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· ウィーン(オーストリア) · ドイツ語

Neue Freie Presse

1926年10月1日付のノイエ・フライエ・プレッセは、ドイツ、フランス、ベルギーと周辺地域の生産者による新たな鉄協定を歓迎するウィーン発の社説を冒頭に掲げた。社説はカルテルの危険を認めつつも、ルールの石炭とエルザス=ロートリンゲンの鉱石を引き裂いたのは愚行だったと論じた。そして、重工業の古い排外主義が退き、平和になっても戦争を続ければヨーロッパの繁栄を壊すという認識に代わったと主張した。ワルシャワからは、上院による暫定予算の削減をセイムが受け入れた後、カジミェシュ・バルテル内閣が総辞職したと報じた。バルテルは辞職前にモシチツキ大統領、ピウスツキ元帥と協議し、その後セイムは左派による自主解散の動議を否決したと伝えた。第1面には、ミュージアム友の会による第5回展の評の冒頭も載った。この展覧会は、研究者が近年になってようやく取り組み始めた中世オーストリア美術を扱うものだった。

翻訳

パンヨーロ…への第一歩:

ウィーン、10月1日。鉄協定は何よりもまず平和の事業である。前年の生産量を基礎として、ドイツ、フランス、ベルギー、そして周辺地域に割当量が配分され、それによって安定した操業が可能になる。われわれはカルテルへのいかなるロマン主義とも無縁であると自覚しており、今回の協定には、否定も隠蔽もされるべきではない危険がはらまれている。だが、これだけは明らかだ。この条約には最も完全な心理的変化が表れており、しかもそれは、両陣営に最も激しい排外主義が感じられた重工業においてこそ起きているのである。その排外主義は、ルール地方をフランスの望みに奉仕させようという計画に現れ、またラインラントの帝国主義者たちが、ロンウィとブリエを保持し、できればベルギーの炭鉱までも手に入れようとした考えにも現れた。二つの幻想、二つの夢はいずれも、石炭と鉱石は経済的に一体であり、ルール地方とエルザス=ロートリンゲンは一体であって、強制的な境界線を差し挟み、同じ目的に役立つ二つの不可欠な資源を引き裂くことは愚行の最たるものだという自然な感覚から生まれたものだった――講和が求めた義務的な引き渡しは別としても。ある著名なオーストリアの作家の言葉を借りれば、二つの誤りはどちらも最後まで生き尽くされねばならなかった。あらゆる破滅の可能性が試し尽くされ、使い尽くされねばならなかった。そうしてようやく両国の経済指導者たち、産業界の大立者たちは悟ったのである。互いに相手を押さえつけ合うことには何の意味もない、相手の損害の中に利益を求めるのは狂気の沙汰だ、平和になってもなお戦争を続け、そうしてヨーロッパの繁栄という建物全体を揺るがすのは犯罪だ、と。[?]

ポーランド政府、再び総辞職

[?] バルテル政府は、セイム(下院)が午後の会議で、国家が決定した暫定予算歳出の5億4000万ズウォティへの削減に同意した後、大統領に辞表を提出した。大統領は辞表を受理し、政府の閣僚たちに引き続き事務を執るよう委ねた。セイムの会議は午後4時、全体に緊張が漂うなかで始まっていた。ポーランド・ルーマニア通商条約を処理した後、議院は暫定予算の審議に入った。見積額を4億5000万ズウォティに削減するよう求める上院の修正案が、右派諸党の賛成により僅差の多数で可決されると、バルテル首相は立ち上がり、セイム議長に対し、会議を午後8時半まで休会するよう求めた。セイム議長はこの要請を受け入れ、騒然とした空気のなかで会議を休会とした。首相はその後モシチツキ大統領のもとへ赴き、長時間にわたって協議した。ピウスツキ元帥も加わったこの協議の後、バルテル首相は内閣総辞職の辞表を提出した。夜の会議でセイム議長が、政府が辞表を提出し、大統領がこれを受理したと伝えると、左派諸党の代表は、セイムが自らの解散を決議するよう動議を提出した。この動議は否決され、解散に反対する対案が可決された。情勢はいまや全く不透明である。セイムの次の会議は書面で招集される。

