L’Écho d’Alger
- ラインラントの諸事件
- マルクス首相、エッセンで大演説
- アメリカに対するわが国の債務
この日の『レコー・ダルジェ』1面は、独仏間の緊張と戦債問題を大きく扱った。ジョルジュ・ヴァグネルはマインツから、ゲルマースハイム、トリーア、コブレンツで起きた占領軍のフランス兵とドイツ人の衝突について冷静を求めた。ヴァグネルは、ラインラントの経済回復によって、かつて食糧に恵まれていたフランス兵が貧しく屈辱を受ける側に回ったと論じた。エッセン発の記事は、事件がトワリー会談の目標を損なってはならないと述べ、ドイツの国際連盟加盟を擁護したマルクス首相の演説を伝え、ゼークトの辞任にも触れた。論評集は、アメリカへの債務協定の批准をめぐるパリ各紙の論調を並べた。『レール・ヌーヴェル』紙は在郷軍人の威嚇を批判し、『ルーヴル』紙は「われわれは払わない」と書いた。短信は、ポワンカレのメス到着とタラスコン裁判所廃止へのマルセイユでの抗議を報じた。
翻訳
ラインラントの諸事件
(本紙特派員発)マインツ、10月8日。ゲルマースハイム、トリーア、コブレンツで占領軍のフランス兵とドイツ人とのあいだに起きたばかりの事件について判断を下す前に、占領当局とドイツ警察が共同で進めている調査の結果を待つべきである。事実を正確に知らないまま、前もって、自分の政治的好みに従って、すべての非を軍人に負わせたり、すべての非をドイツ人に負わせたりする者は、犯罪者か愚か者である。このような場合にまずなすべきことは、神経を落ち着かせ、最大限の冷静さを失わないよう大いに努力することだ。認めるが、場合によってはこれはかなり称賛に値する努力である。腹を立てる者は常に誤っている。何よりも避けるべきは、この件に、双方いずれの側からも、国民的自尊心の問題を持ち込むことである。そうすれば調査はゆがめられる。情念をあおり、ますます遺憾な新たな事件を引き起こすだけに終わるだろう。
まず、わが軍がドイツ人に対してどのような全般的状況に置かれているかを理解しなければならない。状況がこれほど微妙だったことは、おそらくかつてない。軍事占領は常に諸刃の剣である。占領は戦勝国の安全と条約条項の履行を保証するものとみなされうるとしても、やはり強制の措置であることに変わりはない。それは憎しみを生み、自尊心の小さな傷を積み重ねる。その傷は雪だるま式にふくらみ、やがて事件を避けられないものにする。
私はライン軍への派遣を重ねるなかで、ドイツ人の心性の変化を追い、それにいわば跳ね返るかたちで生じた占領軍とその将校たちの精神の変化も追うことができた。その際、私は完全な独立と自由な判断を持つフランス人の立場に立ってきた。私は役人でもなく、誰かに雇われているわけでもなく、この件に何の個人的利害も持たない。
占領の初め、わが勝利の威光は大きかった。予期せぬ敗北に呆然とし、茫然自失していた住民たちを、われわれは圧倒していた。しかしラインラントの人々を最も圧倒したのは、われわれの威光ではなかった。それは……われわれの食糧だった。腹の問題はどの国でも大きな役割を果たすが、ドイツではとりわけそうである。われわれが相手にしていたのは、まともな食べ物を一切断たれ、2年前から「代用品」の食生活を送っていた住民だった。ドイツは敗れ、フランス兵が敗者の屋根の下に住みに来た。それは明らかにひどく屈辱的なことだった。しかしこの兵士は、そもそも陽気な性格で、戦争が終わったことを喜び、それゆえに好意的だった。彼の雑嚢にはうまいパンと肉とチョコレートがあり、水筒にはうまい赤ワインが満ち、ポケットにはたばこが詰まっていた。そのおかげで彼は家族から重んじられ、子どもたちに慕われ、娘たちの心をつかんだ。当時ドイツを覆っていた窮乏の光景に少しも心を動かされず、外套の下に隠しすぎてはいるが行動を決めているあのフランス人の善良な心で、家主の家族と自分の弁当や肉の配給を「ア・ブール」で分け合わなかったポワリュがいただろうか。だからこそ、われわれの占領の最初の数年間には、ラインラント住民がむしろ好意的な態度を示したのである。お人よし、政治家、歴史家、詩人たちは、利害から、あるいはイデオロギーから、このいわば「美食的」な好意を、ただの好意と取り違えた。彼らはナポレオンを語り、その生き生きとした記憶を語り、ラインラント人とわれわれのあいだのなにやら人種的な共通性を語った。人々はこうしたたわごとでフランス国民を欺き、軍の首脳たちは一時、この幸福な状況が自分たちの威光や閲兵式、たいまつ行進のおかげだと信じることができた。人々は空中楼閣を……ラインラントに築いたのである。
しかしその後、状況はしだいに変わり、ついにはまったく逆になった。ドイツの財政は立ち直った。商店には食料があふれ、マルクの破綻で得をした者たちは思う存分楽しみ、民衆自身もまずまずの暮らしをしている。それに対して、貧しい者、したがって屈辱を受けている者は、われわれのほうである。わずか5スーではビール1杯すら飲めないフランスのポワリュであり、10フランのマルクが傲然と君臨するもとで、決して外出せず、つましく暮らす将校とその家族である。さらに付け加えれば、若い兵士や若い将校には、過去の苦しみや英雄的行為や勝利の後光はもはやない。彼らはもう、気配りと慎みがあって敬意を集める善き父親たちではなく、子どもである。これらの若者には、察しのつく欲求がある。そこから「娘っ子」をめぐるいざこざが生じ、それが事件を生む。そうした事件には、もともと国籍はまったく関係していない。そしてそれらすべてがこじれていき、嘆かわしい空気をつくり出す。これほど取り沙汰され、一部の新聞が周知の政治目的のために利用している事件は、この空気のなかに置いて見なければならない。フランスでは、われわれは神経が太い。しかしドイツでは、人々はもっと興奮しやすい。立ち直りつつある敗者の自然な反応である。
今日のところは、公平な調査を待つあいだ、これらの荒っぽいが誠実な全般的考察を述べたうえで、すべての人が神経を制御することを願うにとどめよう。
ジョルジュ・ヴァグネル
ポワンカレ氏、アルザス=ロレーヌへ
メス、10月11日。ポワンカレ氏は昨夜午後11時12分に到着した。氏は本日、いくつかの学校を訪問する。
ブーシュ=デュ=ローヌ県議会で
マルセイユ、10月11日(本紙特約通信員発)。ブーシュ=デュ=ローヌ県議会の前回の会議で、県議会はタラスコン裁判所の廃止に抗議し、県選出の上院議員と下院議員に対し、あらゆる手段を尽くしてこれに反対するよう求める決議を採択した。
