Politika
- 我々には議会主義がない
- 議会は再び休会されるのか
- プリビチェヴィッチ氏、ニンチッチ氏のもとへ
1926年11月3日付のポリティカ紙は、議会政治をめぐる記事を並べた。ドラギシャ・ラプチェヴィッチは署名コラムで、国民議会は名ばかりで本当の議会ではないと論じた。ラプチェヴィッチはその証拠として、解放と統一以来、議会で退陣に追い込まれた内閣も、議会から生まれた内閣も一つもないと指摘した。別の記事は、議会が再び休会されるという噂を取り上げ、首相が噂は聞いているが「そうはならない」と否定したことを伝えた。三本目の記事は、プリビチェヴィッチ氏がニンチッチ氏のもとを訪ねた会談を報じた。会談では、ボジョヴィッチ議員がツェノ・ベグの宮廷駐在公使任命について外務大臣に出した質問書と、外相の求めで警察が同議員を呼び出した件が話し合われた。紙面はこの呼び出しを議員の免責特権の侵害だと伝えた。
この部分読解は、紙面の政治記事3本を扱う。提供されたOCRテキストは崩れがひどく正確な本文を得られないため、本文は紙面画像から書き起こし、行末のハイフンでつながる語は一語にまとめた。主要な政局記事、「Шта се говори?」の記事、マリボルの嵐の記事は画像の端で文が切れており、選んでいない。プリビチェヴィッチの記事は最初の1行がにじんでいる。
翻訳
我々には議会主義がない
ところが、早くも1893年には、それはいくぶん日和見主義的になり始め、議会制による統治体制までも自らのヤヌスに委ねてしまう。そしてそれ自身は、それ以来、議会主義とは何の共通点もない一つの統治体制へと絶えず近づいていく。解放と統一以来、確かに我々には国民議会と呼ばれる一つの機関がある。しかしそれは議会ではなく、議会としての権能を行使してもいない。そのことは次の点に最もよく表れている。今日に至るまで、議会で倒れた内閣は一つもなく、議会から生まれた内閣も一つもないのだ!
議会は再び休会されるのか
首相はこれに答えた。「私もそうした噂は耳にしている。だが申し上げておく。そうはならない」
プリビチェヴィッチ氏、ニンチッチ氏のもとへ
この会談では、議員の権利侵害に関するあの周知の質問書についても話が出た。周知のとおり、これはボジョヴィッチ氏が、ツェノ・ベグ氏をわが宮廷駐在の公使に任命した件について外務大臣に提出した質問書のことである。この質問書を理由に、外務大臣の求めにより、警察がボジョヴィッチ氏を呼び出して弁明を求めた。これによって、一人の国民議会議員の免責特権が侵害されたのである。
解説
1926年秋のウズノヴィッチ急進党内閣
この記事で休会の噂を否定した首相は、人民急進党のニコラ・ウズノヴィッチである。ウズノヴィッチは1926年4月8日に首相に就任した。前任のニコラ・パシッチは、同じ1926年4月に汚職スキャンダルに直面して辞任を余儀なくされていた。ウズノヴィッチは就任後に党内の対立に直面し、その在任中には短命の内閣が次々に交代した。ウズノヴィッチの首相在任は1927年4月17日に終わった。半世紀近く政界で活動したパシッチは、この号から約5週間後の1926年12月10日に死去した。紙面の記事が伝えているのは首相の否定の言葉だけである。記事は、噂を流したのが誰か、議会の日程がその後どうなったかを書いていない。休会の噂が流れること自体、議会の会期が政府の都合に左右されていたことを示しており、同じ紙面でラプチェヴィッチのコラムが批判した議会の弱さにも通じる。
ツェノ・ベグとは誰で、なぜ任命が質問書の対象になったのか
記事に登場するツェノ・ベグは、ツェノ・クリエジウというアルバニアの政治家で、ツェノ・ベイ・ヤコヴァとも呼ばれた。クリエジウはジャコヴァの名家クリエジウ家の出身で、アルバニア政界の中でユーゴスラヴィア当局の信頼を得ている人物として知られていた。クリエジウは1922年にアフメト・ゾグの妹ナフィエと結婚した。ゾグはクリエジウを一時フランスへ追放したが、のちに呼び戻してベオグラード駐在公使に任じた。クリエジウは1926年10月に信任状を提出しており、この号はその数週間後に出た。この任命には反発があった。アリ・ケルツィラの1959年の回想録『歴史的回想』によれば、ベオグラードのアルバニア人亡命者たちは、クリエジウがバイラム・ツリとルイジ・グラクチの殺害に道義的責任を負うと考えていた。ポリティカの記事は、ボジョヴィッチの質問書の中身を伝えていない。記事が伝えているのは、質問書がこの任命に関するものだったことと、外務大臣の求めで警察がボジョヴィッチを呼び出したことである。この呼び出しを免責特権の侵害と呼んでいるのはポリティカ紙であり、記事は決着には触れていない。見出しのプリビチェヴィッチは、野党指導者スヴェトザル・プリビチェヴィッチとみてまず間違いない。スヴェトザル・プリビチェヴィッチは1929年の国王独裁の下で自宅軟禁に置かれ、のちにフランスへ亡命した。
