Neue Freie Presse
- 不幸であって、犯罪ではない
- 英国炭鉱ストの情勢悪化
- ラグーザの日々
1926年10月8日のノイエ・フライエ・プレッセは、下オーストリア農民銀行の破綻を調べる議会委員会についての社説を一面に載せた。社説は、シュテックラー次官とブレシュ州知事が人を信じすぎて過ちを犯し、知事がフランで投機したことも許されなかったと認めた。そのうえで社説は、野党が不名誉な行為を何も立証できなかったと論じ、ブレシュの尋問を遅らせた委員会多数派が、失踪した投機家アーバーバッハとの結びつきを社会民主党に宣伝させたと批判した。ロンドン発の電報は、英国の炭鉱労働者がボールドウィンの仲裁案を拒否し、保安要員の引き揚げと外国炭のボイコット要求を決議したと伝えた。文芸欄ではテオドール・ホイスが、守護聖人ブラシウスと旧共和国ラグーザの歴史、オーストリア支配の一世紀、新しい支配者の下で揺れる町の空気を描いた。
翻訳
不幸であって、犯罪ではない
ウィーン、1926年10月8日金曜日。不幸であって、犯罪ではない。シュテックラー次官とブレシュ州知事の尋問。ウィーン、10月8日。人々はこう信じていた。これは野党にとっての大当たりになる。いよいよ[?]爆弾と砲弾の嵐が始まる。農民銀行の役員たちは、打ちのめされ、叩きのめされ、恥辱に震えながら委員会室を出ることになる。無傷の手足は一本も残らず、勝利の栄光が社会民主党員たちの頭上に輝くだろう、と。ところが、事態はまったく違う方向に進んだ。シュテックラー氏とブレシュ氏は、少しも打ちひしがれることも責めさいなまれることもなく証言を終えた。野党の委員たちでさえ、この国会議員たちが立証できるような不名誉な行為を何ひとつ犯していないことを認めざるをえなかった。人を信じすぎる甘さが働いていたし、大きな過ちも記録されねばならない。しかし、この人物たちを葬り去り、その失脚を強いるに足る、具体的で手に取れるような事実はひとつもない。ブレシュ州知事の尋問が遅れたのは知事自身のせいではなく、悪意によるものでもないと委員長が強調したのは、確かに正しい。それでもなお、ブレシュ博士を金曜日から待たせたことは前代未聞の残酷さと評価せざるをえない。下オーストリアの高官たちを当日の午後のうちに証言台に呼ぶよう、本人たち自身が求めていたとおりに、少なくとも多数派の議員たちが主張しなかったのはなぜなのか、誰にも理解できないだろう。こうして、銀行の帳簿にあるコンソーシアム勘定、すなわちヨザイアス・アーバーバッハを含むコンソーシアムの存在が、新聞紙上で前代未聞のやり方で利用されることになった。こうして、下オーストリア州知事を正体不明の闇商人たちの投機と結びつける見出しが使われることになった。ブレシュ、シュテックラー、そしてヨザイアス・アーバーバッハ! 扇動のラッパはすべてこの叫びに調子を合わせ、ブレシュはプリシング首席司祭よりもさらに卑劣で、さらに非難されるべき人物とみなされた。さて、ブレシュ州知事も、自分が過ちを犯したことは否定しないだろう。州の役職者である彼は、たとえ比較的わず[……]この見事な決まり文句はまったくの無に帰した。ブレシュ州知事が、自分はコンソーシアムと関わったことは一度もなく、失踪の際に60億の借金を残した胡散臭いアーバーバッハのことなど何も知らないときわめて断固として説明したとき、社会民主党員たちでさえ反論しなかった。州知事は、ダンネベルク議員が等級くじを買い、強盗殺人犯シェンクが同じくじの別の8分の1を手に入れるということだって起こりうる、という強烈なたとえを用いた。それでも、コンソーシアム勘定の記帳はきわめて不当で、理解しがたいものだった。