Neue Freie Presse
- 官吏問題で対立が先鋭化
- ベンガジとトリポリで反仏の暴行事件
- ザンクト・ペーターの民兵隊兵舎に爆弾攻撃
1926年11月4日付のノイエ・フライエ・プレッセ紙は、一面の論説で官吏問題の行き詰まりを論じた。筆者は、数週間にわたる絶え間ない交渉の末に双方の対立がかつてなく広がり、当面は出口が見えないと書いた。同紙の特派員電は、ベンガジでファシストの一団がフランス領事館に押し入り、フランス領事にイタリア国旗を掲げさせたと伝えた。別の特派員電は、ザンクト・ペーターのファシスト民兵隊兵舎が爆弾で襲われた事件を報じた。この電報によれば、警察は犯人の手がかりをつかめず、アーデルスベルクからファシストの増援部隊が呼び寄せられ、民兵隊の幹部も現場の状況を調べに来た。
翻訳
官吏問題で対立が先鋭化
またしても隘路である。それはやがて乗り越えられるかもしれない。だが、いま現在について語らざるをえない言論人としては、こう言うほかない。数週間にわたる絶え間ない交渉を経て、今日、対立はかつてないほど大きく口を開けており、当面、出口は見えない。
ベンガジとトリポリで反仏の暴行事件
ベンガジでファシストの一団がフランス領事館に押し入り、フランス領事にイタリア国旗を掲揚するよう強いた。
ザンクト・ペーターの民兵隊兵舎に爆弾攻撃
警察は犯人を懸命に捜索している。これまでのところ、犯人の手がかりはまったくない。アーデルスベルクからファシストの増援部隊が呼び寄せられ、民兵隊の最有力の指導者たちも状況を調べるために現場に姿を現した。
解説
官吏問題はすでに政権交代を引き起こしていた
論説が「またしても隘路」と呼んだ官吏問題は、10月にすでにオーストリア政府を交代させていた。オーストリア国立図書館の1926年回顧のブログによれば、ルドルフ・ラーメク首相は連邦職員のストライキが迫ったことを理由に10月半ばに辞任し、1922年から1924年にも首相を務めたイグナーツ・ザイペルが再び首相に就いた。英語版ウィキペディアのラーメクの伝記は、辞任を1926年10月20日とし、国営の郵便貯金局をめぐる危機の中で辞任したと記している。二つの記述は辞任のきっかけとして別の事情を挙げているが、どちらもザイペルを後継者としている。同じ伝記は、国際連盟によるオーストリア財政の監督が終わった後も不況が続き、失業者数が増えていたと記しており、官吏の待遇をめぐる争いの経済的な背景をうかがわせる。ノイエ・フライエ・プレッセの筆者が、数週間の交渉がかえって溝を広げたと書いた時点で、ザイペル政権は発足から約2週間しかたっていなかった。
1926年11月初めの反仏事件の背景にあった仏伊対立
ベンガジの領事館襲撃は、この秋に続いた一連の反仏事件の一つだった。ロンドンの週刊誌スペクテイターは、この号の9日後に、過去2週間に国境の町々できわめて不快な事件が起き、フランス国旗が侮辱され、フランスの役人が暴行を受けたと書いた。同誌はその原因としてイタリア側の不満を挙げた。イタリアは、フランスが誤った寛容さや怠慢から、祖国に対して陰謀を企てるイタリア人亡命者を多くかくまいすぎていると感じていたという。同誌は、逆向きの対立も伝えた。フランスの新聞は、フランスで練られたスペインの陰謀に関わったとされ、反ファシストを名乗るリッチョッティ・ガリバルディ大佐が、実はイタリア警察の手先だと主張していた。両国はこうして互いに相手の不誠実を非難し、スペクテイターは両国関係の緊張が強く、大きな自制が必要になると論じた。ノイエ・フライエ・プレッセの電報は、ファシストがベンガジでフランス領事にイタリア国旗を掲げさせた事件を伝えており、同じ敵意がベンガジにも及んだことを示している。スペクテイターの説明は当時の論評であり、確定した事実ではない。
ボローニャでのムッソリーニ暗殺未遂とファシストの報復
