兵中河南第三師開中和門導南軍入城、 劉玉春在中華書院被擒、 北軍一律解除武裝無條件降伏、 陳嘉謨有早已逃亡說、 (東方社十一日上海消息) ◎ 陳嘉謨於二三日前即感危險、 潛匿民間、 至十日午後卒爲南軍所捕、
革軍入武昌前之形勢
間未到、 城門即閉衆皆以爲北軍之自、 自城中出、 救濟 [?] 前之形勢漢口十月八日發) 未固 [?] 進行緩和、 劉玉春亦不如前方面開放婦孺、 因其能援兵、 亦已無望、 前日乃爲武昌城東三十里之青山、 (地名仍屬武昌) 其餘一律承認云、 渡函云、 武漢和議、 定可於九日以前告成、 曾見前信、 茲悉和議條件、 雙方均已簽字、 漢口方面、 簽字者爲唐生智劉佐龍鄧演達三人、 武昌方面爲陳嘉謨劉玉春朱大霈等五人、 查武漢和議、 自呂超伯徐榮廷趙典之王縄高吳幹丞童資秋徐是法等分途進行以來、 迭經挫折、 表面上雖似停頓、 實際進行固未嘗稍懈、 且大家退一步的希望、 即是不得已亦應與救濟婦孺問題同時解決、 在趙典之王縄高兩代表尙未實行最後接洽以前、 曾有歸李開侁汪 [?] [?] 諸氏出台之協議、 卒雖因勢中止、 然亦可見各團體之苦心、 近自趙王於六日返漢、 携帶武昌草
各方軍事消息
◎ 各方軍事消息 ◎ 南京聯軍司令部參謀處、 接九長青電、 陽 (七日) 夜敵軍第一軍約二已擊退、 ▲ 聯軍以前敵軍隊、 亟待補充、 電令蘇、 將教練之新兵、 趕即運赴前線、 分配 ▲ 陳陶遺委派之蘇軍代表、 金陵道尹