新聞を読み込んでいます… / Loading the edition…

· チュニス(チュニジア) · フランス語

Le Petit Matin

このページは1926年10月6日付の「ル・プティ・マタン」の一部を読んだもので、短い通信記事が並んだ。サン・フランチェスコでジョットのフレスコ画の下、[?]デル・ヴァル枢機卿が荘厳な司教ミサを司式した様子を伝えた。ブロワ発の記事は、市長の禁止を無視して聖体大会の行列を命じたオードラン司教が罰金1フランを科されたと報じ、左派の代議士で市長のジョルジュ・リシャール氏も欠席判決で同じ罰金を受けたと伝えた。ラバト発はステーグ総監がカサブランカから到着したと伝え、ワルシャワ発はダンツィヒをドイツに渡す案をポーランド政府が受け入れるとの報道をポーランド側が否定したと報じた。ロンドン発の記事は、英国の坑夫が地区投票で政府案を否決しながらも地区の条件で職場に戻ると予測し、すでに171,419人が復帰したと伝えた。

この版は第1面から読み取れた3つの短い抜粋を扱う。見出しは読めるが、為替相場、大半の通信記事、署名入りコラム「Vers la Cité meilleure」を含む本文の多くは文字が小さいかぼやけていて書き起こせない。「Pour le désarmement」の見出しの区画で読める本文はサン・フランチェスコでのミサとブロワの司教事件を扱っており、国際連盟の軍縮委員会についての記事は読めないため、この版では取り上げていない。[?]の箇所は判読できない部分を示す。

翻訳

軍縮のために

……se russe de San Francesco。ジョットがフレスコ画を描き、控えめに照らされた丸天井の下で、大群衆が[?]デル・ヴァル枢機卿の司式する荘厳な司教ミサにあずかった。

好ましからざる示威
司教に有罪判決

ブロワ、10月5日発――去る9月5日、ヴィルフランシュ=シュル=シェールで聖体大会を機に宗教的な示威行事が行われた。オードラン司教は、市長の禁止にもかかわらず、町なかで行列を行うよう命じた。同じ日、左派の諸団体は、ロモランタンの代議士で市長のジョルジュ・リシャール氏に率いられて、……[?]を組織した。

ステーグ氏、ラバトへ

ステーグ氏、ラバトへ

ラバト、10月5日発――ステーグ氏はカサブランカから到着し、ラバト入りした。氏はただちに総監府に赴き、地元のすべての当局者から出迎えを受けた。

ダンツィヒとポーランド

ワルシャワ、10月5日発――PAT通信は、ポーランド政府がダンツィヒをドイツに帰属させるといういわゆる計画を受け入れる用意があるとした外国の報道について、正式に否定する権限を与えられていると表明した。

英国の混乱

メヌトゥ=シュル=シェールの違警罪裁判所で、オードラン司教は罰金1フランを言い渡された。リシャール氏も同じ判決を受けたが、こちらは欠席判決であった。

英国の混乱

ロンドン、10月5日発――炭鉱地区での投票の最初の結果から判断すると、政府案が否決されることはもはや確実と見られる。しかし、逆説的に思えるかもしれないが、坑夫たちは地区が定める条件で仕事に戻るだろう。金曜日以降、6,832人の坑夫の職場復帰が伝えられ、これで総数は171,419人となった。この数には坑道の保全に当たる60,000人の労働者が含まれている。[?]

解説

リヨテ退任から1年後のステーグ総監

テオドール・ステーグは急進派の政治家で、1921年7月からアルジェリア総督を務めた人物である。ステーグは1925年10月11日にリヨテ元帥の後任としてモロッコ総監に就き、平和の回復と軍政から民政への移行を任された。この記事が1926年10月5日にステーグのラバト総監府到着を伝えた時点で、ステーグはすでに約1年この職にあった。指導者交代のきっかけとなったリーフ戦争は、アブド・エル・クリムが1926年5月26日にペタンに降伏したことで終わっていた。紙面は地元当局による出迎えだけを記したが、ステーグはフランス人の入植を推し進め、最初の3年間で前任者が13年間に入れたのとほぼ同じ数の入植者をモロッコに迎えた。この記事の3か月後、ステーグは1927年1月4日の政令で大規模灌漑事業のための基金を設けた。紙面はステーグがカサブランカにいた理由を伝えていない。

