Le Petit Matin
- チュニジア時評
- ヴェンティミーリア事件のその後
- こうしてマリー王妃は聖別され、スー族女性の姉妹となった
1926年11月4日付の『ル・プティ・マタン』1面は、植民地の政治、リビエラの国境をめぐる対立、アメリカでの王室行事を並べて載せた。ポール・ラフィットは署名入りのコラムで、帰任したリュシアン・サン統監を皮肉まじりに迎えた。ラフィットは統監を、ローマは自分のいる所にあると言った古代ローマ人になぞらえ、チュニジアは自分のいる所にあると統監に言わせた。ニース発の記事は、ヴェンティミーリア事件の余波としてボーソレイユで衝突が起きたと伝えた。この記事によれば、墓地での献花から戻るフランスの在郷軍人と、ファシストの記章をつけたイタリア人の行列が殴り合った。ロンドン経由の電報は、ルーマニアのマリー王妃がスー族の姉妹として迎えられたと報じた。電報は、王妃が戦闘用頭飾りと新しい名を受け、首長レッド・トマホークと血を混ぜる儀式に臨んだと伝えた。
翻訳
チュニジア時評
「主君には主君にふさわしい礼を」という格言がある。私はこの格言のなかに、快い務めでもあるのだが、まずリュシアン・サン統監閣下に挨拶を送るべき義務を見いだす。統監閣下はありがたくも私たちのもとへ戻り、チュニジアを持ち帰ってくださった。実のところ、リュシアン・サン氏は、ある古代ローマ人の言葉を自分の現代風に作り替えたのである。そのローマ人は、聖なる七つの丘やカピトリウム、フォルムからどれほど遠く離れていようとも、ローマは自分のいる場所にあると誇らしげに言い切ったという。こうして統監閣下は次のような教義を唱えている。「私がヨーロッパ側の岸にいるとき、チュニジアは地中海の向こう側にあるのではない。チュニジアはそっくり私のいるところにあるのだ。」
ポール・ラフィット
ヴェンティミーリア事件のその後
ニース発、11月3日。コート・ダジュールのフランスの新聞各紙が冷静を呼びかけたにもかかわらず、ヴェンティミーリアの事件は今朝、ボーソレイユに波紋を広げた。フランス在郷軍人会の多数の会員が、名誉の戦場に倒れた戦友をしのんで墓地に花輪を供え、その帰り道でファシスト党の記章をつけたイタリア人の行列に出くわした。そのイタリア人の行列も、旗を先頭にして同じ墓地へ向かうところだった。在郷軍人会の幹部たちが懸命に抑えようとしたにもかかわらず衝突が起こり、双方の間で多数の殴り合いとなった。
こうしてマリー王妃は聖別され、スー族女性の姉妹となった
ノースダコタ発(ロンドン経由)、11月3日。マリー王妃は昨日、スー族の女性たちの結社に迎え入れられた。王妃は戦士の称号と、「われらが待ちわびた人」を意味するインディアン名を授けられた。首長レッド・トマホークが取り仕切った儀式の間、王妃はワシの羽根で飾られたスー族の戦闘用頭飾りをかぶせられた。続いて王妃は、今日ではきわめてまれにしか行われない血の婚姻の儀式に、研いだ火打ち石を使って臨んだ。首長は王妃の指先を刺し、にじみ出た一滴の血を、首長レッド・トマホークが自分の腕につけた切り口から流れる血と混ぜ合わせた。そこで首長はこう告げた。「あなたはもはや陛下ではなく、アメリカの姉妹である。」
解説
リュシアン・サン統監とはどんな人物で、コラムは何を皮肉ったのか
リュシアン・サンは県知事を務めてきた行政官で、1906年にニエーヴル県、1909年にイル=エ=ヴィレーヌ県の知事に任命された。サンはその後フランス保護領チュニジアの統監となり、1921年1月1日から1929年1月2日までその職にあった。したがってサンは、1926年11月の時点で在任6年目を迎えていた。サンの政権は4種類の選挙制評議会を設けた。その一つである大評議会はフランス人部会とチュニジア人部会に分かれ、保護領の予算を審議した。これらの改革は一定の地方分権をもたらし、チュニジアとフランスの有力者をある程度まで協力させた。ラフィットのコラムが話題にしたのは統監の居場所である。ラフィットは、サンが戻って「チュニジアを持ち帰ってくれた」と挨拶し、「チュニジアは私のいるところにある」という教義をサンのものとした。この書き方は、統監が長く地中海のヨーロッパ側に滞在し、保護領の用件もそれについて行ったことをほのめかしている。この不満は新聞自身の見方であり、コラムは皮肉の形でそれを表した。ここで参照した資料はサンの職務と改革を裏づけるが、1926年にサンがどれほど不在だったかは記録していない。
1926年11月2日、ヴェンティミーリアで何が起きたか
「ヴェンティミーリア事件」の現場は、国境のすぐイタリア側にある町である。ヴェンティミーリア駅は1882年の条約によって国際駅の地位をもち、フランスはイタリア領内のこの駅に鉄道員などを置いていた。1926年11月2日、「フランスとの国境の監視を強める」ためにジェノヴァから来たファシスト民兵が、フランス人鉄道員の宿舎を襲撃した。民兵たちは、宿舎のバルコニーに姿を見せた3人の鉄道員が帽子を取らなかったことを口実にした。民兵は約15人の鉄道員を身体検査し、蹴ったり殴ったりして外へ追い出した。同じ日には一人のファシスト活動家がヴェンティミーリアのフランス領事館に押し入り、侮辱と脅しの言葉を浴びせたが、それ以上の行動には出なかった。イタリア当局とムッソリーニ本人は公式に謝罪したが、フランス政府の上層部はこの事件を深刻に受け止めた。ボーソレイユ発の記事は、読者がすでに知っていたこの事件の翌日の余波を伝えたのである。
対立はなぜボーソレイユやニースへ広がったのか
フランスとイタリアの関係は、1920年代半ばから悪化していった。1922年に政権を握ったベニート・ムッソリーニは、フランスに対してしだいに攻撃的な態度をとるようになった。国境の緊張がとりわけ強く感じられたのは、マントンとヴェンティミーリアの間の海沿いの国境である。RetroNewsに寄稿したイヴァン・ガストーによれば、ヴェンティミーリア事件の後の数日間に、フランス側のマントン、ボーソレイユ、さらにはニースでもデモが起きた。これらの町ではイタリアからの移民が数多く働き暮らしており、移民たちはムッソリーニ政権への共感と反感に分かれていた。『ル・プティ・マタン』の記事が伝えた場面も、この流れに沿っている。記事によれば、戦没者の追悼のためにフランスの在郷軍人と、ファシストの記章と旗を掲げたイタリア人の行列が同じ墓地へ向かい、在郷軍人会の幹部は殴り合いを止められなかった。記事はリビエラのフランスの新聞が冷静を呼びかけていたことにも触れており、地元の世論がこうした波及をすでに恐れていたことがうかがえる。
マリー王妃はなぜアメリカを巡っていたのか
