Prager Tagblatt
- 納税道徳
- アメリカは行動を拒むのか
- トロツキーとジノヴィエフの攻勢
1926年10月5日付のプラーガー・ターゲブラットは、エングリシュ財務相がまとめたチェコスロヴァキアの直接税改革草案を歓迎する論説を一面の冒頭に掲げた。論説は、企業が国と市町村に利益の80パーセントを取られていると訴え、税率の引き下げ、市町村付加税の上限、直接税の統一的な法典化を評価した。論説はまた、納税者をまず信頼し、脱税は厳しく罰するという方針を歓迎し、ラシーンの単一税構想を見送った判断も支持した。同じ面は、ドーズ債の動員を柱とする独仏のトワリー計画にアメリカ政府が疑念を抱いていると伝え、対米債務協定の批准をめぐるブリアンとポワンカレの対立も報じた。モスクワからは、トロツキーやジノヴィエフら反対派指導者が党の討論禁止を無視して工場に乗り込み、非難を受けたというタス通信とユナイテッド・プレスの記事が届いた。
翻訳
納税道徳
エングリシュ財務相、税制改革案を提出。納税道徳。プラハ、10月4日。財務相エングリシュがその知的な生みの親である税制改革草案が成し遂げようとする課題は、決して小さなものではない。国外の動向を前にしてさまざまな深刻な懸念を呼んでいた経済情勢は、わが国の税制の見直しを何よりも急を要するものとして求めていた。国内の生産的な企業が、利益の80パーセントを持ち去る物言わぬ共同経営者、しかも解約のきかない共同経営者を抱え続けるという状態は、いつまでも続けられるものではない。もっとも、没収にも近いこの課税の実務において、国家には市町村やその他の付加税徴収権者という一連の同調者がいる。しかし工業家や商人にとって、それは結局どうでもよいことである。彼は窮地に立たされており、そこから抜け出す術を見いだせるのはごくまれな場合に限られる。企業の本拠を移すと脅すだけで、付加税の肥大を少なくとも食い止められるだけの手段と力を持つ者はわずかしかいない。エングリシュ博士は、実務に対して注目すべき理解を持つ理論家の一人である。税制と企業精神とのあいだに、また税務統計の数字と貿易統計の数字とのあいだにどのような関連があるかを、彼はよく心得ている。そして彼は、ドイツの財務相ラインホルト博士と同じく、減税を行う勇気を奮い起こした。かつて財務相ラシーン博士は単一税の構想をもてあそんだことがあり、その構想には大いに魅力があった。そうなれば、査定通知がなく、いわば目に見えない形で納める間接税を除けば、一人当たりただ一つの税だけが存在したはずである。その税は人税であると同時に物税でもあり、ただ一通の査定通知書で、痛みを伴わずに納税者の目の前に現れたはずである。この構想は壮大であり、実現するには疑いなく途方もない困難を乗り越えなければならなかっただろう。エングリシュ博士がこれを断念したのは正しかった。今の時代はなお過渡的な性格を帯び、危機的な現象と結びついている。それ自体に動揺を招く危険をはらむ実験は平穏な時代にしか行えず、今の時代はその基盤とはならない。とはいえ、直接税の全分野がこの草案で統一的な観点から包括的に法典化されたことは、大きな進歩である。エングリシュ博士の功績は認めなければならない。彼は、工業界に対する多方面の歩み寄りにおいても、納税道徳の向上を目指す厳格さにおいても、大胆に事を進めた。かつてのオーストリアのシュタインバッハによる税制改革が、すでに納税道徳の向上という標語を打ち出していた。今日ならば認めてもよいだろう。その目標は達成されなかった。体制転換の後に流行となった委員会による査定によっても、それは達成されなかった。こうした査定は、財政当局の不信を示された工業家をいっそう頑なにするほかなかった。納税者を一種の納税の喜びへと教育するような税制改革は、おそらく発明されておらず、今後も発明されることはまずないだろう。しかし、この草案がしているように、納税者に最初からある程度の信頼をもって接し、すぐに脱税者と見なさないこと、そしてその信頼が裏切られた場合には最も厳しい基準を当てはめ、脱税を国家に対する詐欺、場合によっては拘留をもって罰すべき犯罪と見なすことは、悪くない心理学なのかもしれない。とはいえ、納税道徳が市民としての文化によって一般の意識に根づいていない限り、その最良の向上策は間違いなく税率の引き下げであろう。付加税にも上限が設けられ、企業家が市町村の権力者による課税の横暴にさらされずに済むことは、この税制改革という建物を補う決して小さくない要素である。ここは細部に立ち入る場でも時でもない。修正を要する規定がいくつもあることは疑いない。この草案は称賛すべきことに時宜を得て公の議論に付された。その議論が、修正が行われるよう取り計らうだろう。
アメリカは行動を拒むのか
