Vossische Zeitung
- グジェシンスキ任命
- ホーエンツォレルン家との和解
- 連立交渉が停滞
1926年10月6日付のフォス新聞は、プロイセン内務大臣の交代を一面の筆頭に置いた。同紙は、ゼーフェリング内相が健康上の理由で辞任し、ベルリン警視総監グジェシンスキが後任になったという公式発表を伝えた。同紙はあわせて、ブラウン首相の丁重な感謝の書簡と、その晩ジャンダルメンマルクトで国旗団が開く松明の送別集会への参加の呼びかけも載せた。同紙は長い記事で、ヘプカー=アショフ財務相がまとめたホーエンツォレルン家との新しい財産和解の条件を宮殿ごと、モルゲン単位で報じ、与党が承認に傾いていると伝えた。同紙は短い記事で、ゲスラー国防相が元皇太子の息子の国防軍演習参加についてヒンデンブルク大統領に報告したことも報じた。同紙は再開する州議会についての記事で、ドイツ人民党がケルン党大会でとった沈黙の戦術に中央党が反発し、プロイセンの大連立再建交渉が停滞したと伝えた。
翻訳
グジェシンスキ任命
編集責任者(商業欄を除く)カール・ミッシュ、ベルリン。依頼のない原稿は、返信用郵便料金が同封されている場合に限り返送する。編集部 ベルリンSW68、コッホ通り22–26番地。
グジェシンスキ任命
公式発表
プロイセン公式報道局は次のように伝えている。「ゼーフェリング内相は、健康を著しく損なったことを理由に、職を解くようプロイセン首相に願い出た。ブラウン首相は内相の挙げた理由を退けることができず、その後任として、州議会議員でベルリン警視総監のグジェシンスキを国務大臣兼内務大臣に任命した。」
プロイセン内務省次官マイスター博士の後任の任命は、ごく近いうちに行われる見通しである。これに対し、聞くところによれば、グジェシンスキの後任としてだれがベルリン警視総監になるかはまだ決まっていない。ケルン警察長官ツェルギーベルのほか、かつてフランクフルト・アム・マインの警察長官を務めたヴィースバーデンのエーラー県知事と、シュテッティンの警察長官の名もいま挙がっている。
ゼーフェリングへの謝辞
ゼーフェリング大臣は辞表で職を退きたい理由を述べた。ブラウン首相は州政府を代表し、これに次の書簡で応えた。
「大臣閣下。閣下の健康が深刻に損なわれ、職を辞さざるをえなくなったとのお知らせに、私は深い遺憾の念をもって接しました。閣下はこの職を6年にわたり、模範的な誠実さをもって、その豊かな知識と力量のすべてを注いで立派に務めてこられました。この激動の時代に、閣下が揺るぎない明確な目標を掲げ、粘り強く根気のいる闘いの中で全身全霊を傾け、プロイセンひいては帝国の内政の安定のため、近代的な行政の建設と拡充のため、そして国家の権威の確立のために成し遂げられたことは、すでに歴史に属するものです。州政府を代表し、祖国の最も困難な時期に閣下が果たされたこの計り知れない功績に、心から感謝を申し上げます。しばらくの十分な休養によって閣下の健康が回復し、閣下が再び以前のような心身の活力をもって国民への奉仕に身を捧げられることを、私は願い、また期待しております。変わらぬ敬意をこめて。ブラウン(署名)」
ゼーフェリング大臣は明日ベルリンを離れ、まずビーレフェルトへ向かう。大臣はそこから南方へ長い旅に出るものとみられる。
送別集会
今晩、ジャンダルメンマルクトで
ゼーフェリングの辞任に際し、国旗団「黒赤金」のベルリン全支部が今晩8時、ジャンダルメンマルクトに集結する。大管区委員長フリッツ・コッホが国立劇場の外階段から短い演説を行い、ゼーフェリング大臣がこれに答える見込みである。続いて松明を掲げた行進が行われる。共和派の市民は、できるだけ大勢で集会に参加するよう求められている。
ホーエンツォレルン家との和解
ホーエンツォレルン家との和解
好意的な受け止め
ヘプカー=アショフ財務相は本日、プロイセン国家とホーエンツォレルン家との間で予定されている新たな和解の骨子を各党指導者に説明した。この和解は、帝国政府が帝国議会に提出した妥協案におおむね沿っているが、それとまったく同一ではない。いま予定されている和解によれば、旧王家の本家は新しい契約で次のものを放棄する。1. 宮殿と庭園では、ベルビュー宮殿、調度品を含むバーベルスベルク宮殿、ケーニヒスヴスターハウゼン宮殿。2. 次の収益用地。(1) ベルリンでは、ブライテ通り29番地の土地、カールスホルストの土地、カイザー・ヴィルヘルム通り1–3番地。(2) ポツダムでは、オベリスク脇のヴァインベルクの土地、アレクサンドロフカ、ケーニヒ通り26番地、ニコルスコエ。3. 8万8000モルゲンに及ぶ農場と森林。4. 1500万ライヒスマルクの現金支払い。さらにアルブレヒト系は新しい契約で2万モルゲンの土地と森林を、最後にカール系は新しい契約で2万7000モルゲンの土地と森林を放棄する。以上が、1925年10月12日の前回の和解と比べたプロイセン国家にとっての改善点である。妥協案と比べると、本家に関するかぎり、国家が得る土地と森林は5万モルゲン少ない。その差は、ベルビュー宮殿の取得によって埋め合わされる。以前に公表された覚書によれば同宮殿の価値は3640万であり、妥協案では国家はこれを得られなかったはずである。国家の現金負担はおよそ800万から900万増える。この増額分は、妥協案第9条から第11条によって国家がバーベルスベルク宮殿と庭園(覚書による価値1730万)の取得のために支出しなければならなかったはずの額と、妥協案では国家が得られなかったはずの土地(覚書による価値500万から600万)に対する対価に当たる。アルブレヒト系との関係では、国家は2万モルゲン多く土地と森林を得る。またカール系との関係では、フラトウ=クロヤンケ領(合計でほぼ10万モルゲン)の帰属が確かとはいえないため、2万7000モルゲンの放棄以上のものは得られなかった。この放棄は、アルブレヒト系による2万モルゲンの放棄と合わせると、帝国妥協案に定められた帝国特別裁判所の判断が不確かであることを考えれば、傍系との関係で妥協案がもたらしたであろう効果に相当する。