ウィーンの美術展覧会

ウィーンの美術展覧会。II. 中世のHeimat…の展覧会は、ミュージアム友の会が催すシリーズの第5回にあたり、…芸術的に最も価値あるものではないにせよ、…定の観点から見れば、これまでの…の中で最も興味深い。より広い層にとってだけでなく、収集家や専門家にとっても、この展覧会は実のところ…一度、見通しのよい形で、芸術家と作品についての詳しい知…を伝えてくれる。それらは――少数の例…――ごく最近まで、ほとんど、あるいは全く…いなかった。ここ数年になってようやく研…の一群がこれに取り組むようになったのであり、それゆえ…明…この分野ではなお問題含みと言える…。ミュージアム友の会の書記であるF・オットマン博士は、薄い小冊子『オーストリ…絵画 中世』(Oesterreichisch…出版、1926年)において、これまでそれについて…ことを…形で簡潔にまとめた。美術愛好家であり[?]でもあるF・キースリンガーは、叢書『アルテス・アウストリアエ』(Wi…出版)で、彫刻について価値ある多くのことを発表している。いわばこの展覧会がもたらす[?]への補足として、Amalth…に掲載されたF・ライヒマンの研究「

解説

鉄鋼カルテルの割当制度の実際

社説は、前年の生産量を基に割当量がドイツ、フランス、ベルギーと「周辺地域」に配分され、それが安定した操業を可能にすると述べる。1926年9月20日に成立した国際鉄鋼協定は、ドイツ、フランス、ベルギー、ルクセンブルクの業界代表からなる評議会が運営した。協定は加盟各社の総生産量をもとに、四半期ごとに各国の生産割当を定めた。各国のグループは自国全体の割当遵守に責任を負い、割当を超えた生産には1トンにつき4ドルを協定に支払う義務があった。この額はまもなく高すぎるとされ、何度か引き下げられた。社説は協定に危険があることを認めているが、実際に割当制度はすぐに緊張にさらされた。1924年末から通貨の安定が戻ったことで回復していたドイツの製鉄業は、1926年9月から12月にかけて割当を9〜25%上回り、270万ドルの罰金を支払った。1927年初めからは、ドイツの生産者が割当の見直しを強く要求し、協定からの脱退をちらつかせた。

石炭と鉱石がルールとロレーヌを結びつけた理由

社説の中心的な論点は、石炭と鉱石は「経済的に一体」であり、両者の間に強制的な境界線を差し挟むのは愚行だというものである。これは実際の産業上の依存関係に基づいていた。フランスの製鉄業はドイツのコークスに大きく依存していた。北部・北東部フランスの石炭はコークスとして一部しか使えず、ロレーヌの石炭は全く使えなかったためである。社説がルール地方を「フランスの望みに奉仕させる」計画に触れているのは、1923年から1925年までのルール占領を思い起こさせる。その間、1924年8月のドーズ案はドイツの賠償支払いを同国の経済実績に連動させ、1925年には北フランスの炭田が1913年の水準を回復して、ドイツの石炭に対するフランスの締めつけは緩んだ。鉄をめぐる取引もすぐに続いた。協定の最初の決定の一つは1926年10月の、ドイツへの銑鉄供給に関する合意で、ドイツの需要の10.5%を対象とし、そのうち7.46%をロレーヌに、3.09%をルクセンブルクに割り当てた。フィナンシャル・タイムズによれば、この協定はロレーヌ鉄鉱石の大量の余剰を吸収する好手段だった。

