新聞を読み込んでいます… / Loading the edition…

· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

1926年10月30日の『ポリティカ』紙面には、二人のセルビア政治家を追悼する署名記事が並んだ。スロボダン・ヨヴァノヴィッチはストヤン・ノヴァコヴィッチについて書き、1885年にコンスタンティノープル駐在公使となった彼を「マケドニアの文部大臣」と呼んだ。ヨヴァノヴィッチはまた、当時ブルガリア人が学校と主教を通じてマケドニアの文化的征服を大々的に進めていたと記した。もう一つの記事は、1884年の反動期にアンドラ・ニコリッチがジャヤやストヤン・プロティッチとともに新聞『オドイェク』を優れた論説と文学的な欄「政治寓話」で満たしたことを回想した。筆者はこの欄が当時大きな意味を持ったと評価した。

この翻訳は紙面のうち二つの短い抜粋を扱い、二つの追悼記事からそれぞれ一か所を訳している。両記事の残りの部分は訳していない。OCRの結果は断片的であったため、抜粋は紙面の画像から書き起こしている。画像の継ぎ目では段の端が切れ、肖像の説明文は一部がぼやけ、ある段の下部はかすれている。ニコリッチの抜粋については筆者名を読み取ることができない。参照した背景資料は「政治寓話」欄を扱っていないため、この欄についての記述は追悼文の内容だけにもとづいている。

翻訳

ストヤン・ノヴァコヴィッチ

1885年、ノヴァコヴィッチはコンスタンティノープル駐在のわが国の公使となった。その地位にあって、彼はふたたび文部大臣であった。ただし、セルビアの文部大臣ではなく、マケドニアの文部大臣であった。当時、ブルガリア人はすでに、自分たちの学校と自分たちの主教を通じて、マケドニアの文化的征服を大々的に進めていた。

アンドラ・ニコリッチ

そして1884年、反動の恐ろしい嵐のただなかで『オドイェク』が創刊されると、アンドラはジャヤ、ストヤン・プロティッチとともに、この新聞をきわめて優れた論説で埋めただけでなく、さらに、あえて言えば、いっそう洗練され、いっそう文学的な欄でも満たした。それが「政治寓話」であり、この欄は当時、多くの意味を持ち、多くを語るものであった。

解説

1926年10月末に二人がそろって顕彰された理由

この紙面が顕彰した二人は、どちらも第一次世界大戦の時期に亡くなり、1926年に遺骸がベオグラードへ移された人物である。ノヴァコヴィッチは1915年2月17日、大戦のさなかに死去し、その遺骸は1926年10月末、つまりこの号が出た時期にベオグラードへ移された。アンドラ・ニコリッチは短い闘病の末、1918年9月28日にパリで死去した。ニコリッチの遺骸も1926年にベオグラードへ移され、新墓地の聖ニコラ教会の近くに礼をもって埋葬された。進歩党の政治家と急進党の政治家の遺骸が同じ時期に首都へ戻ったため、『ポリティカ』は二人の追悼文と肖像を同じ紙面に並べたのである。

1885年からのコンスタンティノープル公使ノヴァコヴィッチの仕事

ヨヴァノヴィッチが「マケドニアの文部大臣」と表現した役割は、具体的な外交と学校政策に対応している。ノヴァコヴィッチはコンスタンティノープル駐在のセルビア公使を1892年までほぼ7年間務めた。ノヴァコヴィッチの交渉によって、セルビアは1886年にオスマン帝国と協定を結び、スコピエとテッサロニキに領事館を開くことができた。ノヴァコヴィッチはさらに、オスマン帝国のヨーロッパ領全域に、多数のセルビア領事館、世俗と宗教の両方のセルビア人学校、セルビア人の宗教施設を組織的に設けた。セルビア政府は1886年8月初めの会議で、コンスタンティノープルにセルボ・マケドニア人協会をつくることを決めた。ノヴァコヴィッチはこの地で、マケドニア秘密委員会の元メンバーであるコスタ・グルプチェヴィッチとナウム・エヴロヴィッチと協力した。ヨヴァノヴィッチが文部大臣の仕事と呼んだものは、公使館が進めたセルビア外交の一部だったのである。

マケドニアで競い合ったセルビアとブルガリアの学校・主教政策

ヨヴァノヴィッチはブルガリア人を、学校と主教を通じてマケドニアの「文化的征服」を進める側として描き、ノヴァコヴィッチをそれに立ち向かった人物として描いている。同じ時期のセルビア側の計画も、学校と教会人事を同じように使うものだった。セルボ・マケドニア人協会は綱領で、マケドニアのスラヴ人にブルガリア・エクザルフ教会からの離脱を求め、ブルガリア人の主教と教師の追放を掲げた。セルビアはマケドニアにセルビア人学校を開き、セルビア語の影響を受けたマケドニア方言で本を印刷した。現代の記述によれば、セルビアは「マケドニア主義」を、マケドニアのスラヴ人をセルビア化するための一段階として推し進めた。1926年の追悼文はこの争いをセルビア側の見方で記録しており、歴史の記録は両国がともに学校と教会の役職を同じ目的に使ったことを示している。

1884年の『オドイェク』と反動期の政府側にいたノヴァコヴィッチ

ニコリッチ追悼文が書く「反動の恐ろしい嵐」は、1883年のティモク反乱の後に政府が行った弾圧を指している。ニコリッチは反乱の後に投獄され、無罪となったものの公職を失った。ニコリッチはその後、最初の急進党系新聞『オドイェク』を創刊し、この新聞は当時、反対派の主要な代弁者とみなされた。ストヤン・プロティッチは1884年に『オドイェク』の編集者となり、セルビア憲法の改正を主張した。彼らが反対した政府には、ノヴァコヴィッチ自身が加わっていた。ノヴァコヴィッチはミルティン・ガラシャニンの第1次内閣で1884年から1885年まで内務大臣を任され、王権の強化と反対派の抑圧を目指す内閣の弾圧政策は主に彼の省を通じて実行された。ノヴァコヴィッチはまもなく、ガラシャニンがミラン王に譲歩しすぎていると判断して辞任した。1926年に同じ紙面で顕彰された二人は、追悼文が振り返る1884年の争いでは互いに反対の側に立っていたのである。

原文

СТОЈАН НОВАКОВИЋ

Године 1885, Новаковић је постао наш посланик у Цариграду. На томе положају, он је опет био министар просвете, али не за Србију, него за Македонију. У то време, Бугари су већ у велико вршили културно освајање Македоније посредством својих школа и својих владика.

АНДРА НИКОЛИЋ

А кад се 1884 год. покреће Одјек, у једноме страшноме вихору реакције, Андра га, са Ђајом и Стојаном Протићем, пуни не само изванредно финим чланцима, него још, рекао бих, финијом и литерарнијом рубриком: Политичке басне, рубриком која је, за оно доба, много значила и много говорила.

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

万国一面について →

本日の新聞一覧

街を巡る ↑
100%
原紙を拡大して読む

つまんで拡大 · 指で紙を動かす