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· チュニス(チュニジア) · フランス語

Le Petit Matin

ル・プチ・マタン紙の1926年10月9日付1面は、フランス銀行による金貨と銀貨の買い取りを論じたシャルル・アレクサンドルの社説を中心に組まれた。社説はフランス各地の窓口に群衆が押し寄せた様子を伝え、この買い取りを財政上は必要だが道徳的には戦時に硬貨をため込んだ者への報奨だと論じた。社説はまた、実行できる政治家はポワンカレしかいなかったと述べ、チュニジアに隠された硬貨をアルジェリア銀行に買い取らせるよう政府に求めた。閣議の記事は、タルデュー公共事業相による商船部門の統合と人員削減、海員登録の境界見直しを詳しく伝え、1年兵役制の準備やパリ電話網の自動化にも触れた。ベルリン発の長い記事は、ホーエンツォレルン家の王子をめぐる一件を受けたフォン・ゼークト将軍の辞任について、ヒンデンブルク大統領にかかる圧力を分析した。紙面には、英国の炭鉱労働者がボールドウィンの提案を拒否したことや、1925年兵の除隊日程を伝える短い記事も並んだ。

翻訳

苦杯を底まで!

認めるのは気が重いが、それでもやはり次のことを確認せざるをえない。人生一般がいつも美しいものとは限らないとすれば、とりわけ政治の世界は、繊細で几帳面なまでに誠実な良心のためにはできていない。いま、あらゆる新聞が、フランス銀行による金貨と銀貨の買い取りが引き起こしている騒ぎを報じている。マルセイユとパリでは、押し合いや雑踏を防ぐために本格的な警備態勢が敷かれた。人々の気性がより激しく、何よりより欲得ずくのトゥーロンでは、相場が下がるかもしれないという知らせに、まさに恐慌が起きた。エキュ銀貨やルイ金貨を持つ者たちが、文字どおり窓口へ殺到したのである。叫び声が上がり、殴り合いが起き、警察が介入しなければならなかった。リヨンでは、近郊の農夫が5フラン銀貨50キログラム入りの袋を積んだ手押し車をフランス銀行まで押していき、大評判になった。結局、公式発表によれば、1週間で一億六千百五十万近くの金貨と銀貨が買い取られたという。経済学者や金融家たちは、この操作がもうしばらくこの調子で続けば、わが国の経済状況、ひいては為替相場は目に見えて改善すると断言している。そう願おう。そして何よりそう信じよう。これらの措置の成功を固く信じなければ、フランの下落で金の提供がもうかる取引になるのを待たずに祖国へ金を差し出した人々の胸に、どれほどの恨みが残ることだろうか。そして、われわれ古くからのフランス本国人は、ある種の感謝の念に胸を熱くしながら、あの忠誠と愛着の表明を思い出す。大砲がアルトワやシャンパーニュでとどろいていたころ、チュニスでは、ユダヤ教徒やイスラム教徒や外国人がわれわれとともにアルジェリア銀行へやって来て、国防のために求められた金をいくらかでも差し出したのである。当時は誰も投機などしなかった。傷ついた祖国の呼びかけに応えて得ることを誇りとした唯一の利益は一枚の証明書であり、多くの人はそれを銃後の民間人の名誉表彰とみなしていた。哀れな名誉表彰よ!今日では、それを見下した目で眺める者もいる。そして、愛国心や保護国への感謝よりも自分の利己心を優先させた者たちは、硬貨を両替しながら、金より名誉を選んだ心ある人々の素朴さを笑っている。人が何を言おうと、何をしようと、わが美しいルイ金貨と堂々たる5フラン銀貨を現在の相場で買い戻すことは、わが国の財政の安全と立て直しのために有益な、さらには不可欠な操作でさえあるかもしれない。しかしそれ自体は、何にもまして不道徳である。これは市民としての義務を逃れた者への報奨金であり、このような決定は大臣にとって重大な責任を負うことだった。だが、時代の不幸が、国を救おうとするためにはここまで来ることを求めた以上、このような措置をあえてとりうる政治家はただ一人、現首相しかいなかった。ル・プチ・マタン紙はポワンカレ氏に対してしばしば批判的な、時には厳しい姿勢を示してきたからこそ、こう宣言する権利がある。彼の不倶戴天の敵にとってさえ、彼は「偉大なロレーヌ人」であり続け、何ものにもひるまず何ものにも止められない、熱烈で確信に満ちた愛国心を体現している。彼以外の誰かがフランス硬貨の買い戻しを決めていたなら、単純な群衆の目には、裏切り者か、フランの敗北主義者に雇われた手先と映っただろう。議論や論争や侮辱が起こり、重大な疑惑が政府に重くのしかかり続けたことだろう。ポワンカレ首相だけは、疑いようのない人物であるがゆえに疑われずにいられた。悪しき市民の強欲が得をするはずのこの操作が、心から愛国的なすべてのフランス人の激しい憤りをかき立てずに進められたのは、そのためである。自分たちによく言い聞かせるために繰り返そう。フランスは金と銀をすみやかに回収することを絶対に迫られていたのであり、われわれは悲しい心で頭を垂れる。だが、それならば最後までやり抜くべきだ。苦い杯を底のおりまで飲ませるがよい。そしてせめて、チュニジアにいまも何千何万と隠されているドゥーロ銀貨や金貨を活用すべきだ。ここでは、時には高い地位にある者まで含め、あまりに多くの人々がこれらの硬貨をめぐって多かれ少なかれ不正な闇取引に手を染めており、それを終わらせることは急務である。政府は、アルジェリア銀行に対し、姉にあたるフランス銀行にならうよう命じることで、それができるし、そうしなければならない。そうなれば、前日まで容赦なく取り締まっていた取引を警察とその警官が守るという、奇妙な光景が見られることになる。われわれの被保護民にはよく理解できないかもしれない。だが、この……恐ろしい治療薬がフランスを救うはずだというのが本当なら、それが何だというのか。ああ、高くつきすぎた勝利や、打ち負かしはしたが武装を解いていない敵に与えた平和とは、なんと悲しいものか。