同様に、アーバーバッハがいようといまいと、ユダヤ人がいようといまいと、州知事たる者がフランで投機すべきではない、と言わねばならない。しかし、州知事が適時に呼ばれ、一昨日には社会民主党員たちも受け入れざるをえなかったあの説明をしていれば、扇動的で、際限なく憎悪に満ちた利用は起こりえなかったはずだ。いつか、議会戦術と政治戦術がいかに失敗しうるかについて要覧が書かれるだろう。そのときには、この委員会における多数派のふるまいがきっと格好の例として、模範例として挙げられるだろう……。下オーストリア州知事は、シュテックラー次官とまったく同じように、農民銀行を荒廃させたおぞましい不正について自分は完全に何も知らなかったと断言した。まさに『ヴァレンシュタイン』の詩句のとおりである。罪の大半は不運な星々に帰せられる。理事会議長のシュテックラーはとくに力を込めて、自分は最善の指示を出し、必要な措置を講じたと述べた。だが職員たちは真実を守らず、二十五億の担保不足が報告されたが、検査してみると百二十億だった。担保勘定では、見かけ上50パーセントの超過担保があった。資産価値は没落の嵐のなかで溶けて消えた。企業の実際の指導者であるミクシュ理事も、州知事の説明によれば誠実な人物だった。彼は、
英国炭鉱ストの情勢悪化
南駅向かい。電報「Transatlantique」。英国炭鉱ストの情勢悪化。政府提案を拒否。本紙特派員電。ロンドン、10月7日。炭鉱労働者の代議員会議は本日、ボールドウィンが提示した仲裁を拒否した。各地区での投票結果は多方面から異議を唱えられているが、それによれば政府提案は737,000票対42,000票で否決されたとされるからである。南ウェールズは、保安要員を坑内から引き揚げるよう提案した。この提案に対しては組合執行部が激しく反対し、組合委員長スミスは、提案が採択されれば辞任すると警告した。政府提案の拒否は情勢の大幅な悪化を意味し、今晩の時点ですでに闘争が続く可能性が見込まれている。炭鉱労働者の急進的決議。ストを続ける炭鉱労働者の急進派は、穏健派の組合指導者たちが本日表現したところによれば、「荒れ狂って」しまった。組合委員長スミスの辞任の警告にもかかわらず、急進派は594,000票対194,000票で南ウェールズ代議員の動議を可決した。動議は、ただちに保安要員を坑内から引き揚げること、そして英国の運輸機関による外国炭の輸送と英国の港での外国炭の扱いをボイコットするよう、ほかの組合に求めることを内容としている。さらに、総評議会に対して労働組合大会の招集を申請し、ほかの組合が炭鉱労働者のために特別拠出金を徴収するよう大会に要求することになっている。ノイエ・フライエ・プレッセ時報付録
ラグーザの日々
……正体不明の闇商人たちと結びつけた。ブレシュ、シュテックラー、そしてヨザイアス・アーバーバッハ! 扇動のラッパはすべてこの叫びに調子を合わせ、ブレシュはプリシング首席司祭よりもさらに卑劣で、さらに非難されるべき人物とみなされた。さて、ブレシュ州知事も、自分が過ちを犯したことは否定しないだろう。州の役職者である彼は、たとえ比較的わずかな額であっても、この種の通貨取引に加わることなど決して許されなかった。しかし、ヨザイアス・アーバーバッハとのあの名高いコンソーシアム、社会民主党の発見のなかでも珠玉のこの一品は、[……]措置を講じた。だが職員たちは真実を守らず、二十五億の担保不足が報告されたが、検査してみると百二十億だった。担保勘定では、見かけ上50パーセントの超過担保があった。資産価値は没落の嵐のなかで溶けて消えた。