Il Piccolo
- 力と合意
- 仏独交渉、遅々として進まず
- モーラスに禁錮1年の判決
イル・ピッコロ紙は1926年10月30日付の紙面に、ここで取り上げる3本の記事を載せた。巻頭の論説「力と合意」は文の途中から読める。この論説は、写真レンズの公平さとともに、身を委ねて誓いを立てる市民の大波にこたえるため、かの人が日々重ねる超人的な労苦の情景をたたえた。別の記事は、フォン・ヘッシュ大使とブリアンのほぼ2時間の会談が何の新味ももたらさなかったと報じ、パリ各紙がケ・ドルセーの情報不足に不満を述べていると伝えた。三つ目の記事は、シャルル・モーラスが破毀院への上告を経た再審理で、元大臣シュラメックあての書簡による殺害脅迫を理由に禁錮1年と罰金1000フランを言い渡されたと伝えた。
翻訳
力と合意
写真レンズの公平さ。だがそれと同時に、ここには日々の途方もない労苦を映した内輪の情景がある。かの人は、自らに身を委ね、自らに誓いを立てるこの市民の大波の期待と愛にこたえるため、超人的な忍耐をもってその労苦を自らに課しているのである。
仏独交渉、遅々として進まず
フォン・ヘッシュ大使が昨日ブリアンと行ったほぼ2時間に及ぶ会談は、何ら新しいものをもたらさなかった。パリの各紙はケ・ドルセーが正確な情報を出さないと不満を述べているが、当地でもそれ以上のことは何もわかっていない。明らかに、まだ何ひとつ確定的な成果が得られていないという単純な理由によるものである。
モーラスに禁錮1年の判決
モーラスは第一審で禁錮2年の判決を受け、これに対して破毀院に上告していた。本日、事件の再審理を経て、モーラスは禁錮1年と罰金1000フランを言い渡された。裁判所は要するに、シャルル・モーラスが元大臣シュラメックに送った書簡に殺害脅迫罪の構成要件が含まれていたと認定した。しかし
解説
トワリー会談後に仏独交渉が停滞した理由
ドイツは1926年9月10日に国際連盟への加盟を認められた。加盟を記念する式典の期間中の9月17日に、フランス外相アリスティード・ブリアンとドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンはフランスの村トワリーで会談した。シュトレーゼマンはこの会談でフラン安定のための物質的支援を約束し、ブリアンはザール地方の早期返還と、ラインラントに対する軍事管理と占領の早期終了に同意した。同じ年表は、ドイツとフランス両政府の異論によって、トワリーで合意した内容の範囲がまもなく縮小されたと記している。イル・ピッコロ紙が10月30日に伝えた会談は、こうした後続の交渉が続いていた時期のものである。同紙はフォン・ヘッシュ大使とブリアンの約2時間の会談に新味がなかったと報じ、ケ・ドルセーが情報を出さない理由として、確定した成果がまだないことだけを挙げた。歴史の記録によればトワリーの合意は両政府の異論によって縮小されつつあったが、同紙の短い記事はその異論について説明していない。
内相シュラメックとモーラスの脅迫書簡
アブラアム・シュラメックは1925年に7か月間フランスの内務大臣を務め、同じ1925年からブーシュ・デュ・ローヌ県選出の上院議員でもあった。シュラメックはポール・パンルヴェが率いる左派連合政権の内相として、極右同盟の武装解除を命じていた。シュラメックはまた、王党派と共産主義者の衝突が続くなかで、メーデーとジャンヌ・ダルク行進を禁止した。モーラスは1925年6月9日に公開書簡を発表し、反ユダヤ主義をあらわにしてシュラメックを非難した。モーラスはこの書簡に、約束した答えとして「われわれはお前を犬のように殺す」と書いた。イル・ピッコロ紙が伝えた判決で、裁判所が殺害脅迫罪の構成要件を認めたのはこの書簡である。シュラメックは1925年のうちに内相の職を離れていたので、同紙は1926年10月の記事で彼を元大臣と呼んだ。
書簡の背景にあった政治暴力
モーラスは、実際に流血が続く状況のなかでこの書簡を書いた。1923年、ジェルメーヌ・ベルトンはアクション・フランセーズの一員マリウス・プラトーを暗殺した。ある歴史記述によれば、1923年から1924年にかけて、モーラスに近い人物7人が無政府主義の活動家に殺害された。モーラスは1925年6月9日の公開書簡でこれらの殺害について内相シュラメックを責め、その文面で反ユダヤ主義をあらわにした。王党派の指導者モーラスは、自派の仲間が殺されたことへの返答として脅迫を示し、治安を担う大臣にその脅迫を向けたのである。イル・ピッコロ紙の抜粋は、書簡に関する裁判所の法的な認定だけを伝えており、こうした背景には触れていない。
判決の伝え方とその後のモーラス
イル・ピッコロ紙は、モーラスが第一審で禁錮2年を言い渡されて破毀院に上告し、再審理で禁錮1年と罰金1000フランの判決を受けたと報じた。別の記録は、この殺害脅迫に対する刑を罰金と執行猶予付きの禁錮1年としている。同紙の抜粋は「しかし」という語で途切れているので、この読みからは、記事がその先で執行猶予のような条件に触れていたかどうかを確かめられない。この判決のすぐ後に、モーラスの運動はさらに重い打撃を受けた。教皇ピウス11世は1926年12月20日の訓話で、モーラスの多数の著作を禁書目録に載せた。モーラスはその後も政敵への脅迫をやめなかった。モーラスは1936年に社会主義者レオン・ブルムを殺害すると脅し、ラ・サンテ刑務所での禁錮8か月の刑を受けた。
原文
Forza e consenso
imparzialità dell'obiettivo fotografico, ma ecco al tempo stesso scene intime di quella diuturna immane fatica cui l'Uomo si sottopone con una resistenza sovrumana per corrispondere all'aspettazione e all'amore di queste maree di cittadini che a Lui si affidano e in Lui giurano.
Lento svolgimento dei negoziati franco-tedeschi
Il colloquio di quasi due ore che ieri basciatore von Hoesch ha avuto con Briand, non ha recato nulla di nuovo. I giornali parigini lamentano che il Quai d'Orsay non dia informazioni esatte, e qui non si sa nulla di più, evidentemente per la semplice ragione che non si è ancora raggiunto nulla di definitivo.
Maurras condannato ad un anno di prigione
Maurras è stato condannato a due anni di carcere in un primo processo. contro il quale aveva sporto ricorso in Cassazione. Oggi è stato condannato, dopo un nuovo esame della sua causa, ad un anno di prigione ed a mille franchi di ammenda. Il tribunale ha rilevato in sostanza che nella lettera inviata da Carlo Maurras all'ex ministro Schramek, erano contenuti gli elementi del reato di minaccia di morte. Ma
紙面の出典:Source: Internet Archive