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· ウィーン(オーストリア) · ドイツ語

Neue Freie Presse

ウィーンのこの新聞は、ベルリン発の電報で、ドイツ陸軍統帥部長官ゼークト上級大将が辞職願を出したと伝えた。紙面によると、ゼークトは皇太子の長男がヴュルテンベルクの国防軍演習に参加することを、ゲスラー国防相に知らせずに認めていた。ゲスラーはその後、議会の前でゼークトをかばえないと述べた。巻頭の社説は、ラメク首相が給与要求の検討にあと4日を求めたことだけを理由にストライキをしないよう、オーストリアの官吏に求めた。社説は、ストライキが政府に宣伝の材料を与えると警告しつつ、24ドルに相当するとした最低俸給の要求には共感を示した。文芸欄には、ノルマンディーとブルターニュ、そして大聖堂のある小さな町ドルを描いたエルヴィン・リーガーの紀行文が載った。

翻訳

ゼークト上級大将の辞職願

ホーエンツォレルン家の王子が国防軍の演習に参加したことをめぐって。

本紙特派員電。

ベルリン、10月6日。

ドイツ陸軍統帥部長官ゼークト上級大将は、大統領に辞職願を提出した。そのきっかけは、皇太子の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム王子がヴュルテンベルクで行われた国防軍の演習に参加したことである。今になって判明したところでは、ゲスラー国防相はこの件を知らなかった。[?] ゲスラー国防相は、ゼークトが皇太子の息子の勤務を許可していたことを後になって初めて知った。

本紙の得た情報によれば、ゲスラー博士とゼークトとの間で非常に激しい口論があった。上級大将は大臣に対し、フリードリヒ・ヴィルヘルム王子が演習に参加することを知っていたと認めた。これを受けて大臣は、議会と世論の前でゼークトをかばうことはできないと言明した。大臣によれば、これは責任ある大臣を締め出したことにほかならない。ゼークト上級大将は会談の後ただちに責任を取り、辞職願を提出した。

夕刻になって、ヒンデンブルクがゼークトの辞職願をおそらく受理するであろうことが明らかになった。

ソファ問題の政治に反対する

……4日間。

ウィーン、10月7日。

官吏のストライキは、不信のストライキとなるだろう。われわれは、思い上がりと権力への驕りがオーストリアの官吏全体を支配しているとは信じられない。札付きの扇動家でさえ、今日では事態がどうなっているかを知っているはずだ。ラメク博士が資料と計算の裏付けを集めるためにあと数日の猶予を求めているという以外に何の理由もないままストライキが起きたなら、オーストリアが何を耐え忍ばねばならなくなるか、その扇動家も思い違いはできない。したがって、官吏たちは首相の言葉を信じていないと考えるほかない。官吏たちは遅延の裏に隠された動機を探り、交渉を引き延ばして自分たちを戦術的に不利にしかねない本題外の事情を疑っているのだろう。官吏たちは明らかに、自分たちが連邦首相の扉を叩くまさにその時に内閣危機が勃発することを恐れている。さらに遅れた場合には、クリスマスの輸送繁忙を理由に押さえ込まれ、いっそう孤立し、自分たちの立場がいっそう不人気になり、ストライキが生産者にとっても労働者自身にとってもいっそう厄介なものに映ることも、官吏たちは恐れているのかもしれない。

政府には、こうした暗い憶測をすべて最大限の速さで払拭する義務がある。かつての主権を一撃で取り戻すことができない以上、二十五人委員会と技術者連合の指導者を連邦首相府に招き、どの資料がまだ欠けているのか、当初定めた期限である10月8日までに終えられなかった審査がどの方向でなお必要なのかを、反論の余地のない明確さで示すことは、難しくないはずだ。結局のところ、官吏の指導者たちも健全な常識を備えた人々である。指導者たちは、果てしなく繰り返されるこの官吏危機に対して残りの国民全体がどれほど無関心であるかを、きっと感じ取っているはずだ。政府に次のように世間全体へ語る機会を与えれば戦術上の重大な誤りになることも、指導者たちはきっと分かっているはずだ。「見よ、無力な国家がその構成員自身によってこのように虐げられている。わずか4日の譲歩さえわれわれには示されなかった。必要な計算なしには判断できなかったというだけで、サンディカリズムが紛争を無理やり引き起こしたのだ」。