マルクス首相、エッセンで大演説
大演説
ドイツ国防軍の創設者の一人で、このたび辞任したフォン・ゼークト
ドイツの外交政策
エッセン、10月11日。マルクス首相はエッセンで、ドイツの全般的状況について長い演説を行った。首相は政府の今後の施策の計画を述べたあと、最近の国際的な出来事に話を移し、とりわけ鉄の協定の締結について、この種の経済協定を結びながら外交の分野で敵対を続けることはできないと述べた。
ラインラントの諸事件
ラインラントの諸事件について、首相は次のように述べた。「これらの痛ましい事件の責任の問題がいずれにせよ明らかにされるとしても、一つの事実は確かである。それは、トワリー交渉の対象となった目標が、このような事件によって損なわれることはありえず、また損なわれてはならないということだ。
ドイツと国際連盟
ドイツの国際連盟加盟について、演説者はとりわけ次のように述べた。1921年にヴィルト首相が賠償政策を始めて以来、最も激しい反対を示してきた人々も、この協調政策がドイツに有利だったことをついに認めなければならない。野党の陣営でも、人々はドイツの国際連盟加盟を少しずつより冷静に見るようになりつつある。
「われわれは」とマルクス氏は述べた。「国際連盟において、連盟にとって掟である理想主義の精神で、誠実かつ忠実に協力する。われわれはこうして、ドイツの利益と、国外のドイツ系少数民族の利益を守りたいと願っている。これらの少数民族は、われわれが国際連盟の加盟国となった今、……から期待しなければならず
アメリカに対するわが国の債務
在郷軍人の介入について
『レール・ヌーヴェル』紙から
全国在郷軍人連合は、ブロック・ナシオナルへの共感を示す機会を一度も逃さなかった団体だが、このたび連合国間債務の問題で立場を表明し、ポワンカレ氏に威嚇的な性格の覚書を手渡した。在郷軍人たちは戦争中、勇敢に義務を果たした。しかし彼らの軍歴は、国民が忘れまいとしているものではあるが、財政について特別な見識を彼らに与えるものではない。この分野での彼らの意見は、他の市民層や他の団体の意見と比べて、価値が大きくも小さくもない。在郷軍人たちはさらに、批准を受け入れる議員には組織的に反対票を投じるという明確な意思を表明し、覚書に添えた送り状では、たとえ内閣危機を招くことになっても、この批准に対して精力的な行動を起こす用意があると宣言している。これは明白だ。わが議員たち、わが大臣たちが、ある種の反動的な在郷軍人団体の命令に従わなければ、議員は議席を、大臣はポストを失うおそれがあるというわけだ。こうした威嚇の手法は、イタリアではいくらか成功を収めたらしいが、フランス共和国では許しがたい。
『ルーヴル』紙(ギュスターヴ・テリー氏)から
世論はこれで二度目の意思表示をした。昨日、全国戦闘員連合を代表する人々がわが首相のもとへ赴いた、あの感動的な行動によってである。この人々はすでに支払った。支払いすぎるほど支払った。だが彼らは払い戻しを求めはしない。いわゆるアメリカへの債務については、われわれは彼らの後ろに、彼らとともにいる。われわれは彼らと同じように考え、感じ、望む。そしてフランス全体が同じ心を持っている。何を言われようと、何をされようと、フランスは62年間も奴隷の身に落とされることを甘受しはしない。われわれは払わない! 戦争はアメリカ合衆国の「ビジネスマン」にとってすばらしい商売だった。概して彼らの財産は75パーセント増えた。聞こえないふりをしている一部の天才的なアメリカ人には、彼らがわが170万の死者の血で肥え太ったのだと言わねばならないし、繰り返し言わねばならないだろう。彼らにとって、フランス人の死体の恐るべき山は、ドルの巨大な山になったのだ。彼らは幸運を享受し、勝利を心安らかに楽しむがよい。彼らこそ真の、唯一の勝者なのだから。しかしわれわれは、この十一時目に来た労働者たちにすでに支払った。もう彼らには支払わない!
『アクション・フランセーズ』紙(シャルル・モーラス氏)から
アメリカ合衆国とイギリスは、自国の国家元首と政府首脳、ほかならぬウッドロー・ウィルソン氏とロイド・ジョージが起草した条約に署名することを拒んだ。それなら、一介の上院議員や一介の財務大臣が起草した文面を退けるのに、フランスが何を遠慮することがあろうか。戦後の国際的な先例はすべて、この種の拒否をまったく正当なものとしている。ロンドンやワシントンで誰かがそれに憤慨するなら、われわれは容易にこう答えられる。「先にやったのはどちらだ」と。
『ラ・リベルテ』紙(カミーユ・エマール氏)から
政府の計画の残りすべて、すなわち節約令、司法改革、制限措置などは、演説抜きとはいかないまでも、難なく可決されただろう。しかし債務の批准については、国も議会もそれを受け入れないことを政府はよく知っている。さらに言えば、フランスでこの批准を求めることのできない政府があるとすれば、それはまさに現政府である。この問題でブリアン内閣を倒した人々が、今日になってロンドン協定とワシントン協定などの批准を議会に求めに来るとは。いや、諸君、それは度が過ぎる! 土曜日に本紙がここで伝えた共和連盟の声明に続いて、経済利益連合、在郷軍人連盟、生産者連盟も同じ内容の宣言を出した。穏健諸党は公式に債務批准反対の立場をとっている。極左はすべて、すでに妥協の余地のない反対を表明している。したがってこの問題で、内閣は200票余りしか得られそうにない。ポワンカレ氏が行き着きたかったのはここなのか。両院は11月2日に再開されるという。それは死者の日であり、まことに縁起の悪い前兆である。
解説
ゲルマースハイム発砲事件に下された判決
ジョルジュ・ヴァグネルは10月8日にマインツから寄稿し、占領当局とドイツ警察の合同調査の結果を待つよう読者に求めた。ヴァグネルは衝突の原因を国籍ではなく、立場の逆転した経済状況と若い兵士たちが生む空気に求めた。ゲルマースハイムの事件は、最終的にフランスの軍事裁判にかけられた。米誌タイムは1927年1月、フランス人将校が前年9月にゲルマースハイムでドイツ市民1人を殺害し2人を負傷させたとして、ランダウのフランス軍法会議で裁かれたと報じた。軍法会議は、ルージエ中尉がドイツ人に杖で襲われて自衛のために発砲したと認め、中尉を無罪とした。中尉に負傷させられたドイツ人2人は、それぞれ禁錮2年、禁錮2か月の判決を受けた。ほかのドイツ人4人も有罪となり、中尉は罪を問われずに済んだ。ドイツの新聞は、この判決をドイツ国民の顔への拳の一撃だと非難した。ドイツ政府が正式に抗議したあと、ドゥメルグ仏大統領は有罪となったドイツ人6人に恩赦を与えた。この事件は、ヴァグネルが双方に避けるよう説いた国民的自尊心の争いに実際に発展したのである。
