Diario La Nación
- アルゼンチン選手たちの心温まる行い
- ボリビア選手団団長、『ラ・ナシオン』に語る
- アルゼンチン選手団の高名な幹部、本社を訪問
サンティアゴの『ラ・ナシオン』紙は、南米選手権の開幕を前に、チリに到着した各国選手団を報じた。同紙は、アルゼンチンの選手たちがオイギンス記念碑に花輪を捧げ、ハーフバックのセグンド・メディシが選手を代表してあいさつすると伝えた。同紙の特派員はボリビア選手団の汽船に乗り込み、団長ルイス・カステル・キロガ氏に話を聞いた。団長は、チームがチリとボリビアのスポーツマンを結ぶ絆になりたいと語り、コパ・アメリカに初めて出場する国がチリであることを光栄に思うと述べた。団長はまた、六日以上の旅の疲れを理由に、開幕戦を避けるよう申し入れる考えを示した。同紙はさらに、元国会議員で1924年のジュネーブ労働会議で代表団長を務めたアルゼンチンのホセ・レオン・ロデイロ博士を紹介し、博士が本社を訪れたと伝えた。
この版は、紙面から選んだ3本の記事を翻訳している。ボリビア選手団長のインタビューは見出しの冒頭が欠けた状態で始まり、選ばれた範囲の端で単語の途中から先が切れている。記事中の1語は一部が判読できないが、前後の文脈から「saludo」(あいさつ)と読める。紙面はアルゼンチンのハーフバックの名を「Segungundo」と印刷しており、この版ではセグンドと訳している。綴じ目側の文字と、一部の画像区画の右端に沿った行は途中で切れており、翻訳の対象に含めていない。解説はホセ・レオン・ロデイロの経歴と、南米サッカー会議による試合日程の決定を扱っていない。取得した資料には、どちらの話題を裏づける記述もない。
翻訳
アルゼンチン選手たちの心温まる行い
本日午前10時、アルゼンチンの選手たちは集まって、オイギンス記念碑に花輪を捧げる。この式典では、ハーフバックのセグンド・メディシが選手たちを代表してあいさつする。
ボリビア選手団団長、『ラ・ナシオン』に語る
汽船が錨を下ろすとすぐに、本紙特派員は船に乗り込み、選手団長ルイス・カステル・キロガ氏に『ラ・ナシオン』からのあいさつを伝えた。カステル・キロガ氏は本紙の心遣いに深く感謝し、本紙についてはかねて最高の評判を聞いていると述べた。
「チリのスポーツ青年たちに、われわれの心からのあいさつを最初に伝える新聞は『ラ・ナシオン』であってほしい」と氏は語った。
「われわれは、チリとボリビアのスポーツマンを結ぶ絆となること以外に、何の望みも持たずにやって来た」
カステル・キロガ氏はさらに話を続け、選手団は正々堂々としたスポーツ精神でボリビアの色を背負って戦おうと、大いに意気込んで来たと述べた。また、伝統あるコパ・アメリカの試合に自分たちが初めて出場する国がチリであることを光栄に思うと語った。
最初の試合の日程を問われると、ボリビア選手団長は、サンティアゴに着いたら自分たちを開幕戦に組まないよう申し入れるつもりだと答えた。選手たちは六日以上の旅で疲れており、気温の違いにも耐えなければならなかったからだという。
「私が率いるチームは」と氏は付け加えた。「最高の練習状態でやって来ており、われわれは自分たちの準備に自信を持っている。しかし、われわれは自分たちのほうがすぐ……
アルゼンチン選手団の高名な幹部、本社を訪問
アルゼンチン協会の選手団には、今回の大会で兄弟国を代表する中心人物の一人、ホセ・レオン・ロデイロ博士が加わっている。
ロデイロ氏は、自国の政界と社交界でも知られた人物である。氏はメンドサ州で州政府大臣と選挙管理委員会委員長を務め、ラ・リオハ州の連邦書記官も務めた。1920年から1924年の任期には、連邦首都選出の国会下院議員だった。立法委員会の書記として、氏はアルカロイド取締法と家賃法を起草し、議会で報告した。
1924年、氏は議員を辞し、ジュネーブで開かれた第六回労働会議に出席する自国代表団の団長となった。氏はその会議で、「労働災害の相互主義」というアルゼンチンの主張を擁護する役目を担った。
氏は現在、国営衛生事業団の法律顧問という要職にあり、大学で講座を受け持っている。氏は講演者としても、社会問題に特に通じていることを示してきた。
氏は1920年にわが国を訪れ、アレサンドリ大統領への政権移譲を祝う式典に参加した。氏はビニャ・デル・マール社交界の名家と血縁で結ばれており、わが国に特別な愛着を抱いている。