各省では仕事が止まり、税関は機能せず、電話と電報の業務は麻痺し、交渉から何が生まれたのか、政府がどんな譲歩をすべきだったのかを、実際には誰も知ることがないだろう。なぜなら、官吏自身が、ラメク博士の期限の4日前、日曜日を除けば3日前に武器を取ることで、それを妨げるからである。官吏はこのような袋小路に決して追い込まれてはならない。官吏たちは確かに計り知れない苦難を経てきたし、その要求の一つである最低俸給百七十万は広く共感を呼んでいる。百七十万! 協商国の批評家たちよ、聞くがよい。それは24ドルであり、アメリカでは衣料産業の労働者の週給にあたる。しかもこの週給は、37ドルや36ドルが標準である炭鉱業や建設業では、なおかなり上回られている。官吏たちにこの……をどれほど喜んで認めてやりたいことか……

ブルターニュを行くカラーフィルム

文芸欄。ブルターニュを行くカラーフィルム。エルヴィン・リーガー。

旅への誘い。

コンコルド広場では、フランスの大きな地方都市を象った寓意像が高い台座の上に鎮座している。その中には、北の二人の灰色の姉妹であるリールとルーアンと並んでナントもいる。ほぼその場所から、無数の人里が散らばる果てしなく大きな緑の庭のように、大地が西と南西へ向かって海辺まで広がっている。この夏めいた秋の日々、パリは、この緑の大地が白い白亜の断崖となって切り立ちながら落ち込んでいく青い鏡に、心をそそるほど近い。サン・ラザール駅の急行列車は、ゴルフやテニスをする人、釣り人、海水浴客を、3時間でディエップへ、それより少し長いだけでトルーヴィルやドーヴィル、ヴィラールやウルガットへ運んでいく。それがノルマンディーのすべてである。ノルマンディーには空のかすんだ紺碧があり、大聖堂と城の暗い灰色の魅力があり、その川はセーヌの銀のリボンである。しかし、より遠く、より知られていないために、ブルターニュはいっそう人を惹きつける。シャトーブリアンの敬虔な土地ブルターニュは、ノルマンディーに劣らず緑だが、より南国的な意味で、より暗く、同時により明るい。ここでは海はエメラルド色、村々の石壁は明るい灰色で、時にはほとんど白い。そして川、すなわち緑のロワールの岸辺の果樹園は、風車と石の十字架を伴い、ノルマンディーの丘陵地よりさらに平らに、黒い岩のある黄色い浜辺まで広がっている。

ドル。

パリから7時間、サン・マロの半時間手前のドルで途中下車すれば、ブルターニュが見せてくれる中でも比類のない眺望の一つを楽しむことができる。ドルは絵のように美しい小さな町で、素晴らしく簡素で非常に古い大聖堂と、蔦と高い木々に覆われた堀の跡がある。よそ者や観光客を乗せた自動車がグランド・リュを走ることはごくまれである。通りには、切妻屋根をもち、柱に支えられて奥深くまで開いた玄関廊を備えた灰色の家々が並ぶ。夕方には、伝統的な黒い服を着て、ヘアネットの上に白いブルターニュの小さな頭巾をかぶった女性たちが、これらの家の前に座っている。一方、オテル・グラン・メゾンの定食の席では、十数人が黙って食事をしている。フランスの小市民、聖職者たち、そして社交界の海水浴場には手が届かず、ここから毎日海岸へ出かける二人の貴婦人である。低い楕円形の円錐で頂上が平らになった姿のモン・ドルは、町の北西、徒歩半時間のところにある。まるで人の手でこの肥沃な平野に置かれたかのように、この花崗岩の塊は緑の風景からそびえ立っている。片側にほっそりしたカエデを植えた美しい道が丘のふもとまで続き、数百年を経た教会の塔をもつ村がその高みをよじ登っている。頂上では、数本の古い栗の木が暗い樹冠を揺らし……

解説

国防軍演習に参加した王子

ベルリン発の電報は、この王子を皇太子の長男フリードリヒ・ヴィルヘルム王子と呼んだ。この人物は1906年生まれのプロイセン王子ヴィルヘルムであり、ドイツ皇太子ヴィルヘルムとメクレンブルク=シュヴェリーン公女ツェツィーリエの長子である。ヴィルヘルム王子は、生まれた時点でドイツ帝位継承順位の第2位にあった。ドイツの君主制は1918年に廃止され、そのとき王子は12歳だった。帝政が続いていればいずれ帝位を継いだはずの若者が共和国の軍隊の演習に加わったことは、それだけで明らかな政治的意味をもった。英語版ウィキペディアは、王子が旧帝国の第1近衛歩兵連隊の軍服で演習に参加し、事前に政府の承認を求めなかったために公の醜聞を招いたと記している。紙面の電報は軍服に触れていない。電報は、ゼークトが大臣に知らせないまま王子の勤務を許可した点に焦点を当てた。