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所管筋はさらに本紙に対し、ヘプカー=アショフ財務相が州議会各会派の指導者に示した内容は、これまでの合意の暫定的な結果にすぎないと伝えてきた。プロイセン州当局とホーエンツォレルン家の代理人フォン・ベルクとの交渉は、まだ完全には終わっていない。
州議会では、ホーエンツォレルン家への補償問題について与党の会派間協議が開かれた。協議の結果、参加者は各会派全体の同意を条件としてしか発言できなかったものの、新しい和解の承認に向けた空気はかなり好意的であることが明らかになった。その間に中央党はすでにホーエンツォレルン家への補償を検討し、民主党も支持し、社会民主党が少なくとも棄権するならば契約を支持すると決めた。右派政党が契約に賛成することは当然視されている。民主党会派は午後4時に会派会議を招集した。民主党も新しい和解の承認に尽力すると、まず確実に見込んでよいだろう。社会民主党会派は現在、和解について協議している。
ゲスラー、ヒンデンブルクを訪問
元皇太子の息子
短い田舎での静養から昨晩ベルリンに戻った大統領は、今朝ゲスラー大臣の報告を受けた。
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この報告は、元皇太子の長男が秋季演習の際に国防軍のある連隊で果たした役割に関するものであったことは疑いない。この件の重大さと、それが国防省と帝国政府の内部に及ぼす影響を考えれば、大統領への単なる報告にとどまらなかったはずである。
連立交渉が停滞
連立交渉が停滞
ドイツ人民党への不満
議会の秋・冬の闘いが始まる。プロイセン州議会は本日、夏季休会を終えて再び開会する。議会はまず、マクデブルク司法スキャンダルについての政治討論を行う。議会の次の重要な課題は、プロイセン政府とホーエンツォレルン家の代理人との財産上の和解を可決することである。和解をめぐる交渉は大筋で終わり、州議会に出す法案もすでにできあがっている。この和解は、夏に帝国政府と連立与党の間で合意された妥協を基礎としている。
こうした審議日程と並んで、数週間前に始まったプロイセンでの大連立再建をめぐる協議に最も強い関心が集まっている。協議がいわば「あっという間に」成果を挙げるとは期待できなかったし、連立与党がよりによってゼーフェリング内相の辞任をプロイセン内閣改造のきっかけにするとは、なおさら考えにくかった。内務省の後任人事は、連立交渉とは切り離して決めるべきものだった。しかし交渉そのものについては、明るい見通しを立てられると思われていた。ところが、ドイツ人民党のケルン党大会以降、とりわけ中央党の内部で空気が変わったことが見てとれる。ケルンでとられた沈黙の戦術は、ドイツ人民党が直接の利益を得られるプロイセンでしか大連立を求めていないという結論を避けられないものにした。この戦術はドイツ人民党に対する苛立ちを生み、その苛立ちは本日の『ゲルマーニア』紙の注目すべき記事に表れている。
「人民党は疑いなく、この状況全体の大勝者になろうとしている。人民党は帝国では、社会民主党を締め出した少数派政府の中で、この小連立の受益者になろうとしている。同時に人民党は、党内の有力な潮流の望みに従ってプロイセンでも再び政権に加わり、1925年春に自らの愚かさと拙い政治によって長く失った地位を取り戻そうとしている。社会民主党とあまりに深く結びつきすぎたという党内からの非難に対しては、人民党は支持者に帝国の例を示してこう言おうとしている。『見よ、我々は帝国でマルクス主義を寄せつけないことに成功し、それと深く結びつきすぎることをいかに断固として避けたことか』。そして同時に人民党は、プロイセンではドイツ国家人民党と対立しているものの、帝国では少数派政府を通じて右側の大きな姉妹政党となお一定の接触を保っているのだから、自分たちはやはり『国民的』政党なのだと支持者に示そうとしている。」
しかし中央党は政治の安定を望んでおり、帝国とプロイセンでこの安定を築く時が来たと考えている。『ゲルマーニア』紙に寄稿した中央党議員は、ドイツ人民党に対し、プロイセンでの人民党の協力はまったくなくても困らず、人民党を連立与党に再び迎えるとしても、それは政治的な強制からではなく、国政上の判断からにすぎないと指摘している。ドイツ人民党には「プロイセンで人民党が目指す大連立は、人民党が同時に帝国でも同様の枠組みに責任を負う用意があると表明する場合にのみ実現できる」ことをはっきり分からせなければならないという。なお『ゲルマーニア』紙の情報提供者は、懸案が速やかに片づくとは考えていない。この情報提供者によれば、プロイセンでの決定は帝国議会の開会後になるという。
本紙は、『ゲルマーニア』紙の情報提供者の見方がプロイセン州議会の中央党会派の見方と完全に一致していること、そして連立交渉が停滞し、その原因がドイツ人民党のケルン党大会にあることを確認できた。そこでとられた沈黙の戦術は、ドイツ人民党の内部では確かに望まれていなかったが、容易に予見できたはずの影響をもたらした。
