Politika
- リャプチェフ政府の政策
ベオグラードの『ポリティカ』紙は、ブルガリア外交を論じた社説で、アンドレイ・リャプチェフ内閣はアレクサンダル・ツァンコフ教授の政府の路線を引き継いでいると論じた。同紙によれば、変わったのはやり方だけだった。前外相フリスト・カルフォフは粗暴で、自分の行動を隠せなかった。後任のアタナス・ブロフは有能で、巧みに立ち回る人物だとした。同紙は、ブロフの策動はすべてユーゴスラビアを出口のない立場に追い込み、背後から刺すためのものだと非難した。さらに、内閣の顔ぶれを知る者なら疑う余地はないと断じた。
この社説で読めたのは短い一節だけである。紙面の画像は汚れや退色がひどく、OCRは使えず、一節は文の途中から始まる。末尾には判読できない記号があり、[?]として残している。記事のそれ以外の部分は扱っておらず、そこに挙げられていたかもしれない具体的な外交行動もわからない。調査課題の一つだったブルガリア軍事同盟の役割は、参照できた資料では確認できなかったため、解説には含めていない。
翻訳
リャプチェフ政府の政策
ツァンコフ教授の政府に。違いはただ一点、前外務大臣カルフォフがより粗暴で、自らの行動を隠すすべを知らなかったのに対し、現在の大臣アタナス・ブロフは才能があり、実に巧みに立ち回るすべを心得ているということだけである。彼の策動はすべて、ひとつの厳密に定められた目的を持っている。すなわち、ユーゴスラビアを出口のない立場に追い込み、その背中に自らのナイフを突き立てることである。現内閣の顔ぶれを知る者なら、われわれの言うことを何ひとつ疑うことはできない。[?]
解説
ツァンコフからリャプチェフへ:1926年1月のソフィアの政権交代
この社説は、ブルガリアの二つの政府を比べている。政治経済学の教授だったアレクサンダル・ツァンコフは、1923年6月9日にアレクサンダル・スタンボリイスキを倒したクーデターで主導的な役割を果たした。その後、1926年1月4日まで首相を務め、国のための借款を得られずに退陣した。同じ日、アンドレイ・リャプチェフが民主同盟と国民自由党の連立政権を率いて首相に就いた。外相にはアタナス・ブロフが就任し、1931年6月まで務めた。ブロフの前任は、ツァンコフ自身の後を継いで外相となったフリスト・カルフォフで、社説が「粗暴な」カルフォフと「有能な」ブロフを対比するのはこのためである。リャプチェフは共産党系の囚人に恩赦を与えるなど、前任のツァンコフより概して穏健な路線をとったとされる。『ポリティカ』は新政府の外交についてこの見方を退け、変わったのは手法だけで目的は同じだと主張した。
ベオグラードが内閣を疑った理由:リャプチェフとマケドニア問題
社説は「現内閣の顔ぶれを知る者」なら疑念が理解できるとほのめかしており、これはマケドニア問題を指している。リャプチェフ自身は、当時オスマン帝国領だったマケドニアの町レセンの出身だった。1926年にはこの地域はユーゴスラビア領で、現在は北マケドニアにあたる。リャプチェフはまた、内部マケドニア革命組織(IMRO)の活動を黙認したとして批判され、そのためにユーゴスラビアやギリシャとの関係が悪化した。第一次世界大戦後、IMROはマケドニアの分割に反対し、ブルガリア国内のペトリチ周辺の拠点からギリシャ領やユーゴスラビア領へ襲撃を繰り返した。1923年にユーゴスラビアと結んだニシュ条約でブルガリア国内の拠点が脅かされると、IMROはスタンボリイスキを暗殺して応じた。ベオグラードの新聞から見れば、マケドニア出身でIMROを黙認する首相の存在は、敵意の表れと映ったのである。
アタナス・ブロフ:別の記録に見る「巧みな策士」
『ポリティカ』はブロフを、有能だが二枚舌の策士として描いた。しかし彼の経歴を伝える記録は、同じ外相をかなり違う姿で描いている。ブロフはパリで学んだ銀行家で、人民党の指導者の一人だった。外相としてはブルガリアの国際的な印象と近隣諸国との関係の改善に大きく貢献したとされ、国際連盟の政治委員会の委員にも選ばれた。財務相とともに難民借款と安定借款の交渉もまとめた。この記述ははっきりと称賛調なので、これも中立的な評価とはいえない。それでも、社説の論理を理解する助けにはなる。ブルガリアや国際連盟の側が評価した洗練された外交と国際的な地位こそ、『ポリティカ』が偽装とみなしたものだった。同紙の見方では、ブロフの巧みさは、敵意を隠さなかった前任者より彼をかえって危険な存在にしていた。ユーゴスラビアの背中に「ナイフを突き立てる」という表現は同紙自身の非難であり、確かめられた事実ではない。
1926年以後、IMRO問題はどうなったか
この社説の背後にある不安は、ブルガリア・ユーゴスラビア国境をまたぐIMROの活動と結びついていた。1926年以後の出来事は、その活動がどう終わったかを示している。戦間期のIMROはクロアチアのウスタシャと協力し、その最大の標的となったのが、1934年にフランスで暗殺されたユーゴスラビア国王アレクサンダル1世だった。同じ1934年、ブルガリアでクーデターが起きると、ブルガリア軍はペトリチのIMRO拠点を制圧し、組織は周縁的な勢力に転落した。これらの後の出来事は、1926年に『ポリティカ』がブロフに向けた具体的な非難を証明するものではない。ただし、ブルガリア領内から活動する武装マケドニア組織へのユーゴスラビアの不安が、現実の長く続く脅威に根ざしていたことはわかる。また、ブルガリア政府がペトリチのIMRO拠点を抑え込んだのは、1934年の制圧が初めてだったことも示している。
原文
ПОЛИТИКА ЉАПЧЕВЉЕВЕ ВЛАДЕ.
на владу професора Цанкова. Разлика је само у томе, што је бивши Министар Спољних Послова, Калфов, био грубљи и није умео да скрива своје поступке, док је данашњи Министар Атанас Буров талентован и врло вешто уме да маневрише. Сви његови маневри имају један строго одређени циљ: да се Југославија нађе у безизлазном положају, како би јој свој нож забио у леђа. Ко познаје састав садашњега кабинета, тај не може сумњати у све што кажемо. [?]