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Prager Tagblatt

1926年10月6日付の一面は、コブレンツ発の共同声明を大きく伝えた。占領地域担当のドイツ帝国弁務官と連合国間ラインラント委員会は、駐屯都市での事件を受けて双方に自制を求め、司法は真実の解明だけを目指すと約束した。紙面はノイシュタット・アン・デア・ハールトでの新たな事件もアヴァス通信の記事で報じた。ローマ発のユナイテッド・プレスの記事は、ムッソリーニが「マーレ・ノストルム」講演の後のバルコニー演説で反対派をあざけり、暗殺の企てを退け、党員数などを挙げてイタリアは専制ではないと主張したことを伝えた。プラハの法学者ハインリヒ・ラウフベルクは署名記事で、少数民族自身に申し立ての権利を与え、国際連盟理事会の全会一致原則をやめて訴えられた国の票を数えないとするザルツブルク草案を解説した。

翻訳

ラインラントで平和を訴え

1926年10月6日、水曜日。ラインラントで平和を訴え。ラインラント委員会と帝国弁務官の呼びかけ。事件によって和解計画に暗い影が差すことに抗して。コブレンツ発、10月5日。占領地域担当の帝国弁務官と連合国間ラインラント委員会は、次の共同声明を発表した。「占領下のライン地方担当の帝国弁務官と連合国間ラインラント委員会は、ここ数日、占領地域内のさまざまな駐屯都市で起きた痛ましい事件に深く心を動かされ、連合国側とドイツ側の双方の思慮分別と責任感に共同で訴える。それは、諸国民の願いに沿って各国政府の間で結ばれた新たな取り決めによって幸いにも生まれた空気を守るためである。司法当局は、係属中の手続きを、真実を明らかにするという唯一の目的のもとに、現行法に従って処理する。この目的に役立つあらゆる捜査が行われる。一方の側でも他方の側でも、関係するすべての当局は、これらの事件に終止符を打ち、その再発を防ぐよう努める考えである。」ノイシュタット・アン・デア・ハールトで新たな事件。マインツ発、10月5日(アヴァス通信)。昨夜、フランス軍の少尉が[…]政治的な出来事であるという。ドイツ側が想定しているように不慮の事故ではないとしても、それは明らかに酔っ払いの仕業か、精神を病んだ者の仕業であるという。

ムッソリーニが語る

…不幸な偶然の結果であるという。フランス軍軍曹の負傷は命にかかわるものではないという。「フランクフルター・ツァイトゥング」紙はこれについて、この事件が[?]…服装のフランス人が事件の後で軍曹を介抱し、支えていたと指摘している。クラウターのこうした振る舞いも、彼が罪の意識を感じていたことを決して示すものではないという。ムッソリーニが語る。無力な政治家たちの愚かなおしゃべり。――世界のいかなる力も……。――イタリアは真の民主国家。ローマ発、10月5日(ユナイテッド・プレス)。ムッソリーニは本日の「マーレ・ノストルム」についての講演に続いて、市庁舎のバルコニーから大群衆を前に二度目の演説を行い、ファシスト政府の成果をたたえた。「ファシズムはこの4年間に巨大な事業を成し遂げた。それでもわれわれはいまなお、戦線に立つ兵士のように立っている。私にもファシズムにも、何事も起こりえない。無力な政治家たちの愚かなおしゃべりも、敵対者の直接、間接の妬みも、暗殺の企ても――世界のいかなる力も、私を進路から投げ出すことはできない。私は目を見開いて闘争に向かい、いかなる障害にもひるまない。反対派の激昂は、私の活力と決断力を強め、私をいっそう容赦のない者にするだけである。私はイタリア国民を文化的にも物質的にも偉大な国民にすると誓った。そして私はその誓いを守る。全世界に知らしめよう。ファシズムのあらゆる力は絶えず最高の働きへと駆り立てられ、その間に国民全体がわれわれの旗の陰で前進しているのだ。一つの党が100万人の登録党員を持ち、300万人の労働者と200万人の公務員が力の限り政府とその政策を支持しているところ――」そこでは専制を語ることはできない。イタリアは……

