Vossische Zeitung
- ゼークト問題、きょう決定
- ブリアン、ゼークト問題を閣議で報告
- 生まれつつあるヨーロッパ
1926年10月8日付のフォス新聞は、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークト上級大将の辞職問題を一面の中心に置いた。記事は、ヒンデンブルク大統領がゼークトとゲスラー国防相を相次いで引見して仲裁を試み、マルクス首相の報告を聞くまで決定を延ばしたと伝えた。記事はさらに、ゼークトが国防相に知らせないまま元皇太子の長男を演習に参加させたので、大統領は辞職を認めるだろうという政界の見方を報じた。パリ発の電報は、フランスがゼークトを百万人規模の隠れた軍隊の組織者とみなしていたので、フランスの新聞がこの件に強い関心を寄せていると伝えた。フランクフルト発の短信は、王子の少尉という肩書を皮肉った。ユリウス・エルバウはウィーン発の署名コラムで、シェーンブルン宮殿での第1回汎ヨーロッパ会議と、そこで演説したドイツやフランスの政治家、公使を送った各国政府、イグナーツ・ザイペルの熱心な支援を描いた。
翻訳
ゼークト問題、きょう決定
ゼークト上級大将とゲスラー博士、昨日大統領のもとへ/きょう首相が報告
ゼークト上級大将の辞職願に関する決定は、すでに昨日下されると見込まれていたが、大統領によってきょうに延期された。ゼークト上級大将と国防相ゲスラー博士は昨日午後、相次いで大統領に引見された。夏季休暇から昨日ベルリンに戻った首相は、まだ大統領のもとに姿を見せていない。首相は、前もって招集されていた中央党幹部会の会合に出席しただけである。この中央党の協議は、エアフルトで開かれる中央党全国委員会の会合の準備を目的としていた。大統領はマルクス首相に、きょう午前に報告に来るよう求めた。その直後にゼークト将軍の辞職願が処理される予定である。
大統領がまずゼークト上級大将を、次いでゲスラー国防相を相次いで引見したことから、決定がきょうに延期された理由がうかがえる。大統領は、大臣とその下にある陸軍統帥部長官との対立を、仲裁に入ることで収めようと試みたのである。大統領のこの試みがどのような成果を上げたかは分かっていない。軍事指導者としても人物としても高く評価するゼークト上級大将の留任を可能にするため、大統領がまず円満な和解を試みたことは、人間として美しい振る舞いである。しかしこの試みが成功しなければ、大統領は最終的な決断にあたって政治的な動機と国家理性の考慮だけに従うだろう、と議会筋では見られている。大統領がそうする決意であることは、決定の前に首相の責任ある助言を聞くため、きょう首相を呼んだという事実が証明している。
*
政界は、辞職願が提出された以上、辞職を認めてゼークト上級大将が現役軍務から退く以外の可能性はもはやまったく残っていない、とゼークト問題を見ている。ゼークト上級大将が、下部機関から問い合わせを受けて、元皇太子の長男の「演習客演」を、責任者である国防相に知らせないまま許可したことは確かである。しかもゼークト将軍は、この演習客演の政治的な重大さを間違いなく十分に承知していたはずである。しかし政界は、この一件だけが国防相と陸軍最高統帥部長官との激しい対立を招いたとは考えていない。政界はむしろ、この件は同種の食い違いが長く続いた鎖の最後の輪にすぎず、この最後の、確かに特別な事情を持つ件が、ゼークト将軍と袂を分かとうという国防相のかねての考えを決断へと熟させたにすぎない、と見ている。もし国防相ゲスラー博士が[?]いま、この事件から何の結論も引き出さず、ゼークト将軍が職にとどまることに同意するなら、国防軍における彼の権威はおしまいになるだろう。ゲスラー博士はさらに、招集されるとすぐに皇太子の息子の演習客演に関する質問を取り上げる国会の前で、非常に苦しい立場に立たされるだろう。政界の見方によれば、国防省内の対立がここまで公になった今、ゼークト上級大将の辞職願が認められない場合、国防相には自ら責任を取り、その場合に備えて予告していた辞表を提出する以外に道はない。しかし、この件をきっかけとする国防相の辞任は、内閣全体に影響を及ぼさずに済むはずがない。内閣がすでにゼークト問題を取り上げ、ゲスラー国防相との連帯を表明したというのは事実ではないにしても、ゲスラー博士の辞任によってその差し迫った理由が生じれば、そうした連帯表明が行われるであろうし、行われなければならないことは自明である。そうなればゼークト問題は、その発端をはるかに超える大きな政治的意味を持つことになり、その帰結はほとんど見通せないからである。以上が、先に述べたとおり政界の見方であり、おそらく首相と閣僚たちの見方でもある。それゆえ政界は、大統領が国家権威の最高の守護者として、対立の円満な解決に成功しない場合には(事態全体から見てその見込みは非常に小さい)、こうした考慮に基づいてゼークト上級大将の辞職願を認めるであろうことを当然視している。これに関する最終決定は、きょう正午、首相の報告の直後に下される見込みである。
ブリアン、ゼークト問題を閣議で報告
「フォス新聞」通信
br パリ、10月7日発
明日午前、エリゼ宮で閣議が開かれ、ブリアンはそこでとりわけ外交情勢について詳しく報告し、その際、ラインラントでの諸事件とゼークト将軍の辞任がもたらす結果について特に詳しく述べる予定である。
lst パリ、10月7日発
フランスの新聞がゼークト将軍の辞任に異例の関心を寄せているのは、フランスの世論にとってゼークトが長年、軍国主義そのものではないにしても、軍国主義的なドイツの代表者と見なされてきたためである。講和以来、当地の人々が正当にせよ不当にせよ軍備縮小規定に対するあらゆる違反の責任を負わせてきたのは彼であり、第二のシャルンホルストのように、敗北によって粉砕されたドイツ軍の偉大な再建者とみなしてきたのも彼である。彼の人物の謎めいた性格は、当地で繰り返し、きわめて荒唐無稽なうわさを生んできた。彼が講和条約の関連規定をくぐり抜けて、国防軍をいつでも動員できる百万人規模の軍隊の骨組みにすることに成功した、という繰り返し唱えられてきた疑いは、連合国政府の最高位の軍事専門家たちさえ共有していた。当地の人々はゼークトの権限について極度に誇張された観念を抱いてきた。おそらくそのために、パリの新聞の一部はきょう、皇太子の息子の国防軍への採用を許可したことだけが本当に彼の辞任の真の理由でありうるのか、という疑問を表明している。