大臣の責任とゼークトの退任

紙面によれば、ゲスラー国防相は王子の参加を後になって知り、議会と世論の前でゼークトをかばえないと述べ、この件を責任ある大臣の締め出しだと呼んだ。紙面は、ゼークトが自ら責任を取って辞職願を出し、ヒンデンブルクがおそらくそれを受理すると伝えた。ワイマール共和国の年表サイトは、10月6日にゼークトがゲスラー国防相とヒンデンブルク大統領の強い要求によって陸軍統帥部長官を退かされたと記している。同じ年表は、王子の演習参加が事前に国防相と大統領の承認を得ていなかったことを理由に挙げている。年表によれば、ゼークトと政府指導部の関係は、ゼークトが政府のロカルノ政策に公然と反対したことや、ヒンデンブルクと互いの権限をめぐって争ったことで、すでに悪化していた。この件では、文民の大臣が議会に対する責任を根拠に陸軍統帥部の長を退けた。同時にこの件は、長く続いた対立に決着がつくきっかけにもなった。英語版ウィキペディアの王子の項目も、ゼークトがその結果辞任を強いられたと記している。

ラメク連立政権と官吏の俸給要求

ルドルフ・ラメクの第2次内閣は1926年1月15日に発足し、キリスト教社会党と大ドイツ国民党の連立で成り立っていた。ドイツ語版ウィキペディアの内閣の項目によれば、1926年秋、キリスト教社会党は官吏の俸給要求に対して態度を決めかねており、同項目はその要求を過大だと評している。官吏は大ドイツ国民党の有権者の大きな部分を占めていた。したがって、ストライキの脅しは連立の一方の党の中心的な支持層から出たものだった。この事情は、社説が官吏を責めるだけで終わらず、疑いを早く晴らすよう政府に迫った理由の一つと考えられる。社説は最低俸給を170万という数字で示している。オーストリアでは旧クローネのハイパーインフレーションを経て1925年にようやくシリングが正式通貨となったので、この数字は旧クローネ建ての額と読める。社説はこの額を24ドルに換算し、アメリカの衣料産業労働者の週給と比べて、要求が控えめであることを協商国の批評家に示そうとした。

社説が予期した内閣危機

社説は、官吏が首相の扉を叩くちょうどその時に内閣危機が起きることを官吏自身が恐れていると書いた。この内閣危機は間もなく現実になった。ドイツ語版ウィキペディアによれば、ラメク第2次内閣はますます混乱した印象を与えるようになり、10月15日に辞任を表明した。同じ項目によれば、内閣は1926年10月20日まで在任した。英語版ウィキペディアのラメクの伝記は、ラメクが国営の郵便貯金局をめぐる危機のさなかの1926年10月20日に辞任し、イグナーツ・ザイペルが再び後を継いだと記している。10月7日に社説がラメクにあと4日を与えるよう官吏を説いたとき、ラメク政権に残された期間は2週間ほどだった。

原文

Rücktrittsgesuch des Generalobersten v. Seeckt.

Gleiche Häuser: Rom, " Exzelsior " u. " Grand Hotel ". Neapel, " Exzelsior ". Rücktrittsgesuch des Generalobersten v. Seeckt. Wegen der Teilnahme eines Hohenzollernprinzen an Reichswehrübungen. Telegramm unseres Korrespondenten. Berlin, 6. Oktober. Generaloberst v. Seeckt, der Chef der deutschen Heeresleitung, hat dem Reichspräsidenten sein Entlassungsgesuch eingereicht. Der Anlaß hiefür ist die Teilnahme des ältesten Kronprinzensohnes, des Prinzen Friedrich Wilhelm, an Uebungen der Reichswehr in Württemberg. Wie sich jetzt herausstellt, war Reichswehrminister Dr. Geßler über den Vorgang in Unkenntnis. [?] Er hat erst nachher erfahren, daß v. Seeckt die Dienstleistung des Kronprinzensohnes genehmigt hatte. Wie wir erfahren, hatte es zwischen Dr. Geßler und v. Seeckt eine sehr erregte Auseinandersetzung gegeben. Der Generaloberst gab dem Minister gegenüber zu, von der Teilnahme des Prinzen Friedrich Wilhelm an den Uebungen gewußt zu haben, und der Minister erklärte daraufhin, er sei nicht in der Lage, v. Seeckt vor dem Parlament und vor der Oeffentlichkeit zu decken. Es handle sich hier um eine Ausschaltung des verantwortlichen Ministers. Generaloberst v. Seeckt hat nach der Unterredung sofort die Konsequenzen gezogen und sein Entlassungsgesuch eingereicht. In den Abendstunden wurde bekannt, daß Hindenburg das Rücktrittsgesuch v. Seeckts voraussichtlich annehmen werde. Aussöhnung der rumänischen

