L’Écho d’Alger
- アルジェリアのために
- フランスにおけるアレクサンドル・ヴァレンヌ氏
- 清水だけで暮らす娘
1926年10月30日付のレコー・ダルジェ紙は、一面の社説「アルジェリアのために」で、9月に続けたモーリス・ヴィオレット総督への批判を再開した。同紙は、11月3日の財政代表会議の場で総督と会うという約束を守ると述べた。同紙はまた、県会の役員改選後に広まった、あらゆる対立が芝居じみた和解で片づくという噂を退けた。同じ面には、インドシナ総督アレクサンドル・ヴァレンヌの談話も載った。ヴァレンヌは10か月の成果として、若いインドシナ人への行政職の開放、原住民行政の俸給と採用の改善、高利貸しの取り締まり、債務による投獄の原則廃止、庶民金融の創設を挙げた。リスボン発の短信は、7年間清水だけで暮らしているとされるポルトガルの若い女性を学者たちが調べに行く予定だと伝えた。
翻訳
アルジェリアのために
9月中、われわれは総督ヴィオレット氏の手法と政策を批判的に検討する一連の記事を掲載し、その最後に、政府が財政代表会議を招集する時間を同氏に残すならば、と断ったうえで、11月3日に財政代表会議の場で同氏と会おうと約束した。この約束を守って、われわれはここに再び登場する。われわれがいっそう几帳面に期日を守るのには理由がある。県会がその最初の会合で役員を改選したのち、いくつかの言葉が発せられ、いくつかの噂が流された。それらの言葉や噂は、あらゆる対立がここで、ヴォードヴィルの幕切れのように、ラムレットの接吻の盛大な抱擁のうちに片づくのだと思わせようとしているのである。
フランスにおけるアレクサンドル・ヴァレンヌ氏
「この10か月間に進めてきた取り組みの全体を、かいつまんでお話ししましょうか。では申し上げます。まず、私は原住民の問題に取り組みました。
「行政における彼らの登用という、たいへん微妙な問題ですか。私はこの問題を、それまでヨーロッパ人に限られていた行政職の大部分への道を若いインドシナ人に開く省令によって解決しました。同時に、私は原住民行政を強化し、より良い俸給とより広い採用を保証しました。
「私は高利貸しを容赦なく追い詰めました。高利貸しは、アジアでは[?]、とりわけインドシナでは、まさに災厄です。着任するとすぐに、私は例外的な場合を除いて債務による投獄を廃止し、庶民金融の機関を創設しました。
清水だけで暮らす娘
リスボン、10月29日発。7年前から[?]、ポルトガルの若い女性エストレラ嬢は清水だけで暮らしており、それで体を損なってもいない。ポルトガルの新聞はこぞってこの例外的な事例を報じており、リスボンとコインブラの学者たちは、この娘が住む土地ベイラに赴いて、この食生活がもたらす影響を調べるつもりである。学者たちには、この食生活の節制ぶりが人類の記録に類のないものと思われている。
解説
レコー・ダルジェ紙がヴィオレット総督を批判し続けた理由
この社説は、同紙が9月にモーリス・ヴィオレットの「手法と政策」を批判した連載の続きであり、県会の会合後に流れた和解の噂を退けている。ヴィオレットは急進派の政治家で、1925年から1927年までアルジェリア総督を務めた。歴史家ミシェル・ピエールは、ヴィオレットがシャルル・ジョナールの自由主義的な考えを引き継ごうとしたと述べている。ジョナールは1903年から1911年まで総督を務め、1918年にはアルジェリアのヨーロッパ系住民の多数が受け入れを拒んだ措置を推し進めた人物である。ピエールによれば、ヴィオレットは任命から2年後に本国へ戻り、ヨーロッパ系住民の多くはその離任を惜しまなかった。1926年のアルジェ諷刺画展では、画家がヴィオレットを、原住民の子ども二人に哺乳瓶で乳を飲ませる乳母の姿に描いた。レコー・ダルジェ紙は、こうしたヨーロッパ系住民の側に立つ新聞だった。1912年に同紙を創刊したエティエンヌ・バイラックは、改革派が「アルジェリア人の権利と利益」をユートピアの実現の犠牲にしたと非難した。社説は、政府がヴィオレットに会議を招集する時間を残さないかもしれないと書き、総督の更迭をほのめかした。ヴィオレットは実際に1927年に職を離れた。同紙の敵意はその後も長く続いた。ヴィオレットは1936年に、アルジェリアのエリートにフランス市民権を与えるブルム・ヴィオレット案を共同で起草し、レコー・ダルジェ紙はヴィオレットに「ヴィオレット・ラルビ」というあだ名を付けた。ブルム内閣が退陣したのち、この案は政府の課題から消えた。
11月3日にヴィオレットが臨むはずだった財政代表会議
社説が予告した再会の場は、アルジェリア財政代表会議の秋の会期である。財政代表会議は1898年8月、エドゥアール・ラフェリエール総督のもとで、政府に助言する選挙制の議会として設けられた。この会議は、入植農民の代表24人、商人や製造業者や労働者など入植農民以外のフランス人の代表24人、現地住民の代表21人で構成された。この構成では、ヨーロッパ系の代表が69議席のうち48議席を占めた。ラフェリエールの総督時代についての解説は、この措置が現地住民に限られた政治的権利を与えたものの、実質的な権限は与えなかったと評価している。総督は会議の開会にあたって演説した。ラフェリエール自身が1899年11月6日の開会で行った演説は、アルジェで印刷された。レコー・ダルジェ紙が「財政代表会議の場で」ヴィオレットと会うと約束したとき、同紙は、改革を進める総督が入植者をはじめとするヨーロッパ系の利益代表が多数を占める議会の前に立つ場面を指していた。
アレクサンドル・ヴァレンヌと彼が語ったインドシナ改革
アレクサンドル・ヴァレンヌは政治家でありジャーナリストでもあった人物で、新聞『ラ・モンターニュ』の創刊者として知られ、経歴のなかで社会党に属した。ヴァレンヌは1925年から1928年までフランス領インドシナ総督を務めたので、談話の「10か月」は任期の前半にあたる。ヴァレンヌはフランスで自らの実績を語った。ヴァレンヌによれば、自分は省令によってヨーロッパ人に限られていた行政職の大半を若いインドシナ人に開き、原住民行政の俸給と採用を改善し、高利貸しを取り締まり、例外を除いて債務による投獄を廃止し、庶民金融の機関を創設した。紙面はこれらの成果を総督本人の主張として載せており、談話そのものは省令が実際にどう運用されたかを説明していない。紙面の組み合わせには意味がある。ヴァレンヌとヴィオレットはともに1925年に総督に就任した。レコー・ダルジェ紙は、植民地の住民に行政職を開いたというヴァレンヌの談話を、アルジェリアでのヴィオレットの手法と政策を攻撃する社説と同じ一面に載せたのである。
