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· 上海(中国) · 中国語

時報

本稿は1926年10月8日付の時報のうち、北伐の江西戦線を扱う三本の記事を読む。九江発七日の東方電は、和議の空気が再び濃くなり、時局の中心が政治方面へ移ったと伝えた。同じ電報は、孫が近く戦線を視察して将兵を励ます予定だと報じた。五日発の通信は、九江城外の紗廠の門前に塹壕があり、廬山の麓で党軍が見つかり、付近の丘に機関銃が置かれたと伝えた。徳安をめぐる記事は、高安と一部判読できない某昌で勝敗のつかない激戦が続いたと報じた。この記事は武寧や九江付近の部隊配置を並べ、湖北から山を越えた五千以上の部隊が現れた後に謝軍が重囲を突破したと伝えた。紙面には購読料の表示も並んだ。

本稿は1926年10月8日付時報のうち、一部判読できる三本の戦況記事を扱う。OCRは段組を混ぜて乱れているため、本稿は紙面画像に基づいて読んでいる。画像の上下の端は暗く、広告と料金表の小さな文字はほとんど読めない。二番目の抜粋は一番目の抜粋に含まれる塹壕の通信と重なり、三番目の抜粋は購読料の表示から徳安の記事へ続いている。與と興、廂など一部の文字は判読が確かでなく、読めない文字は[?]で示している。見出しの見えない◎印の通信欄は本稿の対象から外している。

翻訳

和議の空気、次第に濃厚に

……和議の空気は再び次第に濃厚となり、時局の中心は政治方面へ移った。孫は近く戦線を視察し、士卒を激励する予定である。(九江七日東方電)

◉ 九江付近で塹壕を掘る 九江城外の関簾閘では、久興紗廠の門前にすでに塹壕がある。廬山の麓の白蓮洞で党軍が発見された。(九江五日発)[?]九江一[?]外の金鶏坡、蓮花洞はいずれも……

九江付近で塹壕を掘る

……付近で塹壕を掘る……簾閘、久興紗廠の門前にすでに……白蓮洞で党軍を発見。(九江五日発)……外の金鶏坡、蓮花洞には、いずれも機関銃が密に配置されている。([?]潜山岳……

革命軍、徳安占領の経過

[?]定価 一年五元、郵費五角。半年二元六角、郵費二角五分。

……徳安の経過 贛軍、相次いで救援に向かう [?]昌・高安で激戦、勝敗つかず

[?]昌の一戦では、南軍の精鋭である王柏齢部および[?]……[?]江沿岸の大冶は、またも人に占領された。南軍の一旅三千人は武寧付近に、周鳳岐の一旅および……は九江にあり、その他はことごとく湖北方面にいる。蔣介石軍は自ら滾溝を守って挑発を始め、[?][?]へ向かう鄭俊彦と……このとき徐宗仁軍が突如として湖北から山を越え嶺を越え、武寧付近に突然[?]し、五千以上の兵力を擁し、胡宗[?](鴻勲)部によって……謝軍は間もなく衆寡敵せず、ついに重囲を突破し、[?][?]、……

解説

孫伝芳の五省支配と江西戦線

九江電が戦線を視察する予定だと伝えた孫は、長江下流域を支配した直隷派の軍閥孫伝芳である。孫伝芳は1925年後半から江蘇、浙江、福建、安徽、江西の五省に支配を広げ、1925年11月25日に江蘇の軍事長官として南京に本営を置いた。国民党は1926年に北伐を始めた際、当初は呉佩孚を撃破して孫伝芳をなだめる戦略をとり、広州政府は孫伝芳に不可侵協定を提案した。孫伝芳は自らの政権を国民党の支配下に置くことを拒んだ。呉佩孚軍が退却すると、国民革命軍は孫伝芳の支配する江西省へ向かい、九江と省都南昌を目標に定めた。この方針転換のため、この紙面から選んだ記事はすべて九江、徳安、武寧、高安といった江西の地名を伝えている。