ドイツ国家人民党の指導者ヴェスタルプ伯も、『クロイツ新聞』の詳しい記事でケルン党大会と連立問題を論じている。ヴェスタルプ伯は、ドイツ国家人民党内の穏健分子を党の他の部分と対立させようとする試みに反対している。伯は自らの失—
解説
ゼーフェリングの辞任とグジェシンスキの昇格が持つ意味
フォス新聞は、ゼーフェリングが健康を損ねて辞任したという公式発表と、6年間の行政近代化とプロイセンの安定を称えたブラウン首相の書簡だけを載せた。後の事典類も同じ日付を記している。それによれば、ゼーフェリングは自ら主導したベルリン大警察博覧会の会期中の1926年10月6日に辞任し、1925年5月16日からベルリン警視総監を務めていたグジェシンスキが後任に決まった。事典類は二人を、プロイセンの行政と警察を共和主義の方向へ改革した内相として記録している。共和国防衛団体の国旗団がゼーフェリングのために松明行進の送別集会を呼びかけたのも、この評価と結びついている。紙面がまだ決まっていないとした人事は、その後すぐに決着した。グジェシンスキはドイツ人民党に属するマイスター次官を退任させ、警察局長でドイツ民主党のアーベックを後任に据えた。ベルリン警視総監には、紙面が最初に名を挙げたケルン警察長官ツェルギーベルが就いた。人民党員を内務省の次官から外した人事は、同じ号が伝えた連立をめぐる緊張とも関わっている。
ホーエンツォレルン家との和解と王侯財産収用をめぐる争い
同紙は新しい和解を、1925年10月12日の前回の和解と帝国政府の妥協案という二つの文書と比べた。二つの文書はどちらも、旧王侯の財産をめぐる争いから生まれたものだ。プロイセン財務省は1925年10月12日に新しい契約案を出したが、争われていた土地のおよそ4分の3を王家に返す内容だったため、世論から激しく批判された。社会民主党だけでなく民主党もこの案に反対し、民主党は自党の財務相ヘプカー=アショフに背を向けた。この記事で改善された条件を説明したのは、そのヘプカー=アショフである。特別裁判所という構想はそれ以前からあり、ルター内閣の帝国案は、ライヒ裁判所長官ジーモンスを長とする特別裁判所に財産争いを委ねる内容だった。紙面は、帝国妥協案に定められた帝国特別裁判所の判断が不確かであることを、傍系の譲歩を正当化する根拠として挙げた。左派は補償なしの収用を求め、1926年3月の国民請願は成立したが、1926年6月20日の国民投票は不成立に終わった。その後は収用に代わり、王侯家ごとの補償契約が結ばれた。記事の細かな数字や改善点の評価、中央党の承認条件は、同紙が報じた内容であり、同紙の情報源自身もまだ暫定的な結果だとしていた。
1926年の「大連立再建」が意味したこと
1926年のプロイセンは、社会民主党、中央党、民主党によるワイマール連合のブラウン第3次内閣が治めていた。ワイマール期の大半を通じて、プロイセンはこれらの政党が担い、時期によってはドイツ人民党も政権に加わった。大連立の「再建」をめぐる協議は人民党を政権に戻すかどうかの話であり、紙面が引いた『ゲルマーニア』紙の記事は、人民党が政権から外れた原因を1925年春の人民党自身の失敗に求めた。人民党に帝国でも同様の連立を受け入れるよう求めた中央党の条件は、当時の帝国政治の状況から理解できる。社会民主党を帝国政府に迎える協議は1926年1月に最終的に決裂し、『ゲルマーニア』紙が批判した社会民主党抜きの少数派政府が残った。歴史家は、王侯財産収用運動が社会民主党と市民層の共和派政党との協力に重い負担をかけたことも指摘している。和解法案を審議することになったのも、まさにこれらの政党だった。人民党のケルン党大会が停滞の原因だという見方は、フォス新聞と同紙の中央党の情報提供者が示したものである。
原文
Grzesinski ernannt
Redakteur (m. Ausn. d. Handelsteils): Carl Misch, Berlin. Unverl. Manuskripte werden nur zurückgesandt, wenn Porto beiliegt. Schriftleitung: Berlin SW68, Kochstraße 22-26 Grzesinski ernannt Die amtliche Mitteilung Der Amtliche Preußische Pressedienst meldet: " Der Minister des Innern Severing hat den Preußischen Ministerpräsidenten gebeten, ihn mit Rücksicht auf seine erschütterte Gesundheit von seinem Amte zu entbinden. Ministerpräsident Braun hat sich den vom Minister des Innern vorgebrachten Gründen nicht verschließen können und hat an seiner Stelle den Polizeipräsidenten von Berlin Grzesinski, Mitglied des Landtags, zum Staatsminister und Minister des Innern