ラプチェヴィッチの議会批判と1929年1月への道
ドラギシャ・ラプチェヴィッチは1867年生まれの社会主義者で、ディミトリエ・トゥツォヴィッチとともにセルビア社会民主党を創設した人物である。セルビア社会民主党は1903年から1918年まで存在した。ラプチェヴィッチは1905年から1908年まで、また1912年から1919年まで国民議会議員を務めた。ラプチェヴィッチは1920年代初めに政界と労働運動から身を引いており、このコラムを政党の外の立場から書いたことになる。抜粋は議論の途中から始まっており、日和見主義に傾いたとされる女性形の主語が何を指すかを示していない。1893年という年には意味がある。1893年には、16歳のアレクサンダル・オブレノヴィッチ王が成年を宣言して摂政を退け、穏健派の急進党員ラザル・ドキッチに組閣を命じた。ラプチェヴィッチが示した基準は、議会で退陣した内閣も議会から生まれた内閣もないというものであり、内閣の任免が議会の外で決まる仕組みを問題にしている。コラムの2年足らず後の1928年6月、クロアチア農民党の指導者ステパン・ラディッチが議会内で暗殺された。1929年1月6日、ユーゴスラヴィア国王アレクサンダル1世はヴィドヴダン憲法を廃止し、議会を停会して非常大権を握った。国王は自分だけに責任を負う内閣を任命し、報道に厳しい検閲を課した。1926年のラプチェヴィッチのコラムが描いているのは、すでに内閣の進退をほとんど左右できなくなっていた議会の姿である。コラムはその後の独裁を予言してはいない。
原文
Ми немамо парламентаризма
Међутим, већ 1893 године она отпочиње бивати помало опортунистичка, па и парламентарни систем владавине оставља своме Јанусу, а сама се, од тада, стално приближава једном систему владавине, који ничега заједничкога нема с парламентаризмом. Од ослобођења и уједињења ми имамо, истина, једну установу која се назива Народном Скупштином, али она није парламенат нити упражњава своје парламентарне атрибуте. То се најбоље види по томе: што, до данас, ниједан кабинет није пао у парламенту, и ниједан није изишао из парламента!
Да ли ће се Скупштина поново одложити
Председник владе је на то одговорио: - И ја чујем за те гласове, али вам кажем: то неће бити.
Г. ПРИБИЋЕВИЋ КОД Г. НИНЧИЋА
На овом састанку било је речи и о познатој интерпелацији о повреди посланичких права. Као што је познато овде је реч о интерпелацији коју је г. Божовић поднео министру спољних послова о постављању г. Цена Бега за посланика на нашем Двору. Због те интерпелације на захтев министра спољних послова полиција је позвала г. Божовића на одговор. Тиме је повређен имунитет једног народног посланика.