1926年10月5日火曜日。アメリカは行動を拒むのか。ブリアン、ポワンカレの支持を得られず。トワリー政策の実際上の困難。ニューヨーク、10月4日。『サン』紙のワシントン駐在記者の報道によれば、トワリー協定を細部まで記した文書がアメリカ政府に送られ、アメリカ政府に見解を求めているという。『サン』紙の記者は、誰がこの文書を提出したのか、またこの文書が正式な外交文書なのか覚書なのかは明らかにできないとしながらも、綿密な取材に基づき、政府はトワリー計画の実行可能性に重大な疑念を抱いているとの結論に達している。全体としての印象は、アメリカはトワリー計画への協力を拒むか、少なくとも計画は事前に大幅に修正されなければならないだろうというものである。クーリッジはヒューズと長時間会談し、その中でアメリカの姿勢が徹底的に話し合われたことは確実である。ワシントンの公式筋によれば、大統領がライヒスバーン債のアメリカでの売却に反対しているとする海外電報は誤りだという。大統領が反対しているのは、ライヒスバーン債をアメリカ政府に売却すること(どこからも提案されていない)だけだという。政府は銀行家に対して影響力を持たないという。もっとも、銀行家たちは起債に先立って政府の意見を求めるだろうと見られているが、政府はまだ何ら態度を表明していないという。パリ、10月4日。ここ数週間の展開によって、パリでは連合国間債務の問題が再び政治論議の中心に据えられた。ブリアンにとって独仏和解の構想がこれほど魅力的に見えたのは、何よりも、ドイツの助けを借りてフランス財政を急速に立て直せば、フランスはアメリカに対して必要な独立性を得て、債務問題で減額とまではいかなくとも、少なくともより有利な支払条件を求める主張を通せると考えたからである。このことは、もはや否定されていない。こうした考え方が合衆国で呼び起こした反響と、専門家による最初の打診の後に得られた確信、すなわちアメリカ抜きでは、フランスの資金需要にとって本当に意味のある規模のドイツのドーズ債を動員することすらできないという確信は、当地の人々の熱を大きく冷ました。加えて、まさにこの点で、ブリアンと彼の首相の構想のあいだには非常にはっきりした対立がある。ポワンカレは、挙国一致内閣の組閣に際して外交政策への直接の介入を一切控えると約束しており、この約束どおり、これまで独仏間の話し合いを危うくするようなことは何もしていない。しかし他方で、彼はトワリーの構想に明らかな不信を抱いていることを隠しておらず、そのため交渉の継続を可能な限りの留保と保証で固めたいと考えている。ポワンカレには、フランスが通貨の安定に必要な外国からの信用援助をドイツに求め、ドイツから得るという考えが耐えがたいものに思えるようである。それだけでなく、彼は、ワシントン協定が批准されていないために国際金融市場が閉ざされているというフランスの窮状を、ドイツが利用して過大な見返りを要求するのではないかと恐れているようにも見える。ドイツとの交渉に向けて最大限の自由と独立を確保したいというこの願いの中に、ワシントン協定の早期批准を目指すポワンカレの新たな動きの主な動機の一つがあると見てよいだろう。ポワンカレの構想は、アメリカ側が協定への盛り込みをきっぱり拒否した、フランスの支払能力あるいは送金の可能性に関する留保を、フランス議会の両院ができる限り全会一致で可決する批准法の付則として定めるというものだった。しかし、この方向で打ち上げられた観測気球に対して、大洋の向こうから、アメリカはそのような制限付きの批准を認めないという非常に強い回答が返ってきた。したがってポワンカレは、議会が再び召集されたとき、すでに8月初めに批准法案を通そうとした最初の試みがぶつかったのと同じ困難に直面することになる。ワシントン協定の無条件の批准について、彼は下院でも上院でも十分な多数を当てにすることはできないだろう。さらに内閣の内部でも、それに対する抵抗を乗り越えるのは非常に難しいと思われる。閣僚の大部分、とりわけバルトゥー、タルデュー、マラン、ボカノフスキーは、この問題で自らの立場をあまりにも明確にしてきたため、翻意することはもはやほとんど不可能である。債務問題をめぐるポワンカレの姿勢によって、国内政治の危機が早まることも十分にありうる。
トロツキーとジノヴィエフの攻勢
……アメリカ抜きでは、フランスの資金需要にとって本当に意味のある規模のドイツのドーズ債を動員することすらできないという確信は、当地の人々の熱を大きく冷ました。……この問題で自らの立場をあまりにも明確にしてきたため、翻意することはもはやほとんど不可能である。債務問題をめぐるポワンカレの姿勢によって、国内政治の危機が早まることも十分にありうる。トロツキーとジノヴィエフ、討論の自由の封殺に抗して攻勢。モスクワ、10月4日(タス)。反対派の指導者であるジノヴィエフ、トロツキー、ラデック、ピャタコフ、スミルガ、サプロノフは今日、いかなる討論も許されないとする共産党の決定を無視して、モスクワの工場「アヴィオプリボル」に赴き、そこで討論を始めようとした。この工場の共産党員の労働者たちは反対派の分派的な行動を暴き、反対派指導者の登場を非難する決議を採択した。共産党モスクワ委員会は党中央委員会に対し、党の決定に違反した中央委員会の委員に対して措置を取るよう求めた。*モスクワ、10月4日(ユナイテッド・プレス)。トロツキーは、自分とジノヴィエフの意見の相違は完全に解消されたと言明している。トロツキーによれば、両者は党中央執行委員会の多数派が従ってきた経済上および政治上の方針に強く反対しているという。とりわけ二人は、公の批判を封じ込める慣行に反対しているという。政界では、トロツキーの攻勢は党内の公然たる闘争の合図だと見られている。この闘争は、ジノヴィエフが政治局から排除されて以来、水面下でくすぶっていたという。10月25日に予定されている党大会では、反対派が最も激しい攻撃を仕掛けることになりそうである。
