Politika
- パシッチ氏との対話
- 無名英雄の墓前で
- ワルシャワ駐在の我が公使
1926年10月6日付のポリティカ紙1面は、前首相ニコラ・パシッチが、農地改革省のシュヴァコヴィッチを通じて自分の発言とされた話を強く否定したことを伝えた。パシッチは、プリビチェヴィッチについては何も語っておらず、ベオグラードに着くまで政治的声明は出せないと述べた。アヴァラからの記事は、来訪したチェコスロヴァキアの議員団がクロファーチの言葉を聞き、無名英雄の墓に花輪を捧げ、農民や兵士と記念写真に収まった様子を報じた。短い電報は、ハンガリーにスプリトの自由地区を提供するという未確認のブダペスト発の噂と、新任公使リュバ・ネシッチのワルシャワ到着を伝えた。
この版は、信頼度が低いか中程度の三つの抜粋を扱う。判読できない語や途切れた語は[?]で示し、パシッチ記事の後に続く隣の段の断片はそのまま訳す。マサリク学校に関する記事とダヴィドの演説の一部は、印字が薄くて書き起こせない。今回参照した資料からは、シュヴァコヴィッチがプリビチェヴィッチについて語ったとされる内容は分からない。リュバ・ネシッチのワルシャワ赴任の背景と、紙面自身が確認できないとしたブダペスト発の自由地区の噂も、資料では確かめられない。このため、解説ではこれらの記事を扱わない。
翻訳
パシッチ氏との対話
[?]農地改革省[?]。[?]、とパシッチ氏は言う、ただちに、最も断固として[?]を通じて否定してくれ。私はシュヴァコヴィッチに何の発表もしていないし、ましてプリビチェヴィッチ氏について話したことなど一切ない。私は[?]、記者たちはシュヴァコヴィッチの話をよく理解しなかったのだ。政治情勢はこういう状態であり、私はいかなる政治的声明も出せなかったし、出したいと思っても今は出すことができない。なぜなら私自身も情勢について[?]からであり、ベオグラードに[戻って]はじめて、すべてについて見通しを持てるだろう。だから、シュヴァコヴィッチの[?]とその他すべての[?]を否定してくれ。
[?]何が[?] 商事裁判所の署名のもとに[?]、この数日[?]任意の寄付[?]帳簿、裁判所が[?]寄付を集めるために[?]資金[?]より害になる[?]商事[裁判所]に対して[?]ハンガリー[?]
(Vl. M.)
無名英雄の墓前で
[?]氏[?][?]その時また心から[?]困難な[?]兄弟愛[?]。それは[?]勝利[?]、と彼は述べた、兄弟の統一[?]時には喜ぶだろう。クロファーチ氏の言葉は正しい。敵は我々の民族もあなた方の民族も物理的には支配できたが、我々の精神を打ち砕くことは決してできなかった。兄弟は兄弟と、同胞は同胞と共に、我々は前進し、あらゆる障害を打ち払うであろう。式典は、来賓が無名英雄の墓に花輪を捧げて終わった。その後、アガトノヴィッチ氏が来賓に無名英雄の墓の由来を語り、続いて来賓とわが国の議員たちは農民や兵士とともに写真に収まった。それから一行はアヴァラの古城まで歩いて行き、自動車でトプチデルの方へ戻った。
ワルシャワ駐在の我が公使
[?] ブダペスト、10月5日発。一部の新聞は、ユーゴスラヴィア政府が、ハンガリーの接近の希望への回答として、スプリトの自由地区をハンガリーに提供したという衝撃的な報道を載せている。ユーゴスラヴィアはこれによって、イタリアに対するアドリア海での自国の立場を確保したいのだという。この報道は割り引いて受け取るべきであり、これまでのところ確認することはできていない。
ワルシャワ駐在の我が公使
ワルシャワ、10月5日発。セルブ・クロアート・スロヴェーン王国の新任公使リュバ・ネシッチ氏がワルシャワに到着した。駅には[?]
