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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

1926年10月27日付の『ポリティカ』第1面には、今回読んだ範囲で次の記事が並んだ。ヨヴ・M・チルコヴィッチは署名コラムで、南セルビアの農地改革ほど行政が混乱した分野はないと論じた。チルコヴィッチは、この改革が最初から誤った方向に進み、混乱がますますひどくなって、今では何が何だか誰にも分からないと書いた。「1903年5月29日を前に」と題した回顧記事は、1903年3月23日にベオグラードの石畳で血が流れた出来事を振り返り、その大きな原因を当時の若者の血気に求めた。この記事は、流された血の多くが罪のない者の血だったとも書いた。風刺記事「黄色い家の謎」は、政府が真夜中に降霊会を開いたという一文で始まった。

この版は第1面から3つの抜粋を扱う。提供されたOCRの文字化けがひどかったため、抜粋の文字は画像タイルから起こした。画像タイルの境目で本文が切れており、1903年の記事は単語の途中から始まる。この記事の判読できない1語は[?]で示してある。写真と下段の間にある同記事の一部は画像タイルに写っていない。風刺画の説明文の抜粋は、最後の不明瞭な語の手前で終わる。チルコヴィッチのコラムは冒頭部分だけを読んだ。

翻訳

南セルビアの農地問題

わが国の行政において、南セルビアの農地改革問題ほど混乱と無秩序が見られるところはどこにもない。それは最初から誤った方向に進み、その後ますます奈落へと落ちていったため、今では何が何だか誰にも分からなくなっている。

ヨヴ・M・チルコヴィッチ

1903年5月29日を前に

……むしろ当時の若者たちの血気によるところがはるかに大きく、1903年3月23日、ベオグラードの石畳に血が流された。そして[?]こうした場合にふつう起こるように、その多くは罪のない者の血だった。

黄色い家の謎

昨日の真夜中、政府は降霊会を開き、その方法で……

解説

1903年3月23日のベオグラードで起きたこと

1903年の回顧記事は、1903年3月23日にベオグラードの石畳で血が流れた日を振り返り、騒ぎの大きな原因を当時の若者の血気に求めている。ほかの記録によると、この日はドミトリエ・トゥツォヴィッチが組織した集会が、警察および軍との公然たる衝突に発展した。この集会には不満を抱く労働者と学生が集まっていた。雑誌『ヴレーメ』の記事は、大学校の学生だったトゥツォヴィッチとトリシャ・カツレロヴィッチがデモを始めたと書いている。同じ記事は、人口約7万人の都市で参加者を約5000人と見積もり、このデモを、死傷者を出して警察との衝突に終わったベオグラードで最初のデモとしている。死者数は記録によって異なる。ウィキペディアの「五月クーデター」の項目は死者を6人とし、『ヴレーメ』はテラジイェでの直接の衝突で4人のデモ参加者が死亡したと書いている。正確な人数ははっきりしていないと見るべきである。犠牲者の多くが罪のない者だったという評価は、事件から23年後に書かれたこの記事自身の見方である。

3月の騒乱から1903年5月29日の夜へ

見出しの日付は、旧暦で1903年5月28日から29日にかけての夜を指しており、この夜はグレゴリオ暦では6月10日から11日にあたる。アレクサンダル・オブレノヴィッチ国王は、3月のデモの後、新たな選挙に勝てないと考え、1時間のうちに2度のクーデターを起こした。その約2か月後、アピスの通称で知られるドラグティン・ディミトリエヴィッチ大尉が率いる将校の一団が、ベオグラードの旧宮殿スタリ・ドヴォルで国王とドラガ王妃の殺害を実行した。このクーデターの後、王位はカラジョルジェヴィッチ家のペータル1世に移った。新聞はこの記事に「1903年5月29日を前に」という見出しを付け、3月の流血を国王殺害の前段として描いている。

1921年憲法のもとでの農地改革

チルコヴィッチのコラムは、南セルビアの農地改革を行政の中で最も混乱した分野と呼び、改革が最初から誤った方向に進んだと批判している。1921年のセルブ・クロアート・スロヴェーン王国憲法、いわゆるヴィドヴダン憲法は、農地問題に関する規定を複数の長い条文に盛り込んだ。憲法委員会と憲法制定国民議会では、議員たちが既存の封建的関係やそれに類する関係の廃止と、大所領の分割をめぐって議論した。『トコヴィ・イストリイェ』誌の論文は、憲法上の解決が、進歩的に見える保障とは違い、規定をより保守的に適用する余地を残したと結論づけている。1921年3月から1926年4月まで農地改革相を務めたのはニコラ・ウズノヴィッチであり、ウズノヴィッチはこの号が出た時点で首相だった。このコラムは、現職の首相が5年間担当した政策を批判していたことになる。

風刺記事「黄色い家の謎」が取り上げた政府

1926年10月の政府はニコラ・ウズノヴィッチが率いていた。前任のニコラ・パシッチ首相は1926年4月、汚職スキャンダルに直面して辞任に追い込まれ、ウズノヴィッチが1926年4月8日に首相に就いた。ウズノヴィッチは党内の対立に直面し、その在任中に短命な内閣が次々に入れ替わった。風刺記事の説明文は、この政府が真夜中に降霊会を開いたと書き、内閣が普通の方法では答えを見つけられない姿を描いている。説明文は降霊会の目的を述べる手前で途切れており、風刺の具体的な標的は確定できない。パシッチ自身は1926年の暮れに80歳で心臓発作により死去した。

原文

Аграр у Јужној Србији

Нигде нема више пометње и хаоса у нашој администрацији, него што је то случај са питањем аграрне реформе у Јужној Србији. Од самога почетка је наопако пошло, а после се све више и више ишло у провалију да му се сада не зна крсног имена.

Пред 29 мај 1903.

ного више услед бујности тадашње младине, 23 марта 1903 год., проливена је крв на београдској калдрми - и [?] што се обично дешава у таквим риликама, највише невина.

МИСТЕРИЈА ЖУТЕ КУЋЕ

Јуче о поноћи одржала је влада спиритистичку сеансу, да би тим путем

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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