Journal de Genève
- 放棄か?
- 義務兵役制に反対して
- 接近政策とドイツの世論
1926年10月1日付のジュルナル・ド・ジュネーヴ第1面は、J. M.の署名入り社説を冒頭に掲げ、国民投票運動の初めにあたって、連邦による恒久的な穀物専売に反対する第一の理由を示した。社説は、戦時中にパンと石炭を国家が管理したことは非常時の必要だったと認めつつ、平時に国家が輸入を独占することは国家主義への危険な飛躍だと論じた。その下でフェイレル大佐は、義務兵役制の廃止を国際連盟に求めた平和主義者の宣言を批判した。スイス人署名者のオーギュスト・フォレルとレオナール・ラガツを名指しし、長く続いた義務兵役制こそスイスの存立と自由を支えてきたと主張した。ベルリン発の記事は、トワリー会談とロカルノをめぐるドイツの反応を伝えた。独仏同盟を口にする新聞がある一方、テークリッヒェ・ルントシャウ紙はまず占領軍と軍事管理を終わらせるよう求めていたと報じた。
翻訳
放棄か?
何かをすることによって、個人の責任感と個人の創意の発揮はいっそう完全に消し去られる。国家存亡の危機にあっては、個人の権利を一時的に国家の手に委ねることが必要であるという点には、われわれもまったく同意する。戦時中、国民を養うためのパンと暖をとるための石炭を確保しなければならなかったとき、国外で必要な買い付けを行い、それを交戦諸国のただ中にあってスイスが形づくっていた平和の小島まで運び込めるほど広範な権限を握っていたのは、連邦だけであった。そして、その日々のパンを確保しなければならなかった以上、連邦は農民に穀物のより集約的で、より広い栽培を求める権利があった。そこで連邦は、当時のほうが収益の多かった牧草地を農民に耕させ、それによって彼らに生じさせた損失を補償しなければならなかった。だからこそ、われわれはまた、戦時中および戦争直後の時期に、連邦が一時的に穀物専売を引き受けるのはやむを得ないと考えたのである。
今日、問題はまったく別である。国家が決定的に、恒久的に穀物商人となるのかどうか。外国からの小麦輸入の独占権を、自らに――あるいは自らに従属し、双子の姉妹のように自らに似た会社に――留保するのかどうか、ということである。言い換えれば、すでにわれわれにこれほどの害をもたらしてきた国家主義の方向へ、大きく飛躍しようというのか。国家に途方もない新たな権限を与えようというのか。個人の創意をさらに制限し、ますます縛りつけようというのか。
穀物専売については、専門家にその仕組みの全体を説明してもらい、それ自体として検討するつもりだが、国民投票運動の初めにあたっては、目下生じている政治問題の全体的な枠組みの中に位置づけなければならない。それは国家主義の新たな勝利、私的創意に委ねられた領域への国家の新たな侵入を確定させることになるだろう。これこそ、われわれがそれに反対する第一の理由――しかも決定的な理由――である。
J. M.
義務兵役制に反対して
「義務兵役制は人格の堕落とあらゆる自由の破壊をもたらす!」この一文は、きわめて平和主義的なさまざまな人々が国際連盟に宛てた宣言から抜き出したものである。宣言は、完全軍縮への第一歩として、あらゆる国で義務兵役制を廃止させることを連盟に求めている。われわれの同胞のうち二人が、上に引いた一文に署名した。フランス語圏スイス人である、イヴォルヌ在住の尊敬すべきオーギュスト・フォレル教授と、ドイツ語圏スイス人である、チューリヒ在住の尊敬すべきレオナール・ラガツ教授である。
二人は、自らがその誉れである国民を正確に観察したうえで、そこでは人格が堕落し、義務兵役制があらゆる自由を破壊したと断言できるのだろうか。これ以上決定的な実験に適した実験室はありえない。ヨーロッパのどの国民も、スイス国民ほど長く、また忠実に義務兵役制を実践してきたことはないからである。スイス国民は義務兵役制のおかげで誕生し、今日の存立もそのおかげである。つい1914年から1918年にかけても、スイス国民は――もちろん他の事情とあわせてではあるが――そのおかげで、戦争という災厄が国境のすべてに沿って押し寄せながらも、それを打ち破らずに過ぎていくのを見ることができたのである。
職業柄からも州の出自からも、ツヴィングリのことなら隅々まで知っているはずのラガツ氏は、この宗教改革者のうちに、チューリヒ的でありスイ-
接近政策とドイツの世論
ベルリン、9月28日(本紙特派員)
接近政策は引き続き、ドイツのあらゆる方面で強い関心を集めている。そして、その性格を浮き彫りにしたトワリーの会談は、当地ではロカルノでの諸会談の総仕上げとみなされている。トワリー会談は、昨秋その実現によって外交会議を実り豊かに補い、善意を歩み寄らせることで会議に一層のまとまりを与えたのと同じ理念に基づいていた。それゆえドイツの共和派は、この伝統的手法の民主化を、これから結ばれる協定の保証とみている。彼らによれば、今日、外交はもはや強者の権利の上に立ってはいない。外交はいわば非軍事化され、平和を目指して、かつてはサーベルが断ち切っていたゴルディオスの結び目をほどこうと努めているのである。