シャルル・アレクサンドル

ドゥメルグ氏、第20回自動車サロンを正式に開幕

パリ、10月8日発――共和国大統領はきょう午後、第20回自動車サロンを正式に開幕した。ドゥメルグ氏は軍事室のドゥナン大佐を伴い、午後2時15分に自動車でグラン・パレに到着し、会長のプティエ男爵と組織委員会のメンバーに迎えられた。それに先立って、ボカノフスキー商務相、ブジュ・セーヌ県知事、モラン警視総監、ピエール・ゴダン市議会議長、パリ軍事総督グロー将軍、フランス自動車クラブ会長ド・ヴォギュエ伯爵、そして自動車界の多数の名士が到着しており、公式の行列に加わった。共和国親衛隊が「ラ・マルセイエーズ」を演奏するなか、大統領はサロン総監督アンリ・セザンヌ氏の案内で各展示の見学を始めた。

次の帰還、ドイツへ

英国の炭鉱危機
ロンドンで地区代表者会議

ロンドン、10月8日発――けさ英国の炭鉱でさらに2404人が仕事に戻った一方、きょうロンドンで会議を開いた地区代表者たちは、政府提案に関する炭鉱労働者の投票結果を連盟執行委員会のメンバーに伝えた。指導者たちは、ボールドウィン氏の提案が73万7000票対4万2000票で炭鉱労働者に拒否されたことを確認するほかなかった。スミス氏とクック氏およびその同僚たちは69万5000票の差の多数に従い、拒否を正式なものとすることを決めた。続いて、スミス委員長の反対にもかかわらず、過激な性格の決議が59万4000票対19万4000票で可決された。スミス委員長は、炭鉱の代表者たちに指示を与えることは拒みながらも、執行部はこれほど戦闘的な措置をとることには賛成していないと述べた。その措置とは次のとおりである。1. 炭鉱の安全を確保している人員の引き揚げ。2. ……へ輸入される石炭に対する禁輸