企業の実際の指導者であるミクシュ理事も、州知事の説明によれば誠実な人物だった。ブレシュが強調したところでは、彼は高潔で実直な人間だったが、破局が襲ったときに冷静さを失った。ミクシュ理事はシュテックラー次官にもブレシュにも[……]文芸欄。ラグーザの日々。テオドール・ホイス(ベルリン)。聖ブラシウスは何世紀ものあいだ、この町の自由を忠実に守ってきた。彼の居場所は、その記憶に捧げられた、人の出入りでにぎわう教会のなかの敬虔な崇拝の場だけではなかった。人はたえず[?]、ごく世俗的な場所でも彼の像に出会う。どの門にも、どのずんぐりした防御塔にも、そして防御塔は数多くあるのだが、壁龕があり、そこにはカッパドキアの司教が、気づかわしげに油断なく、祝福しつつ威嚇しつつ立っている。もっとも、彼の一般的な役目はさほど英雄的なものではない。十四救難聖人の輪のなかで、彼に任されているのは喉の痛みである。しかし、彼とともに、また彼のために、これほど強く生きてきたこの町への気づかいが、彼をこの小さな職分の上に引き上げた。彼の庇護のもとで、ヴェネツィア人とオスマン人に取り囲まれたこの共同体は、国家としての独立を保った。ラグーザ人のしなやかな政治と、岩がちな海岸の頑固な石も、それなりの役割を果たしたのだろう。サン・ビアージョ、これが彼のふつうのイタリア語名だが、彼は、敬虔なこの町が世界の取引でうまく立ち回るために、トルコの大君の形式的で実質的には効力のない宗主権の下に身を置いたときにも、目をつぶった。やがて、より強い者がやってくるまでは。ナポレオンの将軍が、海からではなく、城壁をはるかに見下ろす山々からやってきたのである。彼は大砲とともに新しい時代を連れてきた。共和国の歴史は封印されて文書館に納められた。だがその名は、皇帝がイリュリア諸州総督に贈った公爵の称号の飾りとして、時代の混乱のなかでマルモンに付き従い、浮き沈みの多い戦いの道を経てブルボン家への奉仕にいたり、さらにその先の亡命にまで同行した。百年にわたるオーストリアの支配は1814年に始まった。それも過ぎ去った。この時代は何の痕跡も残していない。正確に言えば、もちろんその時代に市壁の外にいくつかの新しい街区ができ、ホテルが建てられ、路面電車がグラヴォーザまで走っている。オーストリア時代に着工されたたいへん立派なギムナジウムが、今になって完成した。駆け込みで、あの南の地ではいろいろなことに手がつけられた。長く議論の的だったスパラトの発掘品のための博物館も、同じような経過をたどった。現地で話をするウィーンの人々は、この土地への残念そうな愛情をこめて、ここはいつだって「赤字」だったんですよ、と言う。つまり国家予算のうえで、ということだ。こうした事情がどこまで変わったのか、あるいは変わるのかについて、人は地元の人々といろいろと話をする。地元の人々は、懐疑と熱狂の移ろいやすい混合を持ち合わせている。まず、新しい支配の状況は大仰な表現を見いだした。堂々たるポルタ・ピレの愛らしい壁龕のビアージョの下に、大きな寸法で、古代風の浮き彫りが、最後のセルビア[……]高原保養地ゼメリング。秋の滞在にすばらしい[……]
解説
1926年5月から続いた炭鉱ロックアウト
ロンドン発の電報が伝えた炭鉱争議は、すでに5か月以上続いていた。1926年5月1日、英国全土の炭鉱労働者は、大幅な賃下げを受け入れるまで坑内から締め出された。サミュエル委員会の報告書は、短期的には経営者側の賃下げ要求を一部支持したが、経営者側が求めた労働時間の延長には反対した。経営者も労働者も、この妥協案を受け入れなかった。炭鉱労働者代議員会議は5月20日にすでに首相の提案を拒否しており、10月にボールドウィンの仲裁案を退けたことで、労働者側の拒否は夏を通じて続いたことになる。政府提案に反対が737,000票、賛成が42,000票という地区投票の数字について、特派員は否決された「とされる」と書き、多方面から異議が出ていると付け加えた。新聞自身も、この数字を確定したものとして扱っていなかったのである。