少数民族保護の手続き

…を終え、国王から貴族の称号を授けられた。少数民族保護の手続き。ハインリヒ・ラウフベルク教授・博士。国際連盟を保証人とする国際法上の少数民族保護は、紙の上にしか存在しない。国際連盟協会連合は何年も前から、この欠陥を取り除こうと努めてきた。連合は長いあいだ決定に至ることができなかった。その内部で二つの方向が争っていたからである。一方は改革案を現行条約の枠内に限ろうとし、他方はそれを越えて広げようとした。前者の場合、改革は容易かつ迅速に実施できるが、効果は乏しい。後者の場合、改革は条約の改正を前提とする。そこに至る道は長く、不確かである。昨年になってようやく、両方の道を進むという妥協が成立した。アベリストウィスの大会は7月に、現行法に従って手続きを定める最小限の綱領を決議し、同時に一つの委員会に、より効果的な手続きの草案を作成するよう委ねた。この委員会は先日、ザルツブルクでの協会連合総評議会の会合の機会に集まり、専門家委員会が準備した草案を採択した。この草案は、権利を侵害された少数民族が権利を得る助けとして、実際にふさわしいものである。これまでは国際連盟理事会の構成国だけが、少数民族保護条約の違反が起きた場合や起きるおそれがある場合に、理事会の注意を促し、理事会に介入させる権利を持っていた。草案によれば、権利を侵害され、または脅かされた少数民族の代表にも申し立ての権利が認められ、それによって少数民族は訴訟当事者の地位を得る。手続きは双方審尋の原則に従って定められる。少数民族の代表は証拠調べに参加し、理事会での公開審理で自らの主張を述べることができる。理事会には、決定の前に常設国際司法裁判所の勧告的意見を求めることが勧められ、ほかに全会一致の決議ができない場合には、理事会はそうする義務を負うものとされる。最も重要な新機軸は、国際連盟理事会の決定にもはや全会一致を必要としないことである。全会一致が必要で、訴えられた国も投票に加わる限り、その国あるいは理事会のどの構成国も、あらゆる決議を妨げ、少数民族保護を挫折させることができる。そこで、すべての決定を多数決で行い、その際に訴えられた国の票は数えないことが提案されている。手続きのどの段階でも、国際連盟理事会は脅かされた少数民族を守るための暫定措置を命じることができるものとする。審議で大きな部分を占めたのは、まだ条約が存在しない少数民族を保護できるか、またどのように保護できるかという問題であった。まさにこうした少数民族こそ、国際法上の保護を最も必要としている。イタリアに割譲された地域のドイツ人とスロヴェニア人を考えてみればよい。少数民族保護の一般化は、人道の要請であるだけでなく、すべての国家の原則的な平等の要請でもある。それが実現しない限り、ザルツブルクで決議された手続きは、まだ少数民族保護条約に拘束されていない国々には適用できない。しかし第3回国際連盟総会はすでに、これらの国々も少なくとも条約が定めるのと同じ正義と寛容をもって自国の少数民族を扱ってほしいという希望を表明している。ザルツブルク草案によれば、国際連盟理事会は、これらの国々がその希望に反して少数民族を虐待した場合に、友好的な申し入れを行う権利を留保する。つまり、国際法上の介入ではなく、文明世界全体の世論に支えられた、良心への厳粛な訴えである。ザルツブルクの決議は、最初の草案以上のものではない。1927年の初夏にドレスデンで開かれる国際連盟協会連合の次の大会がこの草案を審議し、おそらく承認するだろう。その後、草案は国際連盟理事会に送られる。

解説

コブレンツの呼びかけを出した占領当局

この共同声明は、占領下のラインラントで責任を分け合っていた二つの当局が出したものである。ヴェルサイユ条約は外国軍の駐留を1935年までの15年間に限り、1920年以降は連合国の占領地区をコブレンツに本部を置く連合国間ラインラント委員会が管理した。紙面はもう一方の署名者を、占領地域担当の帝国弁務官と呼んでいる。声明が挙げる政府間の新たな取り決めは、ロカルノ体制に属するものである。ロカルノ条約の結果として、5年占領地区であるケルン地区は1926年1月に1年遅れで撤収された。占領軍の最後の部隊が去ったのは1930年であり、この紙面が出た時点では残りの地区になお部隊が駐屯していた。声明はそこでの衝突を、政府間で改善した空気への脅威として扱っている。紙面は事件そのものについては概要だけを伝えている。ノイシュタットの記事は途中で切れており、隣の欄はクラウターというドイツ人をフランス側の説明に対して擁護するフランクフルター・ツァイトゥング紙の見方を伝えている。この一面は、事実関係を双方がまだ争っている段階の事件を載せていたのである。