Gegen eine Politik der Kanapeefragen.

um vier Tage. Wien, 7. Oktober. Der Beamtenstreik wäre ein Streik des Mißtrauens. Wir können nicht glauben, daß Uebermut und Machtdünkel die ganze österreichische Beamtenschaft regieren. Selbst ein ausgepichter Sünder des Demagogentums muß heute wissen, wie es steht. Er kann sich nicht darüber täuschen, was Oesterreich zu erdulden hätte, wenn der Streik entstünde, mit keiner anderen Begründung, als daß Doktor Ramek noch einige Tage Frist beansprucht, um Material zu sammeln und Belege für seine Rechnungen. Es kann daher nur angenommen werden, daß die Beamtenschaft dem Worte des Kanzlers keinen Glauben schenkt; daß sie geheime Motive hinter der Verzögerung sucht, außersachliche Momente, durch welche die Verhandlungen verschleppt werden könnten zu ihrem taktischen Nachteil. Die Beamten fürchten offenbar, die Ministerkrise werde gerade in dem Zeitpunkt losbrechen, da sie an die Türe des Bundeskanzlers klopfen. Sie fürchten vielleicht auch, man werde sie dann bei weiterer Verspätung mit dem Argument des Weihnachtsverkehres packen, und sie würden noch mehr isoliert, ihr Standpunkt werde noch unpopulärer werden, der Streik noch peinlicher wirken sowohl für die Produzierenden wie für die Arbeiterschaft selber. Die Regierung hat die Verpflichtung, mit größter Raschheit all diese düsteren Vermutungen zu zerstreuen. Da einmal die alte Souveränität auf einen Hieb nicht wiederherzustellen ist, so kann es doch nicht schwer fallen, die Führer des Fünfundzwanzigerausschusses und der Technischen Union ins Bundeskanzleramt zu bitten, um ihnen mit unwiderleglicher Deutlichkeit zu zeigen, welche Unterlagen noch ermangeln und in welcher Richtung noch Prüfungen vorzunehmen sind, die nicht innerhalb der ursprünglich festgesetzten Zeit, nämlich bis zum 8. Oktober, vollendet sein konnten. Schließlich sind doch auch die Führer der Beamten Männer mit gesundem Menschenverstand, sie spüren doch gewiß auch, wie grenzenlos apathisch die gesamte übrige Bevölkerung diesen in endloser Reihe sich wiederholenden Beamtenkrisen gegenübersteht. Sie erkennen doch gewiß auch, daß es taktisch ein enormer Fehler wäre, der Regierung die Möglichkeit zu geben, der ganzen Oeffentlichkeit zu sagen: Seht, so wird ein hilfloses Staatswesen von seinen eigenen Angehörigen mißhandelt. Nicht einmal ein Entgegenkommen von vier Tagen ist uns erwiesen worden, der Syndikalismus hat den Konflikt vom Zaun gebrochen, weil wir nicht imstande waren, ohne die nötigen Kalkulationen zu urteilen. Man wird in den Ministerien feiern, die Zollämter werden nicht funktionieren, der Telephon - und Telegraphendienst wird versagen und niemand wird tatsächlich wissen, was aus den Verhandlungen herausgekommen wäre, welche Konzessionen die Regierung hätte geben sollen. Denn die Beamtenschaft selbst verhindert es, indem sie vier Tage, wenn wir den Sonntag abrechnen, drei Tage vor dem Termin Dr. Rameks zur Waffe greift. Die Beamtenschaft sollte sich keinesfalls in diesen toten Winkel drängen lassen. Sie hat sicherlich unendlich Vieles durchgemacht, und eine ihrer Forderungen, der Mindestgehalt von einsiebenzehntel Millionen, erweckt allgemeine Sympathie. Einsiebenzehntel Millionen! Hört es, ihr Kritiker aus den Ententeländern, das sind vierundzwanzig Dollar, das ist in Amerika der Wochenlohn für Arbeiter in der Kleidungsindustrie, und dieser Wochenlohn wird noch wesentlich übertroffen im Kohlenbergbau und im Baugewerbe, wo siebenunddreißig und sechsunddreißig Dollar Standard sind. Wie gern möchte man den Beamten diese ErFeuilleton. Farbenfilm durch die Bretagne. Von Erwin Rieger. an den Ufern des Flusses, der grünen Loire, mit seinen Windmühlen und steinernen Kreuzen flacher noch als das Hügelland der Normandie bis an den gelben Strand mit den schwarzen Felsen hingebreitet. Dol.