少尉
「フォス新聞」通信
ek フランクフルト・アム・マイン、10月7日発
「フランクフルター・ツァイトゥング」は、9月1日付の「オーベルストドルフ郷土・旅行者新聞」第70号に次の記事が載っていることを知らされた。「軍隊の訪問。土曜日と日曜日、目下徒歩巡察中の第30歩兵連隊第9号の第2中隊が当保養地に滞在した。国防軍部隊は予定されたネーベルホルン登山を予定の時間内にやすやすとやり遂げた。月曜日の夕方には、ドイツ皇太子の長男ヴィルヘルム王子が少尉として勤務する同連隊第1中隊が、同じ目的で当地に到着した。ヴィルヘルム王子はホテル・ヒルシュに宿を取った。」
1916年に慣例どおり行われた10歳の王子少年の少尉任命は、形式的で象徴的な行為である以上、国家の転覆時に12歳だった王子を、たとえば「退役」少尉とみなすことさえ当然ながら可能にするものではない。それとも、王朝の伝統行為が、共和国の伝統部隊にとっては十分だというのだろうか。
ブリアン、ゼークト問題を閣議で報告
br パリ、10月7日発
明日午前、エリゼ宮で閣議が開かれ、ブリアンはそこでとりわけ外交情勢について詳しく報告し、その際、ラインラントでの諸事件とゼークト将軍の辞任がもたらす結果について特に詳しく述べる予定である。
lst パリ、10月7日発
フランスの新聞がゼークト将軍の辞任に異例の関心を寄せているのは、フランスの世論にとってゼークトが長年、軍国主義そのものではないにしても、軍国主義的なドイツの代表者と見なされてきたためである。講和以来、当地の人々が正当にせよ不当にせよ軍備縮小規定に対するあらゆる違反の責任を負わせてきたのは彼であり、第二のシャルンホルストのように、敗北によって粉砕されたドイツ軍の偉大な再建者とみなしてきたのも彼である。彼の人物の謎めいた性格は、当地で繰り返し、きわめて荒唐無稽なうわさを生んできた。彼が講和条約の関連規定をくぐり抜けて、国防軍をいつでも動員できる百万人規模の軍隊の骨組みにすることに成功した、という繰り返し唱えられてきた疑いは、連合国政府の最高位の軍事専門家たちさえ共有していた。当地の人々はゼークトの権限について極度に誇張された観念を抱いてきた。おそらくそのために、パリの新聞の一部はきょう、皇太子の息子の国防軍への採用を許可したことだけが本当に彼の辞任の真の理由でありうるのか、という疑問を表明している。
少尉
「フォス新聞」通信
ek フランクフルト・アム・マイン、10月7日発
生まれつつあるヨーロッパ
所在地はベルリン、ウルシュタインハウス。郵便振替口座はベルリン650番。
生まれつつあるヨーロッパ
ユリウス・エルバウ
「フォス新聞」特派員
✻ ウィーン、10月7日発
マリア・テレジアのシェーンブルン宮殿には、かつて、ナポレオンが征服した大陸に命令を伝えるための副官たちがひしめいていた。二十年後、同じ宮殿で彼のひとり息子が死んだ。幼くしてローマ王と呼ばれ、ついに翼を試すことのなかった鷲である。つい最近までヨーロッパで最も儀礼を重んじる宮廷の華やかな中心だったこの歴史的な部屋で、火曜日、オーストリア共和国政府の現首班であるラメク連邦首相が、第1回汎ヨーロッパ会議の参加者を迎えた。それは壮大で祝祭的な印象を与えた。そもそもオーストリア人のもてなしの愛想のよさのために、通りすがりの訪問者には、ヨーロッパで最も美しい首都のかつてあれほど陽気だった住民にのしかかる貧困の苦さと絶望を感じ取ることがきわめて難しい。よそから客が訪ねてくれば、今なお焼き串はもてなしの料理を載せて回っている。まさに今また、度重なる人員削減を生き延びたオーストリアの官吏の大群が、ストライキの脅しによって生活条件の耐えがたさを訴えざるをえなくなっているという事実を、思い起こさねばならない。
汎ヨーロッパ思想のための活動は、諸民族の自決権の実現を排除するものではありえない。この確信から、合邦運動の指導者たちもクーデンホーフ=カレルギー伯爵の活動を支持している。オーストリアではこの合邦運動の背後に、党派の別なく、かつてないほど大衆がついている。この若い理想家が三年間に成し遂げたことは称賛に値する。といっても、ヨーロッパ思想の創始者としてではない。会議では、ナポレオンやカントからマッツィーニやニーチェに至るまで、ひとそろいの「祖先の肖像画廊」が披露されたが、その数はさらに大幅に増やせるだろう。彼の真の功績はむしろ、自らの全力と文筆の才、そして人柄の魅力を、ただ一つの大義のために捧げている点にある。ヨーロッパのあらゆる国から何百人もの傑出した人物が一私的団体の招きに応じ、何日にもわたって真剣にこの大義のために努力したことは、それだけで意味がある。その大胆さも成功も同じように注目に値する即興の企てであった。
もっとも、この成功には危険もひそんでいる。二度目にもこれほど幸運に恵まれることはまずないだろうからである。そして、ヨーゼフ・ヴィルトやパウル・レーベのような人物が、その雄弁の力、ヨーロッパにおける声望、実績ある経験を提供したのは幸運であった。公式のフランスが、カイヨーのような人物の欠席によって生じた関心の薄さという印象を、公使の派遣によって打ち消す必要を感じたのは特徴的であった。さらに元大臣のデルボス氏も動員され、最終日にヴィルトの度量の大きい協調演説に答えた。デルボス氏の答えには善意があったが、元ドイツ首相が放っていた熱と力はなかった。続いてベルギー政府もフランスの例にならい、ウィーン駐在の同国公使が会議に公式にあいさつした。
ヨーロッパ運動は、高位聖職者ザイペルという特に熱心な支持者を持っている。国内で第一党である彼の党は、このところ何度も打撃を受けてきた。気まずい金銭問題を片づけたうえでこの打撃をはね返す力と手腕は、彼ひとりにあると見られている。数週間後には、イグナーツ・ザイペルが再びオーストリア政府の首班に立つだろう。それだけに、彼が会議のために示した熱意は注目に値した。その熱意は、かつてのルエーガーの牙城を社会民主党が奪って以来初めて、彼が市庁舎での催しに出席するほどであった。ドイツ公使レルヒェンフェルト伯爵、フランス公使ボーマルシェ男爵とともに、キリスト教社会党の党首が社会民主党員ザイツの食卓についたのである。支配政党と支配的教会の人であるザイペルが小さな事柄でも巧みに振る舞うことをよく示していたのは、彼が開会式で中座の許しを求めたやり方である。彼は自らが議長を務める会議に対し、郊外の一つで一組の新郎新婦が待っており、聖職者として式に立ち会う約束をしているので退席させてほしい、と許しを求めた。国で最も傑出した人物が、最もつつましい人々のために行う教会の務め。なんという宣伝であろうか。
