Neue Freie Presse
- 別れと復帰
- フランス急進党に分裂の危機
- チェコスロバキアの鉄鋼カルテル加盟は当面見送り
1926年10月22日付のノイエ・フライエ・プレッセは、ウィーンの政権交代を論じる社説を第一面の冒頭に置き、退任と就任の挨拶が礼儀正しかったことを評価した。社説は、退任するラーメク首相がジュネーブ計画を完了させ、オーストリアを財政上の後見から解放したと認めた。社説は、ドイツとの緊密な関係は条約の枠内にとどまるべきだというラーメクの発言にも注目した。社説によれば、ザイペルはラーメクを友人と呼び、自分が陰で糸を引いていたという見方を否定した。社説はまた、ヴァーバー副首相が独墺共通の刑法典を翌春に議会へ出す見通しを示したことと、シュミッツ教育相が国民の最高の宝を守る任務を語ったことを伝えた。パリ発の電報は、ボルドー党大会の後、レオン・メイエール率いる急進社会党の左派約30人が離脱をちらつかせていると報じた。プラハ発の電報は、チェコスロバキアの製鉄所が国内の割当配分で合意できず、国際鉄鋼カルテルへの加盟交渉を延期したと伝えた。
翻訳
別れと復帰
別れと復帰。ラーメクとザイペルの演説。教育省の重要性。
ウィーン、10月22日。現代は感傷的な気分に浸るのに向いた時代ではない。それでも、昨日聞かれた退任する大臣と就任する大臣の演説のいくつかは、やはりいくらか心に訴えるものがある。われわれはここ数年の政治生活で、あまりに多くの不協和音に耐え、あまりに多くの醜い場面を目にしなければならなかった。だからこそ、たまには別の響きを聞くのは心地よい。昨日は挨拶が行われ、別れと歓迎の言葉が述べられたが、それらにはよりよき時代の精神が通っていた。それらの言葉は人をおとしめるのではなく、功績を認め、将来への意図をふさわしい形で表そうとしていた。
ラーメク博士は2年間、連邦首相を務めた。およそ閑職とは呼べなかったその地位を去るいま、在任中の最も重要な出来事を振り返りたいと彼が感じるのは無理もない。前政府首班は、周知のとおり、うぬぼれを好む人ではなく、自分自身を押しつけがましく宣伝する人でもない。謙虚さと誠実さが政治家としての彼の働きを特徴づけてきたし、別れの時にも彼はこれらの資質を失っていなかった。それでも彼は、委ねられた事業を知識と良心の限りを尽くして引き継いできたと、見当違いの自賛に陥ることなく述べてよかった。彼はジュネーブ計画を完了させ、オーストリアを財政上の後見から解放することができた。それに関連した憲法改革と行政改革は、確かに軽んじてよい業績ではない。才能と卓越した専門知識を備えた多くの人物が、何十年にもわたって国家行政を刷新し、現代の必要に合わせようとして空しく苦労してきたことを思い起こしさえすればよい。ただし、憲法をさらに発展させるうえで大事なのは、法文の改正、つまり文字の上での進歩だけではない。決定的なのは現実の力関係であり、最終的に事を決するのはそれだけである。
ラーメク博士はオーストリアの外交政策についても語った。その際に注目されたのは、大きな隣国であるドイツ共和国とわが国との関係に充てた部分である。前連邦首相は、ドイツ国との関係はきわめて心のこもった良好なものだと述べ、こう付け加えた。「この政治的な絆を固く結ぶことが私の心がけであった。それは経済上の考慮からだけでなく、文化の一体性が所与の事実であり、政治はこの一体性を見過ごすことができないからでもある」。もっとも、ラーメク博士が強調したところでは、そうした姿勢は国家条約の枠内でしか貫くことができない。これはおそらく、合邦を求める心情、民族的統一へのあこがれを、引き受けて文書で約束した義務と調和させるようオーストリアは努めねばならない、という意味であろう。