外国炭ボイコット要求と11月の敗北
特派員が急進的と呼んだ決議は、炭鉱労働者がすでに出していた要求を繰り返すものだった。5月25日の時点で、政府は外国炭の輸入を手配していると報じられていた。南ウェールズの動議が英国の運輸機関と港での外国炭の扱いをねらったのは、この輸入があったためである。7月15日には英国炭鉱労働者連盟が労働組合会議の総評議会に石炭輸送の禁止を求めた。総評議会はこれを断ったが、締め出された炭鉱労働者への資金援助は約束した。10月のボイコット要求とほかの組合への特別拠出金の要求は、一度断られた輸送禁止をもう一度持ち出し、労働組合会議が約束した種類の資金を求めるものだった。ロンドンから伝えられた強硬路線は長く続かなかった。1926年11月27日から30日にかけて、炭鉱労働者はより低い賃金とより長い労働時間で職場に戻り、ウォリック大学の年表はこれを完全な敗北と記している。
審問を受けた州知事カール・ブレシュ
社説が擁護した州知事はカール・ブレシュである。ブレシュはキリスト教社会党の政治家で、1922年から1931年まで、さらに1932年から1933年まで下オーストリア州知事を務め、キリスト教社会党会派の議長も務めた。ノイエ・フライエ・プレッセは、彼の尋問を政治的な争いとして扱った。社説は、州知事がフランの投機に加わるべきではなかったと認めつつ、彼の名誉が傷ついた原因を委員会多数派の遅れと社会民主党の扇動に求めた。25億と報告された担保不足が検査で120億だったという銀行の損失額は、新聞が伝えた証言の内容である。この事件のあとも、ブレシュは政治の第一線に残った。オーストリア最大の銀行クレディタンシュタルトが1931年5月に破綻したあと、ブレシュは1931年6月20日に首相に任命された。農民銀行をめぐって尋問を受けた政治家が、のちにはるかに大きな銀行破綻のなかで政権を担ったのである。
共和国ラグーザからドゥブロヴニクへ
ホイスの随筆は、百科事典が年号で示す数世紀の歴史を短くまとめている。ホイスが書いた「トルコの大君の形式的で実質的には効力のない宗主権」は、ラグーザ共和国をスルタンへの朝貢国とした1458年の条約にあたる。大砲を携えてやってきた「より強い者」はフランス軍である。この町は1806年、ロシアとモンテネグロの艦隊による包囲を終わらせるためにフランス軍に降伏し、1808年にはマルモン元帥が共和国を廃止して、その領域をイリュリア諸州に組み入れた。ホイスは、町の名がその後マルモンの公爵の称号を飾ったと書いている。ホイスはオーストリア支配の100年を1814年からと数えたが、百科事典はハプスブルク帝国による獲得を1815年のウィーン会議と結びつけている。1918年にオーストリア=ハンガリーが崩壊すると、町は新しいセルブ・クロアート・スロヴェーン王国に編入され、名前も正式にラグーザからドゥブロヴニクに改められた。ウィーンの読者に向けて書いたホイスは、なおラグーザ、グラヴォーザ、スパラトという名前を使っていた。随筆の冒頭に登場する聖ブラシウスはドゥブロヴニクの守護聖人であり、18世紀に建てられた聖ブラシウス教会がこの聖人を祀っている。
原文
Unglück, nicht Verbrechen.
