L’Écho annamite
- 行動する少数派
- 1863年のファン・タイン・ザン使節団
- フエの洪水
1926年10月28日付の『レコー・アナミット』一面は、政治と歴史と地方の話題を並べた。アルファの署名コラムは、新聞の自由を求める運動を振り返った。このコラムは、約十年前の『トリビューン・アンディジェーヌ』創刊に始まる運動から、1925年11月にヴァレンヌ総督へ出された要望書、さらに去る3月に青年安南党の集会のあとサイゴン控訴院にまで届いた同じ要求までをたどった。別の寄稿者は、1863年11月5日にテュイルリー宮殿でファン・タイン・ザン使節団が受けた謁見について安南側の公式記録を転載すると予告し、ラングロワとセニョボスの歴史方法論の本を読者に勧めた。フエ発の記事は、水に浸かった都をにぎやかなヴェネツィアになぞらえ、荒廃と死をもたらすトンキンの洪水と対比して伝えた。
この版は三つの記事の一部だけを訳している。対象はアルファの新聞の自由をめぐるコラム、ファン・タイン・ザン使節団の記録の前書き、フエの洪水記事の一部である。OCRの文字が大きく乱れているため、これらの文章は紙面の画像から書き起こした。画像の区切りで切れた語は推測で補わずに省いた。正誤欄の右側と通信記事の各段の右端がこれにあたる。転載された使節団の記録の本文を含め、紙面のほかの部分はこの版の対象外である。
翻訳
行動する少数派
あらゆる宣伝の近代的な媒体である新聞について、いまさら長々と論じるのは無用であろうと我々は考える! 『トリビューン・アンディジェーヌ』が誕生した約十年前から、この自由を勝ち取るための運動が続けられてきた。1925年11月に安南人代表団がアレクサンドル・ヴァレンヌ総督閣下に提出した『要望書』もまた、ほかの要望とともに、同じ目的を目指していた。さらに印象深いのは、去る3月、青年安南党の集会の翌日に、同じ声がサイゴン控訴院にまで響き渡ったことである。
1863年のファン・タイン・ザン使節団
1863年11月5日にテュイルリー宮殿で公開の謁見を受けたファン・タイン・ザン使節団の接見について、安南側の公式記録の該当部分を以下に転載するにあたり、ラングロワ、セニョボス両氏の『歴史研究入門』を読者に紹介しておくのは有益だと私は考える。読者はこの本の中に、歴史の方法について、史料について、そして史料の扱い方について、きわめて明快で実際的な知識を見いだすだろう。
フエの洪水
翌日のフエは、奇妙なほどヴェネツィアに似ていた。住まいも建物も大きな建造物も、いまや土台を一面の水の平原に浸している。町の大通りはいくつもの小さな川となり、交差点や広場は泥水が渦を巻くまぎれもない沼と化した。そしてそのすべての上を、人々が絶え間なく行き交っている。というのも、ここの洪水はトンキンの洪水と同じ光景を見せないと言っておかねばならないからだ。あちらでは荒廃、悲嘆、死。こちらでは動き、にぎわい、生。現象も同じ、光景も同じ、原因も同じでありながら、結果は同じではない。
解説
『トリビューン・アンディジェーヌ』から『レコー・アナミット』へ続く言論活動
コラム筆者アルファは、新聞の自由を求める運動の始まりを約十年前の『トリビューン・アンディジェーヌ』誕生に置いている。このコラムを載せた新聞も、同じ記者仲間の中から生まれた。グエン・ファン・ロンは1917年に『トリビューン・アンディジェーヌ』で働き、1920年に自由主義系の新聞『レコー・アナミット』を創刊した。1917年という年は、コラムが記す約十年前という数え方とおおむね合う。グエン・ファン・ロンは1920年代に、ブイ・クアン・チエウが率いて1923年に結成された民族主義政党、インドシナ立憲党の副党首を務めた。別の記述も、立憲党を穏健派の民族主義政党と位置づけている。アルファが描く『トリビューン』から現在の運動までの系譜は、コーチシナの穏健派記者たちが自分たちの新聞の歩みとして語った歴史である。
ヴァレンヌ総督と1925年11月の要望書
コラムによれば、安南人代表団は1925年11月にアレクサンドル・ヴァレンヌ総督へ要望書を提出し、ほかの要望とともに新聞の自由を求めた。要望書の内容についての説明は、このコラムが伝えるものである。ヴァレンヌはフランスの政治家で記者でもあり、新聞『ラ・モンターニュ』の創刊者として知られる。ヴァレンヌは1925年から1928年までフランス領インドシナ総督を務めたので、代表団は任期の最初の年に要望を届けたことになる。新聞の自由が切実な要求だった事情は、当時の出版規制からわかる。急進派の記者グエン・アン・ニンは、政府がベトナム語の印刷を制限していたため、自分の新聞をフランス語で発行した。
1926年3月のサイゴン
コラムは、去る3月に青年安南党の集会があった翌日、新聞の自由を求める声がサイゴン控訴院にまで響いたと書いている。1926年3月のサイゴンでは政治の緊張が高まっていた。グエン・アン・ニンの新聞『ラ・クロシュ・フェレ』は、何千人もの若い労働者や学生を集め、出版、教育、集会の自由を求める声を広げていた。当局は1926年3月21日にグエン・アン・ニンを逮捕し、その日は穏健派民族主義の立憲党を率いるブイ・クアン・チエウがフランスから帰国した日と重なった。4月24日にグエン・アン・ニンへの18か月の刑が言い渡されると、サイゴンと周辺の学生や生徒は一斉に授業を放棄した。青年安南党の集会と控訴院での出来事については、このコラムの記述が伝えている。
ナポレオン3世のもとへ向かったファン・タイン・ザン使節団