目を引いたのは、ザイペル博士が昨日、連邦首相府の官吏たちに挨拶した際に前任者についてきわめて温かい調子で語り、前任者をはっきりと自分の友人と呼んだことである。ザイペル博士は、自分とラーメク博士との間に嫉妬も陰謀もなかったと述べ、前政府の時期に自分が陰の黒幕として背後で動いていたという見方に抗議した。ザイペル博士は、国民全体がこれまでの内閣を敬意をもって記憶するだろうと請け合い、それを「第一次ラーメク内閣」と意味ありげに呼んだ。ある意地の悪い格言は、政治は良俗を損なうと主張している。そしてオーストリアでは、残念ながらわれわれはあまりにもしばしばこの見方を裏づけようと努めてきた。しかし、私的な交際でなおざりにすれば決して許されないような配慮を、公の場で捨て去る必要は本当にない。政治は思考と言葉の気品を決して排除しない。昨日という日は、そのことの喜ばしい証拠を示した。
ヴァーバー副首相もまた、身近な協力者たちに温かい感謝を述べて別れを告げた。その際、ヴァーバー副首相は、わが国の現行法には改革を要する点が多いことを隠さなかった。実際、欠陥と時代遅れの点を一覧にしようとすれば、なかなか終わらないだろう。ヴァーバー博士はさらに、ドイツ国とオーストリアに同一の現代的な刑法をもたらすはずの一般ドイツ刑法典の草案作業がかなり進み、この法典はおそらく来春には国民議会に提出されるだろうと伝えた。全般的な空回りがこうした立法上の成果を無にすることのないよう、われわれは本当に求めなければならない。
教育省の庁舎でも昨日、挨拶が行われた。シュミッツ大臣は将来の部下となる官吏たちに挨拶し、成し遂げるべき貴い任務があること、一国民が守るべき最高の宝の番人となることが問われていることを、その機会に強調した。この言葉がいかなる時にも記憶から消えず、ミノリーテン広場では果たすべき義務がいかに並外れたものかを常に念頭に置いてほしいと願うばかりである。もっとも、シュミッツ大臣はさらに、自分がいま長となる官庁には、個々の市民の世界観と国家との関係、宗教団体と国家との関係を見守る任務も属すると説明した。われわれが吸わねばならないのは高地の空気である、と大臣は続けた。しかし、そうした高地が……を免れていることはまれである
フランス急進党に分裂の危機
当紙特派員の電報。
パリ、10月21日。急進党・急進社会党はボルドーでの党大会であらゆる手段を尽くして分裂を防ごうとしたが、その分裂は結局起こりそうである。党の左派は党大会の成り行きへの失望を当初から隠していなかったが、いま新たな独立会派として結集する準備を進めている。左派の指導者で、下院議員でありル・アーヴル市長でもあるレオン・メイエールは今日、朝刊各紙が報じた「急進社会主義左派」の名による新議員団結成の情報は時期尚早だと述べた。しかしメイエールは、自分とともに議員団の約30人が、昨年のニース党大会で定められた急進社会主義の教義を全面的に守り抜く決意でいることを認めた。メイエールは、ボルドーで試みられた教義の骨抜きを断固として拒否すると述べた。メイエールによれば、ボルドーで多数を得た不幸な傾向を議員団が自らのものとするなら、自分はそこから結論を引き出し、自分と親しい党友たちは政治的独立を守るすべを心得ているという。したがって、急進社会主義左派の新議員団が生まれるかどうかは、ひとえに議員団の態度にかかっている。
チェコスロバキアの鉄鋼カルテル加盟は当面見送り
当紙特派員の電報。
プラハ、10月21日。チェコスロバキアの製鉄所は国際鉄鋼カルテルへの加盟条件をめぐって交渉したが、交渉は不調に終わり、本日無期限に延期された。交渉の最も重要な議題は、チェコスロバキアに割り当てられる枠をチェコスロバキア国内の各工場の間でどう分けるかという問題だった。製鉄所はこの問題で合意に達することができなかった。
解説
1926年に財政上の後見から解放されたことの意味