Wien, Freitag, den 8. Oktober 1926. Unglück, nicht Verbrechen. Die Vernehmung des Staatssekretärs Stöckler und des Landeshauptmannes Buresch. Wien, 8. Oktober. Man hat geglaubt: Das wird der Haupttreffer für die Opposition. Jetzt wird es losgehen mit [?] Bomben und Granaten. Zerschunden und zerschmissen, bebend in Schande, werden die Funktionäre der Bauernbank das Zimmer des Ausschusses verlassen. Kein Glied wird ungebrochen bleiben, und die Apotheose des Sieges wird über den Häuptern der Sozialdemokraten leuchten. Es ist jedoch ganz anders gekommen. Die Herren Stöckler und Buresch haben ihre Aussage beendigt, ohne im geringsten zerknickt und zermartert zu sein, und selbst die Ausschußmitglieder der Opposition mußten erkennen, daß die Parlamentarier nichts begangen haben, was nachweisbar unehrenhaft gewesen wäre. Vertrauensseligkeit war am Werke, große Fehler sind zu verzeichnen, aber kein plastisches, kein palpables Faktum, geeignet, diese Männer unmöglich zu machen und ihre Degradierung zu erzwingen. Der Vorsitzende hat gewiß recht, wenn er hervorhebt, die Einvernahme des Landeshauptmannes Buresch habe sich ohne sein Zutun und ohne böse Absicht verzögert. Es ist dennoch als unerhörte Grausamkeit zu werten, daß man Dr. Buresch seit Freitag hat warten lassen, und niemand wird es begreifen, warum nicht mindestens die Abgeordneten der Majorität darauf bestanden, daß noch am Nachmittag die niederösterreichischen Würdenträger vor die Schranken gefordert wurden, wie sie selbst es ja verlangten. So konnte es geschehen, daß die Tatsache des Konsortialkontos in den Büchern der Bank, das Konsortium, das Josaias Aberbach in sich schließt, publizistisch in unerhörter Weise ausgenützt wurde; so konnten die Ueberschriften verwendet werden, die den Landeshauptmann von Niederösterreich mit den Spekulationen von unbekannten Schiebern in Verbindung brachten. Buresch, Stöckler und Josaias Aberbach! Alle Agitationstrompeten waren auf diesen Ruf gestimmt und Buresch wurde für noch gemeiner, für noch verwerflicher gehalten als der Dechant Prisching. Nun wird wohl Landeshauptmann Buresch nicht leugnen, daß er Irrtümer begangen habe. Nie und nimmer durfte er als Landesfunktionär selbst mit einer relativ gedieses prächtige Schlagwort löst sich ins blanke Nichts, und selbst die Sozialdemokraten widersprachen nicht, als Landeshauptmann Buresch mit größter Entschiedenheit dartat, er habe nie mit einem Konsortium zutun gehabt, er wisse nichts von dem anrüchigen Aberbach, der bei seinem Verschwinden sechs Milliarden schuldig blieb. Der Landeshauptmann gebrauchte den drastischen Vergleich, es könnte ja auch dem Abgeordneten Danneberg passieren, daß er ein Klassenlos kaufte und daß der Raubmörder Schenk sich ein anderes Achtel desselben Loses anschaffte. Immerhin, die Buchung des Konsortialkontos war höchst unberechtigt und unverständlich. Ebenso muß gesagt werden, ob mit Aberbach oder ohne Aberbach, ob mit Juden oder ohne Juden, ein Landeshauptmann soll nicht in Francs spekulieren. Aber die agitatorische, die maßlos gehässige Auswertung, sie hätte nicht stattfinden können, wäre der Landeshauptmann rechtzeitig gerufen worden und hätte er jene Erklärungen gegeben, die vorgestern auch seitens der Sozialdemokraten haben akzeptiert werden müssen. Man wird einmal ein Kompendium schreiben darüber, wie parlamentarische und politische Taktik verfehlt werden kann. Dann wird man sicherlich das Benehmen der Majorität in diesem Ausschuß als vortreffliches Beispiel, als Paradigma anführen.... Der Landeshauptmann von Niederösterreich hat genau so wie Staatssekretär Stöckler seine vollkommene Unwissenheit über die schauerlichen Mißbräuche versichert, welche die Bauernbank verheert haben. Ganz nach dem Vers im Wallenstein: Man schreibt den größeren Teil der Schuld den unglückseligen Sternen zu. Der Präsident des Direktionsrates Stöckler sagte mit besonderer Betonung, er habe die besten Instruktionen herausgegeben und die notwendigen Verfügungen getroffen. Aber die Beamten hielten sich nicht an die Wahrheit und eine Unterdeckung von zweieinhalb Milliarden wurde gemeldet, bei der Prüfung waren es zwölf Milliarden. Bei den Deckkonti hatte man scheinbar fünfzig Prozent Ueberdeckung. Die Werte schmolzen dahin unter dem Sturm des Niederganges. Der wirkliche Führer des Unternehmens, Direktor Miksch, auch er war nach der Erklärung des Landeshauptmannes anständig, er war, wie
Verschlechterung der Lage im englischen Kohlenstreik.