昨日午後、本社はロデイロ氏の訪問を受ける喜びに浴した。氏は主幹カルロス・ダビラ氏、副主幹アルトゥーロ・メサ・オルバ氏としばらく言葉を交わした。
解説
ボリビア初出場の南米選手権の結果
カステル・キロガ団長の選手団が参加した大会は、1926年10月12日から11月3日まで開かれた。大会にはアルゼンチン、ボリビア、チリ、パラグアイ、ウルグアイの5か国が出場し、ブラジルは開幕前に出場を辞退した。全試合はサンティアゴのエスタディオ・スポルト・デ・ニューニョアで行われた。団長はこのインタビューで開幕戦を避けたいと語ったが、大会はこの紙面の4日後の10月12日、開催国チリとボリビアの試合で始まった。チリはこの試合に7対1で勝ち、ダビド・アレジャーノが4得点を挙げた。ボリビアはその4日後にアルゼンチンに0対5で敗れ、10月23日にパラグアイに1対6、10月28日にウルグアイに0対6で敗れた。ウルグアイ戦ではエクトル・スカローネが5得点を記録した。団長は同紙に準備への自信を語ったが、ボリビアは初出場の大会で4試合すべてに敗れた。
献花したアルゼンチン選手団の顔ぶれ
同紙がオイギンス記念碑での献花を伝えたアルゼンチン選手団は、前回王者としてチリに来ていた。アルゼンチンは1925年大会の最終戦でブラジルと引き分け、その大会で優勝していた。同紙があいさつ役として名を挙げたハーフバックの「セグンド・メディシ」は、1926年大会のアルゼンチン代表名簿でメディシ姓を持つ唯一の選手と一致する。名簿によると、その選手はボカ・ジュニアーズのディフェンダー、アンヘル・メディシで、1897年生まれ、すでに代表戦22試合に出場していた。アルゼンチンは大会でボリビアに5対0で勝ったが、ウルグアイに0対2で敗れ、首位でウルグアイに並ばれた。アルゼンチンはその後チリと1対1で引き分けた。ウルグアイは11月1日に4戦4勝として優勝を決め、この試合ではエクトル・カストロが4得点を挙げた。
ボリビア選手団の訪問と太平洋岸をめぐる対立
カステル・キロガ団長が語った「絆」という言葉は、両国の長い領土問題を背景にしていた。ボリビアは独立時に太平洋岸に400キロを超える海岸線を持っていた。チリは太平洋戦争の間にボリビアの沿岸地域を占領した。両国は1904年10月20日にサンティアゴで平和友好条約に署名し、この条約がボリビアとチリの間の太平洋戦争を正式に終わらせた。チリは同条約により、自国領内と太平洋の港を通る最も広く自由な商業通過権をボリビアに永久に認めた。同条約はアリカ港とラパス高原を結ぶ鉄道の建設も定め、この鉄道は1913年5月13日に開通した。ボリビアはその後もこの問題を追い続けた。ボリビアは1920年11月から国際連盟を通じて1904年条約の見直しを求め、チリとも直接交渉して主権を伴う太平洋への出口を得ようとした。1926年10月に到着したボリビア選手団は、海への出口をめぐって自国政府がなお争っている国の客だったのである。
タクナ・アリカ問題と1926年のケロッグ提案
1926年には、ボリビアの海への出口の問題が、チリとペルーの間のタクナ・アリカ紛争と結びついていた。1925年、米国のカルビン・クーリッジ大統領は仲裁判断で両州の住民投票の条件を定めた。この紙面が出てから2か月足らずの1926年11月30日、フランク・B・ケロッグ米国務長官はチリとペルーに提案を示した。ケロッグ長官は、両国がタクナとアリカに持つすべての権利をボリビアに永久に譲るよう求めた。チリ外相は、この提案はチリ政府が認めるつもりの譲歩をはるかに超えると答えた。ボリビア選手団長がサンティアゴの新聞に友好的な言葉を語ったのは、ボリビアの太平洋への出口が米州外交の中心議題に戻る2か月足らず前のことだったのである。
原文
UN SIMPATICO GESTO DE LOS JUGADORES ARGENTINOS
UN SIMPATICO GESTO DE LOS JUGADORES ARGENTINOS A las 10 de la mañana de hoy, los jugadores argentinos se reunirán para depositar una corona de flores en el monumento de O'Higgins. A nombre de los jugadores hará uso de la palabra en este acto el medio zaguero Segungundo Médici.