タルデュー氏、船員のための重要な改革

タルデュー氏、船員のための重要な改革

パリ、10月8日発――閣議はけさ9時30分、ドゥメルグ氏の主宰によりエリゼ宮で開かれた。審議は13時まで続いた。その詳細は次のとおりである。ブリアン氏は同僚閣僚に対外情勢を説明した。司法相バルトゥー氏は、来る10月24日にノジャン=ル=ロトルーで行われる、元共和国大統領ポール・デシャネル氏の記念碑の除幕式に政府を代表して出席し、政府の名で演説する役に指名された。内相アルベール・サロー氏は、近く公布される政令の大綱を閣議に説明し、閣議はこれを承認した。この政令は、行政の地方分権と権限分散に関する一連の措置を定めている。陸相パンルヴェ氏は、幹部と兵員および徴兵に関する法案の大筋を説明した。これらの法案は事前に最高軍事会議の意見に付されることになっており、1年兵役制の準備を目的としている。公共事業相タルデュー氏は、商船部門で実施することを決めた改革と経費節減を発表した。商船隊の部局は造船の部局と統合される。課は18から13に減らされる。本省ではいくつかの職が廃止される。一つの局と、いくつかの海員登録区が廃止される。現在セーヌ川とガロンヌ川で河口から120キロメートル以上の地点に定められている海員登録の境界は見直される。船員たちが長く求めてきたこの改革によって、海員廃疾基金と共済基金の負担は大きく軽減される。タルデュー氏はいくつかの新たな財源を提案し、海員登録隊の全面的な再編を発表した。閣議は、商務・郵便電信電話相ボカノフスキー氏の報告に基づき、パリの電話網の自動化に直ちに着手することを決めた。来週開かれる急進党の年次大会に複数の閣僚が出席する予定のため、次回閣議は10月17日の日曜日に開くことが決まった。

* * *

海員登録の境界は現在、セーヌ川ではポン=ド=ラルシュ、ロワール川ではトゥアレ、ジロンド川では[?]である。このため、沿岸から120キロメートルまでに住む5000人の漁師が、遠洋船に乗り組む登録海員と同じ恩恵を受けている。後者はしばしば職を失い、船が係留されている間は無給の休業日となる。この不合理が共済基金の財源を圧迫していた。タルデュー氏の改革は500万の節約をもたらし、海相と陸相の合意により、海軍の兵員数を減らすこともない。外される5000人の登録海員の補充が必要になった場合には、陸軍の専門兵1万2000人(機関兵、電気兵)が海軍に回されることになる。

アルフォンソ13世に対する陰謀者に有罪判決

フォン・ゼークト将軍の突然の辞任をめぐるドイツの陰謀と難局

……フォン・ゼークト将軍の突然の辞任について

ベルリン、10月8日発――フォン・ゼークト将軍の辞任に関するヒンデンブルク元帥の決定は、今夜には出ない見込みである。大統領はきょう、ゲスラー氏とフォン・ゼークト将軍を引見した。大統領はさらにマルクス首相とも会う予定だが、首相はきょう午後にようやく帰京し、まず自党の会合に出向いた。内閣はきょう午後には開かれなかった。この問題は国防相と大統領だけにかかわるからである。しかし、ベルリンにいる閣僚たちがゲスラー氏との連帯を表明したため、すでにヒンデンブルクに政治的圧力がかけられたと言ってよく、ヒンデンブルクは内閣危機の脅威に直面している。右派は、二人のうちどちらかを犠牲にしなければならないならゲスラー氏のほうがよいと言って、この方向で大統領に働きかけようとしており、将軍を犠牲者として描くことで立場を入れ替えさせようとしている。ドイツ政府はどの程度まで将軍と袂を分かったのか、という問いが出ている。より正確に言えば、政府は将軍を見捨てたのである。元皇太子の息子をめぐる出来事はそれ自体は取るに足らないものだが、その出来事を取り巻く状況が政府の政策の妨げとなる性質のものだからである。マルクス氏とシュトレーゼマン氏は、自分たちが進める対外政策を考えれば、ホーエンツォレルン家と関わって身を危うくする将軍を支持しているように見られるわけにはいかない。そのうえフォン・ゼークトは、この一件を通じて、最近社交の場で元皇太子妃に会い、彼女が息子のことをほのめかしたが、自分はそれを取り上げなかったとも語っていたようである。部下たちはもっと騒がしく、元皇太子の息子の国防軍入りを祝った。しかし、フォン・ゼークトがそれを知らなかったはずはない。ゲスラーが調査を命じるとすぐ、将軍は調査は無用であり、自分は事情を承知していると言明したのである。その2日前、将軍はヴォルフ通信社を通じて否定声明を出していた。この不運な振る舞いが、将軍を身動きのとれない立場に追い込んだ。もし将軍がすぐに真実を語り、世論を欺いていなければ、事件の結末は変わっていたかもしれない。新聞の策動や右派の政治家たち以上に深刻だったであろうのは、一部の軍人の陰謀である。ドイツ中部と北部の一部の駐屯地の将校たちが、ヒンデンブルクに圧力をかけてフォン・ゼークトの留任を押しつけようとしているといううわさが流れている。また、ポンメルンと東プロイセンの超国家主義的な勢力を後ろ盾にする別の者たちは、ラインハルト将軍の任命に強く反対し、フォン・ロスイベルクの擁立を唱えているという。彼らはロスイベルクをクーデターに利用できると考えている。こうした陰謀は、軍内で大きな権威を持つヒンデンブルクの決定の前には持ちこたえられないだろう。だが明らかなのは、大統領が政治顧問に意見を求めるとしても、フォン・ゼークトの後任選びで大統領自身が重要な役割を果たし、この任命の結果として大きな責任を負うことになるということである。