gegenüber Südbahnhof. Telegramme: " Transatlantique " Verschlechterung der Lage im englischen Kohlenstreik. Ablehnung des Regierungsvorschlages. Telegramm unseres Korrespondenten. London, 7. Oktober. Die Delegiertenkonferenz der Bergarbeiter lehnte heute das von Baldwin angebotene Schiedsgericht ab, da nach den Abstimmungsergebnissen in den Bezirken, die vielseits angefochten werden, der Regierungsvorschlag mit 737. 000 gegen 42. 000 Stimmen abgelehnt worden sein soll. Südwales beantragte die Abberufung der Sicherungsmannschaften aus den Gruben. Dieser Vorschlag wurde vom Vorstand der Gewerkschaften lebhaft bekämpft und der Gewerkschaftsvorsitzende Smith drohte seine Demission an, wenn der Vorschlag Annahme finden sollte. Die Ablehnung des Regierungsvorschlages bedeutet eine wesentliche Verschlechterung der Lage und man rechnet heute abend bereits mit der Möglichkeit, daß der Kampf weitergeht. Radikale Beschlüsse der Bergarbeiter. Der radikale Teil der Bergarbeiter, die im Streik verharren, ist, wie sich heute gemäßigte Gewerkschaftsführer ausdrückten, " wild " geworden. Trotz der Drohung des Gewerkschaftsvorsitzenden Smith mit der Demission hat er mit 594. 000 gegen 194. 000 Stimmen den Antrag der Delegierten von Südwales angenommen, sofort die Sicherungsmannschaften aus den Gruben abzuberufen und einen Boykott der Beförderung ausländischer Kohle durch englische Verkehrsanstalten und in englischen Häfen von den anderen Gewerkschaften zu verlangen. Ferner soll die Einberufung eines Gewerkschaftskongresses bei dem Generalrat beantragt werden, um von dem Kongresse die Erhebung einer Sonderabgabe zugunsten der Bergarbeiter von seiten der übrigen Gewerkschaften zu fordern. Chronikbeilage der Neuen Freien Presse
Tage in Ragusa.