ヴィクトリア女王の孫にあたるルーマニアのマリー王妃は、1926年10月18日にニューヨークに到着し、歓声を上げる群衆と紙吹雪のパレードに迎えられた。王妃は1926年に子どものニコラエ王子とイレアナ王女を伴い、外交目的でアメリカを訪問した。この旅のきっかけの一つは、実業家サム・ヒルがワシントン州に建てたメアリーヒル美術館の開館式で、王妃に演説してもらいたいと望んだことである。開館式は11月3日に行われ、この日付は『ル・プティ・マタン』が載せたロンドン経由の電報の日付と同じである。王妃一行は西へ向かう途中、列車でノースダコタを横断した。王妃は11月17日に夫フェルディナンド国王が病気だという知らせを受け、旅行を途中で切り上げた。新聞が報じたスー族の儀式は、大きく報道されたこの旅の立ち寄り先の一つであった。電報の発信地表示は、この記事がロンドンを経由して新聞に届いたことを示している。
スー族の養子縁組について他の記録は何を伝えているか
他の記録も、この電報の中心部分を裏づけている。プレーリー・パブリックの「ダコタ・デイトブック」によれば、列車がノースダコタ州マンダンに停車した際の儀式で、レッド・トマホークがマリー王妃をスー族の姉妹として迎えた。スー族は王妃にウィニャン・キパンピ・ウィンという名を贈り、この名は「待ち望まれた女性」を意味する。フランス語の電報が「われらが待ちわびた人」と訳した名は、この名と一致する。王妃はワシの羽根の頭飾りを受け取り、バッファローの毛皮に乗せられてティピーへ運ばれた。新聞の「ノースダコタ」という発信地表示は、マンダンという場所と合っている。別の記録は入会の場所をサウスダコタとし、「戦う女性」という称号を第一次世界大戦での王妃の働きをたたえたものと説明している。この称号は、記事にある「戦士の称号」に対応する。研いだ火打ち石で血を混ぜた儀式と、王妃はもはや陛下ではないという首長の言葉は、電報には記されているが、これら後年の要約には出てこない。したがってこの二つの点は、電報だけを根拠としている。
原文
Chronique Tunisienne
«A tout seigneur, tout honneur», dit un adage où je trouve l'obligation, d'ailleurs agréable, d'adresser d'abord mon salut à M. le Résident Général Lucien Saint qui a bien voulu nous revenir et nous rapporter la Tunisie. En vérité, M. Lucien Saint a adapté à sa modernité le mot d'un ancien Romain qui affirmait fièrement que Rome était là où il était lui-même, pour tant qu'il fût éloigné des sept collines sacrées, du Capitole et du Forum. Ainsi, M. le Résident Général professe cette doctrine: «la Tunisie n'est point de l'autre côté de la Méditerranée lorsque je suis sur la rive européenne; elle est toute où je suis.»
APRÈS LES INCIDENTS DE VINTIMILLE
NICE, 3 novembre. - Malgré l'appel au calme des journaux français de la Côte d'Azur l'incident de Vintimille a eu une répercussion ce matin à Beau Soleil. De nombreux membres de l'association des anciens combattants français revenaient de déposer au cimetière une gerbe de fleurs à la mémoire de leurs camarades tombés au champ d'honneur, lorsqu'ils rencontrèrent un cortège d'italiens qui arboraient l'insigne fasciste, et qui, précédés d'un drapeau, se rendaient également au cimetière. Malgré l'effort des dirigeants des anciens combattants une collision se produisit et de nombreux coups furent échangés.
Ainsi fut sacrée la Reine Marie désormais sœur des femmes Sioux
DAKOTA DU NORD (via Londres), 3 novembre. - La Reine Marie a été admise hier dans la confrérie des femmes Sioux. Elle a reçu le titre de guerrière et un nom indien signifiant «Celle-que-nous-attendions». Pendant la cérémonie, que présidait un chef rouge Tomahawk, la Souveraine a été coiffée du couvre-chef de guerre Sioux, décoré de plumes d'aigles. Puis elle s'est prêtée à la cérémonie du mariage du sang, aujourd'hui très rarement pratiquée, avec un silex aiguisé. Le chef piqua le bout d'un doigt de la Reine et la goutte de sang qui apparut fut mélangée au sang coulant d'une incision que le chef rouge Tomahawk s'était faite au bras. Le chef prononça alors: «Vous n'êtes plus une Majesté, mais une sœur de l'Amérique».