Politika
- 「ジュネーヴの収支」
- ブルガリア借款の最初の帰結
- 世間では何が語られているか
1926年10月7日付『ポリティカ』は、ここで部分的に読む三つの記事を載せた。その年の国際連盟総会で第三委員会と総会の仕事に当たったラザル・マルコヴィチ博士は、9月26日の社説「ジュネーヴの収支」の訂正を求める書簡を編集長に送り、自分の働きについての記述に限って反論すると述べた。同紙は、ジュネーヴの収支はなお否定的だと応じた。続く記事は、ブルガリアのマケドニア亡命者の週刊紙「独立マケドニア」が10月11日から日刊になると伝え、これを国際連盟が後押ししたブルガリア難民借款の最初の帰結と呼んだ。「イビス」の署名コラムは、クルシェヴァツのジュパ地方で結婚して異動を拒んだクロアチア人の若い教員たちを紹介し、セルビア人とクロアチア人を別の民族とするクロアチアの政治家たちを皮肉った。
この版は、一部しか判読できない紙面から三つの抜粋を読む。OCRは段を混同し語を分断しているため、本文は画像で読める部分だけに従う。亡命者紙の日刊化の日付はOCRでは14日となっているが、この版は画像に従って10月11日とする。画像の継ぎ目でマルコヴィチの書簡は文の途中で切れ、同紙のイタリック体の返答と第3点・第4点も欠けているため、第三委員会についての彼の説明はこの読みに含まれない。イビスのコラムの冒頭とぼやけた一句は転写していない。判読の不確かな箇所は原文どおり[?]で示す。
翻訳
「ジュネーヴの収支」
「収支 [?]」
編集長殿
9月26日号に掲載された『ポリティカ』の上記の題の社説について、訂正としてこの書簡をお送りいたします。わが国とその威信にかかわり、本年の国際連盟総会におけるわが国代表の働きに関わる事柄は、称賛も過小評価もなく、ありのままに、忠実かつ真実に示されるべきだと、貴殿ご自身もお望みになるものと確信しております。上記の記事は情報不足から生まれたか、不正確な情報に基づいて書かれたものと私は考えます。したがって、記事に含まれる事実に反する主張がこの国の公益に何らかの損害を与えることのないよう、早いうちに撤回されることは、いずれにせよ貴紙の名声のためでもあります。
私は、記事のうち第三委員会と国際連盟総会における私の働きを述べた部分に限って申し上げます。ブルガリアの難民向け借款の承認をめぐるわれわれの働きに関する主張も訂正することもできるでしょう。というのも、私もいくらか……
ラザル・マルコヴィチ博士
ブルガリア借款の最初の帰結
……ジュネーヴの収支は、たとえわれわれがマルコヴィチ博士の確信を共有したとしても、これまでどおり否定的なままである。
ブルガリア借款の最初の帰結
ブルガリアでは、マケドニア亡命者の機関紙として「独立マケドニア」紙が4年前から発行されている。同紙はこれまで週1回の発行だった。ところが同紙は最新号の巻頭に大きな活字で、10月11日から毎日発行すると発表している。この喜ばしい知らせの中で同紙はこう述べている。「ついに、亡命者が自らの日刊紙を持つという大きな構想が実現した。それは、マケドニアの正当な大義を世界に訴える演壇である。いま必要なのは、時宜を得て生まれたこの立派な事業を成功によって大きく育てるための努力と気力と働きである」
世間では何が語られているか [?]
世間では何が語られているか
……環境であり、どこかクロアチアに配属されるほうがよいということであった。しかし彼らのたっての願いにより、結局、そこに1年間だけとどまるという条件で、彼らはクルシェヴァツのジュパ地方に配属された。ところが今年、教員の配属が決められる際に、このクロアチアの青年たちは再び文部省に現れ、大臣に直接面会して、自分たちを異動させないでほしいと懇願した。彼らは、ジュパではとても居心地がよく、しかも全員がそこで結婚したのだからなおさらだと述べた。
クロアチアの政治家たちはセルビア人とクロアチア人が二つの民族であることを証明しようと躍起になっているが、クロアチアの青年たちはこのように熱烈に彼らを否定している。
イビス
[?] ……行列
解説
1926年のジュネーヴにおける軍縮準備
マルコヴィチの書簡が扱う1926年の国際連盟総会は、連盟が軍縮会議の準備を進めていた時期に開かれた。米国のクーリッジ大統領は1926年1月4日の議会あて教書で、連盟理事会が米国に「軍縮会議のための準備委員会」への代表派遣を求めたと報告した。教書によれば、この委員会は1926年2月にスイスのジュネーヴで開かれる予定だった。クーリッジは、平和の保障を定めた最近の欧州諸国の条約を受けて、さらなる国際協定を結ぶことがその自然な帰結だと述べ、それを軍備の制限と結びつけた。セルブ・クロアート・スロヴェーン王国の代表団は、軍備制限が連盟の議題として動いていた時期にジュネーヴで活動したことになる。抜粋はマルコヴィチが第三委員会での活動を具体的に述べる前に途切れており、彼がそこでどの立場を取ったかはこの紙面から確かめられない。紙面から読み取れるのは論争の経過である。9月26日の社説が代表団の成果を厳しく評価し、代表の一人が公開の訂正を求め、同紙はなお否定的な評価を維持した。
国際連盟によるブルガリア難民借款
マルコヴィチと『ポリティカ』が論じたブルガリア難民借款は、第一次世界大戦後のブルガリアが抱えた難民問題から生まれた。ブルガリアにはエーゲ海側トラキア、マケドニア、ドブロジャ、ユーゴスラヴィアとの国境地帯から難民が流れ込んだ。ヌイイ条約の後、ブルガリア政府は国際借款を得るのに戦勝国の事前承認を必要としたため、借款の調達に大きな困難を抱えた。国際連盟の財政部門の使節ルネ・シャロンは1926年からこの問題に取り組み、難民問題の深刻さを調べたうえで国際借款を提案し、連盟はこれに同意した。ブルガリア政府は1926年12月22日に、240万ポンドと追加の450万ドルからなるいわゆる難民借款に署名した。借款の資金は主に安価な新しい住宅、家畜の購入、公共インフラの整備にあてられ、約25万人の難民の生活再建を支えた。マルコヴィチの書簡は借款の承認をこの年のジュネーヴでの仕事として扱っており、正式な署名はこの紙面の2か月以上後に行われた。「ブルガリア借款の最初の帰結」という見出しは『ポリティカ』自身の主張である。同紙は亡命者紙の日刊化を借款の結果として示したが、記事は両者の資金上のつながりを示す証拠を挙げていない。記録に残る借款の使い道は、難民の住宅、定住の支援、インフラ整備だった。