トワリー会談の約束とマルクス演説
マルクス首相は、トワリー交渉の目標をラインラントの事件で損なってはならないと述べた。この発言は、ごく最近まとまった取り引きを指している。ドイツは国際連盟に加盟したばかりで、連盟の最も重要な機関である理事会の常任の席も得ていた。マルクスは同じ演説で、この加盟を国内の反対派に向けて擁護した。フランスのブリアン外相とドイツのシュトレーゼマン外相は、フランスの村トワリーで会談した。シュトレーゼマンはフランの安定のために物質的な支援を約束した。ブリアンはザール地方を予定より早くドイツに返し、ラインラントの軍事管理と占領を早期に終わらせることに同意した。したがって、フランス兵とラインラント住民の衝突は、トワリーで短縮が約束された占領そのものに関わる問題だった。ドイツとフランスの両政府はまもなく異議を唱え、トワリーの合意の範囲は縮小された。マルクスが事件の責任問題とトワリーの目標を切り離そうとしたのは、このもろい合意を守るためだったと読める。
ゼークト辞任を伝えた説明文
エッセン発の記事には、ハンス・フォン・ゼークトを国防軍の創設者の一人で、このたび辞任した人物と紹介する説明文が付いていた。ゼークトは1920年から陸軍の最高指揮官を務め、1926年10月に辞任した。ゼークトはその間に陸軍を再編し、ドイツ陸軍の教義、戦術、編制、訓練の基礎を築いた。ゲスラー国防相とヒンデンブルク大統領は、ゼークトに陸軍統帥部長官の職を退くよう迫った。直接の理由は、ホーエンツォレルン家のヴィルヘルム王子が、国防相と大統領の承認を得ないまま国防軍の演習に参加したことだった。ゼークトと政府指導部の関係は、それ以前から、ゼークトが政府のロカルノ政策に公然と反対したために悪化していた。この紙面は、ロカルノ政策の有力な批判者の退場を、国際連盟政策を擁護するマルクス演説と並べて載せたのである。
アメリカとの債務協定への反発
「アメリカに対するわが国の債務」と題した論評集は、1926年4月29日付のメロン=ベランジェ協定を扱っている。この協定は、フランスがアメリカに負う戦時債務の返済額と返済率を定めた。ベランジェ駐米大使は、フランス議会の批准を条件として協定に署名した。在郷軍人団体がポワンカレへの覚書で議員には選挙での報復を、大臣には内閣危機を予告したのは、批准の可否を議会が決めるからである。協定はフランスの債務額を大幅に減らし、比較的緩やかな支払い条件を定めた。それでも多くのフランス人は、アメリカが戦債の請求を放棄すべきだと考えた。フランスは返済をドイツの賠償金と連動させる条項を求めたが、アメリカはその連動を受け入れなかった。『ルーヴル』紙の「われわれは払わない」という叫びは、この不満から出ている。同紙が挙げたアメリカ人の財産増加の数字や62年間の隷属という表現は、同紙が論争のなかで示した主張である。在郷軍人たちは街頭でも反対を示し、2万人がパリで協定反対のデモを行った。歴代の政府は批准を先送りした。フランス下院は1929年7月21日、徹夜の審議のすえ、300対292の僅差でようやく1926年の協定を批准した。
原文
Les incidents de Rhénanie
(De notre envoyé spécial) Mayence, 8 octobre. - Il convient, avant de porter un jugement sur les accidents qui viennent de se produire à Germersheim, à Trèves et à Coblence, entre soldats français des troupes d'occupation et Allemands, d'attendre les résultats de l'enquête à laquelle procèdent de concert les autorités d'occupation et la police allemande. Ceux qui, d'avance, et sans connaître exactement les faits, donnent, suivant leurs préférences politiques, tous les torts aux militaires, ou tous les torts aux Allemands, sont des criminels ou des imbéciles. La première chose à faire en pareil cas, est de calmer ses nerfs et de faire un grand effort, je l'avoue assez méritoire, dans certains cas, pour ne pas se départir du plus grand calme: celui qui se met en colère a toujours tort. Ce qu'il faut éviter surtout, c'est de mettre dans cette affaire, de part et d'autre, une question d'amour-propre national, qui fausserait l'enquête. On ne réussirait qu'à exciter les passions et provoquer des incidents nouveaux et de plus en plus regrettables. Et d'abord, il faut se rendre compte de la situation générale dans laquelle se trouvent nos troupes, vis-à-vis des Allemands. Jamais, sans doute, la situation n'a été aussi délicate. L'occupation militaire est toujours