ラーメクが完了させたと語ったジュネーブ計画は、オーストリア財政の国際的な救済策を指す。1922年10月4日のジュネーブ議定書に基づき、オーストリアは6億5000万金クローネの借款を受け、この借款には国際連盟のオランダ人高等弁務官による財政管理が伴った。国際連盟理事会は1926年6月、アルフレッド・ツィンマーマン博士による3年間のオーストリア国家財政の管理を1926年6月30日に終えることを議決した。ラーメクが自分の業績に数えた解放は、ラーメクの退任より4か月足らず前に実現したことになる。この管理はザイペルとも深く結びついており、ザイペルはまさにこの連盟借款によって国家財政を立て直した。この社説が伝える政権交代によって、連盟の監督が終わった直後に、オーストリアを監督下に置いた当人が首相府に戻ったのである。
ラーメクがドイツとの接近を条約の枠内に限った理由
ラーメクは、ドイツとの文化的一体性は国家条約の枠内でしか追求できないと述べたが、この発言はオーストリアの財政救済に付いていた条件と結びついている。オーストリアの財政を立て直した国際連盟借款は、オーストリアがドイツとの合邦を公式に放棄したときに得られたものである。その計画を完了させたばかりの首相は、ドイツ国との良好な関係をたたえることはできたが、合邦を公然と求めれば借款の前提となった約束に疑いを招くことになった。社説は、ラーメクの言葉を民族的統一へのあこがれと文書上の義務を調和させる試みとして読んだ。この読み方は新聞自身の解釈であり、引用されたラーメク本人の言葉は条約の枠組みに触れているだけである。
陰の黒幕だったという見方とザイペルの否定
ザイペルは前政府を背後から操っていなかったと強調したが、これは当時語られていた見方に答えたものであり、ザイペルの経歴を見るとそうした見方が生まれた理由がわかる。ザイペルはラーメクより前にすでに首相を務めており、1926年から1929年にかけて再び首相となって、特に社会民主党と対決した。ザイペルは政府を率いていない時期にも、キリスト教社会党の中で大きな影響力を持っていた。この影響力はザイペルがラーメク内閣を指図していたことの証明にはならないが、ザイペルが公に否定する必要を感じた事情を説明している。新聞は、ザイペルが前内閣を意味ありげに第一次ラーメク内閣と呼んだことを書き留めたが、その含みを説明しなかった。社説は政権交代の礼儀正しい調子を歓迎したが、社会民主党と対決するザイペルの2期目はまだ始まっていなかった。
ボルドー大会後の急進社会党を割った争点
メイエールの一派が守ると誓った急進社会主義の教義は、1890年代にレオン・ブルジョワが古い急進派の教義を改め、累進所得税や社会保険などの社会改革を加えたことにさかのぼる。電報によれば、約30人の左派議員は、ボルドーで多数を得た教義の骨抜きを議員団が受け入れるなら、急進社会主義左派を結成すると警告した。急進党の党史は、1926年について別の分裂を記録している。この年に党を割って出たのは右派であり、右派は統一派急進党、別名国民急進党を結成した。電報自身も左派の離脱を条件付きのものとして伝え、すべては議員団の態度しだいだと報じた。この電報は、警告された新会派が実際に結成されたかどうかを示していない。
国内の割当配分がチェコスロバキアの加盟を止めた理由
国際鉄鋼協定は、この電報のわずか1か月前の1926年9月20日に発足し、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクの業界代表からなる理事会が運営していた。この協定は国ごとの割当を用い、各国の業界団体は自国が割当を守ることに責任を負った。業界団体は割当を超えた生産1トンごとに4ドルをカルテルに支払わねばならず、超過分を生産したのが非加盟の企業であっても支払い義務は変わらなかった。そのため加盟を望む国は、自国の割当を国内の各工場にどう分けるかを先に取り決める必要があった。プラハ発の電報によれば、チェコスロバキアの製鉄所が合意できなかったのはまさにこの問題である。見出しの当面という言葉は結果的に正確だった。オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーは約1年後に、それぞれ独自の生産割当を得てカルテルに加わった。
原文
Abschied und Wiederkehr.