IMROと「独立マケドニア」構想
亡命者紙の題名「独立マケドニア」は、内部マケドニア革命組織、略称IMROが戦間期に掲げた政治目標の名と一致する。第一次世界大戦後、IMROはギリシャ、ユーゴスラヴィア、ブルガリアの領土にまたがる自治の、あるいは独立したマケドニアをつくる構想を打ち出した。この構想はマケドニアを列強の保護下に置くもので、実際には第二のブルガリア国家を意味した。IMROはマケドニアのブルガリア領部分であるピリン・マケドニアを事実上完全に支配し、そこを拠点にユーゴスラヴィアとギリシャへの奇襲攻撃を行った。IMROは右派のブルガリア政府から非公式の支援も受けていた。ベオグラードの新聞が亡命者の週刊紙の拡大を警戒すべき知らせとして報じたのは、この背景による。同紙が掲げた「マケドニアの正当な大義を世界に訴える」という目標は、当時セルブ・クロアート・スロヴェーン王国に属していた地域も含んでいた。同紙が4年間週刊で出ていたことと10月11日から日刊になることは、ここでは『ポリティカ』の報道だけが伝えている。同紙とIMRO指導部との正確な関係は、この紙面から確かめられない。
原文
„Биланс Женеве“
" Биланс [?] Господине Уредниче, Поводом уводног чланка у " Политици " под горњим насловом, објављеног у броју од 26 септембра, част ми је послати вам ово писмо као исправку, у уверењу да ћете и Ви сами желети да се ствари које се тичу наше државе и њенога угледа и које се односе на рад наших делегата на овогодишњој скупштини Лиге Народа, преставе онакве какве су, верно и истинито, без хвале и без потцењивања. Ја верујем да је горњи чланак потекао из необавештења или да је писан на основу нетачних информација. па је свакојако у интересу угледа Вашега листа да се неверна тврђења у њему садржана благовремено опозову да не би нанела какву штету јавним интересима ове земље. Ја ћу се ограничити на онај део чланка који говори о моме раду у трећој комисији и у Скупштини Лиге Народа. Могао бих да исправљам и тврђења која се тичу нашега рада у погледу одобрења зајма бугарског за избеглице, јер сам и ја у неколико
Прва последица бугарског зајма
ланс Женеве, све и кад бисмо поделили уверење г. др. Марковића, остаје као што је и био - негативан. Прва последица бугарског зајма У Бугарској већ четири године излази као орган македонске емиграције лист " Независима Македонија ". Тај лист излазио је једанпут недељно. У последњем свом броју међутим објављује крупним словима на уводном месту да од 11 октобра почиње излазити сваки дан. У тој радосној вести каже се: " Најзад је остварена велика идеја да емиграција добије свој свакодневни лист, трибуну са које ће пледирати свету за правичну ствар Македоније. Сад је потребан напор, енергија и рад да би се успехом увећало ово лепо дело које долази у добар час ". Шта се говори? [?]
Шта се говори?
средини и да би боље било да буду постављени негде у Хрватској. Али на њихово наваљивање поставе их најзад у крушевачкој жупи с тим да тамо остану свега годину дана. Међутим, када се ове године радио учитељски распоред, ови хрватски омладинци поново су се појавили у Министарству Просвете, јавили се лично министру и умолили га да их не премешта изјављујући да се у Жупи врло добро осећају у толико пре што су се сви тамо и поженили. Хрватски политичари се убише доказујући како су Срби и Хрвати два народа а хрватска омладина их овако одушевљено демантује. Ибис. [?] ИЧКА ЛИТИЈА