1926年以後の和解の行方

コブレンツの声明が守ろうとした和解の空気は、その後も何年にもわたり独仏両国で政治的な争点であり続けた。ドイツではドイツ国家人民党がのちに「ロカルノ? ドイツ国家人民党に投票せよ」というスローガンを掲げ、シュトレーゼマン外相の協調政策に反対するよう有権者を動員しようとした。フランスでは、条約とドイツとの接近によって自国の安全を確保しようとしたブリアン首相が、1929年10月に下院の信任投票で敗れた。占領そのものは予定より早く終わり、1930年6月30日に15年占領地区であるマインツ地区が撤収されて、全占領軍がラインラントを去った。この撤退はヴェルサイユ条約の定めより5年早いものであった。この結末から振り返ると、1926年10月の共同声明は、占領当局とドイツ側が共同で、完了までなお4年近くを要する外交の流れを現地の暴力から守ろうとした記録である。

ムッソリーニが退けた暗殺の企て

ムッソリーニがバルコニー演説で退けた暗殺の企ては、聴衆にとってごく最近の出来事であった。1926年4月7日、アイルランド人女性ヴァイオレット・ギブソンがローマでムッソリーニを撃った。同年9月11日、この演説の4週間足らず前に、アナキストのジーノ・ルチェッティがローマのポルタ・ピア付近でムッソリーニの車に爆弾を投げた。爆弾は地面で爆発して8人に軽傷を負わせ、ムッソリーニ本人は無傷であった。ギブソンの襲撃はすでにムッソリーニへの民衆の支持の高まりを引き起こし、ムッソリーニのイタリア支配を固めるファシスト寄りの立法につながっていた。ここに載った演説も同じやり方をとり、暗殺の企てを、自分にもファシズムにも何事も起こりえないという証拠として語っている。ムッソリーニが専制を否定するために挙げた党員100万人、労働者300万人、公務員200万人という数字は本人の主張であり、ユナイテッド・プレスはそれを論評なしに伝えた。同じ一面でラウフベルクは、イタリアに割譲された地域のドイツ人とスロヴェニア人を、特に保護を必要とする少数民族として挙げている。この一面は、プラハの読者にファシスト・イタリアを少数民族の扱いという面からも示していたのである。

ハインリヒ・ラウフベルクと少数民族問題

ハインリヒ・ラウフベルクは、この問題に長く取り組んできた専門家として書いている。ラウフベルクは法学者で統計学者であり、1896年からプラハのカール・フェルディナント大学で統計学、行政学、オーストリア行政法の講座を担当していた。この記事が出た1926/27年度には学部長を務めていた。第一次世界大戦後、ラウフベルクの仕事の中心には少数民族保護と郷土権の改革があり、1925年には国民的少数者の国際的保護についての著作を出している。また、自著の公民読本をチェコスロヴァキア向けに改訂してもおり、プラハのドイツ語紙で彼が論じた問題は、彼自身と読者が暮らす国家にかかわるものであった。少数民族代表への申し立ての権利、訴えられた国の票を除く多数決、常設国際司法裁判所への意見照会、暫定措置というザルツブルク草案の内容は、国際連盟協会の活動についてのラウフベルク自身の説明である。1927年初夏のドレスデン大会が草案をおそらく承認するという記述は見通しであり、記事自身も、草案はその後さらに国際連盟理事会に送られると書いている。

原文

Friedensappell im Rheinland.