今後の活動にとって有望だったのは、ギリシャ、チェコスロバキア、
解説
ゼークトの辞職はどう決着したか
1926年10月8日付のフォス新聞は、仲裁の試みが失敗すればヒンデンブルク大統領がゼークトの辞職を認めると予想しており、後の資料はその結果を確かめている。エーベルハルト・コルブの通史に基づくワイマール共和国年表は、1926年10月6日の項に、ゼークトがゲスラー国防相とヒンデンブルク大統領の求めによって陸軍統帥部長官の職を退かされたと記している。同じ年表は、国防相と大統領の事前承認を得ないままヴィルヘルム王子が国防軍の演習に参加したことを、その理由に挙げている。この記述は、ゼークトが下部機関の問い合わせに応じてゲスラーに知らせずに許可を与えたという、記事が確定した事実として扱った点と一致する。記事が引いた政界筋は、演習の件を長く続いた食い違いの最後の一件にすぎないと見ていた。年表もまた、ゼークトが政府のロカルノ政策に公然と反対したため、政府首脳とゼークトの関係がそれ以前から悪化していたと記している。記事はこのロカルノ政策という原因を挙げていない。ゼークトの伝記は、彼の陸軍統帥部長官としての任期が1926年10月の辞任で終わったと記し、任期の最終日をこの号の翌日にあたる1926年10月9日としている。したがって、記事の予想は当たったことになる。記事が描いたもう一つの筋書き、つまりゲスラーの辞任と内閣の危機は、この件では起きなかった。
王子の演習参加と国防軍の伝統部隊
短信「少尉」は、共和国の軍隊が旧王朝をどう扱っていたかを問題にしている。ゼークトの伝記によれば、ゼークトは君主制支持者であり、旧帝国軍との伝統的なつながりを保つよう促した。そのためにゼークトは、新しい国防軍の個々の中隊や騎兵中隊を、ヴィルヘルム2世の軍の特定の連隊の直接の後継部隊に指定した。短信の結びの問いにある共和国の伝統部隊は、この制度を指している。フォス新聞は、王子が1916年に10歳で受けた少尉任命を王朝の象徴的な行為にすぎないとみなし、その任命によって王子を退役少尉とみなすことさえできないと論じた。オーベルストドルフの地元紙は、ヴィルヘルム王子が保養地を訪れた連隊の第1中隊で少尉として勤務していると書いていた。フォス新聞はこの記事を引くことで、元皇太子の息子が共和国軍の部隊の中に入っていたことを示し、演習の一件が政治的な重みを持つことを明らかにした。ワイマール共和国年表も、王子の国防軍演習への参加をゼークト失脚のきっかけとして挙げている。
フランスから見たゼークトとヴェルサイユ条約の軍備制限
パリ特派員は、フランスの新聞の関心を、ゼークトが敗戦国の軍を再建した人物とみなされ、国防軍を百万人規模の軍隊の骨組みにしたと疑われてきたことで説明した。この評判の一部は、記録に残る事実に基づいている。ゼークトは1919年の講和会議にドイツ参謀本部の代表として出席し、軍備縮小の要求を緩めるよう連合国を説得しようとして失敗した。その後ヴェルサイユ条約は陸軍を10万人に制限し、そのうち将校を4,000人までとした。ゼークトは国防軍を、必要に応じて拡大できる幹部部隊として設計した。ゼークトの伝記は、ゼークトが条約の軍事制限をくぐり抜けるための計画をいくつも進めたとも記している。同じ伝記は、ゼークトが軍の使える予備の将校と訓練済みの兵員を増やさなかったという批判も紹介している。いつでも動員できる百万人の軍隊には、まさにこの予備が必要だったはずである。この批判は、パリがゼークトの権限を誇張して考えてきたという特派員自身の指摘と合っている。ブリアンは閣議でゼークト辞任の影響をラインラントの諸事件と並べて報告する予定であり、フランス政府がこの件をドイツの軍事政策の監視の一部として扱ったことがわかる。
第1回汎ヨーロッパ会議の参加者と各国政府の対応
エルバウのコラムが描いた第1回汎ヨーロッパ会議は、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が組織した会議である。クーデンホーフ=カレルギーは1923年に著書『パン・ヨーロッパ』を出し、その本に運動の入会申込書を付けた。エルバウが称えた三年間の活動は、この出版から数えた年月に当たる。クーデンホーフ=カレルギーの伝記によれば、1926年にウィーンで開かれた第1回会議には2,000人の代表が集まり、代表たちはクーデンホーフ=カレルギーを中央評議会の議長に選んだ。エルバウは何百人もの傑出した人物と書いており、この数は代表全体の数より小さい。ユダヤ電信通信は1926年10月5日付のウィーン発記事で、ドイツ国会議長パウル・レーベが会議の基調を示したと伝え、会議がイギリスとソ連を除くヨーロッパ合衆国を唱えたと報じた。同じ記事は、出席できなかったブリアン外相がウィーン駐在のボーマルシェ公使にフランスを公式に代表するよう指示し、公式に代表を送った大国はフランスだけだったと伝えており、エルバウの記述と一致する。伝記は時期を示していないが、クーデンホーフ=カレルギーは汎ヨーロッパ連合オーストリア支部の会長職をザイペルに打診し、ザイペルはためらわずに引き受けたと記している。ブリアン自身も1927年に汎ヨーロッパ運動の名誉会長に選ばれた。
原文
Entscheidung über Seeckt heute