この号は、1926年10月31日にボローニャを車で通るムッソリーニに向けて銃弾が放たれた事件の4日後に発行された。この事件では、15歳の少年アンテオ・ザンボーニが私刑で殺された。ムッソリーニは同じ年の4月にヴァイオレット・ギブソンに拳銃で撃たれて鼻をかすめられ、9月には無政府主義者の大理石工ジーノ・ルチェッティに車へ爆弾を投げつけられていた。ボローニャの事件には今も疑いが残っている。テロリズム研究者のJ・ボウヤー・ベルは、少年はおそらく無実であり、事件は仕組まれたものかファシスト同士の陰謀だったと書いた。政権はそれでもこの事件を利用し、この暗殺未遂はムッソリーニの秘密警察を生む法律につながった。スペクテイターは、新しい法律が度重なるムッソリーニ暗殺未遂によって引き起こされたと述べ、国家の威信を傷つける虚偽や誇張の報道を広めた外国人を重く処罰する新たな布告も紹介した。亡命者の拠点とみなされたフランスへのファシストの怒りは、こうした空気の中で11月初めの領事館襲撃につながったと考えられる。
1926年にイタリアの新しい国境地帯でファシスト支配に抵抗した人々
ザンクト・ペーターの記事は、警察が犯人の手がかりのないまま捜索を続け、ファシストの増援部隊と民兵隊の幹部が到着したことを伝えている。この地域の事情は記録によく残っている。第一次世界大戦後、イタリアは当時ユリウス・マルクと呼ばれた旧オーストリア=ハンガリー領を獲得し、ファシスト政権はそこに住むスロベニア人とクロアチア人のイタリア化を進めた。政権は1923年にすべての官公庁でスロベニア語とクロアチア語の使用を禁じ、1925年には法廷での使用も禁じた。後の抵抗組織TIGRを扱う英語版ウィキペディアの記事によれば、ユリウス・マルクの組織的な反ファシスト抵抗は、1920年代半ばにユーゴスラビアとの国境に接する東端の地区、ポストイナとイリルスカ・ビストリツァの周辺で始まった。地元のスロベニア人活動家はユーゴスラビアの民族主義団体オルユナと連絡を取り、イタリアの軍人や警察官への最初の攻撃を行った。同記事は、これらの攻撃がまだ組織的な背景を持たない個人の行動にとどまっていたと記している。TIGR自体は1927年から活動しており、1926年11月の爆弾攻撃はそれより前に起きた。したがって、この資料だけを根拠にこの攻撃をTIGRの犯行とみなすことはできない。
原文
Verschärfung der Gegensätze in der Beamtenfrage.
Wiederum ein Engpaß. Vielleicht ist er bald überwunden, aber der Publizist, der gezwungen ist, von jetzt und heute zu sprechen, kann nur sagen, nach mehreren Wochen ununterbrochener Verhandlungen klaffen heute die Gegensätze weiter auseinander als jemals und vorläufig zeigt sich kein Ausweg.
Franzosenfeindliche Ausschreitungen in Benghasi und Tripolis.
In Benghasi ist eine Bande von Fascisten in das französische Konsulat eingedrungen und hat den französischen Konsul gezwungen, die italienische Flagge zu hissen.
Bombenattentat auf die Milizkaserne in St. Peter.
Die Polizei ist eifrig auf der Suche nach den Tätern. Bisher fehlt von ihnen jede Spur. Fascistische Verstärkungen sind aus Adelsberg herangezogen worden, auch die bedeutendsten Führer der Miliz sind an Ort und Stelle erschienen, um die Lage zu prüfen.