ernannt. " Die Ernennung des Nachfolgers Dr. Meisters als Staatssekretär im preußischen Ministerium des Innern dürfte in allernächster Zeit erfolgen. Dagegen ist, wie wir hören, die Entscheidung darüber, wer als Nachfolger Grzesinskis Polizeipräsident von Berlin wird, noch nicht gefallen. Neben dem Kölner Polizeipräsidenten Zörgiebel werden jetzt auch der Regierungspräsident Ehrler in Wiesbaden, der früher in Frankfurt am Main Polizeipräsident war, und der Stettiner Polizeipräsident genannt. Dank an Severing Auf das Rücktrittsgesuch, in dem Minister Severing die Gründe darlegte, aus denen heraus er um Enthebung aus seinem Amte bat, hat Ministerpräsident Braun namens des Staatsministeriums mit folgendem Schreiben geantwortet: " Mein sehr verehrter Herr Minister! Mit tiefem Bedauern habe ich von Ihrer Mitteilung Kenntnis genommen, daß Ihre schwer erschütterte Gesundheit Sie zwingt, Ihr Amt niederzulegen, das Sie sechs Jahre hindurch mit vorbildlicher Gewissenhaftigkeit unter Einsetzung Ihres ganzen reichen Wissens und Könnens erfolgreich geführt haben. Was Sie in dieser bewegten Zeit für die innere Befriedung Preußens und damit auch des Reiches, für den Auf - und Ausbau der neuzeitlichen Verwaltung und für die Festigung der Staatsautorität mit unbeirrbarer Zielklarheit in zähem, ausdauerndem Ringen unter Einsetzung Ihrer ganzen Person geleistet haben, gehört der Geschichte an. Namens der Staatsregierung spreche ich Ihnen für diese dem Vaterlande in schwerster Zeit geleisteten unschätzbaren Dienste herzlichen Dank aus. Ich wünsche und hoffe, daß einige Zeit der wohlverdienten Ruhe Ihnen Ihre Gesundheit wiedergeben wird, und daß Sie dann sich wieder in alter physischer und geistiger Frische dem Dienste am Volke werden widmen können. In alter Hochachtung Ihr gez. Braun. Minister Severing verläßt morgen Berlin und begibt sich zunächst nach Bielefeld. Von dort aus dürfte er eine längere Reise nach dem Süden antreten. Abschiedskundgebung Heute abend Gendarmenmarkt Anläßlich des Rücktritts Severings marschieren heute abend um 8 Uhr sämtliche Berliner Abteilungen des Reichsbanners SchwarzRot-Gold auf dem Gendarmenmarkt auf. Der Gauvorsitzende Fritz Koch wird von der Freitreppe des Staatlichen Schauspielhauses eine kurze Ansprache halten, auf die voraussichtlich Minister Severing erwidern wird. Im Anschluß daran findet ein Vorbeimarsch mit Fackeln statt. Die republikanische Bevölkerung wird gebeten, sich recht zahlreich an der Kundgebung zu beteiligen.