Entscheidung über Seeckt heute Generaloberst v. Seeckt und Dr. Geßler gestern beim Reichspräsidenten / Heute Vortrag des Reichskanzlers Die Entscheidung über das Abschiedsgesuch des Generalobersten v. Seeckt, die schon für gestern erwartet wurde, ist vom Reichspräsidenten auf heute vertagt worden. Generaloberst v. Seeckt und Reichswehrminister Dr. Geßler wurden gestern nachmittag nacheinander vom Reichspräsidenten empfangen. Der Reichskanzler, der gestern von seinem Sommerurlaub nach Berlin zurückgekehrt ist, erschien noch nicht beim Reichspräsidenten. Er hat lediglich an einer Sitzung des Zentrumspartei-Vorstandes, die schon vorher einberufen worden war, teilgenommen. Diese Zentrumsbesprechung galt der Vorbereitung der Tagung des Zentrums-Reichsausschusses in Erfurt. Der Reichspräsident hat Reichskanzler Marx für heute vormittag zum Vortrag gebeten. Unmittelbar nachher soll das Abschiedsgesuch des Generals von Seeckt erledigt werden. Der unmittelbar einander folgende Empfang erst des Generalobersten v. Seeckt, dann des Reichswehrministers Dr. Geßler durch den Reichspräsidenten lassen die Gründe, die die Vertagung der Entscheidung auf heute bewirkt haben, erkennen. Der Reichspräsident hat den Versuch gemacht, den Konflikt zwischen dem Minister und dem ihm nachgeordneten Chef der Heeresleitung durch vermittelndes Eingreifen beizulegen. Welchen Erfolg dieser Versuch des Reichspräsidenten gehabt hat, ist nicht bekannt. Es ist menschlich ein schöner Zug des Reichspräsidenten, daß er zunächst den Versuch einer gütlichen Verständigung gemacht hat, um das Verbleiben des Generalobersten v. Seeckt, den er als militärischen Führer und Persönlichkeit schätzt, im Amte zu ermöglichen. Wenn dieser Versuch aber nicht zum Gelingen führt, dann wird sich, so wird in parlamentarischen Kreisen angenommen, der Reichspräsident bei seiner endgültigen Entschließung von politischen Motiven und Erwägungen der Staatsraison allein leiten lassen. Daß er dazu entschlossen ist, beweist die Tatsache, daß er den Reichskanzler für heute zu sich gebeten hat, um vor der Entscheidung seinen verantwortlichen Rat zu hören. * In politischen Kreisen sieht man den Fall Seeckt so an, daß nunmehr nach Ueberreichung des Abschiedsgesuches eine andere Möglichkeit als die der Bewilligung des Abschieds und des Scheidens des Generalobersten v. Seeckt aus dem aktiven Heeresdienst garnicht mehr gegeben ist. Es steht fest, daß Generaloberst v. Seeckt auf Befragen der nachgeordneten Stellen die Genehmigung zu dem " Manövergastspiel " des ältesten Sohnes des Exkronprinzen gegeben hat, ohne den verantwortlichen Reichswehrminister in Kenntnis zu setzen, trotzdem sich General v. Seeckt über die politische Tragweite dieses Manövergastspiels sicherlich völlig im klaren gewesen ist. Man hält es aber für ausgeschlossen, daß lediglich dieser Vorgang allein zu dem scharfen Konflikt zwischen Reichswehrminister und dem