ドイツの世論が緊張緩和と協調の政策の意義を測るのは、この観点からである。そして議会関係者は、トワリーでの差し向かいの会談を、相互の善意が両国民にとって満足のいく解決に至ることの確かな証拠とみている。道筋は示された。だが、その道を切り開くには、なお多くの作業が残っている。確かに、いくつかの新聞は――普段はきわめて落ち着いているゲルマニア紙でさえ――実現した接近を目にした喜びに押し流され、早くも独仏同盟を口にしている。
これに対し、テークリッヒェ・ルントシャウ紙はある種の慎重さを崩さず、「鉄カルテル結成に向けて経済分野で形をとりつつあるような、両国間の協力」しか想定していない。同紙は当面、もう一つの問題、すなわち占領の問題の解決を主張しており、それをまず片づけることが重要だという。同紙はこう述べる。「両国民のみならずヨーロッパにとっても必要であるこの協力の事業に取りかかる前に、そしてそれが真に実り豊かなものとなりうる前に、この協力を妨げ、不可能にしているものをすべて取り除かねばならない」。そしてこの公式紙は、次のように結論づけている。「ブリアン、チェンバレン両氏の一致した言明どおり、ロカルノ協定が、平和を得て、猜疑と憎悪と恐怖の道から離れようとする真の決意の正しい表明であるならば、占領軍と軍事管理はもはや存在理由を失っており、過ぎ去った時代の厄介な遺物にすぎない」。
ドイツの立場から見れば、論理を欠いてはいない理屈である。この点では、すべての政党が一致している。そして確かなことに、ドイツの世論は、ジュネーヴの総会で帝国が対等の立場で迎え入れられた以上、それは
解説
社説が反対した穀物専売はどうなったのか
J. M.が社説を書いたのは「国民投票運動の初め」であり、投票はそれから2か月余り後に行われた。1926年12月5日、スイスの有権者は、国家の穀物供給に関する第23条の2を連邦憲法に新設する連邦決議の是非を判断した。憲法改正であるため義務的国民投票となり、投票者の過半数と州の過半数という「二重の過半数」が必要だった。提案はその両方で否決されたが、投票者の票差はわずかで、賛成36万6507票(49.6%)に対し反対37万2049票(50.4%)だった。社説が線を引いたのはまさにこの点である。連邦が国外で穀物を買い付け、農民に牧草地を耕させた戦時の専売は認める一方、国家や国家に従属する会社が恒久的な輸入者になることは拒んだ。約5500票という差は、同紙が国家主義への賛否として描いた問題をめぐって、国内の意見がほぼ二分されていたことを示している。ただし、票数だけでは個々の有権者を何が動かしたのかまではわからない。
フェイレル大佐が標的にしたチューリヒの署名者ラガツとは誰か
レオンハルト・ラガツは改革派の神学者で、ヘルマン・クッターとともにスイスの宗教社会主義を創始した人物である。1908年にチューリヒ大学の組織神学・実践神学教授となった。ラガツは「職業柄からも州の出自からも」チューリヒの宗教改革者ツヴィングリに精通しているはずだ、というフェイレルの皮肉はこの経歴を踏まえている。ただし1926年の時点で「教授」という肩書きはすでに古かった。ラガツは1921年に教授職を辞していたからである。彼は社会民主党員でもあり、キリスト教の信念から積極的平和主義の立場で第一次世界大戦に反対し、1915年のツィンメルヴァルト会議の準備にも関わった。したがってフェイレル大佐から見れば、反徴兵宣言にラガツの名があるのは、戦争に反対してきた長年の公的な活動の延長にほかならなかった。
1926年9月、ベルリンはなぜジュネーヴとロカルノを転機とみたのか
ベルリン特派員がこの記事を書いたのは、ドイツが国際連盟に加盟した直後だった。ドイツは1926年9月10日、理事会の常任議席を得て連盟に迎えられた。記事にある「ジュネーヴの総会で帝国が対等の立場で迎え入れられた」とはこのことである。1925年のロカルノ条約で、ドイツ、フランス、イギリス、ベルギー、イタリアは独仏・独白国境の不可侵を保証し、非武装化されたラインラントを尊重し、紛争は連盟のもとで平和的に解決すると約束していた。交渉を主導したのは、ドイツのシュトレーゼマン外相と、テークリッヒェ・ルントシャウ紙がその言明を引いたフランスのブリアン、イギリスのチェンバレンである。チェンバレンは1925年、ブリアンとシュトレーゼマンは1926年のノーベル平和賞を受けている。トワリー会談がロカルノの「総仕上げ」だという評価は、特派員が伝えたドイツの新聞の見方である。
ドイツの新聞が終結を求めた占領と「軍事管理」とは何だったのか
ヴェルサイユ条約のもとで、ライン川以西のドイツ領は連合国軍に占領され、ドイツの軍縮は連合国の査察制度によって監督されていた。査察で、とりわけ10万人という陸軍兵力の上限をめぐって重大な違反が見つかると、連合国はケルン地区からの最初の撤兵予定を延期した。遅れていたイギリス軍のケルン地区撤退が実現したのはロカルノ後の1926年1月であり、特派員が記事を書いた時点でも、ラインラントの他の地域には占領軍が残り、軍縮の監督も続いていた。ラインラント占領を終わらせることは、シュトレーゼマン外相の目標の一つだった。ロカルノによって占領軍と軍事管理は「過ぎ去った時代の遺物」になったというテークリッヒェ・ルントシャウ紙の論法は、したがって一新聞の思いつきではなく、ドイツ外交の中心的な目標を表していた。この点では「すべての政党が一致している」という特派員の指摘とも符合する。その後の事態は同紙の求めた方向に進んだ。軍縮を監督する連合国管理委員会は1927年に解散し、最後の占領軍は、ヴェルサイユ条約の定めより5年早い1930年にラインラントを去った。
