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· ベオグラード(現セルビア) · sr-Cyrl

Politika

1926年10月21日付の『ポリティカ』は、技師ドラグ・M・ブランコヴィッチの署名コラム「ヨーロッパとわが国の住宅政策」を載せた。ブランコヴィッチは、戦後の住宅問題が質の問題から建物の量の不足の問題へ移ったと論じた。彼は兵士や捕虜や避難民の帰還、革命ロシアからの亡命者、国境変更に伴う移住、新しい結婚を原因に挙げ、戦後の建設の弱さと並べて示した。彼はウィーンの例を引き、空き住宅の割合が1914年の1.39%から1923年にはゼロになり、50,000人が住宅を求めたと書いた。同じ紙面は回想録の連載も載せ、その第二節はミラン王の最終的な国外退去を扱った。回想録の筆者は、ミラン王がイヴァニダン暗殺未遂事件よりずっと前から従来の政治的信念と決別し始めており、その変化は退位の時点ですでに現れていたと述べた。

この版は紙面の二つの箇所を訳している。一つ目はブランコヴィッチの住宅コラムの冒頭で、この箇所はベルリンの数字に入るところで途切れている。二つ目は回想録のうちミラン王の最終的な出国を扱う節の冒頭で、この箇所は判読できない部分で文の途中で終わっている。OCRの文字化けがひどいため、この版は転写にOCRを使っていない。回想録の冒頭とイヴァニダン暗殺未遂を扱う節は、行の頭と末尾が画像の区切りで切れているため、この版には入っていない。一つの段の下のほうでは文字が薄く、折り目か破れが文字の上を横切っている。

翻訳

ヨーロッパとわが国の住宅政策

住宅問題は新しいものではない。それは戦前にも存在していたが、ただこの10年の間にひどく悪化したのである。さらにもう一点ある。少なくとも近代国家において、戦前のこの問題はより質的な性格を帯びていたが、戦後はこの性格が住居用建物の量的な不足によって完全に押しのけられてしまった。このような状態を生み出したいくつかの原因を挙げれば、このことは完全に明らかになるだろう。「避難民が破壊された家へ戻ったこと、兵士が前線から戻り、捕虜や抑留されていた市民が外国から戻ったこと。次いで、ロシアの革命のためにロシアから亡命者がやって来たこと、領土の変更の影響による民族的な移住、さらには再生の始まりと新たな結婚の成立など……」。これらすべての結果、一方では住宅の需要が信じがたい数字に達し、他方では戦後の建設業があまりに弱く、人口の通常の増加にさえ追いつかなかった。つまり、需要と供給の関係は完全に崩れたのである。そうであることは、次の例だけでも裏づけられよう。ウィーンでは、1914年に空き住宅は百分率で表して1.39であり、求められた住宅は一戸もなかったが、1923年には空き住宅の割合はまったくなく、住宅を求める者の数は50,000人に達した。ベルリンでは1913年に、その数は

ミラン王の最終的な国外退去

会話はその後も、ある時は活発に、ある時はゆっくりと、さらにまる二時間、より融和的な調子で続いた。II ミラン王の最終的な国外退去。多くの兆候から判断すれば、ミラン王はイヴァニダン暗殺未遂事件よりもずっと前の時期に、すでに国内の政治生活についての従来の見解や信念と決別する段階にかなり深く入っていたに違いない。というのも、退位の際にすでに彼にはそうした変化が生じており、やや後になって、もはや手遅れとなった時に、いくらか [?]

解説

戦後ウィーンの住宅不足と借家人保護

ブランコヴィッチが挙げた原因とウィーンの例は、この都市について記録されている状況と一致している。ウィーンでは1918年以降、帰還兵とハプスブルク帝国の解体で生じた避難民が流れ込み、人口がさらに増えた。ウィーン市内の空き住宅は1918年初めに245戸しかなく、1919年9月には105戸まで減った。当局は1917年1月に戦時措置として家賃規制と立ち退き制限を導入し、1922年12月7日の家賃制限法がこの規制を恒久化した。新築は戦後も進まず、この記録はコラムの筆者が言う建設の弱さを裏づけている。ウィーンで1919年から1923年までに建った住宅は2,624戸にとどまり、その多くは市が建てたものだった。コラムが載った時期にはウィーン市の大規模な市営住宅建設がすでに始まっており、市は1925年から1934年までに新築の市営建物で6万戸の公営住宅を供給した。ブランコヴィッチ自身が示した1914年の空室率1.39%と1923年の住宅希望者50,000人という数字は、上の戸数とは数え方が違うため、二つの数字をそのまま比べることはできない。ただし、どちらの数字も空き住宅がほぼなくなったことを示している。