ドイツ内閣総辞職か?

ロンドン、10月8日発――ベルリンからモーニング・ポスト紙に伝えられたところによると、議会筋では、フォン・ゼークト将軍の辞任が受理されない場合にはドイツ内閣が総辞職するという話が出ている。

年次兵、帰郷へ!

パリ、10月8日発――1925年兵第1次分の兵士と、同日付で現役義務を満了した兵士の除隊は、次の条件で行われる。本国およびザールの兵士は11月9日火曜日に帰郷させ、所属部隊の名簿から抹消し、11月10日に予備役に編入する。ライン軍は11月2日から帰郷させ、名簿から抹消して予備役に編入する[?]

解説

フランス銀行が硬貨を時価で買い取った理由

シャルル・アレクサンドルが描いた窓口の混乱は、ポワンカレによるフラン救済策の一部として起きたものである。1928年10月のフォーリン・アフェアーズ誌の論文は、1926年7月までにフランが1ポンドあたり250フラン近くまで下がり、戦前の価値の10分の1になったと振り返った。その後に取られた措置の一つとして、フランス銀行は外国為替を売買し、国内の保有者から金をほぼ時価で買い取ることを認められた。同論文はこの権限を1926年8月7日の法律に基づくものとしている。社説が市民としての義務を逃れた者への報奨金と非難したのは、紙幣フランが戦前の価値の10分の1ほどに下がっていた当時に、硬貨を時価で買い取ったからである。アレクサンドルは、大戦中にルイ金貨を手元に残した人々がいまになって高い代金を受け取る一方で、戦時に金を差し出した人々は証明書一枚しか得なかったと考えた。1週間で1億6150万近くが買い取られたという数字は、同紙が公式発表から引いたものである。社説は5フラン銀貨の買い取りにも触れているが、同論文の記述は金の買い取りだけを扱っている。社説が引いた経済学者たちの予想どおり、フランは回復した。同論文によれば、フランの価値は1926年7月23日から12月20日までに倍になった。

フランス銀行の妹分としてのアルジェリア銀行

アレクサンドルがアルジェリア銀行に姉にあたるフランス銀行にならえと求めたのは、二つの発券銀行が首脳人事で強く結びついていたことと関係がある。エミール・モローは1926年から1930年までフランス銀行総裁を務め、1926年にはポワンカレ・フランの安定化に向けた同行の取り組みを率いた。モローはそれ以前に、1902年に財務相の官房長を務め、アルジェリア銀行の総裁も務めていた。社説自体も、アルジェリア銀行をチュニジアの金がフランスへ渡る窓口として扱っている。社説は、大戦中にチュニスのユダヤ教徒やイスラム教徒や外国人が国防のために同行へ金を持ち込んだことを回想した。保護国にドゥーロ銀貨や金貨が何千何万と隠され、高い地位の者までが闇取引をしているという記述は、同紙自身の主張である。同紙はこの主張を根拠に、買い取りをチュニジアにも広げるよう政府に迫った。