原文
Abdication ?
de faire une chose, on annihile plus complètement encore le sentiment des responsabilités personnelles et l'essor des initiatives de l'individu. Nous convenons parfaitement qu'en cas de péril extrême pour la nation, l'abandon momentané de droits personnels entre les mains de l'Etat est une nécessité: lorsque, pendant la guerre, il fallait assurer à notre population le pain pour la nourrir et le charbon pour la chauffer, seule la Confédération avait en mains des pouvoirs assez étendus pour effectuer au dehors les achats nécessaires et les faire acheminer jusque dans l'îlot de paix que formait la Suisse au milieu des nations en guerre. Et, comme il fallait assurer ce pain quotidien, la Confédération était en droit d'exiger des paysans une culture plus intense et plus étendue des céréales; elle les obligea donc à ouvrir des prairies qui à cette époque leur rapportaient davantage, et elle devait les dédommager des pertes qu'elle leur avait ainsi fait éprouver. Et c'est pourquoi, encore, nous avons estimé inévitable qu'elle assume momentanément, pendant la période de guerre et d'après-guerre immédiate, le monopole du blé. Aujourd'hui, c'est tout autre chose: il s'agit de savoir si définitivement, de façon permanente, l'Etat se fera négociant en céréales; s'il se réservera - à lui ou à une société qui dépendra de lui et lui ressemblera comme une sœur jumelle - le droit exclusif de l'importation des blés de l'étranger. Autrement dit va-t-on faire un bond considérable dans le sens de l'étatisme qui nous a déjà fait tant de mal? Va-t-on attribuer à l'Etat d'énormes compétences nouvelles? Va-t-on limiter encore, ligoter toujours plus l'initiative individuelle? Le monopole du blé, que nous étudierons pour lui-même, en demandant à un technicien de nous en exposer tout le mécanisme, doit, au début de la campagne populaire, être placé dans le cadre général des problèmes politiques qui se posent. Il consacrerait un nouveau succès de l'étatisme, un nouvel empiètement de l'Etat dans le domaine réservé à l'initiative privée. C'est pour nous un premier motif - et un motif péremptoire - de nous y opposer. J. M.