Farbenfilm durch die Bretagne.

Feuilleton. Farbenfilm durch die Bretagne. Von Erwin Rieger. Aufforderung zur Reise. Fast von der Stelle aus, wo auf der Place de la Concorde die Allegorien der großen Provinzstädte Frankreichs auf ihren hohen Postamenten thronen - unter ihnen, neben Lille und Rouen, den beiden grauen Schwestern des Nordens, Nantes - fast von dieser Stelle aus dehnt sich gegen West und Südwest wie ein unendlich großer, grüner, von abertausend Menschensiedlungen übersäter Garten das Land bis an die Gestade des Meeres. So verlockend nahe ist Paris in diesen sommerlichen Herbsttagen jenem blauen Spiegel, zu dem dieses grüne Land sich in weißen Kreidefelsen schroff hinabläßt, daß die Expreßzüge der Gare Saint-Lazar Golfund Tennisspieler, Fischer und Badende in drei Stunden nach Dieppe, in kaum etwas längerer Zeit nach Trouville und Deauville, nach Villars oder Houlgate bringen. Das ist die ganze Normandie mit dem duftigen Azur ihres Himmels, dem dunkelgrauen Zauber ihrer Kathedralen und Burgen, und ihr Strom ist das silberne Band der Seine. Anziehender noch, weil ferner und unbekannter, aber wirkt die Bretagne, das fromme Land Chateaubriands, nicht minder grün, jedoch in einem südlicheren Sinne zugleich dunkler und heller, smaragden hier das Meer, lichten Graus das Gemäuer der Ortschaften, ja zuweilen beinahe weiß, und der Obstgarten an den Ufern des Flusses, der grünen Loire, mit seinen Windmühlen und steinernen Kreuzen flacher noch als das Hügelland der Normandie bis an den gelben Strand mit den schwarzen Felsen hingebreitet. Dol. Macht man, sieben Stunden von Paris, eine halbe Stunde vor Saint-Malo, in Dol, halt, so darf man sich eines der unvergleichlichsten Fernblicke erfreuen, den die Bretagne zu bieten hat. Dol ist eine malerische kleine Stadt mit einer wunderschönen, schlichten, sehr alten Kathedrale und den Resten eines Stadtgrabens, voller Efeu und hoher Bäume. Höchst selten nur fährt ein Auto mit Fremden oder Touristen durch die Grande-Rue an den grauen Häusern mit ihren Giebeln und ihren weit nach innen hin offenen, von Säulen getragenen Vorhallen entlang. Abends sitzen vor diesen Häusern die Frauen in traditionellem Schwarz und dem weißen bretonischen Häubchen über dem Haarnetz. An der Table d'hote des Hotel Grand Maison aber essen schweigend ein Dutzend Leute: französische Kleinbürger, Geistliche, zwei adelige Damen, die sich ein mondaines Bad nicht leisten können und von hier aus täglich an die Küste fahren. Ein niederer, ovaler Kegel, oben abgeflacht, so liegt der Mont Dol eine halbe Stunde Weges nordwestlich vor der Stadt. Als wäre er künstlich auf diese fruchtbare Ebene gesetzt, ragt dieser Granitblock aus der grünen Landschaft empor. Eine schöne Straße, einseitig mit schlankem Ahorn bepflanzt, führt bis zum Fuße der Höhe, die ein Dorf mit einem vielhundertjährigen Kirchtum erklimmt. Oben schaukeln ein paar alte Edelkastanien ihre dunklen Kronen rlin Hotel Berlin er Fürstenhof am Potsdamer Platz. 12956 300 Zimmer 100 Privatbäder. Vollendetste in bezug auf Komfort, sanitäre l hyg. Einrichtungen Intimes Restaurant. Eingang durch das Hotel Vestibül. Berlin Palast-Hotel am Potsdamer und Leipziger Platz. Familienhotel. Vornehmstes Haus mit gediegenem Komfort sowie allen neuzeitlichen Annehmlichkeiten u. Bequemlichkeiten. Vorbildliche hygienische und sanitäre Einrichtungen - 120 Zimmer - 50 Badezimmer Telegramm-Adresse: Palasthotel Berlin. Berlin Hotel Baltic gegenüber dem Stettiner Bahnhof. Telegrammadresse Hobaltic. Fernruf: Amt Norden 9825, 9826, 9827. Modernes Haus mit 200 Betten. Fliessendes kaltes und warmes Wasser und Fernsprecher in jedem Zimmer Zimmer mit Privatbad. Solide Preise.

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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