演習に参加した王子がゼークトの失脚を招いた経緯

ベルリン発の記事が書かれた時点で、ゼークトの失脚は実質的にすでに決まっていた。ワイマール共和国の年表は、ゼークトが1926年10月6日に、ゲスラー国防相とヒンデンブルク大統領の求めで陸軍統帥部長官の職を退かされたと記している。同じ年表によれば、原因はホーエンツォレルン家のヴィルヘルム王子が、国防相と大統領の事前承認を得ないまま国防軍の演習に参加したことである。記事が元皇太子の息子と呼んだ人物は、このヴィルヘルム王子である。年表はまた、ゼークトが政府のロカルノ政策に公然と反対したため、政府指導部との関係がそれ以前から悪化していたと述べている。この記述は、マルクスとシュトレーゼマンが自らの対外政策を考えればホーエンツォレルン家と関わる将軍を支持しているように見られるわけにはいかないという記事の分析と一致する。ゼークトは君主主義者であり、旧帝国陸軍との伝統的なつながりを保つよう促した人物だった。ヴォルフ通信社を通じた否定声明や、将軍の留任を狙う将校たちの策動についての記述は、特派員自身の報道である。

ゼークトの後任として陸軍の長に就いた人物

ゼークトの後任には、1926年10月9日にヴィルヘルム・ハイエが陸軍統帥部長官として就いた。この日付は本号の発行日と同じである。記事は、ヒンデンブルクが後任選びを左右すると見込み、国家主義者がラインハルト将軍の任命に反対してフォン・ロスイベルクを推していると伝えた。同紙がヴァルター・ラインハルトを指していたのなら、ラインハルトはゼークトより前に陸軍統帥部長官を務めた人物である。ハイエは、ゼークトが国防軍の秘密の参謀本部にあたる兵務局を率いていたころ、その主な補佐役を務めていた。ハイエの在任中、陸軍統帥部はゼークト時代に持っていた政治的影響力の多くを失い、国防省の権限が強まった。文民政府が将軍を抑えにかかったという記事の描き方は、この結果と一致している。

原文

JUSQU’A LA LIE !