une arme à deux tranchants. Si elle peut passer pour assurer la sécurité de la nation victorieuse et l'exécution des clauses du traité, elle n'en reste pas moins une mesure de coercition qui engendre les haines, accumule les petites blessures d'amour-propre qui font boule de neige et ne tardent pas à rendre les incidents inévitables. Mes missions à l'armée du Rhin m'ont permis de suivre l'évolution de la mentalité allemande et l'évolution, pour ainsi dire par ricochet de l'esprit des troupes d'occupation et de leurs officiers, en me plaçant au point de vue du Français possédant sa pleine indépendance et son libre arbitre, qui n'est ni fonctionnaire, ni à la solde de qui que ce soit, et n'a aucun intérêt personnel dans l'affaire. Au début de l'occupation, le prestige de notre victoire était grand, nous en imposions à ces populations hébétées, stupéfaites par la défaite imprévue. Mais ce qui en imposait le plus aux Rhénans, ce n'était pas notre prestige, c'était... notre ravitaillement. La question ventre joue un rôle considérable dans tous les pays, et plus particulièrement en Allemagne. Nous avions affaire à une population sevrée de toute nourriture saine, au régime «ersatz» depuis deux ans. L'Allemagne était vaincue, le soldat français venait habiter sous le toit du vaincu; c'était évidemment bien humiliant, mais ce soldat, de caractère jovial, d'ailleurs, heureux d'avoir fini la guerre, et de ce fait, bienveillant, avait dans sa musette du bon pain, de la viande, du chocolat, et son bidon était plein de bon vin rouge, ses poches de tabac. Cela lui attirait la considération des familles, l'amitié des enfants et lui donnait le cœur des filles. Quel est le poilu qui n'ait pas été un peu attendri par le spectacle de la misère qui régnait alors en Allemagne, et qui n'ait, avec ce bon cœur français qu'il cache trop sous sa capote, mais qui dicte ses actes, partagé «à boule», son cassecroûte, sa ration de viande, avec la famille de son logeur. C'est la raison pour laquelle les premières années de notre occupation furent marquées par des manifestations plutôt sympathiques de la population rhénane. Des naïfs, des politiciens, des historiens, des poètes, par intérêt ou par idéologie, prirent cette sympathie, si j'ose dire «gastronomique», pour de la sympathie tout court. Ils parlèrent de Napoléon, de son souvenir vivace, je ne sais quelle communauté de race entre les rhénans et nous. On berna le peuple français avec ces sornettes, et les chefs militaires purent croire un moment que cette heureuse situation était due à leur prestige, aux revues et retraites aux flambeaux. On bâtit des châteaux... en Rhénanie. Mais la situation, depuis, a progressivement changé, jusqu'à devenir exactement l'inverse. Les