La Tribune de Madagascar
- ある報告書
- 不法な値上げと不法な利得
- シリアにて
1926年10月7日付のラ・トリビューン・ド・マダガスカル紙は、1面に3本の記事を載せた。上院議員モーリス・オルディネールが署名したコラムは、自身の上院報告に基づくとみられ、フランスの植民地無線網を論じた。コラムによれば、この通信網は1911年に計画され、1917年にタナナリヴを含む4か所の大規模局の工事が始まったが、戦後の資材不足で遅れた。タナナリヴ局の運用開始は1925年にずれ込み、約4000万を費やした後もブラザヴィル局は動いていなかった。別の記事は、廃止された1916年の不法値上げ取締法を修正して復活させる動きと、刑法第419条の改正案を伝え、慎重な対応を求めた。シリアからの報告は、植民地の読者に届く情報が手直しされていたと批判し、ダマスカス、ドゥルーズ山、ハマでの反乱を描いた。報告によれば、ヨーロッパ人は銃火の中で退去し、旅客列車も襲撃された。
翻訳
ある報告書
[?]今日[?]海底線網の補完として、無線電信は海底電信より安い費用でその代わりを務めることができる。戦時は、ほかのあらゆる分野と同じく、この分野でもわれわれの活動を呼び覚ましていた。陸軍省、海軍省、郵政省は、1911年に定められた国際通信網の計画を実行することで合意した。この計画には、バマコ、ブラザヴィル、タナナリヴ、サイゴンの4か所に大規模な植民地局を建設することが含まれていた。工事は1917年に始まった。1919年7月31日の政令は、いわばわが植民地無線電信の憲章であり、通信網の建設と運用を次のように振り分けた。本国の基地局と大規模な植民地間局は郵政当局が受け持ち、地域網は各植民地政府が受け持つ。平和が戻ると、熱意は衰えた。政府の対応を擁護する人々は、戦後の経済混乱がもたらした資材調達の難しさと、遠い植民地では現地の資源が乏しいことを理由に挙げる。いずれにせよ、1917年に着工したサイゴン局は1923年になってようやく運用を始め、バマコ局とタナナリヴ局は1925年になってやっと運用を始めた。ブラザヴィル局はいまだに稼働していない。そうするうちに、わが国の財政難が生じた、いや、むしろ深刻になった。植民地間通信網には、1921年以来すでに約4000万が費やされている。見積もりでは、出力に応じて1000万から2000万というのが、大規模な無線電—
不法な値上げと不法な利得
……違反を認定するために定められていた。この1916年の法律は廃止された。現在、これを再び施行することが取り沙汰されているが、その際にはモロ・ジャフェリ氏とその同僚数人の提案に基づいて修正し、規定をより適用しやすく、同時により実効的なものにするという。上院は会期再開後まもなく新法案を審議することになる。賛成票が得られることに疑いはない。また、バルトゥー司法大臣は、刑法第419条の改正が不可欠であると表明した。同条の条文は本稿に続けて掲載する。この条文に付された要件のために、その適用はあまりにもしばしば難しくなっている。不法な値上げや不法な利得といったこれらの問題では、慎重であるべきだ。戦後数年間の不法投機をめぐる立法の歴史は、嘆かわしい歴史である。違反を正確に定めることができなかったため、人々は[?]の中でもがいていた。
シリアにて
[?]確かなのは、当地に届いた[?]が、念入りに見直され、訂正され、簡略化された要約にすぎなかったということだ。そのうえ、われわれはとりわけ、ダマスカスを揺るがした革命は鎮圧されたと聞かされていた。実際には、イギリスと同じく「例外的事態」が今も続いている。ダマスカスの革命は1924年7月3日に勃発し、9月末まで激しさを保った。次いでドゥルーズ山の惨事が、まずノルマン縦隊で、続いてミショー縦隊で起こり、さらに10月5日にハマが焼かれ、最後に10月18日、19日、20日のダマスカスの3日間があった。ヨーロッパ人が住む家の大半は火を放たれるおそれがあったため住人が退去し、避難所へ向かう道のりは銃弾がうなる中を進まなければならなかった。有刺鉄線の網で囲まれた市街に対する反徒の攻撃は猛烈だった。市外に出る手段は列車しかなく、それもほとんど安全とは言えなかった。旅客列車が1本、市の門前で襲撃されたからである。防戦は3時間にも及んだ。7人が死亡し、その中には中尉1人と兵士3人が含まれていた。救援の装甲列車が反徒の集団を追い散らした。
解説
フランスがマダガスカルとの無線連絡を必要とした理由
無線電信は海底電信より安く代わりを務めうるというコラム冒頭の主張は、フランスの通信網が抱えていた実際の弱点に向けられていた。1926年の地理学誌アナール・ド・ジェオグラフィーの短報によれば、世界の海底ケーブルのうちフランスが持っていたのは156本、総延長6万6000キロにすぎなかった。同じ短報は、インド洋のフランス線を2本の小さな孤立した区間として記述している。1本はレユニオンのサン=ドニとタマタヴを結び、もう1本はマジュンガとモザンビークを結んでいた。短報によれば、戦争が始まったときフランスは植民地との連絡を断たれるおそれに直面し、英国のケーブルを使わせてもらうことでようやくそれを避けた。フランスはこの必要に迫られて、無線電信網の整備に本格的に取りかかった。コラムが名を挙げるタナナリヴ局は、同地の読者にとって、外国のケーブルや心細い海底線に頼らずに本国と直接つながる手段を意味していた。
戦前の廃案から1919年の「憲章」まで
コラムが描く年表は、主な点で1926年の地理学誌の短報と一致する。短報によれば、戦前に提出された無線網の法案は下院の承認を得られなかった。大戦中には陸軍省、海軍省、郵政省がバマコ、ブラザヴィル、タナナリヴ、サイゴンに4つの大規模な植民地局を建設することで合意し、工事は1917年に始まった。短報はまた、1919年7月31日の政令を「わが植民地無線電信の憲章のようなもの」と呼んだのは上院公共事業委員会の報告者だったと記している。紙面ではモーリス・オルディネールが上院議員・報告者として署名しており、コラムも同じ表現を使っている。このため、見出しの「報告書」はこの上院委員会の報告そのものであり、コラムはオルディネール自身の報告の一部を植民地の読者に向けて載せたものと考えられる。サイゴン、バマコ、タナナリヴの運用開始年と、1921年以来約4000万という支出額はコラム自身の数字であり、今回参照した資料はこれらを別に確認していない。