C'est ennuyeux à avouer, mais on est bien obligé cependant de constater que si la vie, en général, n'est pas toujours une très belle chose, la vie politique, en particulier, n'est pas faite pour les consciences délicates et scrupuleusement honnêtes. En ce moment, toute la presse relate les incidents auxquels donne lieu l'achat par la Banque de France des monnaies d'or et d'argent. A Marseille et à Paris on a organisé de sérieux services d'ordre pour empêcher les bousculades et les cohues. A Toulon, où les esprits sont lus vifs et surtout plus intéressés, à la nouvelle d'une baisse possible des cours, il y eut un véritable affolement; les porteurs d'écus et de louis se ruèrent littéralement aux guichets. Il y eut des cris, des coups, et la police dut intervenir. A Lyon, un cultivateur de la banlieue obtint un véritable uccès, en poussant vers la Banque de France, une brouette chargée d'un sac de 50 kilogrammes de pièces de cent sous. En une semaine, enfin, il aurait été acheté, d'après les communiqués, pour près de 161 millions et demi de monnaies d'or et d'argent. Les économistes et les financiers affirment que si l'opération continue ainsi quelque temps encore, notre situation économique, et par là notre change, s'en trouvera sensiblement améliorée. Espérons-le et surtout croyons-le, car sans une grande foi dans le succès de ces mesures, quelle rancœur chez ceux qui n'ont pas attendu pour apporter leur or au pays que la chute du franc en ait fait une opération rémunératrice. Et ce n'est pas sans une certaine émotion reconnaissante que nous autres, vieux Français de France, nous nous souvenons de ces manifestations de loyalisme et d'attachement, au cours desquelles, pendant que le canon grondait en Artois ou en Champagne, des Israélites, des Musulmans, des étrangers vinrent, à Tunis, apporter avec nous, à la Banque d'Algérie, un peu de l'or réclamé pour la défense nationale. A cette époque on ne spéculait pas et le seul bénéfice qu'on était fier de retirer de sa réponse à l'appel du pays meurtri, était une attestation que beaucoup considéraient comme le tableau d'honneur des civils de l'arrière. Pauvre tableau d'honneur! Aujourd'hui, d'aucuns le regardent d'un œil dédaigneux et ceux qui ont mis leur égoïsme au-dessus de leur patriotisme et de leur reconnaissance envers la nation protectrice, sourient en changeant leurs pièces, de la naïveté des hommes de cœur qui ont préféré l'honneur à l'argent. Quoiqu'on dise et quoiqu'on fasse, le rachat au cours actuel de nos beaux louis et de nos majestueuses pièces de cinq francs, peut être une opération utile, indispensable même pour la sécurité et le rétablissement de nos finances, mais elle est en elle-même immorale au premier chef. C'est la prime à la désertion civique, et pareille décision était pour un ministre une grave responsabilité à assumer. Mais puisque le malheur des temps exigeait qu'on en vînt là pour essayer de sauver le pays, un seul homme politique pouvait oser prendre de pareilles mesures, c'était le président du Conseil actuel. Le Petit Matin a assez souvent fait preuve vis-à-vis de M. Poincaré d'un esprit critique, parfois sévère, pour avoir le droit de proclamer que même pour ses irréductibles ennemis, il demeure «le grand Lorrain», personnifiant le patriotisme ardent, convaincu, que rien ne rebute et que rien n'arrête. Tout autre que lui, en décidant le rachat des monnaies françaises, serait apparu à la foule simpliste comme un traître ou comme un agent à la solde des défaitistes du franc. Il y aurait eu des discussions, des polémiques, des insultes, et de graves soupçons auraient continué à peser sur le Gouvernement. Le président Poincaré seul devait demeurer insoupçonné, parce que insoupçonnable, et c'est ce qui explique que cette opération dont l'avarice des mauvais citoyens devait bénéficier, ait pu être conduite sans soulever chez tous les Français sincèrement patriotes, une violente indignation. Nous le répétons, pour bien nous en persuader, la France était dans l'obligation absolue de récupérer rapidement de l'or et de l'argent et nous nous inclinons, le cœur triste. Mais alors, qu'on aille jusqu'au bout. Qu'on nous fasse boire le calice jusqu'à la lie, et qu'au moins on profite des douros et des pièces d'or qui se cachent encore, par milliers et par milliers en Tunisie. Il y a trop de gens, parfois même haut placés, qui se livrent ici à ce sujet à un trafic clandestin plus ou moins honnête pour qu'il ne soit pas urgent d'y mettre fin. Le Gouvernement le peut et le doit en donnant l'ordre à la Banque d'Algérie, d'imiter sa sœur aînée, la Banque de France. On aura ainsi le curieux spectacle de voir protéger par la police et ses agents le commerce, que la veille encore on traquait sans pitié. Nos protégés ne comprendront peut-être pas très bien, mais qu'importe s'il est vrai que ce.. terrible remède doive sauver la France. Quelle triste chose, hélas! qu'une victoire trop coûteuse ou qu'une paix accordée à un ennemi vaincu mais non désarmé. Charles ALEXANDRE. M. Doumergue inaugure officiellement le 20e Salon de l'Automobile PARIS, 8 octobre. - Le Président de la République inaugura officiellement cet après-midi le vingtième Salon de l'Automobile. M. Doumergue, accompagné du colonel Denain, de sa Maison Militaire, arriva à 14 h. 15 en automobile au Grand Palais, où il fut reçu par le baron Petiet, président, et les membres du comité d'organisation. Il avait été précédé par MM. Bokanowski, ministre du Commerce, Bouju, préfet de la Seine, Morain, préfet de police, Pierre Godin, président du Conseil municipal, le général Gouraud, gouverneur militaire de Paris, le comte de Vogué, président de l'Automobile-Club de France et de nombreuses personnalités du monde automobile qui se joignirent au cortège officiel. Tandis que la garde républicaine jouait la «Marseillaise» le Président de la République, sous la conduite de M. Henri Cézanne, commissaire général du Salon commença la visite des différentes expositions. Prochain retour, en Allemagne LA CRISE MINIÈRE ANGLAISE Une conférence à Londres des délégués régionaux LONDRES, 8 octobre. - Alors que 2. 404 hommes de plus se sont remis au travail ce matin dans les charbonnages du RoyaumeUni les délégués régionaux, réunis en conférence aujourd'hui à Londres, ont communiqué aux membres du comité exécutif de la Fédération les résultats du vote des mineurs sur les propositions gouvernementales. Les leaders ne purent que constater que par 737. 000 voix contre 42. 000 l'offre de M. Baldwin avait été repoussée par les ouvriers des charbonnages. MM. Smith et Cook et leurs collègues s'inclinèrent devant la majorité des 695. 000 voix et décidèrent que le rejet était officiel. Une résolution de nature extrémiste fut ensuite votée par 594. 000 voix contre 194. 000 malgré l'opposition du président Smith, qui tout en refusant donner des directives aux représentants des charbonnages, déclara que l'exécutif n'était pas en faveur de la prise de mesures aussi militantes. Ces mesures sont: 1. Rappel des hommes assurant la sécurité dans les mines; 2. Embargo sur les charbons importés à

