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· パリ(フランス) · フランス語

Le Figaro

1926年11月4日付のフィガロ紙1面は、政治論説と速報を並べた。フランソワ・コティは署名入りの論説で、二つの文書がブリアン外相に、ムッソリーニとの会談を延期または縮小するための論拠をそのまま差し出していると批判し、その論拠をカルテルへの迎合と結びつけた。リュシアン・ロミエはアメリカの選挙を論じ、アメリカの有権者は地元の事情や個人的な動機、宣伝で投票先を決めるので、ヨーロッパ人は自分たちに対する具体的な変化を期待すべきではないと説いた。ニュース欄は、同日に予定されていたカタルーニャの分離主義蜂起を伝え、爆弾を携えた革命家の逮捕や、医師、包帯を持った薬剤師、旗手まで加わった蜂起者の顔ぶれを報じた。

翻訳

根拠のない異議

二つの文書には、ひとつの共通点がある。どちらも、アリスティード・ブリアン氏に対して、論拠をそっくりそのまま差し出しているのである。その論拠とは、わが外務大臣がカルテルの意を迎えるため、そしてもっぱら国際政治に奉仕するために、間もなく行おうとしているムッソリーニ氏との会談を延期するか縮小すると決めたならば、自ら持ち出すであろうものにほかならない。

アメリカの駆け引きと利害

ヨーロッパ人がそこから自分たちに関わる具体的な変化を期待するなら、それは誤りであろう。アメリカの有権者はたいてい、地元の事情や個人的な思い入れ、あるいはわれわれには子供じみて見えるような宣伝によって、どちらにつくかを決めるのである。

カタルーニャで本日、分離主義運動が勃発する予定だった

ミラスでは、警察によく知られた危険な革命家ファブレグアス氏まで逮捕された。同氏は爆弾を携えていた。これがまさに大規模な一斉作戦であったことがわかる。蜂起者の中には医師や、包帯の包みを携えた薬剤師、さらには旗手までいた。

解説

プラッツ・デ・モリョ計画はどのように準備され、失敗したか

フィガロ紙のニュース欄は、蜂起が予定されていた当日の1926年11月4日付で、一連の逮捕を大規模な一斉作戦の証拠として報じた。計画を立てたのは、カタルーニャ独立派政党エスタット・カタラの指導者フランセスク・マシアである。マシアの計画では、二つの部隊がサン=ローラン=ド=セルダンとコル・ダレスからそれぞれ国境を越え、オロトを占領してカタルーニャ共和国を宣言することになっていた。参加者は隠した武器、野戦電話、医薬品、宣伝印刷物、エステラーダ旗を携える予定だった。この装備の内容は、医師や包帯を持った薬剤師、旗手が蜂起者に含まれていたという同紙の記述と合致する。フランス警察は計画を事前に把握しており、スペイン国境の近くで参加者の大半を拘束した。拘束者は111人に達し、マシア自身も4日に滞在先の屋敷で逮捕された。

誰が計画を漏らし、逮捕者はどう扱われたか

フランス憲兵隊は、ジュゼッペ・ガリバルディの孫でファシスト・イタリアのスパイだったリッチョッティ・ガリバルディ・ジュニアの協力を得て、計画を阻止した。ガリバルディ・ジュニアは反ファシストの闘士ではなく、政治警察に仕える二重スパイだった。フランス当局は逮捕者の大半を国外に追放し、首謀者とみなした約20人をパリへ移送して裁判にかけた。裁判は1927年1月21日に始まり、被告は18人で、うち16人がカタルーニャ人だった。被告名簿にはラモン・ファブレガットの名がある。同紙が爆弾を所持して逮捕されたと報じた「ファブレグアス氏」は、この人物である可能性がある。ただし、OCRの綴りが異なるため、この同定は推測にとどまる。マシアは禁錮2か月と罰金100フランの判決を受け、1927年3月にフランスを離れてブリュッセルへ移った。計画は失敗したが、マシアとその大義はカタルーニャで非常に高い人気を得た。マシアはのちにカタルーニャ自治政府の首班に就き、1933年12月に死去するまでその職にあった。

