新聞を読み込んでいます… / Loading the edition…

· サイゴン(現ベトナム) · フランス語

L’Écho annamite

1926年10月2日の『レコー・アンナミット』のこの紙面には、立憲派の指導者ブイ・クアン・チエウが植民地評議会選挙に向けて有権者に宛てた書簡が載った。彼は3月24日に受けた歓迎を振り返り、両民族の権利を尊重する「率直で誠実な」フランス・安南協力の強化を掲げ、「暴力によらず、しかし弱腰にもならず」に教育の拡充や人民の尊厳、より公正な体制を求めると訴えた。判読できる本文が途切れる直前、書簡はファン・チャウ・チンの遺体に言及した。紙面下部では、対立紙『プログレ・アンナミット』を攻撃するファン・ヴァン・チュオン署名の書簡が、自分たちが逮捕されたのは反軍国主義のためではなく植民地政府に敵視されていたからだと主張した。さらに短い告知が、アレクサンドル・ヴァレンヌ総督が10月3日に任務のため出発し、その前に来客を迎えると伝えた。

この版は紙面の部分的な読み取りにとどまる。OCRは記事本文を確実には保存しておらず、小さな活字、切れた段の端、かすれたアクセント記号のため全文の転写はできない。翻訳しているのは判読できる短い3箇所のみで、[?]は欠落を示す。ブイ・クアン・チエウの書簡は信頼度が高く読めるが、文の途中で途切れている。ファン・ヴァン・チュオンの書簡と総督の告知は信頼度が低く、告知には行き先、船名、接見の開始時刻などの語が欠けている。紙面のそれ以外の部分は扱っていない。

翻訳

選挙区の有権者諸君へ

[?] 去る3月24日に郷土が私に寄せてくれた熱烈な歓迎は、私にとって十二分の報いでした。それは私に、この道を貫くよう励ましてくれています。もし皆さんが私を植民地評議会へ送り出すという栄誉を与えてくださるなら、そこで私はどのように振る舞うのか。これまでと同じ熱意、同じ信念をもって、始めた仕事を続けていきます。私の綱領ですか。皆さんはもうご存じのはずです。フランス・安南の協力――双方にとって率直で誠実な協力――を強めるのに役立つあらゆることを、安南の地における共同生活のなかで両民族の権利を尊重することに常に心を配りながら行うことです。暴力に訴えることなく、しかし弱腰になることもなく、これまでどおり、私は私たちの正当な願いのすべてを実現すべく努めていきます。子どもたちにはもっと教育を、人民にはもっと尊厳を、つまりは、法と正義にもっとかなった体制を望んでいるのです。私たちの傑出した、惜しまれてやまない同胞ファン・チャウ――の遺体を前にして

ブイ・クアン・チエウ

『プログレ・アンナミット』の虚偽

[?] 私たちが逮捕されたのは、反軍国主義者だったからではなく、ただ単に、植民地政府にとって目の敵だったからにすぎない。[?]

ファン・ヴァン・チュオン

総督の出発

[?]。総督の出発。アレクサンドル[?]総督は、任務のため[?]へ帰国の途につき、[?]10月3日夕刻、客船[?]で[?]。アレクサンドル・ヴァレンヌ氏は、[?]時から23時まで、「アジャンス・デ・[?]・マリティーム」の広間[?]で来客を迎える予定である。[?]

解説

チエウの訴えの背景にある1926年3月の歓迎とファン・チャウ・チンの葬儀

ブイ・クアン・チエウは選挙書簡の冒頭で3月24日の「熱烈な歓迎」を回想し、判読できる範囲の末尾ではファン・チャウ・チンの遺体に言及している。どちらも、この年のサイゴン政治で最も緊迫した数週間を指している。チエウは穏健民族主義の立憲党の指導者で、彼がフランスから帰国したのは、若いジャーナリストのグエン・アン・ニンが逮捕された時期と重なっていた。ある記述はこの逮捕を1926年3月21日としており、チエウが歓迎の日として挙げる日付より3日早い。サイゴンの街路でチエウに付き従った群衆は「グエン・アン・ニンを釈放せよ」と叫んだと伝えられる。同じ日には、「五龍」の一人で著名な政治犯だったファン・チャウ・チンの死去の知らせも届いた。4月4日の葬儀は前例のない反政府デモとなり、約7万人が葬列とともに行進した。票を求める書簡のなかでこの歓迎を振り返り、ファン・チャウ・チンの遺体に言及することで、チエウは「フランス・安南協力」という穏健な綱領を、大衆動員の季節の記憶と重ね合わせた。読者にとって、それはわずか半年前に経験した出来事だった。

