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· パリ(フランス) · フランス語

Le Figaro

1926年10月30日付のフィガロ紙の一面は、リュシアン・ロミエの論説で始まった。ロミエは、レオン・ベラールがエドゥアール・エリオに宛てた書簡によって古典教育の論争が議会で再燃したと伝えた。ロミエは教育論には立ち入らず、この争いを共和主義の伝統と民主主義的な平等との対立として論じた。アシル・メストルは、今の若者には瞑想ができないという見方を退け、カルチエ・ラタンへ戻る学生たちを一種の黙想に誘った。ポール・ルスールは、明かりに輝くサン・ピエトロ大聖堂で最初の中国人司教たちの聖別式が行われた様子を報じた。ルスールによれば、教皇が銀のラッパの響くなか輿に乗って入場すると、大群衆が歓呼した。

翻訳

共和国と民主主義

レオン・ベラール氏は、エドゥアール・エリオ氏に宛てた気高く魅力的な書簡によって、議会の世論を前に古典教育をめぐる論争を再び開いたところである。私は、ほかの多くの論者が得意とする教育論の議論には立ち入らない。私はただ、この奇妙で尽きることのない対立のいくつかの一般的な特徴を指摘するにとどめる。目先の政治の争いを超えたところまで引き上げてみれば、この対立は共和主義の伝統と民主主義的な平等とを対立させるものである。

いくつかの省察

現代を陰気にけなす人々は、今日の若者には瞑想する力がないと言い切る。私はそれをほとんど信じていないので、休暇も終わりに近いこの数日に、カルチエ・ラタンへ戻る支度をしている学生たちを、まさに一種の『黙想』へと誘いに来たのである。

中国人司教たちの聖別式

だからこそ、最初の中国人司教たちの聖別式は教皇の目にあれほど重要なものと映ったのであり、だからこそ式は、隅々まで明かりがともされ赤い垂れ幕で飾られたサン・ピエトロ大聖堂で、比類のない華やかさのうちに執り行われたのである。大群衆が大聖堂を埋め尽くし、銀のラッパが鳴り響くなか、教皇が教皇輿(セディア・ジェスタトリア)に乗って入場すると、群衆は歓呼して教皇を迎えた。

解説

ベラールのラテン語必修化とその撤回

ロミエの論説のきっかけとなった書簡を書いたレオン・ベラールは、かつて自らフランスの教育行政を率いた人物である。ベラールは1919年11月から1920年1月まで、さらに1921年1月から1924年3月まで公教育・美術大臣を務めた。上院の経歴によれば、ベラールはギリシア・ローマの古典教養の価値を深く信じ、下院の教育委員会と公教育高等評議会の反対を押し切って、中等教育のすべての生徒にラテン語を必修にしようとした。この改革は短命に終わり、後任の大臣が1923年5月3日の政令を撤回した。ベラールは下院議員に戻ったのちも、中等教育に近代課程の学級を開くことについて政府に質問を求めており、この争いはその後も続いていた。ロミエが論争の再開と書いたとき、ロミエはベラールが大臣として一度敗れた争いを指していたのである。この争いを共和主義の伝統と民主主義的な平等の対立とみる見方はロミエ自身の解釈であり、上院の記録が伝えているのは改革の制度上の経過である。

回勅『レールム・エクレジエ』が宣教に求めたこと

ルスールの記事は、だからこそという言葉で聖別式の重要性を教皇の方針に結びつけている。教皇ピウス11世は1926年2月28日に宣教に関する回勅『レールム・エクレジエ』を出した。この回勅は外国人宣教師に対し、人種的な劣等という思い込みを捨てて現地の聖職者を育てるよう強く求め、司教を生み出さない教会は不完全であると説いた。ピウス11世のこの回勅は、教皇ベネディクトゥス15世が1919年11月30日に出した使徒的書簡『マクシムム・イルド』の後に続くものだった。中国の現地でも準備が進んでいた。教皇使節チェルソ・コスタンティーニは1924年5月15日から6月12日まで上海で全国教会会議を開き、105人の参加者を集めた。コスタンティーニは会議に先立って2人の中国人聖職者を教会管轄区の長に任じ、現地の位階制を築き始める時が来たことを示した。布教聖省長官ウィレム・ファン・ロッサム枢機卿は1926年3月30日、教皇が中国人司教6人を聖別するという決定を発表した。記事が伝えた教皇の重視ぶりは、数年をかけて進められたこの方針と一致している。

最初の中国人司教たちとフランスの宣教保護権

6人の中国人司祭は、この号が出る2日前の1926年10月28日に教皇ピウス11世によって聖別され、近代で最初の中国人カトリック司教となった。そのうちの1人である胡若山は、1924年の上海全国教会会議で顧問神学者を務めた人物である。新しい司教たちはローマを離れたのち、イタリア、フランス、ベルギー、オランダを巡り、各地でヨーロッパのカトリック信徒の群衆に迎えられた。この出来事はフランス自身の立場にも関わっていた。フランスは第二次アヘン戦争後の1858年の天津条約によって中国のカトリック宣教の法的な保護国となり、教皇庁が中国と直接の外交関係を結ぼうとする試みはことごとくフランスに阻まれていた。上海の会議は宣教を植民地支配の事業から切り離すことを目標に掲げており、ローマでの聖別式はその目標に向けた目に見える一歩だった。ルスールの一節は、この日をサン・ピエトロ大聖堂で演出された教皇の晴れ舞台として描いている。

1924年のエリオ政権とカトリックの反発

ベラールの書簡の宛先であるエドゥアール・エリオは、その2年前にカトリック勢力と正面から対立していた。エリオは1924年6月に首相として行った就任演説で、教皇庁駐在フランス大使館の廃止と、修道会に関する法律の厳格な適用を打ち出した。イエズス会士ポール・ドンクールは退役軍人修道者権利連盟の創設に加わり、1924年10月にエリオ首相宛ての公開書簡を発表した。カトリック系サイトのアレテイアによれば、政府はおよそ20か月にわたる政治的な争いのあと、世論が反教権的な計画を支持しなくなったと悟り、計画を断念した。メストルの選ばれた一節が語っているのは学生の瞑想する力と黙想への誘いであり、この一節は修道会の法律には触れていない。それでも1924年から1926年にかけての対立は、カトリックの書き手が1926年秋に学生の世代へ呼びかけた文章のすぐ前の時代背景である。

原文

République et démocratie

M. Léon Bérard, par une lettre noble et charmante à M. Edouard Herriot, vient de rouvrir la controverse sur les études classiques devant l'opinion parlementaire. Je n'entrerai point dans le débat pédagogique, où tant d'autres excellent. Je noterai simplement quelques traits généraux de ce singulier et inépuisable conflit. Une fois élevé au-dessus des disputes de la politique immédiate, le conflit met en opposition la tradition républicaine et l'égalité démocratique.

QUELQUES MEDITATIONS

Les contempteurs moroses de notre temps assurent que les jeunes gens d'aujourd'hui sont incapables de méditation. Je le crois si peu que c'est précisément à une sorte de «retraite» que je viens, en ces derniers jours de vacances, convier les étudiants qui se préparent à regagner le quartier Latin.

LE SACRE des évêques chinois

C'est pourquoi la cérémonie du sacredes premiers évêques chinois avait tant d'importance aux yeux du Pape; pourquoi elle se déroula avec un éclat incomparable dans Saint-Pierre tout illuminé et tapissé de tentures rouges. Une foule énorme envahissait la basilique et acclama le Pape quand il fit son entrée sur la Sedia gestatoria, au son des trompettes d'argent.

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

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