D’importantes réformes de M. Tardieu en faveur des gens de mer

D'importantes réformes de M. Tardieu en faveur des gens de mer PARIS, 8 octobre. - Le Conseil des Ministres s'est réuni ce matin à 9 h. 30 à l'Elysée sous la présidence de M. Doumergue. La délibération se poursuivit jusqu'à 13 heures. Voici le détail des travaux: M. Briand fit à ses collègues un exposé de la situation extérieure. M. Barthou, ministre de la Justice, fut désigné pour représenter le Gouvernement et prendre la parole en son nom le 24 octobre prochain à la cérémonie d'inauguration du monument élevé à Nogent-le-Rotrou à la mémoire de M. Paul Deschanel, ancien Président de la République. M. Albert Sarraut, ministre de l'Intérieur, exposa au Conseil, qui les approuva, les dispositions générales du décret qui sera prochainement publié et qui prévoit un ensemble de mesures de décentralisation et de déconcentration administratives. M. Painlevé, ministre de la Guerre, exposa les grandes lignes des projets de loi sur les cadres et les effectifs, sur le recrutement, qui doivent être soumis au préalable à l'avis du Conseil Supérieur de la Guerre et qui ont pour objet de préparer le service militaire d'un an. M. Tardieu, ministre des Travaux Publics, fit connaître les réformes et économies qu'il a M. TARDIEU décidé de réaliser dans les services de la marine marchande; les services de la flotte commerciale seront fusionnés avec ceux des constructions navales; les bureaux seront réduits de 18 à 13; plusieurs emplois seront supprimés à l'administration centrale; une direction et plusieurs quartiers d'inscription maritime disparaîtront; les limites de l'inscription maritime, qui sont actuellement fixées aux points de la Seine et de la Garonne à plus de 120 kilomètres d'embouchure, seront revisées; les charges de la caisse des invalides et de la caisse de Prévoyance seront sensiblement allégées par cette réforme, depuis longtemps réclamée par les gens de mer. M. Tardieu proposa un certain nombre de recettes nouvelles et annonça la réorganisation d'ensemble du corps de l'inscription maritime. Le Conseil, sur rapport de M. Bokanowski, ministre du Commerce et des P. T. T., décida d'entreprendre immédiatement la transformation en automatique du réseau téléphonique de Paris. En raison du Congrès annuel du parti radical, qui a lieu la semaine prochaine, et auquel plusieurs membres du Gouvernement doivent assister, il fut décidé que le prochain Conseil des Ministres aurait lieu le dimanche 17 octobre. * * * La limite de l'inscription maritime sur la Seine est actuellement le pont de l'Arche; sur la Loire, Thouaré; sur la Gironde, [?]. Ainsi les pêcheurs résidant jusqu'à 120 kilomètres de la côte, au nombre de cinq mille, bénéficient des mêmes avantages que les inscrits servant sur les longs-courriers. Ces derniers ont souvent du chômage, ils ont les jours de repos sans solde lors de l'immobilisation de leurs bâtiments. Cette anomalie grevait les ressources de la caisse de prévoyance. La réforme de M. Tardieu permet une économie de 5 millions, et par suite de l'entente des Ministres de la Marine et de la Guerre ne diminuera pas le contingent de la marine de guerre. 12. 000 spécialistes des armées de terre (mécaniciens, électriciens) seraient mis à la disposition de la marine de guerre en cas de besoin de remplacement des 5. 000 inscrits soustraits. Condamnation des conjurés contre Alphonse XIII