EL PRESIDENTE DE LA DELEGACION BOLIVIANA HABLA PARA “LA NACION”
RESIDENTE DE LA DELEGACION BOLIVIANA HABLA PARA " LA NACION " Tan pronto fondeó el vapor, nuestro Enviado Especial subió a bordo presentando al presidente de la delegación, señor Luis Castell Quiroga, el saludo de " La Nación ". El señor Castell Quiroga se manifestó muy agradecido de la deferencia de nuestro diario, del que manifestó tenía las mejores referencias. - " Quiero que sea " La Nación " - dijo-el primer diario que presente nuestro más cordial sal [?] do a la juventud deportista chilena. " " No traemos otra pretensión que la de servir como un lazo de unión entre los deportistas chilenos y bolivianos ". Y siguiendo en su conversación, el señor Castell Quiroga manifestó que venían con todo entusiasmo a luchar, en buen deporte, por los colores bolivianos y que consideraba un honor el que fuera Chile el país donde ellos jugarían por primera vez, en lances por la clásica Copa América. Interrogado sobre la fecha en que jugarían la primera partida, el presidente de la delegación boliviana dijo que a su llegada a Santiago solicitaría que no se les fijara el primer encuentro por cuanto vienen cansados después de más de seis días de viaje y de haber tenido que soportar la diferencia de temperatura. - " El team que presido-agregó-viene en las mejores condiciones de entrenamiento y tenemos confianza en nuestra preparación. No tenemos, sin embargo, la pretensión de ser mejo -
UN DISTINGUIDO JEFE DE LA DELEGACION ARGENTINA NOS VISITA
UN DISTINGUIDO JEFE DE LA DELEGACION ARGENTINA NOS VISITA Integra la delegación de la Asociación Argentina el doctor José León Rodeyro, una de las primeras figuras de la representación del país hermano en el actual certamen. El señor Rodeyro es además una personalidad política y social en su país. Ha sido Ministro Local de Gobierno y presidente de la Junta Electoral de la provincia de Mendoza, secretario federal de la provincia de La Rioja, diputado nacional por la capital federal en el período 1920-1924. Como secretario de la Comisión de Legislación, fué autor e informante de las leyes sobre represión de los alcaloides y sobre alquileres. En 1924 abandonó la diputación para presidir la delegación de su patria a la VI Conferencia del Trabajo en Ginebra, donde le tocó defender la tesis argentina de " Reciprocidad de los accidentes del trabajo ". Actualmente ocupa el importante cargo de asesor legal de las obras sanitarias de la nación; profesa una cátedra universitaria y como conferencista ha demostrado una especial preparación en temas sociales. Visitó nuestro país en 1920 y tuvo participación en los festejos de la transmisión del mando del Presidente Alessandri. Vinculado por lazos de sangre a distinguidas familias de la sociedad viñamarina, siente por nuestro país especial predilección. En la tarde de ayer tuvimos la satisfacción de recibir la visita del señor Rodeyro, quien compartió algunos minutos con el Director y Sub-Director, señores Carlos Dávila y Arturo Meza Olva, respectivamente.
紙面の出典:Source: Internet Archive