finances allemandes sont rétablies. Les magasins regorgent de victuailles, les bénéficiaires de la faillite du mark s'en donnent à cœur joie, et le peuple lui-même vit convenablement. Par contre, le pauvre, l'humilié, par conséquent, c'est nous, c'est le poilu français qui, avec ses cinq sous, ne peut même pas prendre un bock, c'est l'officier et sa famille, qui ne sortent jamais, vivent chichement, sous le règne orgueilleux du mark à dix francs. Ajoutons que les jeunes soldats, les jeunes officiers, ne sont plus auréolés par leur souffrance passée, leur héroïsme, leur victoire. Ce ne sont plus de bons pères qui ont du tact, de la réserve, et qui imposent le respect, mais des gamins. Ces jeunes gens ont des besoins que l'on devine. Delà des histoires de «poules», qui créent des incidents dans lesquels, à l'origine, les nationalités n'ont aucune part. Et tout cela dégénère, crée une ambiance déplorable. C'est dans cette ambiance qu'il faut situer les incidents dont on parle tant, et que certains journaux exploitent pour des fins politiques connues. En France, nous avons les nerfs solides, mais en Allemagne on s'excite davantage, par une réaction naturelle du vaincu qui se redresse. Pour aujourd'hui, et en attendant l'enquête impartiale, contentons-nous, après ces réflexions générales, brutales, mais sincères, de souhaiter à tous de maîtriser leurs nerfs. Georges WAGNER. M. Poincaré en Alsace-Lorraine Metz, 11 octobre. - M. Poincaré est arrivé hier soir, à 23 h. 12. Il visitera aujourd'hui plusieurs écoles. Au Conseil général des Bouches-du-Rhône Marseille, 11 octobre (de notre correspondant particulier). - Au cours de la dernière séance du Conseil général des Bouches-du-Rhône, l'assemblée départementale a adopté un vœu protestant contre la suppression du tribunal de Tarascon, et demandant aux sénateurs et aux députés du département de s'y opposer par tous les moyens en leur pouvoir.
Le chancelier Marx prononce, à Essen, un grand discours
un grand discours VON SEECKT, un des créateurs de la Reichswehr, aujourd'hui démissionnaire LA POLITIQUE ETRANGERE DE L'ALLEMAGNE Essen, 11 octobre. - Le chancelier Marx a prononcé, à Essen, un long discours sur la situation générale de l'Allemagne. Après avoir développé le programme des prochains travaux du gouvernement, le chancelier, abordant les derniers événements internationaux, a déclaré notamment, à propos de la conclusion du pacte du fer, qu'on ne peut pas conclure de pactes économiques de cette nature et continuer des hostilités dans le domaine de la politique étrangère. Les incidents de Rhénanie Au sujet des incidents de Rhénanie, le chancelier a déclaré: «Que la question de la responsabilité de ces incidents douloureux soit éclaircie d'une façon ou d'une