Chef der Obersten Heeresleitung geführt hat, sondern nimmt an, daß er nur das letzte Glied einer langen Kette von Unstimmigkeiten ähnlicher Art gewesen ist, und daß der letzte, allerdings besonders gelagerte Fall, nur die schon vorher erwogene Absicht des Reichswehrministers, sich von General v. Seeckt zu trennen, zum Entschluß hat reifen lassen. Wenn Reichswehrminister Dr. Geßler [?] jetzt damit einverstanden erklären würde, daß aus der Affäre nicht die Konsequenzen gezogen werden und General v. Seeckt im Amt bleibt, dann wäre es um seine Autorität in der Reichswehr geschehen. Dr. Geßler würde außerdem vor dem Reichstag, der unmittelbar nach seinem Zusammentritt die Interpellation über das Manövergastspiel des Kronprinzensohnes behandeln wird, einen außerordentlich schweren Stand haben. Es bleibt nach Auffassung der politischen Kreise dem Reichswehrminister, wenn das Abschiedsgesuch des Generalobersten v. Seeckt jetzt, nach der Publizität, die der Konflikt im Reichswehrministerium erlangt hat, nicht bewilligt werden sollte, nichts anderes übrig, als für seine Person die Konsequenzen zu ziehen und die Demission zu überreichen, die er für diesen Fall in Aussicht gestellt hat. Ein Rücktritt des Reichswehrministers aus diesem Anlaß könnte aber unmöglich ohne Rückwirkung auf das Gesamtkabinett bleiben. Wenn es auch nicht zutrifft, daß sich das Reichskabinett mit dem Fall Seeckt bereits beschäftigt und sich mit dem Reichswehrminister Dr. Geßler solidarisch erklärt hat, so ist es doch eine Selbstverständlichkeit, daß eine solche Solidaritätserklärung erfolgen würde und müßte, wenn durch die Demission Dr. Geßlers die akute Veranlassung für sie geschaffen werden würde. Denn dann würde der Fall Seeckt eine über seine Entstehungsursache weit hinausreichende große politische Bedeutung gewinnen, deren Konsequenzen kaum abzusehen sind. Das ist - wie gesagt - die Auffassung der politischen Kreise, vermutlich auch die Auffassung des Reichskanzlers und der Mitglieder des Reichskabinetts. Man hält es daher für selbstverständlich, daß der Reichspräsident als der oberste Hüter der Staatsautorität, wenn ihm eine gütliche Beilegung des Konflikts nicht gelingt - und die Aussichten dazu sind bei der ganzen Sachlage sehr gering -, aus diesen Erwägungen heraus das Abschiedsgesuch des Generalobersten v. Seeckt genehmigen wird. Die endgültige Entscheidung darüber ist für heute mittag unmittelbar nach dem Vortrag des Reichskanzlers zu erwarten. Kabinettsbericht Briands über Seeckt Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " br Paris, 7. Oktober Morgen vormittag findet im Elysée ein Ministerrat statt, auf dem u. a. Briand einen ausführlichen Bericht über