Politika
- ハンガリーとの経済的接近
- 1903年5月29日を前に
- 巷で何が語られているか
1926年10月28日付『ポリティカ』紙は、経済コラム、歴史記事、噂話欄の記事を載せた。署名コラムで筆者ドクトルM・Lは、ハンガリー側がユーゴスラヴィアと西欧のあいだの経済的仲介者になりたいと表明した声明を紹介した。ハンガリー側はその理由として、西欧の経済中心地との古い結びつきとユーゴスラヴィア市場への精通を挙げたと、コラムは伝えた。ハンガリー側はさらに、西欧からバルカンへの最短路も西欧資本の流れもハンガリーを通ると主張したと、コラムは報じた。「1903年5月29日を前に」と題する歴史記事は、日本との戦争を予期したロシアが、列強の利害がボスポラス海峡とコンスタンティノープルにまで及ぶバルカンで行動の自由を望んだと論じた。イビスの署名がある噂話欄「巷で何が語られているか」は、英国・ユーゴスラヴィア系のクラブの会員が乞食と病気の百万長者のどちらがよいかを議論したという冗談を載せた。
この版の抜粋は、OCRの文字が大きく乱れているため、紙面画像から読み取ったものである。噂話欄の記事には判読できない語がいくつかあり、その箇所は[?]で示している。クラブの名称も一部しか読み取れない。紙面の区切りで切れている記事、すなわちモスクワの共産党会議、プラハの上院の記事、写真説明は翻訳していない。解説は五月クーデター、ツィンツァル=マルコヴィチ内閣、『ポリティカ』紙自身の歴史を扱う。手元の資料は、1926年のユーゴスラヴィアとハンガリーの通商交渉、1903年のラムスドルフのニシュ訪問、マリヤ・ツィンツァル=マルコヴィチの回想録、英国・ユーゴスラヴィア・クラブを扱っていないため、この版はこれらの問いについて解説を載せていない。
翻訳
ハンガリーとの経済的接近
これらの声明によれば、ハンガリー人は、西欧の経済中心地との古くからの広範な結びつきと、わが国の市場とわが国の事情についての卓越した知識を引き合いに出しつつ、わが国と西欧とのあいだの経済的仲介者の役割を引き受けたいと望んでいる。ハンガリー人はわれわれに対し、西欧からバルカンへの最短の道は彼らの国を通っており、西欧の資本もまたその道を通ってわが国にやって来ることになるだろうと請け合う。なぜなら西欧の資本は「事柄の性質そのものからして、ユーゴスラヴィアの事情について十分な情報を得ることはできない」からだという。
1903年5月29日を前に
それゆえに、そして個々の列強、とりわけロシアの対外政策上の状況と方針を示す上記の諸事実の叙述と不可分に結びついて、次のことが理解できる。すなわちロシアは、近く起こると予想されていた日本との戦争に備えて、バルカンそのものにおいて行動の自由を確保しておきたいと望んだのである。ロシアはバルカンから常にヨーロッパの紛争の直接のきっかけを予期することができた。というのも、すでに述べたとおり、そこには特定の列強の死活的な利益が絶えず関わっており、しかもその利益はボスポラス海峡とコンスタンティノープルそのものにまで及んでいたからである。
巷で何が語られているか
英国・ユーゴスラヴィア[?]の会員たちは昨日会合を開き、その席で次のテーマについて[?]した。すなわち、[?]乞食であるのがよいか、それとも病気の百万長者であるのがよいか。[?]かつ活発な議論の末、クラブの会員全員は、いちばんよいのは――[?]百万長者であることだという点で[?]した。
解説
1903年5月29日の夜に起きたこと
見出しの日付は1903年の五月クーデターを指す。士官たちは、見出しが用いるユリウス暦で5月28日から29日にかけての夜、グレゴリオ暦では6月10日から11日にかけての夜に、ベオグラードのスタリ・ドヴォル宮殿で国王アレクサンダル1世と王妃ドラガを殺害した。アピスの通称で知られるドラグティン・ディミトリエヴィチ大尉が率いる陸軍士官の一団が、この暗殺を組織した。陰謀者たちは国王夫妻とともに、首相ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィチ、陸軍大臣ミロヴァン・パヴロヴィチ、侍従武官長ラザル・ペトロヴィチも殺害した。このクーデターによって、19世紀半ばからセルビアを治めてきたオブレノヴィチ朝は終わり、カラジョルジェヴィチ家のペータル1世が王位に就いた。23年後に書いたこの記事の筆者は、選ばれた一節では事件の夜そのものを語っていない。筆者は事件を、それに先立つ時期の列強の外交の中に位置づけている。
記事がロシアの政策を重く見る理由
この記事の筆者は、クーデターの背景を列強、とりわけロシアの対外政策から説明している。筆者は、ロシアが近いと予想した日本との戦争に備えてバルカンで行動の自由を確保したかったと主張する。この動機は筆者の解釈である。独立した記録が裏づけるのは、より限られた構図である。セルビアの二つの王家はそれぞれ外国の後ろ盾を持ち、オブレノヴィチ家はおおむねオーストリア=ハンガリーと同盟し、カラジョルジェヴィチ家はロシアおよびフランスと近い関係にあった。アレクサンダル自身も、晩年に両国のあいだで方針を変えた。ドラガとの不人気な結婚で国外との関係が悪化すると、アレクサンダルは対外政策をロシアに向けた。その後ロシア皇帝は、予定されていた国王夫妻の訪露を受け入れようとしなかった。ロシア宮廷の反発が強まるなか、アレクサンダルは1902年秋に再びオーストリアへの接近を試みた。こうした経緯を見ると、1926年の筆者がクーデターの原因としてロシアの政策を重視した理由が分かる。ここで用いた資料は、記事がロシアに帰した具体的な動機までは確認していない。