autre, un fait est certain: c'est que le but qui a fait l'objet des négociations de Thoiry ne peut et ne doit pas être diminué par de tels incidents. L'Allemagne et la S. D. N. A propos de l'entrée de l'Allemagne dans la S. D. N., l'orateur déclare notamment: Ceux qui, depuis l'inauguration, par le chancelier Wirth, en 1921, de la politique des réparations, ont marqué la plus violente opposition, doivent enfin convenir que cette politique d'entente fut favorable à l'Allemagne. On commence peu à peu, dans les rangs de l'opposition, à considérer avec plus de calme l'entrée de l'Allemagne dans la Société des Nations. «Nous collaborerons, à dit M. Marx, honnêtement, loyalement dans la Société des Nations, dans un esprit d ' idéalisme qui est, pour celle-ci, une loi. Nous espérons, de cette manière, défendre les intérêts de l'Allemagne, ainsi que ceux des minorités allemandes à l'étranger, qui, maintenant que nous sommes devenus membres de la Société des Nations, doivent attendre de
Notre dette envers l'Amérique
A propos de l'intervention des anciens combattants De l'ÈRE NOUVELLE: L'Union nationale des anciens combattants, qui n'a manqué aucune occasion de manifester sa sympathie pour le Bloc National, vient de prendre parti sur la question des dettes interalliées et de remettre, à M. Poincaré, une note d'un caractère comminatoire. Les anciens combattants ont fait vaillamment leur devoir pendant la guerre. Mais leurs états de services, que la Nation n'a garde d'oublier, ne leur confèrent pas une compétence spéciale pour les finances; leur opinion dans cet ordre d'idées, n'a ni plus ni moins de valeur que celle d'autres catégories de citoyens ou d'autres groupements. Les combattants annoncent, en outre, leur intention formelle de voter systématiquement contre les parlementaires qui accepteraient la ratification et, dans la lettre d'envoi qui accompagne leur note, ils se déclarent prêts à entreprendre une action, énergique, à l'encontre de cette ratification, dût-il même en résulter une crise ministérielle. Voilà qui est clair. Si nos députés, si nos ministres, n'obéissent pas aux injonctions de certains groupements réactionnaires d'anciens combattants, les premiers risquent de perdre leur siège et les seconds leur portefeuille. Ces procédés d'intimidation, qui ont eu, paraît-il, quelque succès en Italie, sont intolérables dans la République française. De l'ŒUVRE (M. Gustave Téry): L'opinion publique vient de s'exprimer, pour la seconde fois, dans l'émouvante démarche faite hier auprès de notre Président du Conseil, par ceux qui représentent l'Union nationale des combattants. Ceux-là ont déjà payé, ils ont trop payé, mais ils ne réclament pas de ristourne. Nous sommes derrière eux avec eux, pour ce qui est de la