den Stand der auswärtigen Angelegenheiten geben und dabei besonders ausführlich auf die Zwischenfälle im Rheinland und die Folgen der Demission des Generals von Seeckt eingehen soll. lst Paris, 7. Oktober Das ungewöhnliche Interesse, das die französische Presse der Demission des Generals von Seeckt entgegenbringt, erklärt sich daraus, daß für die öffentliche Meinung in Frankreich Seeckt seit Jahren als der Repräsentant, wenn nicht des Militarismus, so doch des militaristischen Deutschlands galt. Er ist es, den man hier seit dem Friedensschluß zu Recht oder Unrecht für alle Verfehlungen gegen die Abrüstungsbestimmungen verantwortlich macht, und in dem man gleich einem zweiten Scharnhorst, den großen Reorganisator der durch die Niederlage zertrümmerten deutschen Armee gesehen hat. Das Rätselhafte seiner Persönlichkeit hat hier immer wieder den phantastischsten Gerüchten Nahrung gegeben. Der gegen ihn immer wieder laut gewordene Verdacht, daß es ihm gelungen sei, unter Umgehung der einschlägigen Bestimmungen des Friedensvertrages die Reichswehr zum Rahmen für ein jederzeit mobilisierbares Millionenheer zu machen, wurde selbst von den höchsten militärischen Sachverständigen der alliierten Regierungen geteilt. Ueber Seeckts Machtbefugnisse hat man sich hier die übertriebensten Vorstellungen gemacht, und darauf ist es wohl zurückzuführen, daß ein Teil der Pariser Presse heute ihrem Zweifel darüber Ausdruck gibt, ob wirklich nur die Genehmigung der Einstellung des Kronprinzensohnes in die Reichswehr der wirkliche Grund seiner Demission sein könne. Der Leutnant Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " ek Frankfurt a. M., 7. Oktober Die " Frankfurter Zeitung " wird darauf aufmerksam gemacht, daß die Nummer 70 des " Oberstdörfer Heimat - und Fremdenblatts " vom 1. September folgende Notiz enthält: Militärbesuch. Am Samstag und Sonntag weilte die 2. Kompagnie des 30. Infanterieregiments Nr. 9, die sich zurzeit auf Wanderpatrouillen befindet, in unserem Kurort. Mit Leichtigkeit hat die Reichswehrtruppe die geplante Nebelhorntour in der vorgesehenen Zeit ausgeführt. Am Montag abend traf die erste Kompagnie gleichen Regiments, bei der Prinz Wilhelm, der älteste Sohn des deutschen Kronprinzen als Leutnant dient, zu gleichem Zwecke hier ein. Prinz Wilhelm hatte im Hotel Hirsch Quartier genommen. " Die traditionsgemäß 1916 erfolgte Ernennung des 10jährigen Prinzenknaben zum Leutnant kann naturgemäß als ein formaler symbolischer Akt nicht einmal bewirken, daß man den Prinzen, der bei der Staatsumwälzung 12 Jahre zählte, etwa als Leutnant " a. D. " betrachte. Oder genügt die Traditionshandlung der Dynastie für die Traditionstruppe der Republik?
