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· ジュネーヴ(スイス) · フランス語

Journal de Genève

1926年10月8日付のジュルナル・ド・ジュネーヴ紙は、1面にW・M署名の論説を載せた。論説は、ポーランド国会がバルテル内閣を二度続けて退陣させた後、ピウスツキ元帥が自ら首相に就いたことを支持した。論説は、実際に国を治める者は自分の名で公然と治めるべきだと論じた。J・M署名のもう一つの論説は「方針転換」という見出しで、1924年11月のジョン・ロシェの演説を取り上げた。ロシェはこの演説で、市民の3分の1に偏っていたジュネーヴの税負担を広げると約束し、この偏りを税制上の欠落であると同時に道徳上の誤りだと呼んでいた。ベルリンの通信員は、ドイツで政治的な融和が広がっていると報じた。通信員はシュトレーゼマンの発言を引き、接近政策への幅広い支持と大連合に向けた動きを伝えた。

翻訳

ポーランド情勢

……議会から権力の実質を取り上げて執行権に与えたことに、恨みを抱き続けたこと。議会がバルテル内閣を二度続けて退陣に追い込んだ投票は、元帥と国会の対立が続いていることの表れである。元帥には二つの解決策の選択肢があった。バルテル氏を留任させ、議会を解散することもできた。だが元帥は、自ら政府の長となる道を選んだ。それは正しい判断だった。政治においては、見かけが実態と一致しないことには常に不都合がある。ピウスツキ元帥がポーランドを統治しており、いま元帥なしにポーランドを統治できる者は誰もいない以上、元帥が公然と、自分自身の名のもとに統治するのは良いことである。この春に元帥が権力を辞退した理由は、もはや存在しない。元帥は……

方針転換

1924年11月24日にサン・ピエールで行った演説で、ジョン・ロシェ氏は新たに選出された政府の名において、それまで市民の3分の1にのしかかっていた税負担の配分は見直されねばならないと宣言した。「そこにあるのは税制上の欠落だけではない。道徳上の誤りでもあるのだ」と彼は述べた。そして、各人が自分の分担分の税を納めるよう努力しなければならないと付け加えた。その少し後、国務院議長は「再……」という事実を強調していた。

ドイツ国内の融和

ベルリン、10月6日(本紙通信員発)ドイツでは人心の鎮静がますます広がっており、時代の兆しとみなすことができる。シュトレーゼマン氏が述べたように「議会の大多数と、それよりさらに大きな国民の多数が接近政策を支持している」だけではない。新たな大連合の結成をめざして諸政党を互いに近づけようとする同様の動きも見られる。そして他方では、「階級闘争」という考えが目に見えて……

解説

国会によるバルテル内閣不信任の経緯

W・M署名の論説は、バルテル内閣に対する相次ぐ投票を、ピウスツキと国会の対立が1926年5月のクーデター後も続いている証拠と読んだ。このうち最初の衝突については経緯がよく記録されている。1926年9月20日、キリスト教民主党はバルテル内閣の閣僚アントニ・スイコフスキとカジミェシュ・ムウォジャノフスキの二人に対する投票を提起した。同党は、二人が国家行政の中で政治的な粛清を進めたと非難した。この投票は可決され、バルテルと内閣は総辞職を余儀なくされた。しかしピウスツキはモシチツキ大統領に命じて、バルテルを再び首相に任命させた。この結果、閣僚二人に向けた投票は、国会と元帥の公然たる対立へと発展した。国会はそれ以前から権限を失っていた。国会は1926年8月2日に「八月改正」と呼ばれる憲法改正を採択し、大統領の権限を大きく強めていた。論説が書いた、議会から権力の実質を取り上げて執行権に与えたという一節は、この変化と合致する。

ピウスツキの首相就任と内閣運営の実態

W・Mは、ピウスツキが事実上ポーランドを統治している以上、自分の名で公然と統治すべきだと論じた。ピウスツキは1923年、国民民主党をはじめとする反対派が主導する政府のもとで、政治の第一線から退いていた。ピウスツキは1926年5月のクーデターで権力に戻り、サナツィア政府の実力者となった。ピウスツキは1926年10月2日に首相に就任し、1928年6月27日までその職にあった。この体制は、論説が望んだ公然とした統治に部分的に一致したにとどまる。バルテルは副首相兼宗教・公教育相として内閣に残った。ピウスツキが内閣の日常業務に関わらなかったため、バルテルが事実上の首相として内閣を動かした。ピウスツキは軍事相として、1926年から1935年までポーランドの事実上の指導者だったとみなされている。

ジョン・ロシェと1924年のジュネーヴ州新政府

J・M署名の論説は、ジョン・ロシェが1924年11月24日にサン・ピエールで、新たに選ばれたジュネーヴ州政府の名において行った演説を議論の出発点にした。ロシェは農業の分野の出身だった。ロシェは1902年から1904年までポラントリュイの農業学校の校長を務め、1905年から1915年までジュネーヴ州の農業局長を務めた。ロシェは1917年から1943年まで急進党の国民議会議員を務めた。ロシェはジュネーヴ州の国務院に1915年から1918年と1924年から1927年の二度在籍し、1917年と1925年には議長を務めた。したがって1924年の演説は、ロシェが州政府に戻った二期目の初めに行われたものである。同紙は「方針転換」という見出しを付けており、この見出しは、論説が市民の3分の1に偏った税負担を広げるという公約を、その後の方針の変化と対比していることを示す。ここに訳した部分は、論説がその変化の中身を述べる手前で切れている。

カール・ゼーフェリングと1928年の大連合

ベルリン発の記事は、ドイツの諸政党が新たな大連合に向けて互いに近づいていると伝えた。1893年に社会民主党に入党したカール・ゼーフェリングの経歴は、この構想がたどった道筋を示している。ゼーフェリングは1920年3月にプロイセン内相に任命され、国防軍を武力衝突から遠ざけた。「ゼーフェリング体制」は、警察と一般行政に共和国に忠実な官吏を配置するものだった。ゼーフェリングは1926年に健康上の理由で内相職を退いたが、大連合の結成には力を尽くした。大連合は1928年になってようやく成立し、ゼーフェリングはその内閣で中央政府の内相に就いた。通信員が見込んだ大連合は、この記事の2年後に実現したことになる。

原文

Les affaires de Pologne

réalité du pouvoir au parlement pour la donner au pouvoir exécutif, en gardât de la rancune. Les votes par lesquels il vient de renverser deux fois de suite le ministère Bartel sont le signe qu'entre le maréchal et la Diète le conflit subsiste. Le maréchal a eu le choix entre deux solutions. Il aurait pu maintenir M. Bartel en charge et dissoudre le parlement. Il a préféré prendre lui-même la tête du gouvernement. Il a bien fait. Il y a toujours un inconvénient, dans la politique, à ce que l'apparence ne soit pas conforme à la réalité. Puisque le maréchal Pilsudski gouverne la Pologne et que personne, en ce moment, ne pourrait la gouverner sans lui, il est bon qu'il la gouverne ouvertement et sous son propre nom. Les raisons pour lesquelles il a refusé le pouvoir ce printemps n'existent plus. Il ne

Revirement

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紙面の出典:Source: Le Temps archives / Journal de Geneve

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