解説
経済学者エングリシュとラシーンとの違い
論説はエングリシュを実務に通じた理論家と呼び、かつての財務相ラシーンの単一税構想と対比して彼の減税を評価した。この人物像は彼の経歴と一致する。エングリシュはチェコの経済学者で、目的論的な経済学派を創始した人物であり、多くの理論家と違って自らの学問上の結論を実務で試し、修正する機会を得た。エングリシュは1920年から1931年まで六つの内閣で財務相を務め、通貨の安定、国家予算の合理化、近代的な税制の構築を担ったと評価されている。エングリシュは第一次世界大戦後の通貨改革でアロイス・ラシーンと協力したが、ラシーンのデフレ政策には強く反対した。減税の勇気を称え、ラシーン時代の単一税構想が見送られたことに安堵する論説の書き方は、二人の路線の違いと矛盾しない。ただし資料が伝える二人の対立は、主に金融政策をめぐるものである。市町村付加税の上限や脱税への拘留など、論説が挙げた草案の特徴は、1926年10月の草案についてこの新聞が伝えた内容である。
ドーズ債の動員にアメリカの買い手が必要だった理由
ニューヨークとパリからの記事は、ドーズ案のもとで生まれたドイツ鉄道債を売ってフランスの資金をつくるという一つの金融構想を軸にしている。同様の構想がなお議論されていた1928年7月に、フォーリン・アフェアーズ誌の論文は、この計画をドーズ案のもとで担保に入れられた160億マルクのドイツ鉄道債と産業債を世界の市場で売却するものだと説明した。同じ論文は、ドイツの賠償金の60パーセントが戦債の返済としてワシントンへ流れていたと指摘した。この事実は、アメリカ抜きでは意味のある規模の債券を動員できないというパリ特派員の指摘を説明する。この構想はアメリカの資本に頼ると同時に、アメリカの債権にも関わっていた。論文はさらに、アメリカ財務省が戦債と賠償は無関係だという立場を改めていなかったと記した。1926年の記事で大統領府が政府自身への債券売却に反対するだけで民間銀行には口を出さないと説明したことも、二つの問題を結びつけたくないという同じ姿勢を示している。
1926年以後も批准されなかったワシントン債務協定
パリの記事は、フランスの戦債をめぐるワシントン協定について、ポワンカレが無条件批准のための多数を得られず、内閣も割れていると予測した。この行き詰まりは1926年の秋を過ぎても続いた。1928年7月のフォーリン・アフェアーズ誌は、フランスがイギリスおよびアメリカとの債務協定をなお批准していないと記し、それを政府間債務の見直しを伴わない大幅な賠償減額をパリが受け入れていない証拠と位置づけた。同じ論文は、ドーズ案のドイツ債を市場で売り、連合国とドイツが債務をより早く返せるようにする組み合わせならフランスは受け入れるというポワンカレの発言を引用した。1926年の記事はポワンカレをトワリー構想に強い不信を抱く人物として描いた。二つを並べると、ドーズ債を市場で売るという考えが生き残り、2年足らずのうちにフランス首相にも受け入れられる案になったことがわかる。
分派禁止と合同反対派のその後
タス通信は反対派の工場訪問を党規律への違反として伝えたが、この非難は1921年の規則に基づいていた。この年、第10回党大会は党の団結を理由にボリシェヴィキ党内の分派を禁止した。トロツキーの左翼反対派とジノヴィエフのグループは1926年に合同反対派として手を組み、共産党内での表現の自由の拡大などを要求した。ユナイテッド・プレスの電報でトロツキーが訴えた不満は、この要求と重なる。新聞が予想した党の会議での闘争は、反対派の敗北に終わった。1926年10月、スターリンの支持者たちはトロツキーを政治局から外す票決を行った。この時までにカーメネフとジノヴィエフも政治局から外され、ジノヴィエフはコミンテルン議長の地位を失った。反対派は党内の少数派にとどまり、1927年12月の第15回党大会で除名された。この大会は反対派の見解を党員資格と相いれないものと宣言した。
原文
Steuermoral.