Kabinettsbericht Briands über Seeckt
br Paris, 7. Oktober Morgen vormittag findet im Elysée ein Ministerrat statt, auf dem u. a. Briand einen ausführlichen Bericht über den Stand der auswärtigen Angelegenheiten geben und dabei besonders ausführlich auf die Zwischenfälle im Rheinland und die Folgen der Demission des Generals von Seeckt eingehen soll. lst Paris, 7. Oktober Das ungewöhnliche Interesse, das die französische Presse der Demission des Generals von Seeckt entgegenbringt, erklärt sich daraus, daß für die öffentliche Meinung in Frankreich Seeckt seit Jahren als der Repräsentant, wenn nicht des Militarismus, so doch des militaristischen Deutschlands galt. Er ist es, den man hier seit dem Friedensschluß zu Recht oder Unrecht für alle Verfehlungen gegen die Abrüstungsbestimmungen verantwortlich macht, und in dem man gleich einem zweiten Scharnhorst, den großen Reorganisator der durch die Niederlage zertrümmerten deutschen Armee gesehen hat. Das Rätselhafte seiner Persönlichkeit hat hier immer wieder den phantastischsten Gerüchten Nahrung gegeben. Der gegen ihn immer wieder laut gewordene Verdacht, daß es ihm gelungen sei, unter Umgehung der einschlägigen Bestimmungen des Friedensvertrages die Reichswehr zum Rahmen für ein jederzeit mobilisierbares Millionenheer zu machen, wurde selbst von den höchsten militärischen Sachverständigen der alliierten Regierungen geteilt. Ueber Seeckts Machtbefugnisse hat man sich hier die übertriebensten Vorstellungen gemacht, und darauf ist es wohl zurückzuführen, daß ein Teil der Pariser Presse heute ihrem Zweifel darüber Ausdruck gibt, ob wirklich nur die Genehmigung der Einstellung des Kronprinzensohnes in die Reichswehr der wirkliche Grund seiner Demission sein könne. Der Leutnant Nachrichtendienst der " Vossischen Zeitung " ek Frankfurt a. M., 7. Oktober
Werdendes Europa
Adresse: Ullsteinhaus, Berlin. Postscheckkonto Berlin 650. Werdendes Europa Von Julius Elbau Sonderberichterstatter der " Vossischen Zeitung " ✻ Wien, 7. Oktober In dem Schönbrunner Schloß der Maria Theresia drängten sich einst die Adjutanten, durch die Napoleon dem besiegten Erdteil seine Befehle übermittelte. Zwanzig Jahre später starb in demselben Schloß sein einziger Sohn, der als Kind König von Rom hieß, ein Adler, der die Schwingen nie erprobte. In diesen historischen Räumen, noch vor kurzem glanzvoller Mittelpunkt der zeremoniellsten Hofhaltung Europas, empfing am Dienstag der gegenwärtige Chef der republikanischen Regierung Oesterreichs, Bundeskanzler Ramek, die Teilnehmer am ersten Pan-Europa-Kongreß. Es war ein großer und festlicher Eindruck. Ueberhaupt macht es die gastliche Liebenswürdigkeit der Oesterreicher für den flüchtigen Besucher überaus schwer, die Bitterkeit und Hoffnungslosigkeit der Armut herauszufühlen, die auf den einst so heiteren Bewohnern der schönsten Hauptstadt Europas lastet. Wenn Fremde bei ihnen einkehren, dreht sich noch immer der Spieß mit gastlicher Gabe. Man muß schon an die Tatsache denken, daß gerade jetzt wieder das Beamtenheer Oesterreichs, soweit es den immer erneuten Abbau überstanden hat, durch Streikdrohung an die Unmöglichkeit der Lebensverhältnisse zu mahnen gezwungen ist. Die Arbeit für den pan-europäischen Gedanken kann die Verwirklichung des Selbstbestimmungsrechts der Völker nicht ausschließen. In dieser Ueberzeugung