Vergleich mit den Hohenzollern
Vergleich mit den Hohenzollern Günstige Aufnahme Finanzminister Dr. Höpker-Aschoff hat heute die Parteiführer über die Grundlagen des beabsichtigten neuen Vergleichs des preußischen Staates mit dem Hohenzollernhause unterrichtet. Der Vergleich bewegt sich ungefähr auf der Linie des dem Reichstag von der Reichsregierung vorgelegten Kompromißentwurfs, aber er ist nicht völlig mit ihm identisch. Nach dem jetzt beabsichtigten Vergleich verzichtet die Hauptlinie des vormaligen Königshauses in dem neuen Vertrage 1. an Schlössern und Parks: auf das Schloß Bellevue, das Schloß Babelsberg mit Inventar, das Schloß Königswusterhausen, 2. auf folgende Nutzgrundstücke: 1. in Berlin auf die Grundstücke Breite Straße 29, das Grundstück Karlshorst, KaiserWilhelm-Straße 1-3, 2. in Potsdam auf das Grundstück Weinberg am Obelisk, Alexandrowska, Königstr. 26, und Nikolskoe, 3. auf Güter und Forsten im Umfange von 88 000 Morgen, 4. auf 15 Millionen Reichsmark Barzahlung. Ferner verzichtet die Albrecht-Linie in dem neuen Vertrage auf 20 000 Morgen Land und Forst, schließlich die Karl-Linie in dem neuen Vertrage auf 27 000 Morgen Land und Forst. Das sind die Verbesserungen für den Staat Preußen gegenüber dem letzten Vergleich vom 12. Oktober 1925. Gegenüber dem Kompromißentwurf fallen, soweit die Hauptlinie in Betracht kommt, dem Staat 50 000 Morgen Land und Forst weniger zu. Das wird ausgeglichen durch den Erwerb des Schlosses Bellevue, dessen Wert nach der früher herausgegebenen Denkschrift 36, 4 Millionen beträgt, und das der Staat nach dem Kompromißentwurf nicht erhalten hätte. Die Barleistungen des Staates erhöhen sich um etwa 8-9 Millionen. Sie stellen die Aufwendung dar, die der Staat nach den § § 9-11 des Kompromißentwurfes für den Erwerb von Schloß und Park Babelsberg (Wert nach der Denkschrift 17, 3 Millionen) zu machen gehabt hätte, sowie die Gegenleistung für Grundstücke (Wert nach der Denkschrift 5-6 Millionen), die der Staat nach dem Kompromißentwurf nicht erhalten hätte. Im Verhältnis zur Albrecht-Linie fallen dem Staat 20 000 Morgen Land und Forst mehr zu. Und im Verhältnis zur KarlLinie war bei dem nicht unzweifelhaften Schicksal der Herrschaft Flatow-Krojanke (insgesamt