Finanzminister Dr. Engliš legt seine Steuerreform vor. Steuermoral. Prag, 4. Oktober. Es ist keine kleine Aufgabe, die mit dem Steuerreformentwurf bewältigt werden soll, dessen intellektueller Urheber Finanzminister Engliš ist. Die wirtschaftliche Lage, welche angesichts der Entwicklung im Auslande zu allerhand ernsten Besorgnissen Anlaß bot, forderte eine Revision unseres Steuersystems aufs dringlichste. Es geht auf die Dauer nicht weiter, daß die produktiven Unternehmungen im Staate einen stillen Kompagnon, einen unkündbaren Kompagnon haben, der ihnen achtzig Prozent ihres Gewinnes wegnimmt. Allerdings hat der Staat bei dieser an Konfiskation nahe heranreichenden Steuerpraxis eine Reihe von Mitläufern, die Gemeinden und andere Zuschlagsberechtigte, aber das ist dem Industriellen und Kaufmann schließlich gleichgültig. Er steht einer Zwangslage gegenüber, aus der er sich nur in den seltensten Fällen zu retten weiß. Wenige haben die Möglichkeit und die Kraft, schon allein durch die Drohung einer Sitzverlegung ihres Unternehmens, die Hypertrophie der Zuschläge wenigstens zu verhindern. Dr. Engliš gehört zu jenen Theoretikern, welche bemerkenswertes Verständnis für die Praxis haben. Er weiß ganz gut, welche Zusammenhänge zwischen Steuersystem und Unternehmungsgeist, zwischen den Ziffern der Steuerstatistik und jenen der Handelsstatistik bestehen. Und er hat gleich dem deutschen Reichsfinanzminister Dr. Reinhold den Mut zu einer Ermäßigung der Steuern aufgebracht. Finanzminister Dr. Rašín hat seinerzeit mit dem Gedanken einer Einheitssteuer gespielt, der sehr viel Verlockendes für sich hatte. Es hätte dann außer den indirekten Steuern, für die es ja keine Vorschreibung gibt und die man sozusagen unsichtbar entrichtet, pro Mann und Kopf nur eine einzige Steuer gegeben, die zugleich Personalsteuer und Sachsteuer gewesen wäre und in einer einzigen Steuervorschreibung dem Steuerträger schmerzlos unter die Augen getreten wäre. Der Gedanke war gigantisch und er hätte zweifellos nur unter Ueberwindung ungeheurer Schwierigkeiten ins Werk gesetzt werden können. Dr Engliš hat recht getan, indem er ihn fallen ließ. Die jetzigen Zeitläufte, die noch immer Uebergangscharakter tragen und die mit krisenhaften Erscheinungen verknüpft sind, bilden nicht die Grundlage für ein Experiment, welches nur in ruhigen Zeiten gemacht werden kann, da es in sich selbst