かつての「断食少女」の主張はどう確かめられたか
リスボン発の短信は、エストレラ嬢が7年間清水だけで暮らしてきたことと、学者たちが調査を計画していることを伝えただけで、結果は報じていない。食べずに生きられるという主張には長い前例がある。中世には、人々がシエナのカタリナやスヒーダムのリドウィナといった聖人にこの能力があると考えた。19世紀後半には、「断食少女」の例が数多く報告された。ウィリアム・A・ハモンドらの医師は、この現象を詐欺とヒステリーによるものと考えた。もっともよく知られた検証は悲劇に終わった。「ウェールズの断食少女」サラ・ジェイコブの両親は1869年、ガイ病院の看護師による厳重な監視に同意し、サラはその監視のもとで餓死した。その後の調べで、サラがそれまで密かにごく少量の食べ物をとっていたことが分かり、両親は過失致死で有罪となった。ブルックリンのモリー・ファンチャーの主張は、1916年に本人が亡くなるまで一度も確かめられなかった。歴史家ジョーン・ジェイコブズ・ブランバーグは、こうした事例を神経性無食欲症の初期の例とみている。リスボンとコインブラの学者たちが計画した現地訪問も、こうした主張を直接観察して確かめようとする同じやり方に沿っていた。
原文
POUR L'ALGÉRIE
A la fin de la série d'articles, dans le courant du mois de septembre, par nous consacrés à l'examen critique de ses méthodes et de sa politique, nous fixions rendez-vous à M. Viollette, gouverneur général, à la date du 3 novembre, devant les Délégations financières, si le Gouvernement, disions-nous, lui laissait le temps de les réunir. Fidèles à cette promesse, nous revoici, avec d'autant plus de scrupuleuse régularité qu'après cette première séance du Conseil général, où cette assemblée renouvela son bureau, des mots ont été prononcés et des bruits mis en circulation qui visent à laisser croire que tous les conflits vont ressortir ici, comme à la fin d'un vaudeville, dans la vaste effusion d'un baiser Lamourette.
M. ALEXANDRE VARENNE EN FRANCE
«Voulez-vous que je vous résume tout l'effort poursuivi pendant ces dix mois? Eh bien, voilà: D'abord, je me suis occupé des indigènes. «La question si délicate de leur emploi dans l'administration? Je l'ai résolue par des arrêtés qui permettent aux jeunes Indo-Chinois l'accès de la plupart des carrières administratives jusque là réservées aux européens. En même temps, j'ai renforcé l'administration indigène, en lui assurant des traitements meilleurs et un plus large recrutement. «J'ai impitoyablement traqué les usuriers. Ils sont, en Asie [?] et plus spécialement en Indo-Chine, un véritable fléau. Dès mon arrivée, j'ai aboli, sauf pour des cas exceptionnels, la prison pour dettes et j'ai créé un Crédit populaire.
Une jeune fille vit d'eau claire
Lisbonne, 29 octobre. - Depuis sept ans [?] Mlle Estrela, une jeune portugaise, vit d'eau claire et ne s'en porte pas plus mal. Toute la presse portugaise signale ce cas exceptionnel et les savants de Lisbonne et de Coïmbre se proposent de se rendre à Beira, localité où habite la jeune fille, pour étudier les conséquences de ce régime, dont la sobriété leur paraît unique dans les annales de l'humanité.