fast 100 000 Morgen) nicht mehr zu erreichen, als der Verzicht auf 27 000 Morgen. Dieser Verzicht zusammen mit dem Verzicht der Albrecht-Linie auf 20 000 Morgen, entspricht - bei der Ungewißheit der Entscheidung des im Reichskompromiß vorgesehenen Reichs-Sondergerichts - der voraussichtlichen Wirkung des Kompromißentwurfes auf das Verhältnis zu den Nebenlinien. * Von zuständiger Stelle wird uns noch mitgeteilt, daß es sich bei den vom Finanzminister Dr. Höpker-Aschoff den Führern der Landtagsfraktionen gemachten Eröffnungen nur um das bis jetzt vorliegende vorläufige Ergebnis der Vereinbarungen handelt. Völlig abgeschlossen sind diese Verhandlungen der preußischen Staatsverwaltung mit dem Vertreter des Hohenzollernhauses v. Berg noch nicht. Im Landtag hat über die Frage der Hohenzollern-Abfindung eine interfraktionelle Besprechung der Regierungsparteien stattgefunden, aus der hervorging, daß die Stimmung für die Annahme des neuen Vergleichs ziemlich günstig ist, wenn auch die Teilnehmer an den Besprechungen nur vorbehaltlich der Zustimmung der Gesamtfraktion sprechen konnten. Inzwischen hat sich das Zentrum bereits mit der Hohenzollern-Abfindung beschäftigt und beschlossen, für den Vertrag einzutreten, wenn auch die Demokraten dafür eintreten und Sozialdemokraten sich mindestens der Stimme enthalten. Von den Rechtsparteien wird ohne weiteres angenommen, daß sie dem Vertrag zustimmen werden. Die demokratische Fraktion hat für nachmittag 4 Uhr eine Fraktionssitzung anberaumt. Es kann wohl mit Bestimmtheit angenommen werden, daß auch die Demokraten sich für die Annahme des neuen Vergleichs einsetzen werden. Die sozialdemokratische Fraktion berät gegenwärtig über den Vergleich. Geßler bei Hindenburg Der Sohn des Ex-Kronprinzen Der Reichspräsident, der gestern abend von seinem kurzen Erholungsaufenthalt auf dem Lande nach Berlin wieder zurückgekehrt ist, nahm heute vormittag den Vortrag des Reichsministers Dr. Geßler entgegen. * Dieser Vortrag bezog sich unzweifelhaft auf die Rolle, die der älteste Sohn des ehemaligen Kronprinzen während der Herbstmanöver in einem Regiment der Reichswehr gespielt hat. Es wird sich bei der Bedeutung dieser Angelegenheit und ihren Rückwirkungen innerhalb des Reichswehrministeriums und der Reichsregierung nicht lediglich um eine Berichterstattung an den Reichspräsidenten gehandelt haben.