die Gefahr einer Beunruhigung birgt. Immerhin stellt es einen großen Fortschritt dar, daß das gesamte Gebiet der direkten Steuern in diesem Entwurf nach einheitlichen Gesichtspunkten und zusammenfassend kodifiziert ist. Man muß es Dr. Engliš lassen, er ist großzügig vorgegangen, sowohl in seinem vielfältigen Entgegenkommen gegenüber der Industrie, aber auch in der Strenge, mit der er auf eine Hebung der Steuermoral ausgeht. Schon die alte österreichische Steuerreform Steinbachs prägte das Schlagwort von der Hebung der Steuermoral. Wir können es uns ja heute eingestehen: dieses Ziel ist nicht erreicht worden. Es ist auch nicht erreicht worden durch die nach dem Umsturz zur Mode gewordenen Kommissionierungen, die den Industriellen, dem man so das fiskalische Mißtrauen bezeigte, nur verstockter machen mußten. Die Steuerreform, welche den Steuerträger zu einer Art Steuerfreudigkeit erzieht, ist wohl nicht erfunden und wird kaum je erfunden werden. Vielleicht ist es aber keine schlechte Psychologie, wenn man, wie es in diesem Entwurfe geschieht, dem Steuerträger von vornherein mit einigem Vertrauen entgegenkommt, ihn nicht gleich als Steuerdefraudanten einschätzt - dann allerdings, wenn dieses Vertrauen getäuscht werden sollte, den strengsten Maßstab anlegt, die Steuerhinterziehung als einen Betrug am Staate, als ein Delikt betrachtet, welches unter Umständen auch mit Arrest zu strafen sein wird. Die beste Hebung der Steuermoral, soweit sie nicht im allgemeinen Bewußtsein durch die staatsbürgerliche Kultur verankert ist, wird aber gewiß die Herabsetzung des Steuerfußes darstellen. Daß auch die Zuschläge ihre Begrenzung erfahren und der Unternehmer sich nicht dem Steuerterror der Gemeindegewaltigen ausgeliefert sieht, ist eine nicht unwichtige Ergänzung des Baues, den diese Steuerreform darstellt. Es ist hier nicht der Ort und die Zeit, auf Einzelheiten einzugehen. Zweifellos gibt es eine Reihe von Bestimmungen, welche der Korrektur bedürftig sind. Daß diese Korrektur einsetzen kann, dafür wird die öffentliche Diskussion sorgen, welcher dieser Entwurf in löblicher Weise zeitgerecht unterbreitet wurde.
Amerika verweigert die Tat?