1916年の値上げ取締法と繰り返された論争
不法値上げに関する記事は、すでに廃止された1916年の戦時法に触れている。1922年9月23日付のル・プチ・パリジャン紙に載った商業擁護の記事は、この法律を1916年4月20日の法と特定し、あらゆる取引にひどい負担をかけながらまったく効き目のない幻想だったと批判した。同じ1922年の筆者は、戦時に設けた不法値上げの罪を刑法に残せば悲惨な結果になると主張し、第420条を含む既存の刑法の条文で買い占め業者や本物の投機家を十分に罰することができると述べた。1926年の記事が慎重さを求め、戦後の投機立法を「嘆かわしい」と評したことは、4年前にすでに始まっていた論争の続きにあたる。記事がモロ・ジャフェリ氏の提案として紹介した案は、著名な刑事弁護士ヴァンサン・ド・モロ=ジャフェリが出したものである。モロ=ジャフェリは1919年にコルシカ選出の下院議員になっていた。上院で賛成票が得られるという見通しと、バルトゥーによる第419条改正の呼びかけは同紙の報道であり、今回の資料は上院が最終的にどう判断したかを示していない。
同紙のシリア年表と史実の比較
シリアからの報告は現地の体験に基づく記事であり、筆者は植民地に届く公式情報が手直しされていたことを強調している。歴史家は、シリア国と大レバノン全域に広がった大シリア反乱を1925年から1927年の出来事としている。同紙が勃発日とした1924年7月3日は、この記録より1年早い。同紙のハマの日付は1925年と合う。10月5日のハマ炎上は、ファウズィー・カウクジーが率いた1925年10月4日から5日にかけての2日間のハマ蜂起と一致する。このため、印刷された年は年表の違いではなく誤植か読み取りの誤りである可能性が高い。記事の言う「ドゥルーズ山の惨事」は反乱の初期段階にあたる。この段階でスルターン・アトラシュの軍は1925年7月21日にカフルで、8月2日にマズラアで勝利し、ドゥルーズ勢はフランスの救援部隊を全滅させた後にスワイダの砦を奪った。
1926年10月にも反乱が続いていた理由
ダマスカスの革命は鎮圧されたと植民地に伝えられていたという筆者の不満は、同紙が印刷された時点の軍事情勢と合っている。フランスは初期の敗北の後、近代兵器を持たせた数千人の部隊をモロッコとセネガルからシリアとレバノンへ送った。フランス軍はこれで多くの都市を取り戻したが、抵抗は1927年春まで続いた。1926年2月に全面的な恩赦が改めて示されると国内のほかの地域は平定されたが、ドゥルーズ山とダマスカスでは反乱が続いた。したがって、報告が描くダマスカス周辺の情景、つまり有刺鉄線で囲まれた市街、市の門前で襲われた旅客列車、救援の装甲列車は、1926年10月の時点でまだ終わっていない戦争の一部だった。
原文
Un rapport
[?] aujourd'hui [?] complément de son réseau sous-marin, la T. S. F. peut se substituer, à moindres frais, à la télégraphie sous-marine. La période de guerre avait réveillé, en cette matière comme en toutes autres, notre activité. Les ministères de la Guerre, de la Marine et des Postes se mirent d'accord pour exécuter le programme d'un réseau international établi en 1911, comportant la construction de quatre grandes stations coloniales, à Bamako, Brazzaville, Tananarive et Saïgon. Les travaux commencèrent en 1917. Un décret du 31 Juillet 1919, qui est comme la charte de notre radiotélégraphie coloniale, répartissait comme suit l'exécution et l'exploitation du réseau: à l'administration des Postes les stations de base dans la Métropole et les grandes stations intercoloniales, aux gouvernements coloniaux les réseaux locaux. Après la paix, l'ardeur se ralentit. Les défenseurs de l'action gouvernementale allèguent les difficultés de l'approvisionnement, conséquence du trouble économique d'après-guerre, et l'absence des ressources locales dans des colonies lointaines. Quoi qu'il en soit, le poste de Saïgon, commencé en 1917, ne fut mis en service qu'en 1923, ceux de Bamako et de Tananarive en 1925 seulement, et la station de Brazzaville ne fonctionne pas encore. Sur ces entrefaites, sont survenus, ou plutôt se sont aggravés, nos embarras financiers. Une quarantaine de millions ont déjà été dépensés, depuis 1921, pour le réseau intercolonial. On évalue entre 10 et 20 millions, selon la puissance, le coût d'une grande station radiotélé -