解説
否定談話を出した時点でのパシッチの立場
ニコラ・パシッチはこの記事で前首相として発言している。最後の内閣は1924年11月から1926年まで続き、10月にはすでに首相の座を離れていた。このため、パシッチは、ベオグラードに戻って情勢を把握するまでは「出したいと思っても」政治的声明は出せないと述べている。紙面によれば、パシッチが否定したのは二つの点である。一つは農地改革省のシュヴァコヴィッチが自分の発言を伝えたという話であり、もう一つはスヴェトザル・プリビチェヴィッチについて語ったという話である。パシッチは、記者がシュヴァコヴィッチの話を誤解したのだと説明した。急進党の重鎮であるパシッチの発言とされる言葉は、当時もなお公に訂正する必要があるほどの重みを持っていた。パシッチは約2か月後の1926年12月に80歳で心臓発作により死去しており、この談話はその公的生活の最後の数週間に当たる。
チェコスロヴァキアの議員たちがアヴァラを訪れた理由
無名英雄の墓を訪れた来賓は、大規模な議会代表団の一員である。チェコスロヴァキア国民議会の議員約70人が、1926年10月2日から12日までセルブ・クロアート・スロヴェーン王国を訪問した。この訪問は、1922年に王国の国民議会代表団がチェコスロヴァキアを訪れたことへの答礼である。10日間の日程にはベオグラード訪問とアヴァラの無名英雄の墓への献花が含まれており、ポリティカ紙が伝えた式典はこの献花に当たる。紙面が伝える演説は、兄弟であるスラヴ民族の結びつきを強く打ち出している。クロファーチの言葉として紙面が引いた一節は、敵は両民族を物理的に支配したが精神を打ち砕けなかったと述べる。農民や兵士との記念撮影や古城への散策も、こうした親善訪問で行われた公開行事の一部である。
1926年当時のアヴァラの墓の姿
代表団が訪れたのは、現在アヴァラ山頂に立つメシュトロヴィッチ作の黒御影石の記念碑より前の、もっと簡素な墓である。地元の村人と鉄道作業員が十字架をいただく石造りのピラミッドを建て、1922年5月14日に完成させ、同年6月1日に奉献した。1915年に戦死した名もないセルビア兵の遺骨は、この記念碑の内部に納められていた。アガトノヴィッチ氏が語った「墓の由来」は、この新しい記念碑を指していたはずである。来賓がその後に歩いて訪ねたアヴァラの古城は、古い城塞都市ジュルノフである。アレクサンダル国王は1934年6月28日に新しい記念碑の礎石を置き、要塞は山頂を空けるためにダイナマイトで取り壊され、今は残っていない。ポリティカ紙が記録した、質素な墓と古い城跡が並ぶ光景は、それから10年ほどのうちに消えた。
原文
Један разговор са г. Пашићем
[?] ству Аграрне Реформе. им те, каже г. Пашић, одмах егоричније демантуј преко е ". Никаква ја саопштења инио Шуваковићу, а најмање говори о г. Прибићевићу. Ја а новинари нису добро разуваковића. Ситуација поли - [?] аква, да ја никакве политичнисам могао давати нити их ти, и да хоћу, јер се и сам оам о приликама, а тек ћу, кад [?] у Београду, моћи створити редставу о свему. Дакле, деШуваковића и све оне друге Шта се Под потписом вачког Суда и са ни су ових дана добровољни прил књиге, које суд н за скупљање пр ма средстава да више шкодило ба према Трговачком Мађарска у
На гробу Незнаног Јунака
[?] стар г. о је по е чега е онда и наискрено тешким братство ода Срти. Оно и патечањено победу [?], рекао је он, радоваће се кад вили сјединењу браћу. Тачне су речи г. Клофача: Могао је непријатељ физички да влада и нашим и вашим народом, али дух нам никад није могао да сломије. Брат са братом, род са родом, ми ћемо ићи напред и рушићемо све незгоде. Свечаност је завршена тиме што су гости положили венац на гроб Незнаног Јунака. После тога г. Агатоновић је испричао гостима историју гроба Незнаног Јунака, па су се онда гости и наши посланици сликали са сељацима и војском. Затим су се одшетали до авалског града и вратили аутомобилима ка Топчидеру.
Наш посланик у Варшави
пођеда из наадови нда сам дом лариови је ја але лиБудимпешта, 5 октобра Неки листови доносе сензационалну вест да је југословенска влада понудила Мађарској слободну зону у Сплиту као одговор на мађарске тежње за зближењем. Југославија би овим желела да осигура свој положај на Јадрану против Италије. Ову вест треба примити са резервом и до сада је било немогуће да се провери. Наш посланик у Варшави Варшава, 5 октобра У Варшаву је стигао нови посланик Краљевине Срба, Хрвата и Словенаца г. Љуба Нешић. На станици био је поко сли ма шт ли бо гор на С пл [?] гиј ве ум ва ње [?] ка Ве [?]