Les intrigues et difficultés du Reich au sujet de la démission inopinée du général von Seekt

de la démission inopinée du général von Seekt BERRLIN, 8 octobre. - La décision du maréchal Hindenburg au sujet de la démission du général Von Seeckt n'est pas attendue pour ce soir. Le président a reçu aujourd'hui M. Gessler et le général Von Seeckt. Il verra encore le chancellier Marx qui n'est rentré que cet après-midi et s'est rendu d'abord à la réunion de son parti. Le cabinet ne s'est pas réuni cet aprèsmidi, car la question ne dépend que du ministre de la Reichswehr et du président; toutefois les ministres présents à Berlin s'étant déclarés solidaires avec M. Gessler, on peut dire d'ores et déjà qu'une pression politique a été exercée sur Hindenburg qui se voit menacé d'une crise ministérielle. A droite, on s'efforce d'agir sur lui dans ce sens en déclarant que si l'un des deux hommes doit être sacrifié, il est préférable que ce soit M. Gessler, en essayant de modifier les positions en présentant le général comme une victime. On demande dans quelle mesure le gouvernement du Reich s'est séparé du général? Il est plus exact de dire qu'il a lâché parce que les circonstances qui accompagnent l'incident du fils de l'ex-kronprinz insignifiant en soi-même, sont de nature à gêner sa politique. MM. Marx et Stresemann étant donné la politique extérieure qu'ils poursuivent, ne peuvent se donner l'apparence de soutenir le général qui se promet avec les Hohenzollern. D'ailleurs Von Seeckt semble avoir aussi au cours de toute cette affaire raconté, qu'il avait rencontré dernièrement en société la kronprinzessin, que celle-ci avait fait des allusions au sujet de son fils et qu'il ne les releva pas. Les sous-ordres se montrèrent plus bruyants et fêtèrent l'entrée du fils de l'ex-kronprinz dans la Reichswehr. Cependant Von Seeckt ne pouvait l'ignorer dès que Gessler ordonna une enquête, il déclara que c'était inutile, qu'il était au courant. Deux jours avant, il avait lancé par l'agence Wolff, un démenti; c'est un malheureux geste qui l'a mis dans une situation impossible. S'il avait de suite dit la vérité au lieu de tromper l'opinion, l'issue de l'affaire aurait pu changer. Ce qui aurait été plus grave que les manœuvres de presse et les politiciens des droite, ce sont les intrigues de certains militaires. Le bruit court, que les officiers de certaines garnisons dans le centre du nord de l'Allemagne, voudraient faire pression sur Hindenburg pour lui imposer le maintien de Von Seeckt. D'autres s'appuyant sur les milieux ultranationalistes de Poméranie et de Prusse Orientale feraient une vive opposition à la nomination du général Reinhardt et prôneraient la candidature de Von Losyberg que l'on croit pouvoir utiliser pour un putsch. Les intrigues ne sauraient tenir devant la décision de Hindenburg qui jouit d'une grande autorité dans l'armée; mais il est clair que le président, s'il consulte les conseillers politiques, jouera lui-même un rôle important dans le choix du successeur de Von Seecky et qu'une grande responsabilité pèsera sur lui à la suite de cette nomination. Démission du Cabinet allemand? LONDRES, 8 octobre. - On mande de Berlin au «Morning Post» que dans les milieux parlementaires on parle d'une démission collective du Cabinet Allemand au cas où la démission du général Von Seeckt ne serait pas acceptée. La Classe! PARIS, 8 octobre. - La libération des militaires de la première fraction du contingent de 1925 et des militaires ayant satisfait aux obligations d'activité à la même date auront lieu aux conditions suivantes: Les militaires de l'intérieur et de la Sarre seront renvoyés dans leurs foyers le mardi 9 novembre, rayés des contrôles de leur corps et classés en disponibilité le 10 novembre. Armée du Rhin: renvoyés aux foyers à partir du 2 novembre, rayés des contrôles et classés en disponibilité [?]

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

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