Politika
- 金融機関の統制
- 1903年5月29日を前に
この版は1926年10月22日付『ポリティカ』の二つの記事の一部を読む。M・ネデリコヴィッチ博士は金融機関の統制を論じた署名コラムで、銀行に対する法的・行政的な統制の強化をイタリアのファシズム体制の全般的な精神と結びつけた。筆者は、ファシズムが社会生活を政府の指令に従わせようとしていると書き、その例として雇用者と労働者の強制的な協同体を挙げた。「1903年5月29日を前に」と題する連載の第3回は、アレクサンダル・オブレノヴィッチ国王が未亡人ドラガ・マシンとの結婚を進めた時期の宮廷の慌ただしさを描いた。記事によれば、国王はこの結婚を実行する内閣を組むのに苦労し、国民はまだ事情を知らなかった。
この版は紙面の二つの記事の一部を訳している。金融機関に関するコラムは文の途中で始まり、文の途中で終わる。冒頭の語は途切れた語句の末尾だけが残っている。連載記事の一語は判読できず、[?]で示している。「Шта се говори?」や、元王太子カロルのルーマニア王位継承権に関する記事などは画像の区切りで分断され、完全な行が残っていないので訳していない。画像の一区画は写真であり、別の区画の一部は文字がかすれている。
翻訳
金融機関の統制
……議題として、金融機関に対する法的・行政的な統制の強化を実施する問題が取り上げられている。これはある程度、今日のイタリア体制の全般的な精神に沿ったものである。ファシズムは、国民のあらゆる力と活動を一つの自覚的な目標、すなわちイタリア国民の偉大と繁栄へと向かわせ、そのために社会生活の全体を、可能なかぎり国民政府の指令に従わせようとしている。雇用者と労働者の強制的な協同体も、この意味で作られたのである。国家はそれらを通じて、生産に携わるすべての社会層に国民的連帯の感情を吹き込もうとし、労働者から……
1903年5月29日を前に
III
いくつかの新たな局面、いくつかのより強い揺さぶり、そして王座と国じゅうで起こる一連の運命的な出来事。宮廷は大わらわだが、国民はめまぐるしい速さで準備されていることをまだ知らされていない。ただ官界と、ある程度はベオグラードの商人街にだけ、知らせが漏れ伝わる。アレクサンダル国王は未亡人ドラガ・マシンと[?]するつもりであり、この結婚を実行することを引き受ける内閣を、ひどく苦労しながら組もうとしている。その目的のために、実際、……に呼び出されるのは……
解説
イタリアが1926年に定めた初の商業銀行法
イタリアは1926年に、初めての商業銀行規制を制定した。ネデリコヴィッチ博士のコラムの残っている部分は、金融機関への法的・行政的な統制の強化をファシズム体制の精神と結びつけている。筆者は、ファシズムが社会生活の全体を政府の指令に従わせようとしていると書いた。歴史家のマルコ・モルテーニとダリオ・ペッレグリーノは、それまで非公開だったイタリア銀行の史料を調べ、この法律が最初の草案から最終版までの間に大幅に弱められたことを明らかにした。二人はこの後退の原因をイタリア銀行協会のロビー活動に求めている。コラムは銀行の統制を、あらゆる国民的活動を導こうとする国家の意思の一つとして描いた。史料研究は、銀行業界自身が法律の中身を形づくり、規制を弱めたことを示している。
イタリアの銀行監督を担った機関
1926年の法律は、銀行監督の実務をイタリア銀行に任せた。最終版の規定により、イタリア銀行は立ち入り検査と書面による監督の両方を担当することになった。財務省は認可を出し罰金を科す権限を持ち続けたが、技術的な助言はイタリア銀行が行った。モルテーニとペッレグリーノによれば、イタリア銀行はこれによって、実際に検査を行うヨーロッパ最初の中央銀行になった。当時のイタリア銀行はまだ商業銀行業務も営み、ほかの金融機関と直接競合していたため、この任命には異論もあった。コラムがいう行政的な統制は、イタリアでは中央銀行による検査という形をとったのである。
アレクサンダル国王が結婚のための内閣を組むのに苦労した理由
連載は、アレクサンダル・オブレノヴィッチ国王がドラガ・マシンとの結婚を実行する内閣を苦労して組もうとする姿を描いている。ドラガは国王より年上の未亡人で、国王の母に仕えた元女官だった。国王がどれほど孤立していたかは、定評ある記述からも確かめられる。国王が婚約を発表すると、世論は国王に背を向けた。国王は府主教を訪ね、祝福を得られなければ退位すると迫った。ジョルジェヴィッチ内閣は抗議のために総辞職した。二人はそれでも1900年8月5日に結婚した。1926年の連載はこの危機を宮廷の内側から描き、国民の大半がまだ事情を知らなかったことを強調している。
1903年5月29日に起きたこと
連載の題名にある5月29日は、1903年の五月クーデターの夜を指している。アレクサンダル国王とドラガ王妃は、新暦で1903年6月10日から11日にかけての夜、ベオグラードの旧王宮で殺害された。当時のセルビアが使っていた旧暦では、この夜は5月28日から29日にかけての夜にあたる。見出しはセルビアの人々が知っていた日付を使っている。首相ディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィッチもこのクーデターで殺された。王位はその後、カラジョルジェヴィッチ家のペータル1世に移り、オブレノヴィッチ家の支配は終わった。1926年の『ポリティカ』の連載は、王家を交代させたこの事件に至る経緯を23年後に振り返ったものである。
原文
Контрола новчаних завода
реду питање о спровођењу јаче закон ске и административне контроле над новчаним заводима. То је донекле у складу са општим духом данашњег режима у Италији: Фашизам тежи да све националне снаге и делатности упути једном свесном циљу, величини и благостању италијанског народа, и да у ту сврху потчини целокупни друштвени живот, што је могуће више, директивама националне владе. У том смислу изведене су и принудне корпорације послодаваца и радника. Помоћу њих држава тежи да све друштвене слојеве, који учествују у производњи, задахне осећајем националне солидарности, те да се од радника дра -
Пред 29 мај 1903
III Неколико нових тренутака, неколико јачих потреса и читав низ судбоносних догађаја на престолу и у целој земљи. У двору велика ужурбаност, а у народу још увек необавештеност о ономе што се вртоглавом брзином спрема. Једино, у званичним круговима и донекле и у београдској чаршији, пробија вест: Краљ Александар намерава да се [?] са удовицом Драгом Машин, и с тешком муком покушава да састави владу која би се примила да изведе ову женидбу. У тој цељи, у истини, позивају се у