Journal de Genève
- 通商の自由
- 二百万の節約
- パリ通信
1926年10月22日付のジュルナル・ド・ジュネーヴ紙1面には、通商、財政、フランス政治を扱う記事が並んだ。W. M.の署名がある社説は、1920年の財政会議の要望が政治、財政、経済の三つの障害に突き当たったと振り返った。社説は、仏独の接近で政治的な障害が小さくなったとして、通商の自由を求める運動に好機が来たと論じた。J. M.の記事は、公務員給与を引き下げればジュネーヴの1927年度予算で90万フラン、場合によっては100万フランの歳出を削減できると主張した。パリ通信員は滞在先の南ブルターニュから、ボルドーで開かれた急進党大会について気の進まない様子で書き始めた。
翻訳
通商の自由
……通商の、国際商業会議所が、この運動に新たな力を与えようとしている。今は好機である。1920年、財政会議の要望は、政治、財政、経済という三種類の障害に突き当たった。フランスとドイツの接近は、その第一の障害を、取り除いたとまでは言わないにせよ、小さくした。ヨーロッパの諸国民は……
二百万の節約
1927年度予算の見積もりに対する90万フランの歳出削減は、公務員給与の引き下げによって実現できる(さらに詳しく検討すれば、1923年の前国務院の案と同じく、100万という額にさえ達しうると言える)。その他の提案については……
パリ通信
……不可抗力のために、自分で決めていた期限を数日過ぎてもここに引き留められていると、政治の話題はさほど面白くないものに思える。岩が一面に散らばった小さな内海の眺めを目の前にしながら急進党大会の議論を論評するのは、いささか滑稽でさえあるかもしれない。しかし、どこにいようと、時が来れば仕事に戻らなければならない。それに結局のところ、南ブルターニュにいる我々は、パリにいる場合と比べて、ボルドーから遠いわけではない。そのボルドーで開かれた大会について、ここで少し述べるつもりである。急進党・急進社会党は[?]
解説
1920年の財政会議から1927年の世界経済会議へ
W. M.の社説は、1920年の「財政会議」の要望が政治、財政、経済の三つの障害に突き当たったと振り返った。この財政会議は、おそらく1920年のブリュッセル会議を指している。ブリュッセル会議では各国の代表が政府を正式には代表しないという形式がとられ、国際連盟が後にジュネーヴで開いた世界経済会議も同様の形式をとった。フランスのルイ・ルシュールが1925年にこの経済会議を最初に提案し、会議は国際連盟が正式に主催した初の国際経済会議となった。会議は1927年5月4日から23日まで開かれ、連盟加盟46か国の代表が出席した。それ以前にドーズ案がドイツの賠償問題の困難を一時的に和らげており、社説が仏独の接近で政治的な障害は小さくなったと述べたのは、こうした情勢を受けたものである。1927年の会議で代表団は、財政の再建が経済の再建の基礎であると全会一致で表明した。この結論は、社説が財政を政治や経済と並ぶ独立した障害として数えた見方と一致している。
ボルドー大会当時の急進党の立場
パリ通信員が取り上げたボルドーの急進党・急進社会党大会は、党が微妙な立場に置かれた時期に開かれた。エドゥアール・エリオが率いた左翼カルテルは1924年の総選挙で勝利したが、1926年に解体し、社会党SFIOは野党に回った。その後レイモン・ポワンカレが国民ブロック諸党に急進社会党を加えた内閣を組織し、通貨危機は収まった。1926年秋の急進党は、2年前に選挙で破った右派と同じ内閣に加わり、かつての盟友である社会党はその内閣に反対していた。党がどちらの側に立つのかという問題はその後も続いた。右派が勝った1928年の総選挙で、急進社会党は再び左派の側に立って選挙に臨んだ。
1926年の党分裂と南西部出身の党首
急進党は大会と同じ1926年に党内の分裂を経験した。この年、党の右派が離脱し、統一派あるいは国民派と呼ばれる急進党を結成した。同じ年に党首を務めたのはモーリス・サローであり、サローは1869年にボルドーで生まれた。フランス上院の議員略歴は、サローをサロー兄弟の頭脳と呼び、四半世紀にわたって南西フランスの真の政治的支配者であったと記している。サローは南西部の大手急進派日刊紙ラ・デペーシュ・ド・トゥールーズでの職務を通じてこの地位を築いた。大会が開かれたボルドーは、党首サローの生地であり、サローが政治的に支配した南西部の都市であった。
ジュネーヴの予算論議と行政の仕組み
J. M.の記事は1927年度予算の見積もりを取り上げ、公務員給与の削減案を1923年の「前国務院」の案と比べた。1814年の共和国復古はジュネーヴ市の自治を終わらせ、市を州の執行機関である国務院の直接の管轄下に置いた。1926年当時、市街地はジュネーヴ、オー=ヴィーヴ、プランパレ、プティ=サコネという別々の自治体に分かれていた。ジュネーヴの有権者は1926年に最初の合併案を否決し、4年後の1930年5月18日に「大ジュネーヴ」の創設を承認した。合併の後、市と州は事務を分担した。この記事が求めた歳出の節約は、ジュネーヴの人々が行政の組み立て方を議論していたのと同じ時期に出されたものである。
原文
La liberté du commerce
du commerce la Chambre de commerce internationale, viennent donner à ce mouvement une force nouvelle. L'heure est favorable. Les vœux de la conférence financière se sont heurtés, en 1920, à des obstacles de trois ordres: politique, financier, économique. Le rapprochement entre la France et l'Allemagne a réduit, sinon éliminé les premiers. Les peuples européens
Deux millions d'économies
Deux millions d'économies 900. 000 francs de réductions de dépenses sur les prévisions du budget de 1927 sont réalisables par la diminution des traitements des fonctionnaires (un examen plus approfondi permet de dire qu'on peut même atteindre, comme avec le projet de l'ancien Conseil d'Etat en 1923, la somme de 1 million). D'autres propositions, sur lesquelles
Lettre de Paris
majeure nous retient quelques jours au delà du terme que nous nous étions fixé, les affaires politiques semblent d'un médiocre intérêt. Il y a même quelque ridicule peut-être à commenter les discussions d'un congrès radical quand on a sous les yeux le spectacle de la petite mer intérieure toute parsemée de rochers. Mais, où qu'on soit, il faut bien, le moment venu, se remettre à la besogne et, après tout, nous ne sommes pas plus loin en Bretagne méridionale que nous ne le serions à Paris de Bordeaux, où s'est tenu le congrès dont nous avons l'intention de dire ici quelques mots. Le parti radical et radical-socialiste est une [?]