Dienstag, 5. Oktober 1926. Amerika verweigert die Tat? Briand findet in Poincaré keine Stütze. Die praktischen Schwierigkeiten der Politik von Thoiry. New York, 4. Oktober. Der Washingtoner Vertreter der " Sun " meldet, daß der amerikanischen Regierung ein Schriftstück zugesandt worden sei, worin das ThoiryAbkommen in allen Einzelheiten niedergelegt ist und die amerikanische Regierung um Stellungnahme gebeten wird. Der Vertreter der " Sun " kann nicht angeben, wer das Schriftstück vorlegte oder ob das Schriftstück eine reguläre Note oder ein Memorandum ist, kommt aber auf Grund genauer Recherchen zu dem Schlusse, daß die Regierung schwere Zweifel an der Durchführbarkeit des Thoiry-Programms hege. Der allgemeine Eindruck geht dahin, daß Amerika seine Mitwirkung am Thoiry-Programm versagen wird oder daß mindestens das Programm vorher stark abgeändert werden muß. Coolidge hatte eine längere Unterredung mit Hughes, worin sicherlich Amerikas Haltung gründlich besprochen wurde. Amtlich verlautet in Washington, daß die Kabelmeldungen, wonach der Präsident gegen den Verkauf der Reichsbahnbons in Amerika wäre, falsch seien. Der Präsident widersetze sich lediglich einem Verkauf der Reichsbahnbons an die amerikanische Regierung (der nirgendwo angeregt wurde). Auf die Bankiers habe die Regierung keinen Einfluß. Zwar wird angenommen, daß diese vor eventueller Auflegung die Regierung um ihre Meinung fragen würden, doch habe die Regierung noch keinerlei Stellung genommen. Paris, 4. Oktober. Die Entwicklung der letzten Wochen hat in Paris die Frage der interalliierten Schulden erneut in den Mittelpunkt der politischen Diskussion gerückt. Es wird nicht mehr geleugnet, daß Briand der Gedanke einer deutsch-französischen Verständigung vor allem deshalb so außerordentlich verlockend erschien, weil er glaubte, daß eine rasche Sanierung der französischen Finanzen mit deutscher Hilfe Frankreich gegenüber Amerika die notwendige Unabhängigkeit geben würde, um in der Schuldenfrage seine Ansprüche wenn nicht auf Reduktion, so doch wenigstens auf günstigere Zahlungsbedingungen durchsetzen zu können. Das Echo, das derartige Gedankengänge in den Vereinigten Staaten gefunden haben, und die nach den ersten Sondierungen der Experten gewonnene Ueberzeugung, daß ohne Amerika nicht einmal die Mobilisierung eines für das französische Geldbedürfnis wirklich ins Gewicht fallenden Teiles der deutschen Dawes-Obligationen möglich ist, hat hier stark ernüchtert. Dazu kommt, daß gerade in diesem Punkte ein sehr ausgeprägter Gegensatz zwischen den Konzeptionen Briands und seines Ministerpräsidenten besteht. Poincaré, der sich seinerzeit bei der Bildung des Kabinettes der nationalen Einheit verpflichtet hatte, sich jeglicher direkten Einmischung in die Außenpolitik zu enthalten, hat zwar dieser Zusicherung entsprechend bisher nichts getan, was die Aussprache zwischen Deutschland und Frankreich gefährden könnte. Er hat aber auch andererseits kein Hehl daraus gemacht, daß er der Initiative von Thoiry mit ausgesprochenem Mißtrauen gegenübersteht und deshalb die Fortsetzung der Verhandlungen mit den größtmöglichen Kautelen und Garantien umgeben wissen will. Nicht nur daß Poincaré der Gedanke unerträglich zu sein scheint, Frankreich solle die zur Stabilisierung seiner Währung erforderliche Kredithilfe des Auslandes bei Deutschland suchen und erhalten, scheint er darüber hinaus zu befürchten, Deutschland könnte die Zwangslage, in der sich Frankreich dadurch befindet, daß ihm infolge der Nichtratifizierung des Washingtoner Abkommens der internationale Geldmarkt