欧州統合への「第一歩」としての鉄鋼協定

一部しか判読できない見出しは、この協定を汎ヨーロッパ的な目標への第一歩と位置づけている。社説も最後に「ヨーロッパの繁栄という建物全体」を揺るがすものを戒めている。これは当時の一つの思潮に合っていた。1920年代には国際カルテル協定が数多く結ばれ、欧州の一部の政府はそれを、国家間のより緊密な経済協力への第一歩とみなした。こうした考えのもと、グスタフ・シュトレーゼマンは、他の産業部門も「国境で止まることなく」鉄鋼業の例に倣ってほしいと述べた。1925年10月のロカルノ条約によって政治的協力も再び動き出しており、鉄鋼協定の設立文書は、ドイツの国際連盟加盟をめぐる高揚感のなかで「ヨーロッパ経済連合」という言葉を用いた。ただし、こうした期待は話の一部にすぎなかった。カルテルの目的は価格の維持と割当の配分だったが、価格の固定にはほとんど成功せず、1929年に始まった大恐慌の激動を乗り切れなかった。輸出の調整に限定した、より控えめな後継協定が1933年2月に発足した。

予算対立がバルテル第3次内閣を終わらせた経緯

ワルシャワ発の記事が伝えるのは、セイムと、1926年5月のユゼフ・ピウスツキのクーデター後に成立した政府との深い対立の表面にすぎない。このクーデターの後にバルテルは首相となっていた。バルテル内閣はすでに不安定だった。1926年9月20日、キリスト教民主党は、国家行政で政治的粛清を行ったとしてアントニ・スイコフスキとカジミェシュ・ムウォジャノフスキの2閣僚に対する不信任を可決し、内閣は総辞職に追い込まれた。ピウスツキはその後モシチツキ大統領にバルテルを再任させたが、この第3次内閣はわずか4日しか続かなかった。9月30日についての後年の記述は、上院が予算削減を迫り、セイムがそれを可決し、その後バルテルがモシチツキの私邸を訪れたという点で本紙の伝える経過と一致する。ただしその記述は、バルテルが大統領の署名を要する解散の文書を携えていたが、モシチツキは署名を拒んでバルテルに職を退くよう命じたこと、そして内閣はそのまま残り、バルテルの後任にはピウスツキ自身が就くことになったことを付け加えている。情勢は「全く不透明」だという本紙の結びは、ピウスツキ自身がバルテルの後を継いで首相となる直前に書かれたものだった。

原文

Der erfte schritt zu Baneuro:

Wien, 1. Oktober. Der Eisenpakt ist vor allen Dingen ein Werk des Friedens. Auf Grund der Produktion des vorigen Jahres werden an Deutschland, Frankreich und Belgien und an die Randgebiete Quoten verteilt, die eine stabile Arbeit ermöglichen. Wir wissen uns frei von jeder Kartellromantik, und die jetzige Vereinbarung birgt Gefahren in sich, die weder geleugnet, noch verschwiegen werden sollen. Aber so viel ist klar: In diesem Vertrage offenbart sich die vollkommenste psychologische Veränderung, und das geschieht gerade der Schwerindustrie, wo der wildeste Chauvinismus auf beiden Seiten zu spüren war. Er zeigte in dem Plane, das Ruhrgebiet französischen Wünschen dienstbar zu machen, und in der Idee der Imperialisten des Rheinlandes, Longwy und Briey zu behalten und womöglich noch die belgischen Kohlenwerke. Beide Illusionen, beide Träume, sie entsprangen dem natürlichen Gefühl, daß Kohle und Erz wirtschaftlich zusammengehören, Ruhrgebiet und Elsaß-Lothringen, und daß es der Narrheiten größte ist, eine Zwangslinie einzuschalten und zwei unentbehrliche Hilfsmittel, die gleichem Zwecke dienen, auseinanderzureißen, abgesehen von den Pflichtlieferungen, welche der Friede gefordert hat. Beide Irrtümer mußten zerlebt werden, um das Wort eines bedeutenden österreichischen Schriftstellers zu gebrauchen, alle Möglichkeiten des Verderbens mußten abgeprobt und abgebraucht sein, ehe die wirtschaftlichen Führer beider Staaten, ehe die industriellen Großköpfe einsahen: Es hat gar keinen Sinn, sich gegenseitig niederzupressen, es wäre Wahnsinn, Vorteile im Schaden des anderen zu suchen; es wäre Verbrechen, den Krieg auch noch im Frieden fortzusetzen und auf diese Weise das ganze Gebäude der europäischen Prosperität zu erschüttern. [?]