Hausse et bénéfices illicites
prescrites en vue de déterminer le délit. Cette loi de 1916 fut abrogée. Il est aujourd'hui question de la remettre en vigueur, mais modifiée sur une proposition de M. de Moro Giafferi et de quelques-uns de ses collègues, afin d'en rendre les prescriptions à la fois plus facilement applicables et plus efficaces. Le Sénat aura à examiner le nouveau projet peu après la rentrée; il n'est pas douteux qu'un vote favorable ne soit acquis. D'autre part, le garde des Sceaux Barthou a fait connaître qu'il était indispensable de modifier l'article 419 du code pénal, dont nous donnons le texte à la suite de la présente note. Les conditions auxquelles est subordonné cet article en rendant l'application trop souvent difficile. En ces matières: hausse illicite, bénéfices illicites, il convient d'être prudent. L'histoire de la législation sur la spéculation illicite dans les années d'après guerre est une histoire lamentable. Comme il était impossible de déterminer exactement le délit, on nageait en [?]
En Syrie
[?] certain que les [?] qui nous sont parvenues ici n'étaient que des résumés soigneusement revus, corrigés et simplifiés. Encore, nous a-t-on dit notamment que la révolution qui bouleversa Damas avait été réprimée; en réalité, «l'état de circonstances exceptionnelles,» comme en Angleterre, dure toujours. La révolution de Damas éclata le 3 Juillet 1924, elle fut violente jusqu'en fin Septembre, puis ce fut I - désastre du Djebel Druze avec la colonne Normand d'abord, avec la colonne Michaud ensuite, puis l'incendie de Hama le 5 Octobre, enfin les 3 journées de Damas les 18, 19 et 20 Octobre. La plupart des maisons habitées par des Européens furent évacuées, étant menacées d'incendie, et pour gagner les refuges ce fut sous le sifflement des balles que s'effectuait le trajet. Les attaques des rebelles sur la ville encerclée d'un réseau de fils de fer barbelés étaient furieuses. On ne pouvait quitter la ville que par le train, moyen d'ailleurs peu sûr, puisqu'un train de voyageurs fut attaqué aux portes de la ville. La défense ne dura pas moins de trois heures. Sept personnes furent tuées, dont un lieutenant et trois soldats. Un train blindé de secours dispersa les groupes rebelles.