Le Petit Matin
- 北アフリカのための水利会議
- 新たな重大スパイ事件
- ドイツとスポーツ
1926年10月28日付の『ル・プティ・マタン』は、ポール・ラフィットの署名コラムを載せた。コラムは、アルジェリア農業者総連合が1927年10月に北アフリカ水利会議を小麦会議や綿花会議とともに開く計画を紹介した。ラフィットは主催団体が目先の利益を超えた問題に取り組む姿勢をたたえ、チュニジアはアルジェリアだけでなく占領の新しいモロッコにも劣る三番手に終わり、とりわけ水政策で見劣りすると予言した。パリ発の記事は、占領地域への頻繁な旅行で疑いを招いたPLM鉄道の三十六歳の職員モーリス・シャルトンが、東駅でケルン行きの急行に乗る直前に逮捕されたことを伝えた。短いスポーツ記事は、ドイツ・テニス連盟の国際テニス連盟への再加盟を求める動議を伝え、ドイツが国際連盟に加わった以上ドイツ選手は国際大会に復帰できるという英国連盟の見解を報じた。
翻訳
北アフリカのための水利会議
アルジェリア農業者総連合は、1927年10月に北アフリカ水利会議を開くことを決めた。つまりチュニジアもそこに招かれているということだ。同じ団体は、さらに、同時に小麦会議と綿花会議も開くつもりである。チュニジアはこれらの事業にも無関心ではいられない。ついでに言っておけば、ここにあるのは、関心と努力を目先の利益の問題に限らず、広く一般的な大問題にまで広げている農業者の団体である。もっとも、計画されているどの大会議でも、チュニジアが華々しい姿を見せることはないだろう。チュニジアは見劣りのする三番手になるだろう。占領がはるかに新しいモロッコでさえ、チュニス摂政国が示しうる成果を、どの分野でも上回る成果を示すはずだからだ。モロッコでは、はるかに大きな精力と能力、そして必要な犠牲への自覚をもって仕事が進められてきたからである。チュニジアがとりわけ凡庸に見えるのは、水政策についてである。
ポール・ラフィット
新たな重大スパイ事件
パリ、10月29日発 ― 保安総局のデクルー警視の部局が発見した新たなスパイ事件が、昨日からセーヌ県の予審判事ペール氏に委ねられている。事件の対象はP.L.M.鉄道会社本社事務所の職員、三十六歳のモーリス・シャルトンで、シャルトンは予審判事の前で人定尋問を受けたのち、ただちにサンテ刑務所に収監された。内務省でも裁判所でも、国家の安全にかかわるこの事件については固く口が閉ざされているが、次のような詳細を得ることができた。しばらく前から、わが国の諜報機関の捜査員たちは、占領地域への頻繁な旅行で注意を引いていたモーリス・シャルトンをひそかに尾行していた。日曜日、このP.L.M.職員が東駅でケルン行きの急行に乗り込もうとしたところ、捜査員たちに身柄を押さえられ、ただちにタクシーでソセ通りの保安総局の事務所へ連行された。
ドイツとスポーツ
……国際テニス連盟に対し、ドイツ・テニス連盟の再加盟を認めるよう求める動議。英国連盟は実際、ドイツが国際連盟の一員となって以来、ドイツの選手は再び国際テニス大会に参加できると考えている。
解説
アルジェリアの「水の総督」ステーグ
ラフィットのコラムは、アルジェリアの農業者団体による水利会議の計画を、水の問題に力を注ぐ植民地の例として取り上げている。テオドール・ステーグは1921年7月28日、危機のさなかにあったアルジェリアの総督に任命された。ステーグは農業生産を高めるために大規模な灌漑事業を始め、のちにモロッコでも同じ政策をとった。ステーグは「水の総督」と呼ばれるようになった。ステーグはフランス人入植者に土地を用意するために灌漑を奨励したので、ラフィットがたたえた水政策は入植政策でもあった。アルジェリア農業者総連合が1927年10月に水利会議を開き、小麦会議と綿花会議も同時に開くという計画は、この紙面が伝えた内容である。
ラフィットがモロッコの優位を予想した理由
ラフィットがモロッコの優位を予想した背景には、人事と政策の実際の動きがある。ステーグは1925年10月にリヨテに代わってモロッコ統監に就き、平和の回復と軍政から民政への移行を任された。ステーグはアルジェリアの灌漑政策をモロッコに持ち込んだ。ステーグはこのコラムの2か月余り後の1927年1月4日に政令を出し、大規模灌漑事業のための基金を設けた。ステーグは「大ダム」計画によって25万ヘクタールの土地に通年の灌漑をもたらすことを計画し、灌漑によってフランス人入植者に新しい土地を開き、より密な入植を可能にしようとした。同じ時期のチュニジアでは、リュシアン・サンが1921年から1929年1月まで統監を務めた。サンは1923年2月にアルジェでステーグ、リヨテと会い、共通の問題を話し合った。チュニジアの水政策が凡庸だという評価はラフィット自身の意見である。
「占領地域」とケルン行き急行
シャルトンが通った占領地域は、戦後の取り決めのもとで連合国がなお占領していたドイツ西部の地域であり、その範囲は1926年10月までにすでに縮小していた。シャルトンが乗ろうとした急行の行き先であるケルン周辺の北部占領地域から、連合国軍は1926年1月に撤退した。アメリカが1923年にフランスへ引き渡したコブレンツ地域は1929年11月まで占領が続いた。マインツ周辺の南部地域からの撤退は1930年6月30日に行われ、これで占領は終わった。この地域を監督したのは、コブレンツに本部を置き、フランスの高等弁務官ポール・ティラールが率いた連合国ラインラント高等委員会である。パリの鉄道職員がこの地域へ繰り返し旅行していたことは、シャルトンがフランスと、フランス主導の連合国管理下にあった地域との間を行き来していたことを意味する。記事は、シャルトンが何を渡した疑いをかけられたのかを伝えていない。
1920年代フランスでスパイを追った機関
シャルトン事件の記事に登場する機関は、一世代前に決まったフランスの防諜の分担に沿っている。ドレフュス事件が国内を大きく分裂させたため、政府は1899年5月に防諜の責任を内務省に移した。それ以後、保安総局の一機関がフランス国内で外国のスパイを追う役目を負った。このため、事件を発見したのは保安総局の警視であり、内務省が沈黙を守り、容疑者は保安総局の事務所に連行されたのちセーヌ県の予審判事に引き渡された。陸軍の参謀本部第二部は、敵軍に関する情報を集める役目を担っていた。保安総局は1934年4月までその名を保ち、その後は国家保安総局と改称された。デクルー、ペールという人名と逮捕の経緯は、この紙面の記事が伝えたものである。
ドイツの国際テニスへの復帰