unbekannten Schiebern in Verbindung brachten. Buresch, Stöckler und Josaias Aberbach! Alle Agitationstrompeten waren auf diesen Ruf gestimmt und Buresch wurde für noch gemeiner, für noch verwerflicher gehalten als der Dechant Prisching. Nun wird wohl Landeshauptmann Buresch nicht leugnen, daß er Irrtümer begangen habe. Nie und nimmer durfte er als Landesfunktionär selbst mit einer relativ geringfügigen Summe sich an einer Valutatransaktion dieser Art beteiligen. Aber das berühmte Konsortium mit Josaias Aberbach, diese Perle der sozialdemokratischen Entdeckungen, fügungen getroffen. Aber die Beamten hielten sich nicht an die Wahrheit und eine Unterdeckung von zweieinhalb Milliarden wurde gemeldet, bei der Prüfung waren es zwölf Milliarden. Bei den Deckkonti hatte man scheinbar fünfzig Prozent Ueberdeckung. Die Werte schmolzen dahin unter dem Sturm des Niederganges. Der wirkliche Führer des Unternehmens, Direktor Miksch, auch er war nach der Erklärung des Landeshauptmannes anständig, er war, wie Buresch hervorhob, ein edler, braver Mensch, allein er verlor den Kopf, als die Katastrophe hereinbrach. Direktor Miksch hat sowohl dem Staatssekretär Stöckler wie auch Buresch Feuilleton. Tage in Ragusa. Von Theodor Heuß (Berlin). Der heilige Blasius hat viele Jahrhunderte die Freiheit dieser Stadt in treuer Hut gehalten. Er besaß nicht nur eine Stätte frommer Verehrung in der lebhaft bewegten Kirche, die seinem Gedächtnis gewidmet ist, immerzu begegnet [?] man seinem Bild an sehr weltlichen Stellen. Jedes Tor, jeder klotzige Wehrturm, und deren gibt es viele, hat eine Nische, in der besorgt und wachsam, segnend und drohend der kappadozische Bischof steht. Seine allgemeine Funktion ist ja nun nicht weiter heroisch; im Kreis der vierzehn Nothelfer sind ihm die Halsschmerzen anvertraut. Aber die Sorge für diese Stadt, die so stark mit ihm und für ihn lebte, hob ihn über diesen kleineren Beruf hinaus. In seinem Schutz erhielt das Gemeinwesen, umdrängt von Venezianern und Osmanen, die staatliche Selbständigkeit. Die geschmeidige Politik der Ragusaner und der trotzige Stein der felsigen Küste mögen das ihrige dazu getan haben. San Biagio - das ist sein gebräuchlicher italienischer Name - drückte ein Auge zu, als die fromme Stadt, um in den Welthändeln besser operieren zu können, sich unter eine formale, sachlich unwirksame Oberhoheit des türkischen Großherrn stellte. Bis dann ein stärkerer kam, Napoleons Feldherr, nicht von der See her, sondern von den die Mauern hoch überragenden Bergen. Der führte Geschütze mit sich und die neue Zeit. Die Geschichte der Republik wurde zugesiegelt und in die Archive gelegt; ihr Name aber, der Schmuck des Herzogtitels, den der Kaiser dem Generalgouverneur der illyrischen Provinzen schenkte, begleitet durch die Wirren der Zeit Marmont auf wechselvollem Schlachtenweg bis zum Bourbonendienst und darüber hinaus ins Exil. Hundert Jahre österreichischer Herrschaft haben 1814 begonnen. Vorüber - diese Zeit hat keine Spuren hinterlassen. Das heißt, es sind vor der Umwallung natürlich ein paar neue Quartiere entstanden und Hotels gebaut worden in der Epoche und eine Elektrische läuft nach Gravosa hinüber - ein sehr stattliches Gymnasium, in der österreichischen Zeit in Angriff genommen, ist jetzt fertiggestellt worden. Vor Torschluß wurde da unten noch allerhand angepackt; dem lang umstrittenen Museum für die Ausgrabungen in Spalato erging es ähnlich. Die Wiener, mit denen man da unten spricht, sagen mit einer bedauernden Liebe zu dem Land: es ist halt immer " passiv " gewesen! Nämlich im Staatshaushalt. Darüber, wie weit sich diese Dinge geändert haben oder ändern werden, redet man allerhand mit den Einheimischen, die eine wechselvolle Mischung von Skepsis und Enthusiasmus zur Verfügung haben. Zunächst fand die neue Herrschaftslage einen pathetischen Ausdruck: unter dem zierlichen Nischen-Biagio der mächtigen Porta Pille ist in großen Maßen das antikisierende Relief des letzten Serbenischer Höhenkurort Semmering. Herrlicher Herbstaufenthalt für Ge -