ファン・ヴァン・チュオンとは誰か、そして1926年に彼の逮捕が意味したもの

ファン・ヴァン・チュオン署名の書簡は『プログレ・アンナミット』に反論し、自分たちが投獄されたのは反軍国主義者だったからではなく、植民地政府の「目の敵」だったからだと主張している。この逮捕の経緯は本人の説明によるもので、断片には日付がない。この主張の重みは、フランスでの彼の経歴に由来する。チュオンはハノイ生まれの弁護士で、ベトナム人として初めて法学博士号を取得した人物だった。1908年から1925年までフランスに滞在するあいだ、ファン・チャウ・チン、グエン・タト・タイン(のちのホー・チ・ミン)、グエン・アン・ニン、グエン・テ・チュエンとともに、「五龍」(グー・ロン)と呼ばれる集団を形づくった。この集団は社会主義系の新聞でフランスの植民地政策を告発し、1919年にはチュオンが、ヴェルサイユ講和会議に送られることになる請願書「安南人民の要求」を書いた。逮捕は反軍国主義とは無関係だったと書いたとき、彼は、見出しから察するに、この出来事を別様に描いた対立紙に対してその経歴を弁護していた。同時に、フランスにいた亡命者たちを反軍国主義の扇動者ではなく、政治的迫害の標的として示していたのである。

サイゴンの新聞論争を先鋭化させた1926年の弾圧

誰がなぜ逮捕されたのかをめぐる論争は、サイゴンで弾圧が続いた春を経て起きた。「五龍」の一員でもあったグエン・アン・ニンは、フランスから最終的に帰国して数か月のうちに、当局が彼の新聞『ラ・クロッシュ・フェレ』を弾圧した際に逮捕された。同紙の呼びかけは、報道・教育・集会の自由を求める数千人の若い労働者や学生を引き寄せていた。1926年4月24日に彼への禁錮18か月の判決が伝えられると、サイゴンと周辺地域の学生・生徒が一斉に授業を放棄し、1000人以上が退学処分を受けた。こうした状況のもとで、民族主義者がなぜ逮捕されるのかという問いは生々しい政治問題だった。自分は政府の「目の敵」だったというだけで逮捕されたというチュオンの主張は、弾圧が反軍国主義の扇動のような実際の違法行為ではなく、政治的反対者に向けられたものだと示すものだった。同じ紙面で「暴力によらず、しかし弱腰にもならず」に行動すると約束したチエウも、同じ時期に同じ読者に向けて語っていた。

10月3日に出発した時点での、インドシナ行政におけるアレクサンドル・ヴァレンヌの位置

告知は、アレクサンドル・ヴァレンヌ総督が10月3日夕刻に「任務のため」出航し、それに先立って海運代理店の広間で来客を迎えると伝えている。ヴァレンヌはフランスの政治家・ジャーナリストで、新聞『ラ・モンターニュ』の創刊者として知られ、フランス社会党(SFIO)の政治家でもあった。1925年から1928年までフランス領インドシナ総督を務めており、1926年10月の出発は任期のほぼ半ばに当たる。告知はこれを最終的な離任ではなく任務と呼んでおり、実際に彼は1928年まで総督の職にあった。判読できる断片は旅の目的も行き先も記していない。来客を迎える時刻まで新聞が載せたことは、総督の動静が読者にとって実用的なニュースとして扱われていたことを示している。しかもそれは、植民地評議会選挙の訴えと同じ紙面に載っていた。

原文

Aux électeurs de la circonscription

[?] La réception enthousiaste que le pays m'a réservée le 24 Mars dernier m'a largement récompensé; elle m'encourage à persévérer. Quelle sera ma conduite au Conseil Colonial, si vous me faites l'honneur de m'y envoyer? Avec la même ardeur, la même conviction je continuerai le travail commencé. Mon programme? Vous le connaissez. Tout ce qui pourra contribuer à fortifier la collaboration franco-annamite, franche et loyale de part et d'autre, avec le constant souci de respecter les droits des deux peuples dans la vie collective au pays d'Annam. Sans violence, mais aussi sans faiblesse, comme par le passé, je poursuivrai la réalisation de toutes nos aspirations légitimes, je voudrais plus d'instruction pour nos enfants, plus de dignité pour le peuple, bref un régime plus conforme au droit et à la justice. Devant le corps de notre éminent et regretté compatriote Phan-châu -

Les mensonges du « Progrès Annamite »

[?] Nous avons été arrêtés, non pas parce que nous étions anti-militaristes, mais tout simplement parce que nous étions des bêtes noires du gouvernement colonial. [?]

Départ du Gouverneur Général

[?]. Départ du Gouverneur Général le Gouverneur Général Alexandre [?], rentrant en mission en [?] dans la soirée du [?] 3 Octobre sur le paquebot [?]. M. Alexandre Varenne recevra de [?] heures à vingt-trois heures [?] les salons de l'Agence des [?] Maritimes. [?]

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

万国一面について →

本日の新聞一覧

街を巡る ↑
100%
原紙を拡大して読む

つまんで拡大 · 指で紙を動かす