ムッソリーニのイタリアとの接近はなぜ争点になったか

コティの署名入り論説は、ブリアン外相が間もなくムッソリーニと会談するという前提に立っている。コティは、二つの文書がカルテルの意を迎えるために会談を延期または縮小する論拠をブリアンに与えていると批判した。会談が目前だという点は同紙の主張である。フランスがファシスト・イタリアに抱いた複雑な感情は、アンリ・ド・ジュヴネルが1927年7月に米誌フォーリン・アフェアーズへ寄せた論考にも表れている。ジュヴネルは、フランスが「ラテンの姉妹」と呼ぶイタリアの正当な願望を支持する用意があると書く一方で、イタリアはフランスが与えられる以上のものを求めていると述べた。ジュヴネルはまた、1923年9月にイタリア人将校がギリシャで殺害され、イタリアが報復としてコルフ島に上陸した危機を回想している。そのときポワンカレ内閣は、ムッソリーニ政権に屈辱めいた扱いを一切受けさせまいと考えた。この号のわずか3週間余り後の1926年11月27日には、イタリアとアルバニアのティラナ条約が発表された。ブリアンはこの条約に非難すべき点は見当たらないと公の場で正式に表明した。

1926年のアメリカ上院選挙は何を変えたか

ロミエの論説は、1926年のアメリカの選挙の直後に掲載された。上院選挙は共和党のカルビン・クーリッジ大統領の2期目半ばに行われ、共和党の多数派は7議席減った。共和党は多数派の地位を保ったが、議席の余裕は大きく縮んだ。それでもロミエは、この結果からヨーロッパに対する具体的な変化を期待すべきではないとフランスの読者に説いた。ロミエの見方では、アメリカの有権者は外交問題ではなく、地元の事情や個人的な思い入れ、ヨーロッパ人には子供じみて見える宣伝によって投票先を決めるのである。

フランスの戦債とロミエの見出しにあるアメリカの利害

1926年当時、フランスにとってのアメリカの利害の中心には、対米債務の返済があった。1926年4月29日のメロン=ベランジェ協定は、フランスが対米債務を返済する額と返済のペースを定めた。協定はフランスで非常に不評で、多くのフランス人はアメリカが債務を帳消しにすべきだと考えた。パリでは2万人の退役軍人が協定に反対してデモを行った。アメリカの禁酒法がフランスの輸出に打撃を与えたことと、ほかのフランス製品にかけられた懲罰的な関税も、関連する争点だった。フランス下院は1929年7月21日になってようやく、300対292の僅差で協定を批准した。最終的に、債務の大半は返済されなかった。

原文

OBJECTIONS MAL FONDÉES

Entre les deux écrits, ce trait commun: ils proposent l'un et l'autre à M. Aristide Briand exactement les arguments que notre ministre des affaires étrangères invoquerait de lui-même si, pour être agréable au Cartel et pour servir seulement la politique internationale, il prenait la décision d'ajourner ou de rétrécir les conversations qu'il est près d'avoir avec M. Mussolini.

Jeux et intérêts américains

Les Européens auraient tort d'attendre de cela des changements précis à leur égard. L'électeur américain prend parti le plus souvent suivant des considérations locales, des entraînements personnels ou des propagandes qui nous paraîtraient puériles.

Un mouvement séparatiste devait se déclencher aujourd'hui en Catalogne

On arrêta même, à Milas, un révolutionnaire redoutable, bien connu de la police, M. Fabreguas: il était porteur de bombes. On voit qu'il s'agissait bien d'une grande opération d'ensemble. Parmi les insurgés se trouvaient des médecins, des pharmaciens munis de paquets de pansement et même un porte-drapeau.

紙面の出典:Source: Bibliothèque nationale de France / Gallica

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