Contre le service militaire obligatoire
Contre le service militaire obligatoire «Le service militaire obligatoire entraîne la dégradation de la personnalité humaine et la destruction de toute liberté!» Cette phrase est détachée d'un manifeste que divers esprits éminemment pacifistes ont adressé à la S. d. N., pour obtenir d'elle l'abolition du service militaire obligatoire dans tous les pays, comme un premier pas vers un désarmement complet. Deux de nos concitoyens ont souscrit à la phrase reproduite ci-dessus, un Suisse romand, l'honorable professeur Auguste Forel, à Yvorne, et un Suisse allemand, l'honorable professeur Léonard Ragaz, à Zurich. Ont-ils exactement observé le peuple dont ils sont des illustrations pour pouvoir affirmer que la personnalité humaine y est dégradée et que le service militaire obligatoire y a détruit toute liberté? Aucun laboratoire ne saurait se prêter à une expérience plus concluante, car aucun peuple de l'Europe n'a pratiqué depuis plus longtemps ni plus fidèlement que le peuple suisse le service militaire obligatoire. Il lui a dû sa naissance et il lui doit son existence présente. Pas plus tard que de 1914 à 1918, il lui a dû, en même temps qu'à d'autres circonstances, naturellement, de voir le fléau de la guerre longer toutes ses frontières sans les renverser. M. Ragaz qui, professionnellement et cantonalement, doit connaître son Zwingli sur le bout du doigt, voit-il en ce réformateur la preuve d'une humanité zuricoise et helvéti -
La politique de rapprochement et l'opinion allemande
Berlin, 28 septembre. (De notre correspondant) La politique de rapprochement continue d'intéresser vivement tous les milieux en Allemagne. Et l'entretien de Thoiry, qui en a fait ressortir le caractère, est considéré ici comme le couronnement de ceux de Locarno. Il s'est inspiré de la même idée, dont la réalisation, l'automne dernier, a complété si fructueusement les conférences diplomatiques et leur a donné plus de liant grâce au rapprochement des bonnes volontés. Aussi les républicains allemands envisagent-ils cette démocratisation des méthodes traditionnelles comme un gage des accords à passer. Aujourd'hui, disent-ils, la diplomatie ne repose plus sur le droit du plus fort: elle s'est démilitarisée en quelque sorte, et s'efforce, en vue de la paix, de dénouer le nœud gordien, que le sabre tranchait autrefois. C'est sous cet angle visuel que l'opinion allemande mesure la portée de la politique de détente et d'entente. Et les milieux parlementaires considèrent le tête-à-tête de Thoiry comme une preuve acquise que la bonne volonté réciproque en arrivera à des solutions satisfaisantes pour les deux nations. La route est jalonnée; mais il reste encore tout un travail à faire pour la déblayer. Certes, divers journaux - même la Germania, si posée d'ordinaire - se laissent entraîner par la joie de constater le rapprochement qui s'est produit et parlent déjà d'une alliance franco-allemande. Par contre, la Tägliche Rundschau ne se départ point d'une certaine réserve et n'envisage qu'une «collaboration entre les deux pays, telle qu'elle se dessine dans le domaine économique pour la formation d'un cartel du fer». Pour le moment, elle préconise la solution d'une autre question, celle de l'occupation, qu'il est important de régler en premier lieu, car, dit-il, «avant d'aborder cette œuvre de collaboration, qui est une nécessité non seulement pour les deux peuples, mais aussi pour l'Europe, et avant qu'elle puisse être vraiment féconde, il faut éliminer tout ce qui entrave cette collaboration et la rend impossible». Et le journal officiel en conclut que «si d'après les déclarations unanimes de MM. Briand et Chamberlain, les accords de Locarno sont l'expression vraie d'une réelle résolution d'avoir la paix. et de quitter la route du soupçon, de la haine et de la crainte, alors les troupes d'occupation et le contrôle militaire ont perdu leur raison d'être et ne sont plus que les survivances gênantes d'une époque révolue.» Un raisonnement qui, au point de vue allemand, ne manque pas de logique. Sur ce point, tous les partis sont d'accord. Et, le fait est certain, l'opinion allemande a la conviction que le Reich ayant été reçu sur le pied d'égalité dans l'Assemblée de Genève, il