Neuerliche Demission der polnischen Regierung.

[?] Die Regierung Bartel hat, nachdem der Sejm in seiner Nachmittagssitzung der vom Staat beschlossenen Herabsetzung der Ausgaben des Budgetprovisoriums auf 540 Millionen Zloty zugestimmt hatte, dem Staatspräsidenten die Demission überreicht. Der Präsident hat die Demission angenommen und die Mitglieder der Regierung mit der Weiterführung der Geschäfte betraut. Die Sitzung des Sejms hatte unter allgemeiner Spannung um 4 Uhr nachmittags begonnen. Nach Erledigung des polnisch-rumänischen Handelsvertrages begann das Haus die Debatte über das Budgetprovisorium. Als die vom Senat beschlossenen Amendements, die eine Herabsetzung des Voranschlages auf 450 Millionen Zloty verlangen, mit den Stimmen der Rechtsparteien mit einer kleinen Mehrheit angenommen wurden, erhob sich Ministerpräsident Bartel und ersuchte den Sejmmarschall, die Sitzung bis halb 9 Uhr abends zu unterbrechen. Der Sejmmarschall stimmte diesem Verlangen zu und unterbrach die Sitzung unter allgemeiner Erregung. Der Ministerpräsident begab sich hierauf zum Präsidenten Moscicki, mit dem er längere Zeit konferierte. Nach dieser Konferenz, an der auch Marschall Pilsudski teilnahm, überreichte Ministerpräsident Bartel die Demission des Gesamtkabinetts. Als in der Abendsitzung des Sejm der Sejmmarschall mitteilte, daß die Regierung ihre Demission gegeben habe und diese vom Präsidenten angenommen wurde, stellten die Vertreter der Linksparteien den Antrag, der Sejm möge beschließen, sich aufzulösen. Der Antrag wurde abgelehnt und ein Gegenantrag, der sich gegen die Auflösung ausspricht, angenommen. Die Lage ist nun vollkommen ungeklärt. Die nächste Sitzung des Sejms wird auf schriftlichem Wege einberufen werden.

Wiener Kunstausstellungen.

Wiener Kunstausstellungen. II. Die Ausstellung mittelalterlicher Heimat fünfte in der Reihe der vom Verein der Museumsfreunde veranstaltete, ist, wenn leicht nicht die künstlerisch wertvollste, doch von stimmten Gesichtspunkte aus die interessanteste herigen. Nicht nur weiteren Kreisen, sondern Sammlern und Fachleuten vermittelt sie eigentlich mal in übersichtlicher Weise die nähere Bekan Künstlern und Werken, die - wenige ausge bis vor recht kurzer Zeit noch kaum oder gar n waren. Erst in den letzten Jahren hat sich ein gr von Forschern damit beschäftigt, und so ist es kla auf diesem Gebiet noch problematisch genannt w In einem schlanken Bändchen: " Oesterr Malerei. Mittelalter " (Oesterreichisch verlag 1926), hat Dr. F. Ottmann, der Sekretär des Vereines der Museumsfreunde, i Form knapp zusammengefaßt, was bis jetzt darü ist. F. Kieslinger, Kunstfreund und [?] hat in der Serie " Artes Austriae " (Wi verlag) manches Schätzenswerte über die Plastik veröffentlicht. Gewissermaßen als Ergänzung [?] diese Ausstellung bringt, kann die im Amalth schienene Studie von F. Reichmann: "

紙面の出典:Source: Oesterreichische Nationalbibliothek / ANNO

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