寄稿者は、1863年11月5日にテュイルリー宮殿で行われた使節団の公開謁見について、安南側の公式記録を転載すると予告している。ファン・タイン・ザンは1862年にフランスとのサイゴン条約の交渉で中心的な役割を担い、この条約で南部の諸省が割譲された。ファン・タイン・ザンは1863年、割譲した領土の返還を交渉するためフランスへ向かった。約70人の一行は1863年11月にナポレオン3世とウジェニー皇后に会った。ナポレオン3世はファン・タイン・ザンの訴えに心を動かされ、賠償金などと引き換えに諸省を返すことに同意した。しかし閣僚の一人が自らの辞任と内閣総辞職をちらつかせて反対し、ナポレオン3世は1864年6月に合意の取り消しを命じた。ファン・タイン・ザンは1867年にフランスが南部の征服を終えたとき自ら命を絶った。寄稿者がラングロワとセニョボスの本を勧めたのは、宮廷の公式記録を史料として批判的に読むよう読者に促すためだと考えられる。
フエが水に浸かりやすい理由とフオン川
このフエ発の記事は、通りが川に変わり、広場が泥水の沼になった様子を伝え、にぎわいを失わないフエの洪水を死者の出るトンキンの洪水と対比している。フエの町は香河とも呼ばれるフオン川のほとりにある。フオン川は全長30キロメートルで、水位が海面とあまり変わらないため、流れがきわめて遅い。現代の解説によれば、フオン川の流域はベトナムで最も雨の多い地域である。大量の雨が流れの遅い低地の川に集まるため、水が町の通りにたまりやすかったと考えられる。トンキンとの対比は記者自身の印象であり、記事はどちらの地域の被害についても数字を挙げていない。
原文
UNE MINORITÉ AGISSANTE
Epiloguer sur ce véhicule moderne de toute propagande, qui est la presse, serait, croyons-nous, oiseux! Depuis la naissance de la Tribune indigène, il y a quelque dix ans, des campagnes ont été menées aux fins d'arracher cette liberté. Le Cahier des Vœux présenté par une délégation annamite, en novembre 1925, à M. le Gouverneur général Alexandre Varenne, tendait également, entre autres désiderata, au même but. Ce qui est encore impressionnant, c'est qu'en mars dernier, au lendemain des meetings du parti Jeune-Annam, le même écho a retenti jusqu'à la Cour d'Appel de Saigon.
L'Ambassade de Phan-thanh-Gian en 1863
En reproduisant ci-dessous la partie de la relation officielle annamite relative à la réception de l'ambassade de Phan thanh Gian en audience publique au palais des Tuileries le 5 novembre 1863, je crois intéressant de signaler au lecteur l'Introduction aux études historiques de MM. Ch. - V. Langlois et Ch. Seignobos. Il y trouvera sur la méthode historique, sur les sources, sur la manière de les mettre en œuvre, les renseignements les plus lucides et les plus pratiques.
L'inondation à Huê
Le lendemain Hué ressemblait étrangement à Venise. Les habitations, les bâtiments, les édifices baignent maintenant leurs assises dans une plaine liquide; les artères de la ville sont devenues autant de petites rivières, et les carrefours, les places publiques, de véritables mares aux eaux bourbeuses et tourbillonnantes. Et sur tout cela, un va-et-vient incessant. Car il faut dire qu'ici, les inondations ne présentent pas le même spectacle qu'au Tonkin: là-bas, la ruine, la désolation, la mort; ici le mouvement, l'animation, la vie. Même phénomène, même spectacle, même cause, mais non pas mêmes effets.