Stockung in den Koalitionsverhandlungen
Stockung in den Koalitionsverhandlungen Verstimmung gegen die Deutsche Volkspartei. Die parlamentarische Herbst - und Winterkampagne setzt ein; der Preußische Landtag tritt nach den Sommerferien heute wieder zusammen. Er wird sich zunächst in einer politischen Aussprache mit dem Magdeburger Justizskandal befassen. Seine nächste wichtige Aufgabe wird die Verabschiedung des vermögensrechtlichen Vergleiches zwischen der preußischen Regierung und den Vertretern des Hohenzollernhauses sein. Die Verhandlungen über den Vergleich sind im wesentlichen abgeschlossen, der Gesetzentwurf für den Landtag schon ausgearbeitet. Der Vergleich baut sich auf den Kompromiß auf, der im Sommer zwischen der Reichsregierung und den Koalitionsparteien vereinbart worden ist. Neben diesem Arbeitspensum gilt das stärkste Interesse den vor wenigen Wochen eingeleiteten Besprechungen über die Wiederherstellung der Großen Koalition in Preußen. Es war nicht zu erwarten, daß sie sozusagen " im Handumdrehen " zu einem Erfolge führen würden und es war noch weniger anzunehmen, daß die Regierungskoalition gerade den Rücktritt des Innenministers Severing zum Anlaß einer Umbildung des preußischen Kabinetts nehmen würde. Die Neubesetzung des Innenministeriums war unabhängig von den Koalitionsverhandlungen zu regeln. Aber diesen selbst glaubte man ein günstiges Prognostikon stellen zu können. Seit dem Kölner Parteitage der Deutschen Volkspartei ist jedoch, vornehmlich im Zentrum, ein Stimmungsumschwung festzustellen. Die Taktik des Schweigens, die in Köln befolgt worden ist und die den Schluß aufzwang, daß die Deutsche Volkspartei die Große Koalition nur in Preußen erstrebt, wo ihr unmittelbare Vorteile aus ihr erwachsen, hat ein Gefühl der Verärgerung gegenüber der Deutschen Volkspartei hervorgerufen, das heute in einem beachtenswerten Artikel der " Germania " zum Ausdruck kommt. " Die Volkspartei will zweifellos der große Gewinner in dieser ganzen Situation sein. Im Reiche will sie in einer Minderheitsregierung unter Ausschaltung der Sozialdemokratie der Nutznießer in dieser kleinen Koalition sein und gleichzeitig will sie sich in Preußen nach dem Wunsche starker Strömungen innerhalb der Volkspartei wieder an der Regierung beteiligen, um so die Position einzunehmen, die sie sich durch ihre eigene Torheit und schlechte Politik im Frühjahr 1925 auf lange Zeit verscherzt hat. Gegenüber dem Vorwurf aus ihren eigenen Reihen, daß sie sich allzu stark mit der Sozialdemokratie in Verbindung gesetzt habe, will sie ihren Anhängern das Beispiel des Reiches vor Augen führen, um zu sagen: " Seht, wie energisch wir eine zu enge Verbindung mit dem Marxismus vermieden, indem wir es verstanden, uns ihn im Reiche vom Leibe zu halten. " Und gleichzeitig will sie ihren Anhängern vor Augen führen, daß sie doch eine " nationale " Partei sei, indem sie zwar in Preußen in der Opposition zu den Deutschnationalen stehe, dafür aber im Reiche durch die Minderheitsregierung doch immer noch in einer gewissen Tuchfühlung zu ihrer großen Schwester auf der Rechten stehe. " Das Zentrum aber will die Stabilität in der Politik und es sieht den Augenblick gekommen, diese Stabilität im Reiche und in Preußen zu schaffen. Der ZentrumsParlamentarier in der " Germania " macht die Deutsche Volkspartei darauf aufmerksam, daß ihre Mitarbeit in Preußen durchaus entbehrlich sei, ihre Wiederaufnahme in die Regierungskoalition lediglich einem Akt der staatspolitischen Erkenntnis, nicht aber einem politischen Zwange entspringen würde. Es müsse der Deutschen Volkspartei klar gemacht werden, " daß das von ihr erstrebte Ziel in Preußen, die große Koalition, nur dann erhältlich ist, wenn sie sich gleichzeitig bereit erklärt, auch im Reiche zu einem ähnlichen Gebilde die Verantwortung zu übernehmen ". Im übrigen glaubt der Gewährsmann der " Germania " nicht an eine rasche Erledigung der schwebenden Fragen. In Preußen würde die Entscheidung erst fallen nach dem Zusammentritt des Reichstages. Wir haben feststellen können, daß die Auffassungen des Gewährsmannes der " Germania " sich mit denen der preußischen Zentrumsfraktion durchaus decken und daß in den Koalitionsverhandlungen eine Stockung eingetreten ist, die in dem Kölner Parteitag der Deutschen Volkspartei ihre Ursache hat. Die Taktik des Schweigens, die dort befolgt wurde, hat Wirkungen ausgelöst, die man innerhalb der Deutschen Volkspartei sicherlich nicht gewünscht hat, aber leicht hätte voraussehen können. Mit dem Kölner Parteitag und der Koalitionsfrage befaßt sich auch der deutschnationale Führer Graf Westarp in einem ausführlichen Artikel der " Kreuzzeitung ". Graf Westarp wendet sich gegen den Versuch, die gemäßigten Elemente innerhalb der Deutschnationalen gegen den anderen Teil der Partei auszuspielen; er verhehlt nicht seine Ent -