unterstützen auch die Führer der Anschlußbewegung, hinter der in Oesterreich mehr als je die Massen, ohne Unterschied der Partei, stehen, die Arbeit des Grafen Coudenhove-Kalergi, Was dieser jugendliche Idealist in drei Jahren geleistet hat, ist bewunderungswürdig. Nicht etwa als Schöpfer der europäischen Idee. Man hat auf dem Kongreß eine ganze " Ahnengalerie " von Napoleon und Kant bis Mazzini und Nietzsche vorgeführt, und ihre Zahl ließe sich noch bedeutend vermehren. Sein wahres Verdienst ist vielmehr, daß er seine ganze Kraft, sein schriftstellerisches Talent und den Reiz seiner Persönlichkeit in den Dienst der einen Sache stellt. Es bedeutet schon etwas, daß Hunderte hervorragender Persönlichkeiten aus allen Ländern Europas der Einladung eines privaten Kreises folgten und sich tagelang in ernsthafter Arbeit um die Sache bemühten. Eine Improvisation, deren Kühnheit ebenso bemerkenswert war wie ihr Gelingen. Freilich liegt in diesem Erfolg auch eine Gefahr. Denn ein zweitesmal würde das Glück kaum so hold sein. Und ein Glück war es, daß Persönlichkeiten wie Joseph Wirth und Paul Löbe den Schwung ihrer Beredsamkeit, ihr europäisches Ansehen und ihre erprobte Erfahrung zur Verfügung stellten. Es war kennzeichnend, daß das offizielle Frankreich sich dadurch veranlaßt sah, durch die Delegierung seines Gesandten den Eindruck geringeren Interesses zu verwischen, den das Fehlen von Persönlichkeiten wie Caillaux erweckt hatte. Darüber hinaus wurde auch ein früherer Minister, Herr Delbos, in Bewegung gesetzt, der am Schlußtag auf die großzügige Verständigungsrede Wirths erwiderte, mit gutem Willen, wenn auch nicht mit der Wärme und Kraft, die der frühere deutsche Kanzler ausstrahlte. Dem französischen Beispiel folgte dann die belgische Regierung, deren Wiener Gesandter den Kongreß offiziell begrüßte. Einen besonders warmen Anhänger besitzt die europäische Bewegung in dem Prälaten Seipel. Seine Partei, die im Lande führend ist, hat in letzter Zeit manche Schläge erlitten. Ihm allein traut man die Kraft und Geschicklichkeit zu, nach Liquidierung der peinlichen Geldaffären diese Schläge zu parieren. In wenigen Wochen wird Ignaz Seipel wieder an der Spitze der österreichischen Regierung stehen. Um so bemerkenswerter war der Eifer, mit dem er sich für den Kongreß einsetzte. Dieser Eifer ging so weit, daß er zum ersten Male seit der Eroberung der früheren Hochburg Luegers durch die Sozialdemokratie an einer Veranstaltung im Rathaus teilnahm. Mit dem deutschen Gesandten Grafen Lerchenfeld und dem französischen Gesandten Baron de Beaumarchais zusammen, saß der Chef der Christlich-Sozialen Partei an dem Tisch des Sozialdemokraten Seitz. Kennzeichnend für das Geschick, mit dem Seipel, der Mann der herrschenden Partei und der herrschenden Kirche, auch in kleinen Dingen zu verfahren weiß, war die Form, in der er sich in der Eröffnungssitzung beurlauben ließ. Er bat nämlich den Kongreß, dem er präsidierte, um die Erlaubnis, sich entfernen zu dürfen, weil draußen in einem der Vororte ein Brautpaar auf ihn warte, dem er seine geistliche Assistenz versprochen habe. Eine kirchliche Verrichtung, ausgeübt an den geringsten Leuten durch den hervorragendsten Mann des Landes: welch eine Propaganda! Verheißungsvoll für die weitere Arbeit war auch die Tatsache, daß Länder wie Griechenland, die Tschechoslowakei,