英国の坑夫が10月になっても職場を離れていた理由

「英国の混乱」の背景にある争議は、1926年3月10日に出たサミュエル委員会の報告から始まった。この報告は坑夫の賃金を13.5%引き下げ、政府の補助金を打ち切るよう勧告した。5月4日から12日までのゼネストは、ロックアウトされた120万人の炭鉱労働者を守るために呼びかけられたが、坑夫が職場に戻らないまま途中で打ち切られた。炭鉱主は7月5日に、1日8時間労働を前提とする新しい雇用条件を掲示した。紙面が伝えた復帰者171,419人のうち60,000人は坑道の保全要員であり、120万人という数と比べると、停止から5か月たった10月初めでも大多数の坑夫がまだ職場に戻っていなかったことがわかる。

ロックアウトはどう終わったか

ロンドン特派員は地区投票の初期結果を逆説として読み、坑夫は政府案を否決しながらも自分の地区が決める条件で職場に戻ると予測した。その後の経過はこの予測と同じ方向に進んだ。ウォリック大学モダン・レコーズ・センターの年表によると、坑夫たちは1926年11月27日から30日にかけて、より低い賃金とより長い労働時間で職場に戻った。同センターはこの結果を完全な敗北と記している。坑夫連盟は争議前、賃金引き下げと地域別交渉をともに拒んでいたが、この特派員電はすでに、坑夫が地区ごとに定められる条件で職場に戻ると見ていた。この敗北の後、1927年の労働争議・労働組合法が同情ストと大規模なピケを違法とした。

ポーランドがダンツィヒ譲渡案を否定した理由

ダンツィヒはヴェルサイユ条約に基づき、1920年11月15日から自由市となっていた。住民の大半はドイツ人だったが、ダンツィヒは外交、防衛、関税、鉄道、郵便の面でポーランドとの連合に組み込まれていた。この取り決めはどちらの側も満足させなかった。ダンツィヒの喪失はドイツの国民感情を深く傷つけ、ポーランドはグディニャ港を建設するまで輸出のほぼすべてをダンツィヒ経由で行っていた。ワルシャワが同市のドイツへの移譲を受け入れるかもしれないという外国の報道は、ポーランドの海への出口にかかわる話であり、PAT通信が全面的に否定したのはそのためである。紙面は、問題の外国報道や「いわゆる計画」の出所を明らかにしていない。

原文

Pour le désarmement

se russe de San Francesco; sous les voûtes peintes à Fresques par Giotto et sobrement illuminées. Une foule immense a entendu une grande messe pontificale célébrée par le cardinal [?] Del Val. Les exhibitions indésirables Un évêque condamné BLOIS, 5 octobre. - Le 5 septembre dernier avait lieu à Villefranche-sur-Cher une manifestation religieuse à l'occasion du Congrès Eucharistique. Mgr Audollent, malgré l'interdiction du Maire, ordonna qu'une procession aurait lieu dans la ville. Le même jour les groupements de gauche, conduits par le député maire de Romorantin, M. Georges Richard, organisèrent une con - [?]

M. Steeg à Rabat

M. Steeg à Rabat RABAT, 5 octobre. - M. Steeg, venant de Casablanca, arriva à Rabat. Il se rendit aussitôt à la Résidence Générale où il fut salué par toutes les autorités locales. Dantzig et la Pologne VARSOVIE, 5 octobre. - L'Agence Pat se déclare autorisée à démentir formellement une information étrangère disant que le Gouvernement polonais était disposé à accepter le prétendu projet d'attribution de Dantzig à l'Allemagne.

Le chaos anglais

Au Tribunal de simple police de Mennetou-sur-Cher Mgr Audollent a été condamné à 1 franc d'amende; M. Richard a eu la même condamnation mais par défaut. Le chaos anglais LONDRES, 5 octobre. - A en juger par les premiers résultats du scrutin dans les districts miniers il paraît désormais certain que les propositions du Gouvernement seront repoussées, mais que, si paradoxal que cela puisse paraître, les mineurs retourneront au travail aux conditions fixées par le district. Depuis vendredi on signale le retour de 6. 832 mineurs au travail, ce qui porte le total à 171. 419, chiffre dans lequel sont compris les 60. 000 ouvriers préposés à la sauvegarde des puits. [?]

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

万国一面について →

本日の新聞一覧

街を巡る ↑
100%
原紙を拡大して読む

つまんで拡大 · 指で紙を動かす