Mittwoch, 6. Oktober 1926. Friedensappell im Rheinland. Aufruf der Rheinlandkommission und des Reichskommissärs. Gegen die Trübung der Versöhnungspläne durch Zwischenfälle. Koblenz, 5. Oktober. Der Reichskommissär für die besetzten Gebiete und die interalliierte Rheinlandkommission veröffentlichten folgende gemeinsame Kundgebung: " Der Reichskommissär für die besetzten rheinischen Gebiete und die interalliierte Rheinlandkommission, tief bewegt durch die traurigen Zwischenfälle, die sich in den letzten Tagen in verschiedenen Garnisonsstädten des besetzten Gebietes ereignet haben, appellieren gemeinsam an die Besonnenheit und das Verantwortungsgefühl sowohl auf alliierter wie auf deutscher Seite, um die Atmosphäre zu erhalten, die glücklich hergestellt ist durch die neuen Abmachungen, welche entsprechend den Wünschen der Völker zwischen den Regierungen getroffen wurden. Die Justizbehörden werden die bei ihnen anhängigen Verfahren gemäß den geltenden Gesetzen regeln, in dem einzigen Bestreben, die Wahrheit festzustellen. Alle diesem Zwecke dienenden Ermittlungen werden angestellt werden. Alle beteiligten Behörden auf der einen wie auf der anderen Seite wollen dahin wirken, diesen Zwischenfällen ein Ende zu machen und ihre Wiederholung zu verhüten. " Ein neuer Zwischenfall in Neustadt a. d. Haardt. Mainz, 5. Oktober. (Havas.) In der Nacht auf heute wurde ein französischer Unterleutnant politisches Vorkommnis sei. Selbst wenn er kein Unglücksfall sein soll, wie deutscherseits angenommen wird, so sei er doch offensichtlich entweder die Tat eines Betrunkenen oder die eines Geisteskranken.

Mussolini spricht.

gebnis eines unglückseligen Zufalles sei. Die Verletzung des französischen Sergeanten sei nicht lebensgefährlich. Die " Frankfurter Ztg. " bemerkt dazu, daß dieser Zwischenfall ein un - [?] kleideter Franzose sich nach dem Vorfall um den Sergeanten bemühten und ihn stützten. Auch dieses Verhalten Krautters deute in keiner Weise darauf hin, daß er sich schuldig fühlte. Mussolini spricht. Das blöde Geschwätz ohnmächtiger Politiker. - Keine Macht der Welt... - Italien eine wirkliche Demokratie. Rom, 5. Oktober. (United Preß.) Im Anschluß an seine heutige Vorlesung über das " mare nostrum " hielt Mussolini vom Balkon des Rathauses vor einer gewaltigen Menschenmenge eine zweite Rede, in der er die Errungenschaften der fascistischen Regierung pries. " Der Fascismus hat in den letzten vier Jahren ein gigantisches Werk vollbracht und wir stehen noch immer wie Soldaten in der Gefechtslinie. Mir und dem Fascismus kann nichts geschehen. Weder das blöde Geschwätz der ohnmächtigen Politiker, noch der direkte und indirekte Neid der Gegner, noch ein Attentatsversuch - - keine Macht der Welt kann mich aus meiner Bahn werfen. Ich gehe dem Kampf mit offenen Augen entgegen und scheue keine Hindernisse. Das Wüten der Opposition stärkt nur meine Energie und meine Entschlußkraft und macht mich unversöhnlicher. Ich habe geschworen, das italienische Volk kulturell und materiell zu einer großen Nation zu machen und ich werde meinen Schwur halten. Die ganze Welt soll es wissen, daß alle Kräfte des Fascismus ständig zur Höchstleistung angespornt werden, während die ganze Nation im Schatten unserer Fahnen vorwärts schreitet. Wo eine Partei eine Million eingeschriebener Mitglieder hat, wo 3 Millionen Arbeiter und 2 Millionen Beamte nach Kräften ihre Regierung und deren Politik unterstüßen = - = " dort kann man nicht von Despotismus sprechen. Italien

Minderheitsschutz-Verfahren.