ツィンツァル=マルコヴィチ内閣とオブレノヴィチ朝最後の数か月
国王夫妻とともに殺されたディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィチは、首相であると同時に陸軍の将軍であり、参謀総長を務め、戦史と戦略の教授でもあった人物である。アレクサンダルは、ロシア皇帝が国王夫妻の受け入れを拒んだ責任を急進党に負わせ、新たなクーデターを起こして、1902年11月6日にツィンツァル=マルコヴィチ将軍を首班とする政府を据えた。国王はこの政府の最後の数か月にも強引な措置をとり、1903年3月には憲法を30分間停止した。ツィンツァル=マルコヴィチ内閣はこうしてオブレノヴィチ朝最後の政府となり、その首班は記事の見出しが示す夜に国王とともに殺害された。
創刊前の事件を振り返る『ポリティカ』
この記事は、『ポリティカ』自身が当時ニュースとして報じなかった事件を振り返っている。ヴラディスラヴ・F・リブニカルは1904年に同紙を創刊し、同紙は同年1月に発行を始めた。発行開始はクーデターの約7か月後である。創刊号はわずか4ページで、発行部数は2,450部だった。第一次世界大戦は同紙の発行を中断させ、同紙は1914年11月14日から12月21日まで、さらに1915年9月23日から1919年12月1日まで一号も出さなかった。1926年10月の時点で、同紙は発行を再開してから7年足らずだった。この記事は、同紙が当時報じることのできなかったセルビア王国のオブレノヴィチ朝末期の経緯を、1926年の読者に伝えたのである。
原文
Економско зближење с Мађарском
Према тим изјавама Мађари желе, да узму на себе улогу привредног посредника између нас и Запада, позивајући се при том на своје старе и разгранате везе са западним економским центрима као и на своје одлично познавање наше пијаце и наших прилика. Мађари нас уверавају, да најкраћи пут са запада на Балкан води преко њихове земље и да би тим путем имао да дође до нас и западни капитал пошто он " по самој природи ствари не може бити довољно информисан о југославенским приликама ".
Пред 29 мај 1903
Зато, а у безусловној вези са налагањем горе наведених чињеница које представљају спољно-политичке прилике и смерове појединих великих сила, а нарочито Русије, схватљиво је, што је ова последња на случај предвиђаног скорог рата са Јапаном, хтела да има одрешене руке на самом Балкану, одакле је увек могла очекивати непосредни повод европском сукобу, јер су на њему битни интереси извесних великих сила као што је већ било напоменуто, стално били ангажовани, а уз то чак и до самог Босфора и Цариграда допирали.
Шта се говори?
Чланови Енглеско-Југословенског [?] држали су јуче седницу на којој су [?] о теми: да ли је боље бити [?] просјак или болесни милионар. После [?] и живе дискусије, сви чланови клуба [?] су се да је најбоље бити - [?] милионар.