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· 北京(中国) · 中国語

世界日報

1926年9月30日付の北京『世界日報』のうち、判読できた部分はニュース記事ではなく商業広告だった。北京法文商業専門学校の小さな広告は、10月1日の始業日と、東城米市大街144号の校址を知らせた。その隣では徳記商行が、北京有数の新式劇場である第一舞台で行っていた映画上映を打ち切ると告げた。待っていた新作が北京に届かなかったため、上映を休止し、契約を解除したのだった。三つ目の告知は同紙の出版部を紹介するもので、国内の図書・雑誌を委託販売していると述べ、最近委託された書目の抜粋を掲げた。この翻訳は判読できる三か所に限られ、書目の本文や右端の薬の広告は含まない。

この翻訳は、判読できた三つの告知だけを扱う。右端の薬の広告と題字周りの細い欄はインクのにじみがひどく読めない。出版部の告知に続く書目と小さな料金表は一部しか読めず、翻訳していない。北京法文商業専門学校の広告は冒頭が欠けており、書き起こしでは徳記商行の告知がそのまま続いている。この学校については信頼できる資料が見つからず、背景解説は設けていない。

翻訳

北京法文商業専門学校

[?] 始業)十月一日(校址)東城米市大街一四四号。謹告 徳記商行はこれまで第一舞台で映画を上映してまいりましたが、新奇な作品が北京に届かないため、当面上映を休止し、元の契約を解除いたします。ここに声明いたします。

劇場・第一舞台

[?] 謹告 徳記商行はこれまで第一舞台で映画を上映してまいりましたが、新奇な作品が北京に届かないため、当面上映を休止し、元の契約を解除いたします。ここに声明いたします。[?]

本紙出版部 委託販売書目

[?] 本紙出版部は、国内の価値ある各種図書・雑誌を委託販売している。ここ数日のあいだに本紙へ販売を委託された書目を、以下に抜粋して掲げる。[?]

解説

徳記商行が映画を上映した第一舞台とは何か

第一舞台は、ありふれた京劇の劇場ではなかった。1914年6月9日、前門外(現在の珠市口西大街)に開業した、北京で最も早い新式劇場の一つである。武生の名優・楊小楼が上海の新式舞台を見て、名旦の姚佩秋、商人の殿閬仙とともに建てた。客席は約2500で、当時の北京で最も新しく最も大きな劇場だったことから「第一舞台」と名づけられた。楕円形の舞台には人力で回す回り舞台と近代的な緞帳があった。梅蘭芳と楊小楼はここで名作を初演し、1922年の『覇王別姫』もその一つである。だが創設者たちは劇場を手放すことになった。建設時の銀行借入金は返済されないままで、支配人が銀行の中国人買弁・孫藎卿の不興を買うと、孫が司法官を買収して得たとされる判決によって劇場は孫の手に渡り、1919年に経営者が替わった。つまり1926年の第一舞台は、創設者の俳優ではなく実業家の持ち物だった。時事劇で本物の自動車や馬を舞台に上げるなど、目新しさで客を集めてきた劇場でもあった。徳記商行のような商社がここで映画を上映した背景には、こうした事情があったのかもしれない。ただし、第一舞台の沿革は映画上映に触れていない。第一舞台は1937年11月の火災で焼失し、再建されなかった。告知そのものは、契約の条件や上映が続いた期間には触れていない。

新作映画が「北京に届かない」のはなぜか

徳記商行は、新作が北京に届かないことを上映中止の理由に挙げた。これは当時、映画が中国に入ってきた経路と合っている。映画は1896年、上海や香港などの条約港で外国の興行師によって初めて紹介された。北京にも早い一幕があり、中国最初の映画である京劇『定軍山』の記録は1905年11月に北京で撮影された。しかしその後の十年、製作会社の多くは外国資本で、国内の映画産業は上海を中心としていた。国産映画が初めて興行的に成功したのは1921年で、1925年の五・三〇運動以降、中国の撮影所は時代劇や武侠映画へと傾いていった。そのため、「新奇な作品」を掲げる北京の興行者は、上海から北へ送られてくるフィルムや海外から入るフィルムを待っていた可能性が高い。フィルムが遅れれば、連続上映は止まってしまう。こうした背景から、告知が示すような危険はうかがえる。ただし、徳記商行がどの作品を待っていたのか、なぜ届かなかったのかは分からない。告知は、作品が届かなかったこと以外に理由を示していない。

『世界日報』を率いたのは誰で、なぜ本を売ったのか

『世界日報』は創刊からまだ1年半ほどだった。成舎我は1924年、自分で蓄えた200元を元手に、わずか3人の陣容で北京に『世界晩報』を創刊した。それを足場に、1925年2月に『世界日報』を創刊して自ら社長となり、同年のうちに画報面を『世界画報』として独立させた。小さく始めて複数の新聞を育てていた経営者なら、広告と販売以外の収入源を求めても不思議はない。図書や雑誌を委託販売する出版部もその一つだが、その運営ぶりを示す資料は、ここでは同紙自身の告知しかない。当時の北京は、新聞を出すこと自体が危険だった。成舎我の伝記によれば、『京報』の邵飄萍と『社会日報』の林白水は、軍閥・張宗昌の怒りを買って相次いで殺害された。『世界晩報』は一面の黒枠見出しで二人を悼んだ。成舎我は投獄されて銃殺寸前となったが、元国務総理・孫宝琦の保釈で助かった。

原文

北京法文商業專門學校

[?] 開學) 十月一日 (校址) 東城米市大街一四四號啓者德記商行原在第一舞台開演電影茲因新奇片未能到京暫行停演將原合同撤銷特此聲明

第一舞台

[?] 啓者德記商行原在第一舞台開演電影茲因新奇片未能到京暫行停演將原合同撤銷特此聲明 [?]

本報出版股代售書目

[?] 本報出版股。 代售國內各種有價值之圖書雜誌。 茲將連日委託本報代售之書目。 摘要錄左。 [?]

紙面の出典:Source: Internet Archive / eastasia-periodicals

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