この記事が伝えた動議は、世界で最も古いスポーツ連盟の一つにかかわるものだった。ドイツのテニス連盟は1902年5月19日にベルリンでドイツ・ローンテニス連盟として創設された。紙面は、ドイツが国際連盟に加わった以上ドイツ選手は再び国際大会に出場できる、という英国連盟の見解を伝えた。ドイツは、現在デビスカップと呼ばれる大会の第22回にあたる1927年の国際ローンテニス・チャレンジで、1914年以来初めてこの大会に復帰した。ドイツの選手は、この記事の翌シーズンにこの主要な国際団体戦へ戻ったのである。
原文
Un Congrès de l’Eau pour l’Afrique du Nord
La Confédération Générale des Agriculteurs d'Algérie a décidé d'organiser, pour le mois d'octobre 1927, un Congrès de l'Eau pour l'Afrique du Nord. C'est dire que la Tunisie y est conviée. Le même groupement compte, d'aileurs, tenir, en même temps, un Congrès du Blé et un Congrès du Coton. La Tunisie ne saurait non plus se désintéresser de ces œuvres. Remarquons, en passant, que voilà une collectivité d'agriculteurs qui ne limite point ses préoccupations et ses efforts à des questions de profits immédiats, mais les étend à de vastes problèmes généraux. La Tunisie ne fera, d'ailleurs, brillante figure dans aucune des grandes réunions projetées. Elle sera piètre troisième, car même le Maroc dont pourtant l'occupation est beaucoup plus récente, présentera partout des résultats supérieurs à ceux que la Régence pourra indiquer parce qu'on y a travaillé avec beaucoup plus d'énergie, de compétence et de sentiment des sacrifices nécessai res. C'est surtout en ce qui concerne la politique de l'eau que la Tunisie apparaîtra médiocre.
Une nouvelle et grave affaire d’espionnage
PARIS, 29 octobre. - Une nouvelle affaire d'espionnage découverte par les services de M. Descloux, commissaire de la Sûreté Générale est depuis hier confiée à M. Peyre, juge d'instruction de la Seine. Elle vise un employé de bureau central de la Compagnie P. L. M., Maurice Charton, âgé de trente-six ans, qui après avoir subi un interrogatoire d'identité devant le magistrat a été aussitôt écroué à la prison de la santé. Bien qu'on conserve tant au ministère de l'Intérieur qu'au Palais de Justice la plus grand mutisme sur cette affaire intéressant la Sûreté nationale, il a été permis de recueillir les précisions suivantes: Depuis quelque temps les inspecteurs de notre service d'espionnage avaient pris en discrète filature, Maurice Charton qui avait attiré l'attention sur lui par de fréquents voyages dans les pays occupés. Dimanche, comme l'employé du P. L. M. se disposait à la gare de l'Est à monter dans le rapide de Cologne, il fut appréhendé par les inspecteurs en emmené immédiatement en taxi dans les bureaux de la Sûreté générale, rue Saaussaies.
L’Allemagne et les Sports
motion demandant à la Fédération Internationale de Tennis d'accepter la réadmission de la Fédération allemande de tennis dans son sein. La Fédération britannique estime en effet, que depuis que l'Allemagne fait partie de la S. D. N., les joueurs allemands peuvent à nouveau participer aux épreuves internationales de tennis