国営抵当銀行と王国の建設資金

ブランコヴィッチの題名にある「わが国」はセルブ・クロアート・スロヴェーン王国を指し、この王国で建設資金を貸す主要な国営機関の一つが国営抵当銀行だった。王国は1922年8月の法律でこの銀行を設立し、同行はセルビアの旧機関である基金管理局と各地の銀行の業務を引き継いだ。同行は戦間期ユーゴスラヴィアで建設とインフラの主要な資金提供者となり、1922年から1932年まではユーゴスラヴィアだけでなく南東ヨーロッパ全体で最大の銀行だった。前身の基金管理局の記録は、国の融資で誰が得をしたのかという問題を示している。基金管理局は農民に安い融資を与えるために設立されたが、実際には融資の大半が限られた数の農村や都市の地主に渡り、地主はさらに高い利子で農民に貸した。ここで用いた資料は、この偏りを前身機関について記録している。1920年代のベオグラードで同行の建設融資をどの借り手が受けたかについては、これらの資料は何も示していない。

1899年のイヴァニダン暗殺未遂と急進党への報復

回想録の筆者は、ミランが従来の政治的信念と決別し始めたのはイヴァニダン暗殺未遂よりずっと前であり、その始まりは退位にさかのぼると主張している。ミランは1889年3月6日に突然、息子に王位を譲って退位し、この退位について納得のいく理由は示されなかった。ミランは1897年に帰国して現役軍の最高司令官に任命され、日々の政治に深く関わり、とくに急進党に敵対する政策を進めた。この関与が暗殺未遂の背景になった。1899年6月24日に失業中の労働者がミランの暗殺を図り、その後ミランはあらゆる手段で急進党への報復を始めた。当局は暗殺未遂を支援したとして急進党員を投獄し、のちにアレクサンダル王が彼らを釈放した。確立した記録は、この暗殺未遂がミランと急進党の対立を深めたことを示している。ミランがそれ以前から考えを改めつつあったという見方は、回想録の筆者自身の解釈である。

ミランの最後の出国と1903年の五月政変

ミランの最終的な出国は、息子アレクサンダル王の結婚問題と結びついていた。アレクサンダルはドラガ・マシンと結婚するために父を遠ざける必要があり、ミランをカールスバートへ、ジョルジェヴィッチ首相をマリエンバートへ送り出した。ミランはこの結婚を認めず、1900年に再びセルビアを去り、1901年に亡命先で死去した。ミランの周りにいた人々は、ミランの死後も政治に残った。1897年から1900年までミランの最も近い協力者の一人だったディミトリエ・ツィンツァル=マルコヴィッチ将軍は、1902年11月にアレクサンダルが起こした新たな政変によって政府の長に就いた。将校たちは1903年6月11日、旧暦では5月29日に起きた五月政変で、国王夫妻とともにツィンツァル=マルコヴィッチを殺害し、この事件でオブレノヴィッチ朝は終わった。回想録が描くミランの最後の出国は、のちにミランの王朝の滅亡で終わる一連の出来事の始まりにあたる。

原文

ЕВРОПСКА И НАША СТАНБЕНА ПОЛИТИКА

Станбено питање није ново. Оно је постојало и пре рата, само што се за последњих 10 година јако погоршало. И још нешто, оно је бар у модерним државама пре рата имало више квалитативан карактер, док је после рата овај карактер потпуно потиснут од квантитативне оскудице у зградама за становање. Ово ће нам бити потпуно јасно, ако напоменемо неколико узрока, који су створили овакво стање: " Повратак бегунаца порушеним домовима, повратак бораца са фронта као и заробљеника и интернираних грађана из иностранства. Затим, придолазак избеглица из Русије због тамошње револуције, етничка премештања под утицајем територијалних преиначења, по том и почетак регенерације и склапање нових бракова и т. д.... ", све је то утицало с једне стране, да је тражња станова била достигла невероватну цифру, а с друге стране, грађевинарство после рата је било толико слабо, да није одговарало ни нормалноме прираштају становиштва. Дакле, однос понуде и тражње потпуно поремећен. Да је тако, нека нам потврде само ови примери: у Бечу, године 1914 било је празних станова, изражено у процентима, 1, 39, а тражен није ни један, док у 1923 години није био никакав проценат празних станова, а број лица који их је тражио износио је 50. 000. У Берлину је био године 1913 број

Дефинитиван одлазак краља Милана у иностранство.

разговор је продужио кад живљи кад спорији, још читавих два часа, у помирљивијем тону. II Дефинитиван одлазак краља Милана у иностранство. Краљ Милан је по многим знацима судећи још у времену много пре ивањданског атентата, у велико морао бити у фази кидања са дотадашњим гледиштима и уверењима на унутрашњи политички живот земље, јер су још приликом абдикације код њега такве промене наступиле, па су нешто доцније, кад је већ настало касно, у неколико [?]

紙面の出典:Source: Narodna biblioteka Srbije / Digitalna NBS

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