verschlossen ist, zur Stellung allzu weitgehender Gegenforderungen ausbeuten. In diesem Wunsche, sich für die Verhandlungen mit Deutschland weitestgehende Freiheit und Unabhängigkeit zu sichern, dürfte eine der Haupttriebfedern für Poincarés neue Initiative in Richtung einer baldigen Ratifizierung des Washingtoner Abkommens zu suchen sein. Poincaré hat sich dies so gedacht, daß die Vorbehalte hinsichtlich der französischen Zahlungsfähigkeit bzw. der Transfermöglichkeiten, deren Aufnahme in das Abkommen die Amerikaner rundweg abgelehnt haben, in einem von den beiden Kammern des französischen Parlaments möglichst einstimmig zu beschließenden Zusatze zum Ratifikationsgesetz festgelegt werden. Von jenseits des Ozeans aber ist auf den in dieser Richtung lancierten Versuchsballon die sehr energische Antwort gekommen, daß Amerika eine derartig eingeschränkte Ratifizierung nicht anerkennen wird. Poincaré wird demnach bei Wiederzusammentritt des Parlamentes die gleichen Schwierigkeiten vorfinden, auf die bereits Anfang August sein erster Versuch, die Ratifizierungsgesetze zu verabschieden, gestoßen ist. Für eine vorbehaltlose Ratifizierung des Washingtoner Abkommens wird er weder in der Kammer noch im Senat auf eine ausreichende Mehrheit zu rechnen haben. Aber auch im Schoße des Kabinetts selbst dürften die Widerstände dagegen sehr schwer zu überwinden sein. Ein großer Teil der Mitglieder des Ministeriums, darunter vor allem Barthou, Tardieu, Marin, Bokanowski, hat sich in dieser Frage so eindeutig festgelegt, daß ein Umfallen kaum mehr möglich ist. Eine innerpolitische Krise könnte durch Poincarés Haltung in der Schuldenfrage sehr wohl beschleunigt werden.
Vorstoß Trotzkis und Sinowjews
zeugung, daß ohne Amerika nicht einmal die Mobilisierung eines für das französische Geldbedürfnis wirklich ins Gewicht fallenden Teiles der deutschen Dawes-Obligationen möglich ist, hat hier stark ernüchtert. in dieser Frage so eindeutig festgelegt, daß ein Umfallen kaum mehr möglich ist. Eine innerpolitische Krise könnte durch Poincarés Haltung in der Schuldenfrage sehr wohl beschleunigt werden. Vorstoß Trotzkis und Sinowjews gegen die Unterbindung der Diskussionsfreiheit. Moskau, 4. Okt. (Taß.) Die Führer der Opposition, Sinowjew, Trotzki, Radek, Pjapatow, Smilga und Sapronow, begaben sich heute, ungeachtet des Beschlusses der kommunistischen Partei über die Unzulässigkeit jedweder Diskussion, in die Moskauer Fabrik " Aviopribor ", um dort eine Diskussion einzuleiten. Die kommunistischen Arbeiter dieser Fabrik deckten die fraktionelle Handlungsweise der Opposition auf und nahmen eine Resolution an, in der das Auftreten der Oppositionsführer verurteilt wird. Das Moskauer Komitee der kommunistischen Partei forderte den Zentralausschuß der Partei auf, gegen die Mitglieder des Zentralkomitees, die die Parteibeschlüsse verletzt haben, Maßnahmen zu ergreifen. * Moskau, 4. Oktober. (United Preß.) Trotzki erklärt, die Meinungsverschiedenheiten zwischen ihm und Sinowjew seien völlig beigelegt. Beide seien scharfe Gegner der wirtschaftlichen und politischen Richtlinien, die die Majorität des Zentralexekutivausschusses der Partei befolgte. Insbesondere wendeten sie sich gegen die Gewohnheit, die öffentliche Kritik mundtot zu machen. In politischen Kreisen sieht man in dem Vorstoß Trotzkis das Signal zum offenen Kampfe der Partei, der seit dem Ausschluß Sinowjews aus dem politischen Bureau unter der Oberfläche geschlummert hätte. Auf den für den 25. Oktober festgesetzten Parteitag dürfte es zu den schärfsten Vorstößen der Opposition kommen.