Il Piccolo
- イタリア抜きでもなく、イタリアに敵対するのでもなく
- フランス政府、譲らず
- 月末の決済
1926年10月1日付のイル・ピッコロには、性格の異なる3本の記事が載った。1本目はローマのトリブーナ紙の論説を長く引用したもので、ムッソリーニとオースティン・チェンバレンの会見を、もはやイタリア抜きでヨーロッパは動かせないことの証しとして描いた。ブリアン・シュトレーゼマン会談にこびへつらうイタリア国内の社会民主主義系新聞をあざけり、タンジールやアビシニアの問題は最近の合意ですでに明確になっていると論じた。パリからは、抗議に来た議員代表団に対し、ポアンカレが行政改革の政令一つ一つに信任問題をかけ、修正には一切応じないと告げたことを伝えた。ジェノヴァとトリノからは、取引所の月末決済が停止されたことを報じた。仲買人の支払不能が相次ぎ、ジェノヴァの仲買人の破綻でイタリア銀行への証券の引き渡しが滞ったと報じた。この読み取りは選ばれた3本の抜粋に限られ、紙面のほかの記事は含まない。
翻訳
イタリア抜きでもなく、イタリアに敵対するのでもなく
[?] 当然ながら、ヨーロッパの新聞の多くと少なからぬ政治家が至る所で、イタリア抜きの(それはすなわちイタリアに敵対する)ヨーロッパ政策がありうると信じ続けている以上、イタリアの行動、イタリアの立場、イタリアの権威を認めることは、苛立たしい驚きであり、苦々しい現実の確認である。とりわけその承認が、世界の関心を集め、イタリアの勝利がその擁護者として生み出した人物、すなわちムッソリーニに向けられねばならないときには、なおさらである。当然ながら、国内にはなお社会民主主義系の新聞があり――と同紙は続ける――ブリアン・シュトレーゼマン会談の扉の外で喜んで尻尾を振り、ポアンカレとドイツの断固たる要求との間の仲裁役を買って出ようと躍起になって、旧来のイタリアがいかにしてヨーロッパ政治の周縁に置き去りにされ、他国同士のあらゆる和解――イタリアを傷つける結果となったものまで含めて――に対して滑稽で弁明がましい役割を演じていたかを示している。しかし、それを確認したうえでも事態は変わらず、現実はムッソリーニとチェンバレンの会見が、新聞の演出抜きに静かに示しているとおりである。会談の議題となりうるその他の問題については、タンジールやアビシニアの問題のように、最近到達した条件ですでに明確であり、両大臣の合意は両政府間のすでに明白な一致点を再確認するほかない。さらに、大陸全体に及ぶこれほど広大で複雑な危機における大きな指導方針について、検討が行われる可能性もある。そして確かに、これらの方針について、外交の目先の事情を好まないムッソリーニには、見るべきもの、言うべきことがある。しかしこの検討は、とりわけイタリア首相と英国外相を結ぶ親愛の情に結びついたものであり、具体的な取り決めや新聞向けの列挙の対象にはなりえない。確かに想像できるのは――とトリブーナ紙は結ぶ――このような対話においては、ここ数年われわれがありがたくも与えられ、今も与えられている数多くの国際的な弁士や会議におけるよりも、はるかに核心に、間近に真実に触れるということである」。[?]
フランス政府、譲らず
[?] ポアンカレ氏は、行政改革のいくつかの方式に反対する議員代表団を迎えた際、抗議が丁重かつ友好的な形でなされたことに謝意を述べた。そして代表団がこの申し入れは政治的性格を持たないと強調したことを受けて、政府は全会一致で政令を厳格に守ることを決定しており、いかなる修正も退けて、そのそれぞれについて信任問題をかけるであろうと表明した。ポアンカレ氏はさらに、議会は適当と判断するいかなる修正も加える権能を持つであろうと付け加えた。政府の強硬な態度が内閣危機を招きかねないとの懸念を示した一部の議員に対し、ポアンカレ氏は、そのような場合にも別の挙国一致内閣を組織するのは難しくないだろうと答えた。[?]
