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· 上海(中国) · 中国語

時報

時報のこの紙面は、華中の戦争を伝える三本の記事を載せた。鄂東の戦況をまとめた電報群は、大冶からの撤退、命令を受けて九江へ戻る東軍、鉄山や黄石港、瑞昌県境に現れた南軍の部隊を報じ、総司令部に前線の戦報が届いていないことも伝えた。同じ記事の安徽の短信は、南陵県で警察官が赤化宣伝を理由に銃殺されたこと、合肥と六安で集めた新兵三百名が蕪湖経由で前線へ送られたこと、高世読が陳調元の電報を受けて各県に税金の送付を督促したことを伝えた。九江発の記事は、前線に大きな変化がないなかで特別戒厳令が突然出され、周鳳岐が軍事会議に加わったと報じた。漢口発のロイター電は、包囲された武昌から約二千人の市民が退去を許され、城門で女性一人が踏まれて死亡し、城内で餓死者が多数出ていると伝えた。

この版は紙面から三本の記事を翻訳しており、読解は部分的である。OCRの候補テキストは転写に使っていない。いくつかの段の小さな活字の短信は端がぼやけているため、訳文には欠落や断片が残る。武昌の記事の日付行は一部が判読できず、約二千の直前の一字も確かではない。広告の表の細かな活字は判読できず、この版は扱っていない。ここで参照できた背景資料は九江の戒厳令の理由や周鳳岐と陳調元の職務を説明しておらず、解説はこれらの点を紙面の記述の範囲で扱っている。

翻訳

鄂東における孫・蔣両軍の情勢

……西南へ退却した。(北京六日午後二時電)大冶撤退後、同地に再び現れ……大冶方面は陳調……の管轄に帰した……(九江五日東方電)東軍は命令を受けて九江へ引き返し、南軍は鉄山……、また一部は黄石港に到達した。(九江五日電通電)報道によれば、日中、総司令部は前線からの戦報を受け取っておらず、消息は途絶えている……すでに瑞昌県境に達した。▲南陵県知事の曹灞渓は先日、陳調……[?]に電報で、……従舜と巡官の孫棠に赤化を宣伝した事実があるとして処罰を申請し、認可を得たため、二日に龔警佐を銃殺し、孫巡官を護送した……▲運輸司令の于世英は先日、蕪湖を経て九江へ向かい、……軍務に……。ただ、最近は軍艦がしばしば通過するため、また……軍の電令により蕪湖駐在の水上警察に毎日詳しく報告させている。▲王普は先に人員を合肥・六安などへ派遣して募兵し[?]、三百名を集め、小型汽船と民船で蕪湖へ輸送した……官の胡棠が四日、これを前線へ護送して充当した。▲高世読はただいま前線の陳調元から電報を受け、軍費補給のため、四日に各県へ通令を出して税金の送付を督促した。▲徐州の馮紹閔師第十三旅二十[?]

九江で軍事会議

軍政要聞 ◉九江で軍事会議 ◎前線の戦況に大きな変化はないものの、突然、特別戒厳令が発布された。周鳳岐が……から来て軍事会議に列席した。形勢はかなり……のようである(九江五日東[?] ◉香港・漢口で伝えられた江西省の戦……

武昌城内の状況、極めて悲惨

(漢口十月[?]日発)……日、武昌の平民多数、聞くところでは約二千人が、交戦双方の許可を得て武昌城から出ることになった。ところが城門が開いたわずかな間に群衆が先を争って押し出したため、女性が転倒し、人に踏まれて死亡した。城を出た人々は……哀れである。彼らによれば、城内の状況は極めて悲惨で、餓死者が多数出ており、速やかに包囲が解かれなければ、飢えた者が至る所にあふれるという。(漢口五日ロイター電)

解説

包囲下の武昌と市民救済の動き

ロイター電が伝えた武昌の惨状は、約一か月続いた包囲戦の中で生じたものである。国民革命軍は1926年9月2日までに武昌をほぼ包囲した。呉佩孚と主力は北の河南省へ逃れたが、城内に残った部隊は一か月以上抵抗を続けた。紙面によれば、交戦双方は約二千人とされる市民の退去を認め、城門での混乱で女性一人が踏まれて死亡した。この人数と城内の餓死の様子は、ロイター電と避難民の証言にもとづく紙面の記述である。米国務長官ケロッグは1926年10月9日、在中国代理公使に電報を送り、武昌の市民がひどい苦しみにあるという報道に触れた。ケロッグは同じ電報で、漢口の領事団が休戦を仲介し、その間に救済策を講じる案を示した。城内に残った呉佩孚軍は、広東・香港ストライキが打ち切られた10月10日と同じ日に降伏し、国民革命軍は湖北省の制圧を終えた。