1926年10月初めの江西の戦況

時報が伝えた塹壕構築と決着のつかない戦闘の様子は、9月の孫伝芳の反攻の後に続いた膠着状態と一致する。国民革命軍は1926年9月19日までに九江と南昌を手に入れ、孫伝芳の部将頼世璜の離反がその進撃を早めた。9月21日に孫伝芳が南京から援軍を率いて到着すると、国民革命軍は退却を強いられた。孫伝芳は失った地域の大半を取り戻し、学生や教師、国民党員と疑った人々を数百人殺害した。孫伝芳軍が再び江西と福建で退却したのは10月末であり、国民革命軍が長江の港である九江と湖口の攻略に動いたのは11月初めである。この号が九江城外の塹壕や付近の丘の機関銃を報じた10月上旬には、九江はなお孫伝芳側が保持し、守りを固めていたとみられる。徳安の記事が伝えた贛軍の救援や勝敗のつかない激戦も、同じ不安定な数週間の出来事である。記事に出てくる部隊名や三千人、五千以上といった兵力は戦時の通信によるもので、ここで用いた資料では確かめられない。

和議の空気の背景

時報は九江電として和議の空気が濃くなり、時局の中心が政治方面へ移ったと伝えたが、電文の判読できる部分には交渉の当事者や条件が記されていない。孫伝芳と蔣介石の間には以前から深い敵意があった。1925年から26年の反奉戦争の時期に、蔣介石は孫伝芳を国民党側へ寝返らせようとした。孫伝芳はこれを拒んで蔣介石の使者を処刑し、蔣介石も報復として孫伝芳の使者を処刑した。広州政府は孫伝芳に不可侵協定を示していたが、孫伝芳は自らの政権を国民党の支配下に置くことを拒んだ。この号が伝えた和議の空気は戦闘を止めなかった。孫伝芳軍は10月末までに江西と福建で再び退却した。

廬山のそばの開港場九江

塹壕の通信が伝えた地名は、外国人が多く住む地域のすぐ近くにあった。九江は1862年に開港場となり、江西の大量の米を輸出し、イギリスはこの町に租界を持っていた。20世紀初めには、廬山の山上にある保養地牯嶺が外国人住民の避暑地となった。九江城外の紗廠の門前に塹壕があり、廬山の麓で党軍が見つかったという報道は、外国人が暮らし商売をする地域のそばで戦闘の準備が進んでいたことを示す。混乱は翌年に租界そのものに及んだ。イギリスは1927年、租界が略奪を受け、中国人職員が持ち場を捨てて群衆の側に付いた後に、九江の租界を手放した。

原文

議和空氣漸濃厚

和空氣又漸次濃厚、 時局之中心、 移至政治方面、 孫近擬視察戰線、 鼓勵士卒、 (九江七日東方電) ◉ 九江附近掘戰壕九江城外關簾閘久興紗廠門首已戰壕、 廬山麓白蓮洞發現黨軍、 (九江五日發) [?] 九江一 [?] 外之金雞坡蓮花洞均

九江附近掘戰壕

近掘戰壕簾閘久興紗廠門首已白蓮洞發現黨軍、 (九江五日發) 外之金雞坡蓮花洞均機關槍密置、 ([?] 潛山嶽

革軍佔德安經過

[?] 定價全年五元郵費五角半年二元六角郵費二角五分德安經過贛軍紛往救援 [?] 昌高安有劇戰無勝負 [?] 昌一役、 南軍精銳王柏齡部及 [?] 江沿岸大冶, 又被人占領, 南旅三千人、 在武甯附近、 周鳳岐之一旅及在九江、 其他悉在湖北方面、 蔣介石軍自守滾溝、 開始挑釁、 與開往 [?] [?] 之鄭俊彥此時徐宗仁軍忽由鄂跨山越嶺、 突然 [?] 武甯附近、 擁兵力五千以上、 由胡宗 [?] (鴻勳) 部、 謝軍尋不敵衆、 遂突破重圍、 [?] [?]、

紙面の出典:Source: Internet Archive / eastasia-periodicals

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