prétendue dette américaine. Nous pensons, nous sentons, nous voulons comme eux et toute la France a le même cœur. Quoi qu'on dise, quoi qu'on fasse, elle ne se laissera pas réduire pour soixante-deux ans en esclavage. Nous ne paierons pas! La guerre a été pour les «Businessmen» des Etats-Unis une excellente affaire. D'une façon générale, leurs fortunes se sont accrues dans la proportion de soixante-quinze pour cent. Il faut dire, il faudra répéter à certains Américains de génie, puisqu'ils feignent de ne pas l'entendre, qu'ils se sont engraissés du sang de nos dixsept cent mille morts. Pour eux, l'effroyable tas de cadavres français est devenu un énorme tas de dollars. Qu'ils profitent de leur bonne fortune, qu'ils jouissent en paix de leur victoire, car ils sont les véritables, les seuls vainqueurs. Mais nous avons déjà payé ces ouvriers de la onzième heure: nous ne les paierons plus! De l'ACTION FRANÇAISE (M. Charles Maurras): Les Etats-Unis et l'Angleterre ont refusé de mettre leur signature au bas d'un pacte rédigé par leurs chefs d'Etat et leurs chefs de gouvernement, M. Woodrow Wilson et Lloyd George en personne. Pourquoi la France se gênerait-elle pour rejeter la rédaction d'un simple sénateur ou d'un simple ministre des finances? Toute la jurisprudence internationale de l'après-guerre autorise absolument les rejets de cet ordre, et si quelqu'un, à Londres ou à Washington, s'en indigne, nous avons beau jeu pour répondre: «Qui est-ce qui a commencé?» De LA LIBERTÉ (M. Camille Aymard): Tout le reste du programme gouvernemental: les décrets d'économie, la réforme judiciaire, les restrictions, etc., tout aurait été voté sans difficulté sinon sans discours. Mais la ratification des dettes, le gouvernement sait bien que ni le pays, ni le parlement ne l'accepteront, et je puis même ajouter que s'il est en France un gouvernement qui ne saurait demander cette ratification, c'est bien le gouvernement actuel. Que ceux qui ont renversé le cabinet Briand sur cette question viennent aujourd'hui demander au Parlement la ratification des conventions de Londres et de Washington, etc. Non, messieurs, vous exagérez! Le manifeste de la Fédération républicaine que samedi nous relations ici même, a été suivi par une déclaration identique de l'Union des intérêts économiques et des Fédérations d'anciens combattants, et des producteurs. Les partis modérés prennent officiellement position contre la ratification des dettes. Toute l'extrême-gauche a déjà affirmé son opposition irréductible. Le cabinet, sur cette question, ne semble donc pouvoir obtenir guère plus de 200 voix. Est-ce là où voulait en venir M. Poincaré? On dit que les chambres rentreront le 2 novembre: c'est le Jour des Morts, c'est un bien mauvais présage.