Abschied und Wiederkehr. Die Reden Rameks und Seipels. Die Bedeutung des Unterrichtsministeriums. Wien, 22. Oktober. Unsere Zeit ist für sentimentale Stimmungen nicht geeignet. Aber einige Reden der abtretenden und der kommenden Minister, die gestern vernommen wurden, wirken doch ein wenig auf das Gefühl. Wir haben im politischen Leben der letzten Jahre so viel Dissonanzen erdulden, so viel häßliche Szenen mitansehen müssen, daß es wohltut, einmal andere Klänge zu hören. Gestern wurden Ansprachen gehalten, Abschieds - und Begrüßungsworte gesprochen, die von dem Geiste besserer Tage durchweht sind, die nicht zu verunglimpfen, sondern Verdienste zu würdigen und Absichten für die Zukunft in angemessener Form zum Ausdruck zu bringen suchen. Doktor Ramek ist zwei Jahre Bundeskanzler gewesen und nun, da er den Posten verläßt, der wahrlich alles eher denn eine Ruhestellung war, fühlt er begreiflicherweise das Bedürfnis, die wichtigsten Ereignisse während seiner Amtstätigkeit Revue passieren zu lassen. Der bisherige Regierungschef ist, wie man weiß, kein Freund der Selbstüberhebung, kein aufdringlicher Herold des eigenen Ichs. Bescheidenheit und Aufrichtigkeit haben ihn während seiner staatsmännischen Wirksamkeit ausgezeichnet und diese Eigenschaften sind ihm auch in der Scheidestunde nicht abhanden gekommen. Dennoch durfte er ohne übel angebrachtes Selbstlob bekennen, daß er das Werk, das man ihm übergab, nach bestem Wissen und Gewissen fortgeführt habe. Es war ihm gegönnt, das Genfer Programm abzuschließen und Oesterreich von der finanziellen Vormundschaft zu befreien. Die Verfassungs - und Verwaltungsreform, die damit zusammenhing, ist sicherlich als Leistung nicht gering zu schätzen und man muß sich nur ins Gedächtnis rufen, wie viele Persönlichkeiten von Talent und hervorragendem Fachwissen sich im Laufe der Dezennien vergeblich abmühten, die staatliche Administration zu erneuern und den Bedürfnissen der Gegenwart anzupassen. Bei der Weiterentwicklung der Verfassung kommt es allerdings nicht bloß auf die Aenderung der Gesetzestexte, auf Buchstabenfortschritte, an. Entscheidend sind die realen Kräfteverhältnisse; sie allein geben letzten Endes den Ausschlag. Dr. Ramek hat auch über die äußere Politik Oesterreichs gesprochen. Bemerkenswert war dabei die Stelle, die er unseren Beziehungen zur großen deutschen Nachbarrepublik widmete. Das Verhältnis zum Reiche, erklärte der bisherige Bundeskanzler, ist ein außerordentlich herzliches und gutes, und er setzte hinzu: Es war meine Sorge, diese politischen Bande festzuknüpfen, nicht bloß aus wirtschaftlichen Erwägungen, sondern auch aus dem Grunde, weil die Einheit der Kultur eine gegebene Tatsache ist und die Politik diese Einheit nicht übersehen kann. Allerdings, so betonte Dr. Ramek, lasse sich eine derartige Haltung nur im Rahmen der Staatsverträge zur Geltung bringen. Das soll wohl heißen, daß Oesterreich sich bemühen müsse, die Gesinnung, die den Anschluß verlangt, die Sehnsucht nach der nationalen Vereinigung mit den übernommenen und verbrieften Verpflichtungen in Einklang zu setzen. Auffallend war der überaus herzliche Ton, in dem sich Dr. Seipel gestern bei der Begrüßung der Beamtenschaft des Bundeskanzleramtes über seinen Vorgänger äußerte, den er nachdrücklich als seinen Freund bezeichnete. Er führte aus, daß es zwischen ihm und Dr. Ramek keine Eifersüchteleien und kein Intrigantentum gegeben habe, und er verwahrte sich gegen die Anschauung, als hätte er zur Zeit der vorigen Regierung als geheimer Drahtzieher im Hintergrunde gewirkt. Das ganze Volk, versicherte Dr. Seipel, werde des bisherigen Kabinetts in Ehren gedenken, des ersten Kabinetts Ramek, wie er beziehungsvoll ausrief. Eine böse Sentenz verficht die Ansicht, daß die Politik die guten Sitten verderbe, und wir haben uns in Oesterreich leider gar zu oft bemüht, diese Anschauung zu bestätigen. Aber es ist wahrhaftig nicht notwendig, im öffentlichen Getriebe Rücksichten außer acht zu lassen, deren Nichteinhaltung im privaten Verkehre niemals entschuldigt würde. Die Politik schließt die Vornehmheit im Denken und im Reden keineswegs aus. Dafür hat der gestrige Tag