月末の決済
[?] ジェノヴァ、30日 本日の取引所は神経質な一日となり、いくつかの支払不能者の状況をできる限り良い形で解決しようとするため、恒例の月末決済は行われなかった。この目的のため、取引所仲買人組合と仲買人自身が個人的に尽力し、猶予を与え、内入れ金を受け入れている。これはまた、とりわけ多くの商人を危機的な立場に追い込まないためでもある。したがって取引は一切なく、多くの不安を鎮めるためだけに、おおよその価格が付けられたにすぎない。この沈静化の努力には、取引業者も仲買人も等しく誠意をもって取り組んでいる。トリノ、30日 決済は本日中に締めくくることができず、それどころか月曜日までは各ポジションが最終的に確定しないと見込まれている。本日までに、仲買人3人(マルティーニ、ビアンコ=デ・コジミ、クラウディオ・トレヴェス)、取次業者3人、有力な取引業者2人が支払不能を申し出ていた。決済停止をもたらした原因については、ジェノヴァの仲買人ウーゴの破綻を指摘しておかねばならない。当地の多くの業者が彼と取引関係にあった。そのため彼らは、まさにウーゴから受け取るはずだった証券を、イタリア銀行へ規定どおり引き渡すことができなくなった。ゴンザーガ将軍、民兵隊司令官を辞す フィレンツェ、30日
解説
チェンバレン・ムッソリーニ会談はなぜ憶測を呼んだのか
イル・ピッコロが引用したトリブーナ紙の論評は、ムッソリーニとチェンバレンの対話は個人的な「親愛の情」に基づくもので、「具体的な取り決めや新聞向けの列挙の対象にはなりえない」と強調した。これは二人の実際の会い方と合っている。歴史家ピーター・エドワーズはチェンバレン文書と英伊の外交文書を用いて、チェンバレンの外相在任中(1924年11月〜1929年6月)に二人が5回、補佐官も通訳も置かずに完全な密室で会ったことを示した。二人ともフランス語に堪能だったからである。会談後の声明は個人的な友情と政治的な調和を強調するばかりで、話し合った議題には触れなかった。この曖昧さが密約や裏取引の噂を呼び、ムッソリーニは後に、これらの会談で英外相からイタリア外交政策の承認を求め、得ているという広く流布した見方を公に否定せざるをえなくなった。エドワーズが注で挙げる新聞資料には、この紙面と同じ1926年10月1日付のコリエーレ・デラ・セーラが含まれている。エドワーズは史料に基づき、当時の憶測の多くは的外れだったと結論づけている。ヨーロッパはイタリア抜きでは立ち行かない、タンジールやアビシニアの問題はすでに明確だ、というトリブーナ紙の主張はファシスト系新聞自身の描き方である。外交史料から確かめられるのは、会談が非公開だったことと、声明の中身が乏しかったことである。
議員団がポアンカレに抗議した政令とは何か
議員代表団がポアンカレに抗議した「行政改革」は、1926年8月3日法に基づき歳出削減策として出された政令(デクレ・ロワ)によって進められた。最もよく知られた1926年9月10日の政令は、フランスの郡庁286のうち106と、県事務総長のポスト70を廃止した。これは同年8月3日法の第1条に基づく政令だった。改革はもともと1922年にルイ・マランの議会委員会が提案したが、1923年の報告書は抵抗に遭った。1926年に首相に返り咲いたポアンカレは、増税と並ぶ財政立て直しの一環としてこれを断行した。農村部の県の中には郡庁を二つ失ったところもあり、再編は裁判所や憲兵隊の駐屯地にも及んだ。この記事からは、政令が議会にかけられた際に政府がそれをどう守ろうとしたかがわかる。一つ一つを信任問題とし、修正は退ける。そしてポアンカレは、内閣が倒れても別の挙国一致内閣は容易に組めると牽制した。改革はおおむね維持され、1930年代に一部の県で若干の修正が加えられたにとどまった。
取引所の混乱とムッソリーニのリラ政策
ジェノヴァとトリノの決済停止は、ムッソリーニが1926年8月18日にペーザロで演説してから6週間後のことだった。この演説は、のちに「クオータ90」と呼ばれるリラ切り上げを表明したもので、1927年12月までに1ポンド=92.46リラに固定することを目指していた。これは彼が政権を握った1922年の相場水準である。これは1929年以前の同政権で最も物議を醸した政策と評されている。財務相ジュゼッペ・ヴォルピ自身が行き過ぎた過大評価だと考え、多くの歴史家は経済的な計算より政治的な意志の誇示だったと見ている。ムッソリーニは1926年8月8日付の書簡で、体制の命運はリラと結びついていると書いた。ここで訳した二つの決済記事は通貨に触れていない。記事が挙げた原因はもっと限られたものだった。トリノで仲買人3人、取次業者3人、有力な取引業者2人が支払不能を申し出たこと、そしてジェノヴァの仲買人ウーゴの破綻によって、トリノの業者がイタリア銀行へ証券を引き渡せなくなったことである。記事はこれらの個別の破綻をリラ切り上げ政策と結びつけておらず、ここで挙げた資料もその関係を示してはいない。示されているのは、取引所が置かれていた政策上の環境である。
原文
Nè senza nè contro l'Italia
[?] Naturalmente, poichè c'è dappertutto molta stampa europea e anche non pochi uomini politici, i quali continuano a credere che ci possa essere una politica europea senza l'Italia (il che significa contro l'Italia) il riconoscimento di un'azione italiana, di una posizione italiana, di una autorità italiana è una sorpresa irritante, una constatazione tormentosa. Soprattutto quando questo riconoscimento si deve rivolgere all'uomo che interessa il mondo e che la vittoria italiana ha espresso come suo rivendicatore: a Mussolini. Naturalmente c'è ancora una stampa nostrana socitl-democratica - continua il giornale - la quale, scodinzolando di gioia fuori dell'uscio del colloquio Briand-Stresemann e sbracciandosi a fare da pacere tra Poincaré e le rivendicazioni categoriche della Germania, mostra come la vecchia Italia si faceva lasciare ai margini della politica europea in una funzione grottesca e apologetica di tutte le riconciliazioni altrui, anche di quelle che si incontrarono a offendere l'Italia. Ma questo constatato, le cose non mutano, e la realtà è quella che l'incontro di Mussolini con Chamberlain indica tranquillamente, senza messa in scena giornalistica. Quanto