beendet hat und vom König den Adel erhielt. Minderheitsschutz-Verfahren. Von Prof. Dr. Heinrich Rauchberg. Der völkerrechtliche Minderheitenschutz, dessen Garant der Völkerbund ist, steht nur auf dem Papier. Die Union der Völkerbundligen ist seit Jahren bestrebt, diesen Mangel zu beheben. Sie konnte lang zu keinem Entschluß gelangen, weil in ihrem Schoß zwei Bestrebungen miteinander kämpften. Die eine wollte die Reformvorschläge auf den Rahmen der geltenden Verträge beschränken; die andere wollte sie darüber hinaus spannen. Im ersteren Falle sind die Reformen leicht und rasch durchführbar, aber wenig wirksam; im letzteren Falle setzen sie die Aenderung der Verträge voraus. Der Weg dahin ist lang und unsicher. Erst im letzten Jahre ist ein Kompromiß dahin erzielt worden, daß beide Wege zu betreten sind. Der Kongreß von Aberystwith hat im Juli jenes Mindestprogramm beschlossen, welches das Verfahren nach dem geltenden Rechte regelt, und er hat zugleich eine Kommission beauftragt, den Entwurf eines wirksameren Verfahrens auszuarbeiten. Diese Kommission ist dieser Tage anläßlich der Sitzung des Generalrates der Ligen in Salzburg zusammengetreten; sie hat einen Entwurf angenommen, der von einem Sachverständigenkomitee vorbereitet worden war und in der Tat geeignet ist, den verletzten Minderheiten zu ihrem Rechte zu verhelfen. Während bis jetzt nur die Mitglieder des Völkerbundrates das Recht hatten, die Aufmerksamkeit des Rates auf die eingetretene oder drohende Verletzung eines Minderheitenschutzvertrages zu lenken und den Rat zum Einschreiten zu veranlassen, steht nach dem Entwurfe das Beschwerderecht auch den Vertretern der verletzten oder bedrohten Minderheit zu, die dadurch die Stellung einer Prozeßpartei erhält. Das Verfahren ist nach dem Grundsatze des beiderseitigen Gehörs geregelt. Die Vertreter der Minderheit werden bei der Beweisaufnahme mitwirken und ihre Sache in öffentlicher Verhandlung vor den Räten führen können. Dem Rate wird empfohlen, vor seiner Entscheidung ein Gutachten des Ständigen internationalen Gerichtshofes einzuholen, und der Rat soll dazu verpflichtet sein, wenn er sonst keinen einstimmigen Beschluß zu fassen vermag. Die wichtigste Neuerung ist, daß für die Entscheidung des Völkerbundrates nicht mehr Einstimmigkeit erforderlich sein soll. Solang Einstimmigkeit erforderlich ist und der beklagte Staat mitstimmt, kann dieser oder irgend ein Mitglied des Rates jeden Beschluß hintertreiben und so den Minderheitenschutz vereiteln. Es wird daher beantragt, daß alle Entscheidungen mit Stimmenmehrheit zu treffen sind, und daß die Stimme des belangten Staates dabei nicht mitzählt. In jedem Stadium des Verfahrens soll der Völkerbundrat vorläufige Maßnahmen zur Sicherung einer bedrohten Minderheit anordnen können. Breiten Raum nahm in den Beratungen die Frage ein, ob und in welcher Weise solche Minderheiten geschützt werden können, zu deren Gunsten noch keine Verträge bestehen. Gerade diese Minderheiten haben völkerrechtlichen Schutz am nötigsten; man denke nur an die Deutschen und an die Slowenen in den an Italien abgetretenen Gebieten. Die Verallgemeinerung des Minderheitenschutzes ist nicht nur ein Gebot der Menschlichkeit, sondern auch der grundsätzlichen Gleichstellung aller Staaten. Solang sie nicht durchgeführt ist, kann das in Salzburg beschlossene Verfahren nicht angewendet werden auf die Staaten, die noch nicht durch Minderheitenschutzverträge gebunden sind. Aber schon die dritte Völkerbundversammlung hat den Wunsch ausgesprochen, daß auch diese Staaten ihre Minderheiten zumindest mit der gleichen Gerechtigkeit und Toleranz behandeln mögen, wie die Verträge sie vorschreiben. Nach dem Salzburger Entwurfe behält sich der Völkerbundrat vor, diesen Staaten freundschaftliche Vorstellungen zu machen, falls sie, jenem Wunsche entgegen, ihre Minderheiten schlecht behandelten. Also kein völkerrechtliches Einschreiten, aber feierliche Anrufung des Gewissens, unterstützt von der öffentlichen Meinung der gesamten zivilisierten Welt. Die Salzburger Beschlüsse bedeuten nicht mehr als einen ersten Entwurf. Der nächste Kongreß der Völkerbundligen, der im Frühsommer 1927 in Dresden zusammentreten wird, wird über diesen Entwurf beraten und er wird ihn voraussichtlich gutheißen. Dann gelangt der Entwurf an den Rat des Völkerbundes.

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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