einen erfreulichen Beweis geliefert. Auch Vizekanzler Dr. Waber verabschiedete sich mit warmem Danke von seinen nächsten Mitarbeitern. Dabei verschwieg er nicht, daß in unserem geltenden Rechte vieles reformbedürftig sei, und man würde wirklich nicht so bald fertig werden, wenn man eine Liste der Lücken und Rückständigkeiten aufstellen wollte. Dr. Waber machte ferner die Mitteilung, daß die Arbeiten an dem Entwurf eines allgemeinen deutschen Strafgesetzbuches, das ein gleiches, zeitgemäßes Strafrecht für das Deutsche Reich und für Oesterreich schaffen soll, soweit gediehen wären, daß dieses Werk voraussichtlich im nächsten Frühjahre dem Nationalrat unterbreitet werden dürfte. Wir müssen wirklich fordern, daß nicht der allgemeine Leerlauf solche legislative Errungenschaften vernichte. Im Hause des Unterrichtsamtes wurde gestern gleichfalls eine Ansprache gehalten. Minister Schmitz begrüßte seine künftigen Beamten und hob bei diesem Anlasse hervor, daß eine kostbare Aufgabe zu vollbringen sei, daß es sich darum handle, Hüter zu sein der höchsten Schätze, die ein Volk zu wahren hat. Man kann nur wünschen, daß dieser Ausspruch in keiner Stunde aus dem Gedächtnisse schwinde, daß man sich am Minoritenplatz stets vor Augen halte, welch außerordentliche Pflichten zu erfüllen seien. Allerdings legte Minister Schmitz weiter dar, daß dem Amte, an dessen Spitze er nun trete, auch die Obhut über die Beziehungen zwischen der Weltanschauung des einzelnen Bürgers und dem Staate, zwischen den Religionsgemeinschaften und dem Staate zufalle. Hochlandluft ist es, in der wir zu atmen haben, setzte der Minister fort, solches Hochland bleibt aber selten frei von
Drohende Spaltung in der radikalen Partei Frankreichs.
Im redaktionellen Teil (Kleine Chronik, Lokalbericht, Theaternachrichten, Economist) enthaltene entgeltliche Mitteilungen sind durch ein vorgesetztes E kenntlich gemacht. Drohende Spaltung in der radikalen Partei Frankreichs. Telegramm unseres Korrespondenten. Paris, 21. Oktober. Die Spaltung, die die radikale und radikalsozialistische Partei auf ihrem Kongreß in Bordeaux mit allen Mitteln zu verhindern bemüht war, dürfte nun doch eintreten. Der linke Flügel der Partei, der aus seiner Enttäuschung über den Verlauf des Parteitages von Anfang an kein Hehl gemacht hat, bereitet sich vor, sich zu einer neuen unabhängigen Gruppe zusammenzuschließen. Der Führer, der Abgeordnete und Bürgermeister von Le Havre, Leon Meyer, erklärt heute, daß die von der Morgenpresse gebrachte Information über die unter dem Namen Radikalsozialistische Linke erfolgte Neukonstituierung einer neuen Parlamentsfraktion zwar verfrüht sei, bestätigt aber, daß mit ihm etwa dreißig Mitglieder der Fraktion entschlossen seien, an den radikalsozialistischen Doktrinen, wie sie der vorjährige Parteitag in Nizza festgelegt habe, in vollem Umfang festzuhalten. Er lehne die Abschwächung, die man in Bordeaux versucht habe, kategorisch ab und würde, wenn die Fraktion sich die verhängnisvollen Tendenzen, die in Bordeaux eine Mehrheit gefunden haben, zueigen machen sollte, daraus die Konsequenzen ziehen und er und seine engeren Parteifreunde würden ihre politische Unabhängigkeit zu wahren wissen. Von der Haltung der Fraktion hänge es also allein ab, ob die neue Parlamentsgruppe der Radikalsozialistischen Linken ins Leben treten werde oder nicht. Vorläufig kein Beitritt der Czechoslowakei zum Stahlkartell.
Vorläufig kein Beitritt der Czechoslowakei zum Stahlkartell.
also allein ab, ob die neue Parlamentsgruppe der Radikalsozialistischen Linken ins Leben treten werde oder nicht. Vorläufig kein Beitritt der Czechoslowakei zum Stahlkartell. Telegramm unseres Korrespondenten. Prag, 21. Oktober. Die Verhandlungen der czechoslowakischen Eisenwerke über die Frage der Bedingungen für den Eintritt zum internationalen Stahlkartell haben mit einem Mißerfolg geendet und wurden heute auf unbestimmte Zeit vertagt. Den wichtigsten Gegenstand der Verhandlungen bildete die Aufteilung der auf die Czechoslowakei entfallenden Quote unter den czechoslowakischen Werken, in welcher Frage keine Einigung erzielt werden konnte. Besuch des Prinzen von Wales