Il Piccolo
- 国民の行進
- シリアをめぐる伊仏交渉か?
- フェデルツォーニ、チャーノ両議員
トリエステのイル・ピッコロ紙は、ローマ進軍の記念日に合わせ、「新しいイタリア」をたたえる社説を巻頭に掲げた。社説は、かつてない国際的名声、首相のもとに結束した国民、平定された海外領土、地中海とヨーロッパにおけるイタリアの宿命的な役割を並べた。パリ発の記事は、アヴェッツァーナ大使とブリアンの会談がイタリアの植民地構想を扱い、シリアが絡む可能性があると、慎重な伝聞の形で伝えた。同じ記事は、フランスが北アフリカの領有地を議論に含めずに対伊関係の改善を図るとの見方を伝えた。別の記事は内務省の統計を紹介し、居酒屋と安酒場が1915年の146,768軒から1925年の106,414軒に減ったと報じた。
翻訳
国民の行進
象徴としての国民、すなわち生産諸力の理想的な総合であり多様性である国民を、世界におけるイタリアの名声がかつてない高みにまで引き上げられたことを、そして全国民が首相と心を一つにし、その情熱を分かち合うさまを。それだけではない。人々の徳と政府の英知によって、わが海外の領土が平定されるのを見たのであり、この新しいイタリアが、厳しい注目と心からの敬意に値するものとなり、その溢れるばかりの若さゆえに羨望の的となり、その新しい生活の最も特徴的な形において模倣の対象となり、その明日の可能性と必要、つまり地中海諸民族の文明とヨーロッパ大陸の歴史においてイタリアが自らを確立する本質的な、それゆえ宿命的な理由について、理解を得る対象となるのを見たのである。
シリアをめぐる伊仏交渉か?
パリから届く通信は、イタリアのアヴェッツァーナ大使とブリアンとの会談を大いに重視している。駐ローマ・フランス大使が最近ムッソリーニ氏と長時間会見したことも指摘されている。アヴェッツァーナ・ブリアン会談では、以前から仏伊外交の主な議題となっている植民地問題について長く話し合われたという。イタリアの植民地構想という問題に解決策を見いだしたい意向だとされる。フランスは、北アフリカの領有地を議論の対象にすることなく、イタリアの希望に応じることで、対伊関係の改善を図るものとみられる。
フェデルツォーニ、チャーノ両議員
内務当局は、あらゆる種類の社会悪と闘うために行われてきた取り組みについて、非常に興味深い統計資料を示した。こうして、1915年元日にイタリア全国で146,768軒を数えた居酒屋と安酒場は、1925年には106,414軒にまで減っていた
解説
ローマ進軍4周年と社説の論調
この号の日付である1926年10月28日は、ファシストの示威隊と黒シャツ隊が首都ローマへ迫った1922年10月28日からちょうど4年目にあたる。見出しが途中で切れた社説は、題名でこの「進軍」を下敷きにしており、かつてない国際的名声、首相と心を一つにする全国民、平定された海外領土といった成果を並べて記念日を祝っている。歴史研究はこの出来事をより冷静に描いている。国王は1922年10月30日にムッソリーニを首相に任命し、政治権力は武力衝突なしにファシストへ移った。現在の歴史記述は、ローマ進軍がのちにファシズムが称えたような権力奪取ではなかったと位置づけている。イル・ピッコロ紙は親イタリア派の右派の人々によって創刊され、ファシストの支配が始まった後の1923年にファシズムへの支持を表明した。社説が描く国民の一致は、政権寄りの新聞の主張であって、世論の実態を測る材料にはならない。
1926年にシリアが仏伊外交の議題に上った背景
パリ発の記事は、会談の中身をすべて伝聞と推測の形で伝えており、イタリアがシリアで具体的に何を求めたのかを書いていない。記事の背景となる状況は、歴史記述によって確かめられている。第一次世界大戦後、新設の国際連盟の下でフランスはシリアの支配権を得て、イギリスはパレスチナ、トランスヨルダン、イラクを得た。1926年の時点で、フランスの委任統治は1925年から1927年まで続いた大シリア反乱から大きな圧力を受けていた。フランスは1926年初めまでに現地の兵力を約5万人に増やした。シリアの反乱勢力は、ハマでの先の蜂起に続き、1926年9月にこの地域で本格的な蜂起を起こした。この蜂起は本記事の掲載のわずか数週間前の出来事である。シリアに兵力を割かれたフランスには、ローマとの関係改善を求める理由があった。記事はパリの意図として、北アフリカの仏領を議論から外したままイタリアの植民地上の希望に応じる案を描いており、この案は当時の状況に沿っている。記事そのものは、シリアをめぐる正式な交渉が行われたことを示す証拠を挙げていない。
フェデルツォーニ、チャーノと内務省の居酒屋統計
見出しから判断すると、居酒屋の統計を示した人物はルイジ・フェデルツォーニである。フェデルツォーニは、のちにファシズムと一体化したナショナリスト運動の創設者の一人であり、ムッソリーニは1924年から1926年まで彼を内務大臣に起用した。見出しのチャーノは、リヴォルノのファッショを率いて1922年10月のローマ進軍に参加したコスタンツォ・チャーノである可能性が高い。記事の数字によれば、居酒屋と安酒場は1915年1月1日から1925年までに約4万軒、およそ27%減った。この10年の大半は第一次世界大戦とファシスト政権以前の歴代内閣の時代にあたり、フェデルツォーニの内相在任は1924年に始まった。記事は10年にわたる減少を「社会悪」との闘いの成果として示しており、この示し方は政府の宣伝として働いている。記事は店舗の減少をどのような手段で実現したのかを説明していない。
原文
La marcia della Naz
simbolo la Nazione quale sintesi ideale e varietà di forze produttive, sollevata ad altezze non mai prima raggiunte la reputazione italiana nel mondo, concorde il popolo tutto col suo Primo Ministro e partecipe della sua passione. Non solo, ma ha visto pacificate, per virtù d'uomini e saggezza di Governo, le nostre terre d'oltremare, resa, questa nuova Italia, degna d'attenzione severa e di cordiale deferenza, oggetto d'invidia per la sua giovinezza rigogliosa, d'imitazione nelle forme più caratteristiche della sua nuova vita, di comprensione per quelle che sono e possono essere le possibilità e le necessità del suo domani, le ragioni essenziali, e però fatali, della sua affermazione nella civiltà delle genti mediterranee e nella storia del continente europeo.
Negoziati italo-francesi per la Siria?
Le corrispondenze che giungono da Parigi danno grande importanza al colloquio dell'ambasciatore italiano Avezzana con Briand. Viene rilevato che l'ambasciatore francese a Roma ha avuto di recente un lungo abboccamento con l'ou. Mussolini. Nel colloquio Avezzana-Briand si sarebbe parlato a lungo delle questioni coloniali che da tempo sono il principale argomento che occupa la diplomazia franco-italiana. Si vorrebbe trovare una soluzione al problema dei disegni coloniali italiani. La Francia cercherebbe di migliorare le relazioni con l'Italia, aderendo al suo desiderio senza che i possedimenti del Nord-Africa entrino in discussione.
Gli on. Federzoni e Ciano
dell'Interno ha fornito dati statistici molto interessanti sul lavoro compiuto per combattere ogni sorta di male sociale. Così le osterie e le bettole che al primo gennaio 1915 ascendevano in Italia a 146. 768, erano ridotte nel 1925 a 106. 414
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