大冶から九江にかけての10月初めの前線

孫伝芳の連合は1926年当時、福建・浙江・江蘇・安徽・江西の五省を支配していた。広州の国民政府は孫伝芳に不可侵協定を提案したが、孫伝芳は自らの政権を国民党の支配下に置くことを拒んだ。そのため蔣介石は、武昌包囲が続くなか、9月4日に江西省境を越えて攻撃を始めた。孫伝芳は9月21日に南京から増援を率いて到着し、国民革命軍を退却させて、失った地域の大半を取り戻した。時報が載せた10月5日と6日の電報は、この一進一退の時期の戦況を伝えている。電報は鄂東の大冶からの撤退、命令を受けて九江へ戻る東軍、鉄山や黄石港、瑞昌県境に現れた南軍の部隊を伝え、総司令部が前線の戦報を受け取っていないことも記した。紙面は九江の特別戒厳令の理由を示しておらず、ここで参照した資料も理由を説明していない。孫伝芳軍は10月末までに江西と福建で再び退却し、国民革命軍は11月初めに長江の港である九江と湖口の攻略に向かった。

孫伝芳の後方を担った安徽省

鄂東の電報とともに載った安徽の短信は、孫伝芳自身の支配地から届いたものである。孫伝芳は江蘇・浙江・福建・安徽・江西の全域に支配を広げ、1925年11月25日には江蘇の軍事総督として南京に本拠を置いた。このため安徽省は江西・湖北の前線を後方から支える役目を負っていた。紙面の短信は、合肥と六安で集めた新兵三百名を蕪湖経由で前線へ送ったこと、高世読が前線の陳調元からの電報を受けて各県に税金の送付を督促したこと、蕪湖の水上警察に軍艦の通過を毎日報告させたことを伝えている。南陵県で警察官が赤化宣伝の罪で銃殺された件は、この秋に孫伝芳の支配地で強まった弾圧と合致する。孫伝芳は9月下旬に失地を取り戻した際、学生や教員、国民党員と疑われた人々を数百人殺害した。紙面は陳調元を、安徽の役人が報告を送る前線の指揮官として描いている。陳調元の正式な職名は、ここで参照した資料では確認できない。

原文

鄂東孫蔣軍情形

向西南退卻、 (北京六日下午二時電) 大冶撤退後、 該地復現大冶方面係歸陳調、 (九江五日東方電) 東軍奉命開回九江、 南軍鐵山、 又一部抵黃石港、 (九江五日電通電) 消息日間、 總部未接前方戰報、 消息杳人、 已抵瑞昌境、 ▲ 南陵縣知事曹灞溪、 日前電呈陳調 [?] 從舜 ・ 巡官孫棠、 有宣傳赤化情事、 擬處准、 遂於二日將龔警佐槍決、 孫巡官解 ▲ 運輸司令于世英、 日前過蕪赴潯、 與軍務、 惟以近來時有兵艦過境、 以及軍電令駐蕪水警、 逐日詳報、 ▲ 王普前派員分赴合肥 ・ 六安等處招 [?] 招得三百名、 用小輪民船、 裝運到蕪、 官胡棠、 於四日押赴前方應用、 ▲ 高世讀刻接陳調元自前方來電、 以軍項接濟、 因於四日通令各縣、 催解稅款 ▲ 徐州馮紹閔師第十三旅二十 [?]

九江軍事會議

軍政要聞 ◉ 九江軍事會議 ◎ 前方戰線雖無重大變化、 忽頒特別戒嚴令、 周鳳岐由來、 參列軍事會議、 形勢似頗 (九江五日東 [?] ◉ 港漢所傳贛省戰

武昌城內情形極慘

(漢口十月 [?] 日發) 日武昌有平民多人、 聞約二千、 戰雙方許可出離武昌城、 惟城開片時、 羣衆爭先擁出、 致有婦人跌倒、 被人踐死、 出城諸人、 可憐、 據稱城內情形至慘、 餓死有多人、 倘再不迅速解圍、 則餓遍地皆是、 (漢口五日路透電)

紙面の出典:Source: Internet Archive / eastasia-periodicals

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