ad altri problemi che possono essere argomento del colloquio, sono, come quelli di Tangeri e dell'Abissinia, già chiari nei termini recentemente raggiunti, e le intese dei due ministri non possono che riconfermare i già evidenti punti di accordo fra i due Governi. C'è poi quell'esame possibile delle grandi direttive orientatrici in una così vasta e complessa crisi come quella che tocca tutto il Continente. E certo, in queste direttive, Mussolini, che non ama il contingente diplomatico, ha da vedere e da dire. Ma questo esame è più particolarmente connesso alla simpatia che lega il Primo Ministro italiano con il ministro degli Esteri britannico, ed esso non può essere materia di definizioni concrete e di elencazioni giornalistiche. Certo si può immaginare - conclude la Tribuna, che in una conversazione simile, si toccano nel vivo e da vicino le verità assai più che non nei molteplici oratori e consessi internazionali, di cui siamo stati e siamo gratificati da alcuni anni». [?]
Il Governo francese tien fermo
[?] Il signor Poincaré, nel ricevere la delegazione parlamentare, contraria ad alcune modalità della riforma amministrativa, ha ringraziato i delegati per la forma cortese e amichevole della protesta, e poichè essi tenevano a rilevare che il passo non aveva carattere politico, ha dichiarato che il Governo unanime aveva deciso di attenersi rigorosamente ai decreti e che porrà la questione di fiducia su ciascuno di essi, respingendo qualsiasi emendamento. Il signor Poincaré ha aggiunto che il Parlamento avrà la facoltà di portare qualsiasi modificazione che sia giudicata conveniente. Ad alcuni deputati che hanno espresso il timore che l'atteggiamento inflessibile del Governo possa provocare una crisi di Gabinetto, il signor Poincaré ha risposto che in caso simile non sarà difficile costituire un altro Gabinetto di unione nazionale. [?]
La liquidazione di fine mese
[?] GENOVA, 30 Oggi alla Borsa vi è stata una giornata di nervosismo e la consueta liquidazione di fine mese non si è verificata, onde veder di risolvere la situazione di vari insolventi nel miglior modo possibile. A tale scopo il Sindacato agenti di Borsa e gli agenti stessi, personalmente si adoperano concedendo proroghe e accettando acconti. E questo anche per non mettere in critica posizione molti commercianti in modo speciale. Nessuna operazione quindi, e sono stati fatti solamente dei prezzi in via approssimativa, tanto per calmare le molte apprensioni. A quest'opera di tranquillizzazione si dedicano con ogni buona volontà tanto gli operatori che gli agenti di cambio. TORINO, 30 La liquidazione non ha potuto chiudersi entro oggi, anzi si prevede che fino a lunedì le posizioni non saranno definitivamente delineate. A tutt'oggi si erano dichiarati insolventi tre agenti di cambio (Martini, Bianco-De Cosimi, Claudio Treves) tre commissionari e due importanti operatori. Intorno alle cause che hanno determinato la sospensione della liquidazione, va segnalato il disastro dell'agente di cambio Ugo di Genova, con cui molti dei nostri professionisti erano in rapporti d'affari. Essi si sono quindi trovati impossibilitati a fare alla Banca d'Italia le consegne regolari dei titoli che attendevano appunto dall'Ugo. Il gen. Gonzaga abbandona il comando della Milizia FIRENZE, 30
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